コーカサスの歴史



[17] ポントス草原の人々

*参考 ⇒黒海・カスピ草原の歴史の概要


(8) モンゴル

(8−1) 金帳汗国(黄金オルダ、ジョチ・ウルス) 1240年代−1502





 金帳汗国は起源的にはモンゴルで、後にトルコ化したハーン国で、13世紀に形成され、始めはモンゴル帝国の北西部分であった。
 モンゴル帝国の分解で1259年以降、別々のハーン国となった。
(*モンゴル帝国は4分裂、北西の金帳汗国、中央アジアのチャガタイ・ハーン国、南西のイルハーン国、北京の元朝。)
 キプチャク・ハーン国あるいはジョチ・ウルスとしても知られる。

 1255年のバトゥ・ハーンの死後、1359年までその王朝は繁栄したが、ノガイの陰謀で1290年代、部分的内戦に至った。

 ハーン国はウズベグの治世(1312−1341)にその軍事的勢力の絶頂となり、彼はイスラム教を採用した。
 その頂点期に金帳汗国の領域はほとんどの東ヨーロッパ、ウラルからドナウ川を含み、東は深くシベリアに拡大。
 南では黒海、コーカサス山脈とイル・ハーン国として知られたモンゴル王朝の領域を境とした。

 トクタミシュのもとでの短い再統一(1381−1395)の前に、1359年始め、ハーン国は激しい内部政治無秩序を経験した。

 ティムールの1396年の侵攻後、金帳汗国は小さなタタール・ハーン諸国に分裂し、これらは着実に衰退した。
 15世紀初めにオルダ(帳汗国)は分解し始めた。1466年までに、これは大オルダ(大帳汗国)と単純に言及された。
 その領域内にトルコ話者が優勢な多くのハーン諸国が出現した。

(*シビル・ハーン国(1468−1598年、南西シベリア)、カザン・ハーン国(1438−1552、以前のヴォルガ・ブルガル地域)
  −カシム・ハーン国(1452−1681、リャザン州)、クリミア・ハーン国、ノガイ・オルダ、カザフ・ハーン国(1465−
1848、カザフスタン)、アストラハン・ハーン国(1466−1556、ヴォルガ川河口)、いずれもロシアの膨張に伴い崩壊。)

 これらの内部抗争で北方従属国のモスコヴィが1480年のウグラ川の大対峙(大オルダとモスコヴィが対峙し、
大オルダが戦わず去った。)でタタ−ルの軛を取り除いた。

 最後の金帳汗国の残りのクリミア・ハーン国(1449−1783)とカザフ・ハーン国(1465−1848)はそれぞれ1783年と
1847年まで生き残った。

歴史
 第2代皇帝オゴデイの死で、トレゲネ・ハトゥン(オゴデイの妻、グユク、コデンらの母)が1242年の次の皇帝選出にバトゥを
招いた時、バトゥはクルリタイ出席を断り、ヴォルガ川に留まった。バトゥはグユク(第3代)の招きを何度も断った。
 1248年、グユクは西進途中で死亡。1251年、バトゥの支援でモンケ(第4代、トルイ系)がハーンとなった。
 1256年のバトゥの死でバトゥの息子のサルタクがモンケによって指名されたが、大ハーン宮廷から戻るや否や死亡。
 幼いウラグチがボラグチン・ハトゥンの摂政で継承。ウラグチは間もなく死亡し、イスラムに転向した、バトゥの弟ベルケ
1258年、継承。

 1259年、モンケが死亡すると、トルイの息子のクブライアリク・ボケの間で継承戦争が勃発。
 イルハン国のフラグはクブライを支援し、ベルケはアリク・ボケに味方したが軍事的には中立的であった。
 1264年、アリク・ボケが敗北。

