コーカサスの歴史


[17] ポントス草原の人々


(7) ルス国家の発展

(7−3) ルスの統一

 新しい政治的中心への断片化したルス諸公国の再統合の過程は14世紀に始まった。いくつかの公国の他による吸収は
種々の形態で遂行された;相続、購入、黄金オルダの命令(ヤルリク)そして征服。
 統一過程は独立公国の出現後直ぐに、早くも12−13世紀に始まったが、モンゴル侵攻(1237−1241)で中断された。

 北西ルスでは、この過程はモスクワ大公国によって行われ、これはトヴェル大公国と他の近隣公国との厳しい争い
での勝利から出現し、集権化したルス国家の基礎となった。
 西ルスでは、ルスの土地の寄せ集めはリトアニア大公国によって行われた。
 小規模には、他の大公国(リャザン、スモレンスク、ブリャンスク)はまた近隣を犠牲にしてその領土を拡大したが、
そのすべては、結局、独立を失い、モスクワとリトアニアの大公国の一部となり、両者の共通国境は14−15世紀の転機に
生じた。

 15世紀末までに、モンゴル・タタールの軛からの解放と、ノヴゴロド公国の併合で、モスクワ大公の地位は急激に増強され、
リトアニア大公との戦いが激しくなり、長期の一連のルス・リトアニア戦争、ポーランド・リトアニア共和国形成後は
ルス・ポーランド戦争となった。
 以降、古ルスの継承のための戦いはモスクワ公子によって公式政治目標となった。

プレモンゴル期の過程
 13世紀初めまでに、ルスは約15の公国(あるいは年代記では土地)からなり、そのほとんどには、小分領公国形成の
激しい過程があった。
 同時に、土地自体は依然、地域的安定性を維持し、そのなかに、いくつかの潜在的統一中心が成熟していた。
 ルスの名目的首都はキエフであり続けた。キエフ公国は公子一族の共通所有と見なされ、リューリク朝の主要分枝は
その地位(椅子)を受ける権利を持った。
 同様の状況はノヴゴロドに典型的であった。ここはその固有の王朝をもたず、種々の土地から公子を招いたが、その権利を
厳しく制限した。いくつかのすべてのルスの椅子は重要な統一要因となり、その椅子へのための戦いは、すべてのルスの土地
への利益と絡み合った。

 しばしば、スモレンスクのロスチスラヴィッチとチェルニゴフのオルゴヴィッチの当主はキエフ王座を占めた。
 同時に、その系列の年長系はキエフに移動し、スモレンスクまたはチエルニゴフには次兄系が残った。
 彼らはまた時々、ノヴゴロド、ハーリチとペレヤスラヴルを所有したが、これは新しい国家形態形成に至らなかった。
 12世紀中期(イジャスラフ・ムスチスラヴィッチの時代後)から、キエフ公国は拡大政策を追求するすべてのルスへの
公子の影響の拠点とはならなくなった。並行して、新しい中心が生じた;ルス北東ではウラジーミル、ここはロストフ・スーズダリ
の土地の首都(1157年から)となった、そして南西では、ハーリチ、ここはプルゼムスル・テレボヴルの土地の首都
(1140年から)となった。
 これらの土地の公子たちは地域内で権力を集中し、これら自体はキエフ王座を主張せず、他の公子達によるキエフ王座占有に
影響し始めた。
 1170年代中期に、ウラジーミル・スーズダリ公国では、大公の権力は、出現し始めた貴族階級と工業都市の支持で、
ボヤール階級(上級貴族)を破り、同様の変化がハーリチでも、1205−1245年の(統一)戦争の間に起きた。
 同時に、ガリツィア(ハーリチ)公国は1199年、ヴォリンと統一。
 ガリツィア・ヴォリン公国では分領公国は解体し、土地を公子に臣下(奉仕公子)として与えた。