 黄金オルダとイルハン国で不和が生じ、1262−1266年に主にコーカサスでベルケとフラグの間で戦争が勃発。
 1265年、フラグが死亡し、翌年、ベルケが死亡。

 ベルケには息子がなく、トコカンの息子、バトゥの孫のメング・ティムルがクブライによって指名され、叔父のベルケを継承。
 メング・ティムルはクブライとイルハン国に対し秘密にオゴデイ家のカイドゥを支援。
 チャガタイ・ハンのバラクが1267年頃にカイドゥとメング・ティムルに敗れ、トランスオクシアナはカイドゥとメング・ティムルと
バラクにより分割された。
 メング・ティムルの時代、ハンの権威は全ルス人侯国に及び、1274−75年に全ルス人の人口調査が行われた。
 1277年、メング・ティムルはルス人とともにアランに遠征。

 1280年、メング・ティムルは死亡し、兄弟のトゥダ・メングが継承。彼の時代にノガイ・ハン(ジョチの曾孫)の力が増大。
 ノガイ・ハンは特にドニエプルの西をほとんど完全支配。
 トゥダ・メングはクブライと和平し、宗主権を認める。ノガイとコチュ・ハン(東翼)は元朝とイルハン国と和平。
 トゥダ・メングはイルハン国を共通の敵としてマムルークに提携を求める。
 1270年代と1280年代にノガイは東欧を襲撃。
 1283年、トゥダ・メングはイスラムに転向し、信仰心深く、政治に関心を失う。
 1287年、彼は退位し、ノガイの支援で甥のタラブガ(トゥラ・ブガ)が継承。

 1291年、ノガイ支援でメング・ティムルの息子トクタが継承。
 やがて、トクタとノガイは敵対関係となる。1300年、トクタが最終的にノガイを破り、ヴォルガからドンの地域を統一。
 ノガイの支持者はやがてノガイ・オルダを形成。

 バヤン・ハン(東翼)は従兄弟のコブレクに反乱され、これはカイドゥとチャガタイのドゥワの支援を受けていた。
 バヤン・ハンはトクタに支援を求めた。バヤンは最終的に敵を破り、1309年までそのオルダを支配。

 トクタは(イルハン国も)ビザンティンと提携。彼はイルハンのガザンとその後継者オルジェイトゥにアゼルバイジャンを
戻すよう、要求して拒否された。
 トクタは1294年、イルハンのガイハトゥと和平し、これは1318年まで続いた。
 1304年、チャガタイ・ハン国と元朝からの使者が来て、和平が提案され、トクタは元朝テムルの宗主権を認めた。
 1307年、トクタはクリミア半島のジェノヴァ交易都市カファを包囲、翌年、ジェノヴァはここを放棄。
 ジェノヴァとの緊張関係は1312年のトクタの死まで続いた。トクタはロシア遠征準備中に死亡。
 彼は黄金オルダの最後の非ムスリムのハン。メング・ティムルの孫のウズベク・ハンが継承。

 ウズベク・ハンはイスラムを国家宗教とし、1314年、クリミアのソルハトに大モスクを建設し、黄金オルダのモンゴル人から
シャーマニズムと仏教を排除。彼の時代に交易が栄え、都市が発展。彼はマムルークと提携した。
 黄金オルダはアブ・サイドのイルハン国を1318、1324と1335年に侵攻。
 彼は1326年に元朝との友好関係を再開。
 1319年にはビザンティンとセルビアに侵攻。
 パライオロゴス朝ビザンティンは1320から1341年にも黄金オルダに襲撃された。
 1310年代から1320年代にウズベクはトヴェリモスクワの紛争に関与し、モスクワを支持。
 以降、トヴェリはモスクワの宗主権を認めざるを得なくなった。
 1339年、ジェノヴァのカファ再建を認め、1332年にはヴェネティアにドンのタナイスへの植民を認める。

 1341−1342年にウズベク・ハンの息子のティニ・ベグついでジャニ・ベグ(1342−1357)が登位。
 マムルーク・スルタン国との強い結びつきで奴隷貿易が繁栄。しかし黄金オルダは1340年代のペストで打撃を受ける。
 ジャニ・ベグはリトアニアとポーランドに対しモスクワを支援、しかし、ガリシア・ヴォルヒニア(ルス)は
1349年にポーランドに併合。1357年、ポーランドは黄金オルダに服従。
 ジャニ・ベグはチャガタイ・ハン国への支配権を主張し、タブリズを占領し、1356年、チョバン朝支配が終焉。
 ジャライル朝の降伏で、ジャニ・ベグはモンゴル帝国の3ウルスの支配を誇った。
 1357年、ジャニ・ベグの暗殺で黄金オルダはすぐにジャライル王シャイフ・ウヴァイスにアゼルバイジャンを失った。

 ジャニ・ベグは息子のベルディ・ベグによって1357年、暗殺され、4半世紀の黄金オルダの政治的苦難が開幕した。
 1357−1378年に25人のハンが交代。
 ベルディ・ベグは1359年、兄弟のクルパに暗殺された。ベルディ・ベグの娘トゥルン・ベグ・ハトゥンはママイの妻。
 クルパは1360年、別の兄弟ナウルズ・ベグに殺された。
 ナウルズ・ベクは1年足らずで死亡、彼の死で混乱が続き、オルダまたはオルダの種々の一部を
20人以上のハンが継承し、多くは同時であった。その一部は名目的で最高軍事支配者が事実上支配し、その最も
有名なのはママイ。

 オルダ氏族のヒズルは1359年、グリスタンでハンを宣言、1360年、ナウルズの領域に侵攻し、貴族と秘密に交渉し
ナウルズはヒズルに引き渡され殺された。
 彼は息子のティムル・ホジャによって殺された。これは最初から貴族の敵意を受け、ウズベク・ハンの子孫(アブドゥッラー)が
権力を握る前の5週間しか支配できなかった。
 ママイはアブドゥッラーをハンにした。(クリミアで西のハン)
 ティムル・ホジャはママイに抵抗できず、ヴォルガを越えてに逃げ、そこで殺された。

 1362年、黄金オルダはサライのケルディ・ベグ(キリジベク)、ヴォルガ・ブルガリアのブラト・ティムルとクリミアの
アブドゥラーによって分割された。
 黄金オルダの混乱を利用し、リトアニア大公国が黄金オルダの西の従属国を攻撃し、1363年、青水の戦い後、
キエフとポドリアを占領。

 ママイの支援でアブドゥラーはサライを奪おうとして失敗。サライはムラドとアジズに支配された。
 アブドゥラーは1370年に死亡し、ムハンマド・ボラクがママイの操り人形として登位。

 モスクヴィー軍がアラブ・シャーのブルガル領域に侵攻したが、アラブー・シャーはこれをピアナ川の戦い(1377年)で
破った。しかし、東からの別のモンゴル将軍の侵攻で、アラブ・シャーはこの状況を利用できず、
この知らせを聞いたママイがモスクヴィー軍と戦ったが1378年、ヴォジャ川の戦いで敗北。
 ママイは傭兵で再度戦ったがクリコヴォの戦い(1380年)で敗北。

 1360年までにウルス・ハン(東翼)がシグナク(中央アジア)に宮廷を築き、1372年、西進しサライを占領。
 トクタミシュがティムールに支援を求め、ウルスを攻撃したが、失敗。エディグもウルスを見捨てティムールに走った。
 1376年、ティムール自身が攻撃したが成功しなかった。翌年、ウルスは死亡し、息子のティムル(テムル)・マリク
継承したがすぐにトクタミシュに敗北。1378年、トクタミシュがサライ占領。

 1380年代までにシャイバン朝(シバンの子孫(シバン朝)の分枝)とカシャンブルガール・ウルス)が
ハンから自由になろうとした。

 トクタミシュはモスクヴィに敗れたママイを1381年に破る。ママイはジェノヴァに逃げたが間もなく殺された。
 トクタミシュは1382年、モスクワを包囲、モスクワは騙されて落城。翌年にはリトアニア軍をポルタヴァで破る。
 ポーランド王とリトアニア大公子は従属を受け入れる。
 トクタミシュは1386年、アゼルバイジャンに侵攻し、タブリズを奪う。1387年にはアゼルバイジャンでティムール軍と
戦うが決着つかず。トクタミシュはトランスオクシアナに侵攻しブハラに達したが、都市は奪えず、帰還。
 ティムールはホラズムに侵攻し報復した。
 1389年にはトクタミシュはロシア、ブルガル、シルカシアとアラン人を含む大軍でティムールを攻撃したが決着は
つかなかった。1391年、ティムールは20万軍でトクタミシュをコンドゥルチャ川の戦いで破った。
 ティムールと提携したテムル・クトゥルグエディグ(エディゲイ)は黄金オルダの東半を得た。
 1395年、ティムールはテレク川の戦いでトクタミシュ軍を壊滅させ、首都を破壊し、クリミアを略奪。