モンゴル侵攻とその余波
 集権化の自然的過程はモンゴル侵攻(1237−1240)によって変形された。
 以降、全ルス公国は黄金オルダの宗主権下にあった。
 更なるルスの統一は困難な外交条件下で起き、主に政治的前提条件によって決定された。
 すべての大ルス公子はオルダに呼ばれ、モンゴルの権威を認めた。
 ウラジーミル公子のヤロスラフ・フセヴォロドヴィッチは1243年、バトゥ・ハーンから全ルスの詔勅を受け取り、キエフに
代官を送った。
 ヤロスラフはカラコルムで1246年に毒殺され、その死後、2つの詔勅が息子達に発行された;アンドレイにはウラジーミル
公国が、アレクサンドル・ネフスキーにはキエフとノヴゴロド。
 南ルスではハーリチのダニイール・ロマノヴィッチが依然、唯一の強力な公子であった。
 1250−1253年に、彼はヤトヴャグ族(バルト系)と黒ルス(ネマン川上流)の土地を征服し、1254年に法皇からルス王
(コローリ)の称号を受けた。ダニイールはオルダに敵対し多くの敗北を喫したが、これで、モンゴル・タタールをその土地から
追い出した最初のルス支配者となったが、ガリツィア・ヴォリン公国はオルダ従属を取り除けなかった。
 13世紀後半には、土地同志の結びつき、政治的接触から交易への互いの言及が、年代記では極小となった。
 多くの土地は更に厳しく分解した。ある推計では公国の総数は250に達した。
 キエフは衰退に陥った。キエフは地域の公子達によって支配され、これらは全ルスの宗主権を主張しなかった。
 1299年、キエフの主教座はウラジーミルに移動した。

 ウラジーミル・スーズダリとチェルニゴフ公国は独立分領公国に分解し、ウラジーミルとチェルニゴフは公子の居住地でなくなり、
象徴的長老の椅子となった。
 スモレンスク公国は断片化を免れたが、非常に弱体化し、膨張の人的資源をもたなかった。
 ガリツィア・ヴォリン公国も断片化を免れたが、1325年、ロマノヴィッチ一族は権力を取り除かれ(継承者がいなくなり)、
ポーランド人公子が継承したが、1340年、継承をめぐってポーランドとリトアニアとの間でガリツィア・ヴォリン継承戦争
始まった。
 その結果、ポーランド王国(ガリツィアの土地占領)とリトアニア大公(ヴォリンの土地占領)によって分割(1392年)された。
 このようにしてすべての古い選手は競技場を去り、以前は重要な役割を演じなかった公国が統一の新しい中心となった。

南西ルス
 14世紀に、ほとんどのルスの土地は、13世紀に生じたリトアニア大公国の首都ヴィリナ周辺に統一された。
 14世紀初めまでに、ゴロデン、ポロツク、ヴィテブスク、トゥロフ・ピンスク公国はリトアニア大公の所有となった。
 弱体化した南ルスでは、リトアニアはたいした競争者に出会わなかった。
 リトアニア大公オリゲルド・ゲディモノヴィッチ(1345−1377)は、ブリャンスク(1356)とキエフ(1362)を
併合、しかし、モスクワを奪うのには失敗。リトアニアに併合されたルスの土地はオルダへの貢納を停止。
 (ママイの1370年代を除く)

 1384年、リトアニアでの内紛とモスクワとリトアニアの共通の敵(ドイツ騎士団と黄金オルダ)の存在により、モスクワ・
リトアニア協定が結ばれた。
 1385年のクレヴォ連合は東欧史の重要な一里塚で、4世紀間の古ポーランド・リトアニア連合の始まりとカトリックと
ポーランド・シュラフタ文化の始まりの文脈での、西ルスの別々の発展を刻印する。
(リトアニア大公ヴワデスワフ2世は最初、モスクワのドミトリ・ドンスコイと手を結ぼうとしたが(ドンスコイの娘との結婚で)、
ポーランド貴族は13才のヤドヴィガを女王にし、これとの結婚でヴワデスワフをポーランド王とする提案をし、これが
受け入れられた。これでリトアニア・ルスのモスクワ統一は引き延ばされ、この地域がカトリック化の対象となる。)
 リトアニア大公国は大公ヴィタウタスのもとでその頂点に達した。
 1392年、リトアニアはヴォリンを奪い、1404年、スモレンスクを占領。
 1408年、リトアニアとモスクワ公国は、ウグラ川に沿って共通国境を確立、そこはモスクワ南西から200km以下であった。
 トヴェル(1427)、リャザン(1430)とプロンスク(1430)がヴィタウタスの従臣となった。

 1499年、モスクワとリトアニアの間に、永久和平が結ばれ、ノヴゴロドはモスクワの勢力圏と認められた。
 1478年、ノヴゴロド共和国がモスクワに併合された。

北東ルス
 北東ルスでは状況は異なり、リューリク朝、モノマフヴィッチの子孫が依然支配。
 以前のウラジーミル・スーズダリの土地の国境内では、ウラジーミル大公の椅子をめぐって戦ういくつかの大公国があった。
 14世紀始めからウラジーミル大公は全ルスの接頭辞を帯び始めたが、その真の権力はウラジーミルとノヴゴロドに限られた。
 13世紀に、トヴェル、コストロマ、ペレヤスラヴルとゴロデン(グロドノ)の公子達がウラジーミルの椅子を所有し、14世紀には
トヴェル、モスクワとスーズダリが所有。ウラジーミル所有を巡って徐々にモスクワ公国が有利となった。
 モスクワ公子はイワン1世カリタからウラジーミルを保有し、若干の例外を除いて、維持し続けることに成功した。
 モスクワとウラジーミルの両公国を保有し、近隣公国またはそのヴォロスチ(村)を犠牲にして着実に領域を拡大。
(北東ルス外の土地は直接モスクワ公国に加わり、世襲された。北東ルス内の土地はウラジーミルに加わり、領土集中
を阻止するために黄金オルダが積極的にそこへ介入した。)