 テムル・クトゥルグはサライでハンに選ばれ、エディグは共同支配者となり、コイリチャクが東翼を支配。
 トクタミシュはリトアニア大公国に逃げ、ヴィタウタスに支援を求めた。1399年、ヴィタウタスとトクタミッシュは
テムル・クトゥルグとエディグとのヴォルスクラ川の戦いで敗れた。
 これで黄金オルダはキエフ、ポドリアとブグ川下流域の一部を獲得。
 トクタミシュは1405年頃、チュメニで死亡。
 テムル・クトゥルは1400年に死亡し、従兄弟のシャディ・ベグが継承。
 エディグは黄金オルダ臣民を海外に奴隷として売ることを禁止したが、後に再開、しかし、シルカシア人だけを
奴隷として得ることを許された。
 ティムールは1405年に死亡、エディグはこれでホラズムを奪った。1400−1408年に、エディグは徐々にモスクワ
以外の東方ルス従属国を再確保。
 シャディ・ベグはエディグに反乱し、敗れ、アストラハンに逃亡。シャディ・ベグはプラドと交代され、これは1410年に
死亡し、テムル・クトゥルグの息子テムル・ハンが継承。テムルは翌年、ジャラル・アルディンによって追い払われ、
これは短期間王位を奪った。
 1414年、ティムール朝のシャー・ルフがホラズムを占領。エディグはクリミアに逃げた。
 エディグは1419年にトクタミシュの息子との小競り合いで死亡。


<参考> 露語個人記から ティムル・ホジャから

 1361年のヒズルの暗殺でその兄弟のムラドと息子のティムル・ホジャが権力を争い、ティムル・ホジャが勝ち、サライ
を奪った。ムラドはサライの郊外、グリスタン(ギュリスタン)にとどまった。
 このとき、東のトゥカ・ティムルの子孫、オルドゥメリクがハン位を主張。ティムル・ホジャはサライから逃げ、地域の貴族は
叔父のムラドをハンにしようとしたが、1361年、オルドゥメリクがサライを奪ったが、1か月しか支配できなかった。
 この頃、中央政権の弱体化を利用して、タガイがモシュヒ・ウルスを支配、ヴォルガ・ブルガリアのプラド・ティムル
独立を宣言し(1361−1367)、アストラハン(ハジ・タルハン)のチェルケスがハン位を主張。
 チェルケスはバトゥ・オルダ(西翼)のエミールで、ウルス・ハンとカガンベクと敵対関係にあり、1367年に登場。

 またこの頃、キリジベクが登場、彼をジョチ一族の正統分枝バトゥ一族として多くの貴族が支持。
 彼は1361年、サライに入り、オルドゥメリクを破り、殺した。彼は権力を得ると首都の貴族を抑圧。

 貴族はムラドの方を向き始め、1362年、ムラドはキジリベクを破り、サライを取った。
 彼はママイとアブドゥッラーの敵となった。
 ムラドの時代は全地域が分裂し、北ホラズムなどのように独立を宣言、国は2重権力状態となった。
 ムラドはサライで支配し、アブドゥッラーとママイはママイ・オルダ(クリミア)を支配。
 ムラドの地位は不安定で、一時期、ミル・プラド(シバン系)によってサライを占領された。
 ムラドは3年間支配。しかし彼の地位は不安定であった。
 ムラドは彼の主要なエミールのイリヤスによって殺された(1364年)。

 1362−1363年にミル・プラドの名でサライ・ベルケ(新サライ)で貨幣が鋳造されており、一時期、ムラドからここを
奪ったと思われる。
 1364年、ミル・プラドは新サライを奪い、ほぼ1年支配。しかし、1365年、アジズ・シェイフと戦いが始まり、首都は
アジズ・シェイフに渡った。彼の時代の主要な敵は西で行動するママイ。
 1361年、ヒズル・ハンの死後、ブラト・ティムルはブルガル・ウルスに行き、権力を確保。1367年、ハンのアジズ・セイフ
が攻撃、ブラト・ティムルは敗れ、逃走。

 1367年、アジズ・シェイフは恐らくママイの陰謀で殺され、アブドゥッラーがサライ(新サライ)に入り、ハンを再宣言。
 彼の支配は名目的で事実上ママイが支配。
 1368年、ママイは反乱鎮圧のためクリミアに行った。アブドゥッラーは首都を維持できず、ウルジャイ・ティムルに降伏。
 これは、ミル・プラドの甥ハサンに追い払われた。しかし、ハサンは1369年、ママイに追い払われ、アブドゥッラーが復帰。

 1370年、アブドゥラーが死亡し、息子の10才のブラクがベルディ・ベグの娘で、ママイの妻のトゥルンベク・ハトゥム
摂政で登位。
 1372年、サライは東翼のウルス(オルス)・ハンによって占領され、ブラクはクリミアのママイに逃げた。
 ウルス・ハンが東方に去って、1374年、チェルケスがサライを占領。しかし1375年、ママイがサライを占領し、ブラクが
復帰。まもなくウルス・ハンが東から戻りサライを1か月確保したが、維持できず、ブラクが復帰。
 1375年末、サライはカガンベクチュメン国・ハン)に奪われ、ブラクはもはや復帰できず、恐らくクリコヴォの戦いで死亡。
 カガンベクは1377年死亡。トクタミシュのサライ占領までアラブ・シャーがサライを占領していたと思われる。
 アラブ・シャーの情報は1377年から出現。(英語黄金オルダではブラト・ティムルの息子、露語ではミル・プラドの息子)

 将来のシビル・ハン国領域は14世紀四半期最後期から15世紀四半期最前期はジュチの第5子のシバンの系統が支配。
 この系統のヒズル・ハン、その息子のティムル・ホジャ・ハンが1360年から黄金オルダを支配。

 ウルス・ハンはシルダリア・ウルスのトゥカ・ティムル系で、シルダリア・ウルスは1340年、ティニ・ベクがウズベクによって
シグナクのハンにされたことに始まる。ウルスは1379年、息子のティムル・メリクの時、トクタミシュが併合。

 マンギシュラク(カスピ海東岸の半島)の支配者でウルス・ハンの縁者のオグラン(ハンとならない氏族)のトゥイ・ホジャ
ウルス・ハンのサライ遠征に参加せず処刑された。その息子のトクタミシュは1376年、サマルカンドのティムールの下へ逃げた。
 1377年、トクタミシュはティムールの支援で黄金オルダ征服を始めた。
 最初の戦いではウルス・ハンの息子クトゥルグ・ブガの死にも関わらず、トクタミシュは敗れ、ティムールへ逃げた。
 より強力な軍隊を得て再度侵攻したが、ウルス・ハンの息子トクタキヤに再び敗北。ティムル自身がシグナク遠征に
乗り出したが寒さで戦えず、延期。翌年はウルス・ハンの突然死で決定的な戦いとならず。
 短期間のトクタキア支配の後、テムル・マリクが黄金オルダのハンとなった。
 トクタミシュはティムールから大軍を得て再び侵攻したが、敗北し、死だけはなんとか免れた。
 テムル・マリクは問題があり急速に権力を失い、今度はトクタミッシュが勝ち、シグナクで支配者となった。
 1378年春の東部陥落後、トクタミシュはママイ支配下の西部に侵攻、1380年春までなんとかアゾフまでのサライ・ベルケ
を含む全黄金オルダを占領。
 下ヴォルガ地域の都市の復興はトクタミシュの時代に遡る。
 1380年のクリコヴォの戦いでのママイのロシア人軍への敗北後、カルカの戦いでトクタミシュはママイの残軍を破った。
 トクタミシュの登位に対しモスクワ公子ディミトリ・ドンスコイはこれを受け入れなかった。
 1382年、トクタミシュはモスクワに侵攻。
 しかし、トクタミシュはやがてティムールと敵対関係に入った。
 1385年、トクタミシュはタブリズに侵攻。1391年、コンドウゥルチャ、1395年、テレクでティムールはトクタミシュに大打撃を
与えた。その後、トクタミシュはハン位を失い、ティムールの指名するハンと戦い続けざるを得なかった。
 敗北後、トクタミシュは明らかに短期間、シビル・ハン国またはそのウルスの一部を支配。