 ドミトリ・ドンスコイ(1359−1389)の時にウラジーミルはモスクワの世襲領土となった。
 最も重要なのは主教座のウラジーミルからモスクワへの移動(1461年)。

 北西ルス(ノヴゴロドとプスコフ)は依然、長い間、独立し、2つの中心の間を策動。
 1333年、リトアニア公子が初めてノヴゴロドの椅子に招かれた。

 北東ルスの単一集権ルス国家への統一は、イワン3世(ノヴゴロド(1478)、トヴェル(1485)、ヴャトカの土地
(1489)、オカ川上流公国群、ポセミエとセヴェルスクの土地(1500))と、ヴァシリー3世(プスコフ(1510)と
リャザン(1521)の公式的自治の解消、スモレンスク占領(1514))。
 同時に、モスクワ公国自体内の最後の分領公国の解体が起きた。
 イワン3世はまた、オルダのハンに従うのを拒否したルスの最初の主権支配者となった。
 彼の先行者のドミトリ・シェミャカとヴァシリー2世と同様に、彼は全ルスのゴスダーリ(君主)の称号を使用し、それで、
リトアニア大公国内を含む全ルスの土地の君主を主張した。

モスクワとリトアニアの競合
 モスクワとリトアニアの更なる発展は異なった道をとった。
 モスクワ公国ではオルダの影響で、集権的統治と権威的公子権力が発達、貴族は公子の奉仕者的地位にあった。
 リトアニア大公国では部分的にキエフ・ルスの伝統が維持され、中央ユーロッパの範例に従い、貴族と公子の従属関係と
都市の自治といくつかの民主的制度が維持された。
 15世紀末から16世紀初期の一連のルス・リトアニア戦争で、モスクワによってリトアニアの領域が顕著に減少。
 国境戦争はモスクワの勝利で終わった(1494年)。
 1500年、15世紀後半の内紛(1425−1453)後、多くの公子の子孫たちがモスクワ公国から追い出され、一方で、
チェルニゴフ・セヴェルスキの土地を所有する公子達がモスクワ奉仕に転向した。
 その結果、リトアニア大公国の領域の1/3がモスクワのものとなった。(*イワン3世による1500−1503年の戦争
 1514年、モスクワがスモレンスクを占領。

ルスと共和国の衝突
 1558年、リヴォニア戦争(モスクワ対ポーランド・リトアニアとその同盟)が始まり、これに、リトアニア大公国が1561年に
参加したが、これはリトアニアには耐えがたい重荷であった。
 1569年、リトアニアはポーランド王国と統一することを余儀なくされ、共和国を形成した。
 リトアニア大公国は南ルスの土地を奪われ、そこはポーランドの一部となった。
 1596年のブレスト合同(東方正教徒教会がローマ法皇支配下にはいる)で共和国の正教徒住民が分裂し、合同派と
正教徒が戦い、国は合同を受け入れないものを差別。
 合同派はますます全ルス統一から離れ、西ルスの正教徒は全ルス統一をますます訴えた。

 1654年、ルス・ポーランド戦争(1654−1667)が始まった。戦争の結果、左岸ウクライナはルス併合。
 1793年の共和国の第2回分割で、右岸ウクライナ(ガリツィアを除く)とベラルーシはルス帝国の一部となった。
 ガリツィアブコヴィナザカルパティアはオーストリア・ハンガリー帝国に渡った。


 モンゴル侵攻前



 14世紀のルスの土地 赤一点鎖線:国(公国)境 



 モスクワ公国の1300−1547年の領域発展


 モスクワ公国の発展 1330−1462年
 緑:1300年まで、ダニイール・アレクサンドロヴィッチ
 薄緑:1300−1340年、ダニイール、ユーリーイヴァン1世
 より薄い緑:1340−1389年、シメオンイヴァン2世ドミトリー・ドンスコイ
 黄緑:1389−1425年、ヴァシリー1世
 黄:1425−1462年、ヴァシリー2世