 1395年、トクタミシュのテレクでのティムールへの敗北でコイリチャクがハンとされたが、1396年、サライの権力は
ティムル・クトゥルグへ渡った。明らかにコイリチャクはヴォルガ地域に拠点を築けなったが、東部を支配。

 マングート族エディグは父と兄弟はウルス・ハンに仕えたが、彼はトクタミシュとともにウルス・ハンから逃げて、ティムール宮廷に
行き、その軍に仕えた。エディグの妹はティムールの妻であった。
 1391年のティムールのトクタミシュへの遠征では軍のエミールの一人であった。トクタミシュの敗北後、間もなく、エディグは
ティムル・クトゥルグらと故郷へ戻った。
 エディグはマングート族の指導者(ウルベイ)となってティムル・クトゥルグのハン登位に寄与した。
 トクタミシュは権力回復を目指してリトアニアのヴィタウタス(ヴィトフト)と提携。1399年、ヴォルスクラ川の戦いでエディグ指揮の
ティムル・クトゥルグ軍はヴィタウタス・トクタミシュ連合軍を破った。
 トクタミシュはシビルに逃げ、チュメン・ユルトの権力を握った。
 1405年、ティムールが死亡し、エディグはチョクレと第16回目の戦いで最終的にトクタミシュを破り、殺した。

 独立の意志を示す、ティムル・クトゥルグを、エディグは1400年、一揆を起こし殺し、弟のシャディベグをハンに据えた。
 シャディベグは享楽に身を費やし、政治にほとんど関わらなかった。エディグが真の支配者となった。
 しかし1407年、エディグとシャディベクとの間で争いが起き、エディグが勝利し、シャディベグはデルベントに逃げた。
 シャディベクの息子、プラドがエディグによってハンにされた。
 プラドは東欧への影響を強化することに努力し、これはエディグによって進められた。

 プラドは1410年に死亡、ティムル・クトゥルグの息子ティムル・ハンが継承。ティムルはエデョグの娘と結婚していた。
 ティムル・ハンはエディグに不満で、貴族をエディグと戦わせた。エディグはホラズムに逃げ、6か月包囲された。
 トクタミシュの息子達はモスクワのヴァシリ1世ドミトロヴィッチの宮廷に避難。エディグの襲撃に対しヴァシリは報復しようと、
トクタミシュの息子達を利用しようとした。
 トクタミシュの息子ジェラル・アルディンが1411年、兄弟と黄金オルダに侵攻、ティムル・ハンの不在で黄金オルダを奪った。
 1412年、ティムル・ハンは指揮官ガザンが裏切りによって殺された。
 エディグに終止符を打たせようとジェラル・アルディンは軍を送り、エディグを攻撃させが、失敗、エディグはホラズムに帰還。
 1412年、兄弟のケリムベルディがジャラル・アルディンを殺し、権力を握るが、すぐに兄弟のケペク・ハンと衝突。
 ケリム・ハンとケペク・ハンはエディグと敵対、彼は依然、強い影響を持っていた。
 ケリム・ベルディはモスクワの保護を、ケペクはリトアニアの支援を得ていた。
 ケペクは短期間、サライで王位を得たがすぐにエディグのために撤退せざるを得なかった。
 ケペクはリトアニアの支配下の南ロシアで長くハンと見なされた。
 1414年、チョクレ(1407年、トクタミシュからチンギ・トゥラ−チュメン・ウルス都市を奪う)はエディグと提携し、
ケペクからハン位を奪った。
 ケペクの敗北はケリム・ベルディの立場を強化し、チョクレとエディグは2年間、これと戦いざるを得なかった。
 この結果、南西部がチョクレに渡った。1414−1416年に、チョクレの貨幣が製造されたことが知られている。
 チョクレとエディグの敵対はトクタミシュの息子ジャバル・ベルディに利した。ジャバル・ベルディはハン位抗争で、リトアニアの
ヴィタウタスの支援を得た。1416年、ジャバル・ベルディはチョクレを破り、殺した。

 エディグはチョクレの従兄弟のサイイド・アフマドをハンにした。しかし、すぐに殺された。恐らくジャバル・ベルディ
との戦いで。
 1年後、エディグの擁護するデルヴィシュ(サイイド・アフマドの甥)が首都を奪い、ジャバル・ベルディを追い払った。
 彼はクリミアに逃げ、ヴェネチア人とジェノヴァ人に避難を求めた。
 これで、エディグはタナを焼き払い、カファを包囲した。エディグとジェンヴァの休戦で、ジャバル・ベルディは
リトアニアに行かざるを得なくなり、途中、殺された。

 1419年、デルヴィシュ・ハンはリトアニアのヴィタウタスの支援するトクタミシュの息子カディル・ベルディ
敗れ、殺された。
 エディグはクリミアに逃げ、そこでクリミアのトゥカ・ティムル朝トゥカ・ティムル)のベク・スフィをハンとする。
 しかし、ベク・スフィはカディル・ベルディに敗れたが、1422年までヴィタウタスの支援でクリミアで勢力を維持。
 エディグは1419/1420年、カディル・ベルディの配下によって殺され、同じ日頃、カディル・ベルディは
クリミアで死んでいる。

 ハジ・ムハンマド(シバン朝)はエディグの最後の傀儡ハンに選ばれた。エディグとカディル・ベルディの戦いの際、
提携がなされ、彼はエディグ側で戦った。
 1419−1420年のヤイク(ウラル)川での戦いでエディグとカディル・ベルディが死亡。
 それで、エディグの息子のマングート氏族のノガイ・ビイマンスルは父の約束道理、ハジ・ムハンマドをハンとした。
 しかし、実際はハジ・ムハンマドはジョチ・ウルスの東部を支配。この時から黄金オルダの激しい分解が始まった。
 彼とその後継者は黄金オルダの称号”ハン デシュト・イ・キプチャク”を称したが彼のウルスはウズベク・ハン国
基礎となった。
 彼をシビル・ハン国の創建者とする学者がいる。
 ハジ・ムハンマドは1423年または1427年に死亡、死因は諸説ある。

 ジョチ・ウルスの西部は当時(1421−1422)、クリミアでハンを称したウルグ(ウル)・ムハンマド
その従兄弟のフダイダトとウルス・ハンの孫のバラクの間で戦争が勃発。
 コイリチャクの息子バラクはエディグの死後、ティムールの孫ウルグベクへ逃げその支援を受けた。
 しかし、ウルグ・ムハンマドに敗れた。1420年、別の競争相手、トクタミシュの息子ケペクを破った。
 1421−1422年、バラクはウルグ・ムハンマドを破り、ハンとなり、マンスールがベクリャルベクとなった。
 ムハンマドはリトアニアのヴィタウタスのもとに逃げた。その後、別に競争相手フダイダトが出現、これも1422年、バラクに敗北。
 1423年バラクはウル・ムハンマドを破り、ハンを宣言。しかし、1426年にはウル・ムハンマドに敗れた。
 バラクは東部に逃げ、以前の支持者ウルグベクを破ったが、その父のシャールフが支援し、バラクは敗北。
 これで部下に混乱が起きたが、1427年、マンスールを処刑、混乱を収め、1427年、再びサライ占領。
 しかし、すぐに、デヴレト・ベルディに攻撃され、サライを奪われたが、数日後、バラクが戻りデヴレト・ベルディを
破り、恐らく殺した。しかし、この戦いでバラク軍は衰弱、ウル・ムハンマドにヴォルガの東に追い払われた。
 バラクは5年後にマンスールの兄弟ガジとナウルスにモグリスタンで1428−1429(または1427−1428)年に殺された。