 ヴォルガ右支流オカ川とその支流。


14世紀のオカ川上流諸公国 14−15世紀にチェルニゴフ公国の分領公国から発生


1462年までのリトアニア大公国の拡大


 13−15世紀のリトアニアの拡大


 黄金オルダの分解(15世紀後半)



(7−4) 黄金オルダのルス支配と終焉

 モンゴルは一般的に彼らが征服した東欧の土地を直接統治しなかったが、ペレヤスラヴル公国、キエフ公国とポドリア
は直接支配。
 ガリチア・ヴォルヒニア王国、スモレンスク公国、チェルニゴフ公国、ノヴゴロド・セヴェルスク公国は公子を維持したが
徴兵と徴税を行うモンゴルの代官と競合した。
 ノヴゴロド共和国は、1260年以降、モンゴル代官はいなかったが納税の義務はあった。
 モンゴルは、ルスの土地に1245年から1275年に数度人口調査を行った。
 モンゴルは、ロシア正教会にハンの健康を祈らせ、その見返りに教会を保護した。

 モンゴルのガリチア支配は、1349年のポーランド王国の征服で終焉。
 1359年のベルディ・ベグの死後、厳しい衰退に陥り、20年間続く政治危機が始まった。
 1363年、リトアニア大公国は青水の戦いで黄金オルダに勝利し、キエフとポドリアを征服。
 1360年以降、ルス従臣の貢納と貢税は顕著に減少。

 1380年のドミトリ・ドンスコイのママイへのクリコヴォの戦いで、短期間、モスクワ大公国はモンゴル支配から自由になったが、
1382年のトクタミシュによるモスクワ包囲で、モンゴル宗主権が復活。
 リトアニ大公でポーランド王のヴワディスワフ2世は宗主権を受け入れ、ルス地域の貢納に同意。
 1395年、ティムールがトクタミシュをテレク川の戦いで破る。
 トクタミシュはヴィタウタスに助けを請い、1399年、テムル・クトルグとエディグを攻撃するが、ヴォルスカ川の戦いで敗れる。
 黄金オルダはキエフ、ポドリアとブグ川下流の土地の一部を確保。
 1400−1408年に、エディグが、攻略に失敗したモスクワ以外、徐々に東ルス従属国の支配を再獲得。
 スモレンスクはリトアニアに失う。
 1419年のエディグの死後、黄金オルダは急速に分解するが、なおいくらかの影響を与えた。

 1447年、マフムドがモスクヴィーに派兵するが追い払われた。
 ウルグ・ムハンマドの別の息子カシム・ハンはヴァシリー2世によって土地を与えられカシム・ハン国を築いた。
 キュチュク・ムハンマドとサイド・アフマドはモスクワに権威を回復しようとし、キュチュクはリャザンを攻撃し
大敗、サイドはモスクヴィーを襲撃し、1449年にはモスクワを直接攻撃したがカシム・ハンに敗れた。
 1450年、キュチュクはリャザンを攻撃したが、ルス・タタール混成軍によって反撃された。
 サイドは1451年、モスクワを再び攻撃したが失敗。
 1470年夏、アフメド・ハンがモルダヴィア、ポーランド王国とリトアニアに攻撃を行ったが、リプニクの戦いでシュテファン3世の
モルドヴァ軍に敗れる。
 1480年、アフメドはモスクワに遠征するがウグラ川の大対峙となる。
 これでタタールの軛が終焉する。

 タイブガから生じた王朝がシビル・ハン国を1405年、チムギ・トゥラで支配し始める。
 1428年のタイブガの死後、国はウズベク・ハンのアブル・ハウル・ハンが支配。
 1468年のその死で、国は2分裂、シャイバン朝のイバク・ハンがチムギ・トゥラで、タイブガ朝のムハンマドがシビル要塞
に位置する。

 ウルス・ハンの孫のバラク・ハンは黄金オルダのハン位を争ったが暗殺され、その継承者シャイバン系のアブル・ハウル・ハンが
1428年、ウズベク・ハン国を築く。
 1440年代までにエディグの子孫がノガイ・オルダのハンとしてサライ・チクで独立。
 ウルグ・ムハンマドの息子マフムドがウルグを暗殺し、ヴォルガ中流に逃亡し、1445年、カザン・ハン国を築く。
 1458年、ジャニベク・ハンとケレイ・ハンがアブル・ハウル・ハンの支持者とチュ川に東進、そこでモグリスタンの
エセン・ブカ2世によって土地を与えられ、カザフ・ハン国形成。
 1466年以降、マフムド・ビン・キュチュクの子孫がアストラハンでハンとして支配。

 1552年、カザン・ハン国、1556年、アストラハン・ハン国、1558年、シビル・ハン国がロシア帝国によって征服される。



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