 ウルグ(ウル)・ムハンマドはトゥカ・ティムール系で、1419年、最初に黄金オルダのハンを主張。
 エディグ死後の混乱を利用し、クリミアから来て、ヴォルガ・ブルガリアとハジタルハンで権力を確保、
1420年、黄金オルダのハンを宣言。彼はバラクを破った。
 東部ではエディグの息子、マンスールの支援でハジ・ムハンマドが勢力を確保し、黄金オルダのハンを宣言。
 ムハンマドは西部で誰の支援もなかった。
 更に、アリの息子で従兄弟のフダイダトとタシュ・ティムルの息子デヴレト(ダウラト)・ベルディが敵対していた。
 マングートの支援でボラクがムハンマドを破った。ムハンマドはリトアニアのヴィタウタスのもとに逃げた。
 この時、フダイダトがボラクと戦い始めたが、1423年、フダイダトは敗北。彼は1424年、オドエフ公国に侵攻し、
ヴィタウタスに敗北し、以降、消息がなくなった。
 この頃、ムハンマドはヴィタウタスに支援され、クリミアを奪い、更に、ハジタルハンをも奪い、最終的にサライ・ベルケに入り、
1426年、ボラクを破った。ボラクは東に撤退。
 ムハンマドはクリミアを確保したデヴレト・ベルディと衝突し始めた。
 1427年、ボラクはヴォルガ地域に戻り、ムハンマドからサライを奪った。ムハンマドはヴォルガ・ブルガリアとハジタルハン
を確保。この時、デヴレト・ベルディがクリミアからボラクを攻撃し、サライを奪い、ハンを宣言。
 しかし、3日後、ボラクが戻り、デヴレト・ベルディを破る。しかし、これでバラクは弱体化し、ムハンマドがボラクを攻撃し、サライを占領。
 ムハンマドは最早、以前のような黄金オルダの勢力を回復できず、ヴォルガの東は最早、オルダに従わなかった。
 1428年頃、新しい競争相手、ティムル・ハンの息子キチ・ムハンマドが出現。(ウル:年長、キチ:年少)
 キチ・ムハンマドはノガイ・ビイ(エディグの息子たち、マンスール、ガジ、ナウルス)の支援を得、更に、ハジタルハンからも支持を得た。
 この頃、ヴォルガ地域の天候が悪く、作物も不作であったが、支配者の対応が悪く、多くがキチ・ムハンマド側に就いた。
 しかし、彼とノガイ・ビイとの間に紛争が起き、ノガイ・ビイが彼から去った。ナウルス・ビイがウル・ムハンマド側に就いた。
 1420年代末と1430年代初めにウル・ムハンマドは強力となり、周辺は彼を正統な支配者と見なした。
 ノガイ指導者の勃興はシリン氏族の指導者テギネ・ベイやクングラト氏族の指導者ハイダルに不満をもたらした。
 1432年、キチ・ムハンマドがウル・ムハンマドに対した時、彼らはクリミアでケリムベルディの息子サイド・アフメド(1世)を支援。
 ウル・ムハンマドはヴォルガ地域をキチ・ムハンマドに渡し、西部地域を確保。
 ヴォルガ中流地域では独立カザン・ハン国がギヤス・アディーンのもとで形成されつつあった。
 1434−1436年に、ウル・ムハンマドとキチ・ムハンマドとサイド・アフメドの間で一時的に均衡が起きていた。
 1436−1437年に均衡が揺らぎ、ナウルスがウル・ムハンマドと折り合いが悪くなり、キチ・ムハンマド側に就き、ウル・ムハンマド
はまずサイド・アフマド、ついで、キチ・ムハンマドの攻撃されたが、決着つかず、この間に、ギアス・アディーンがサライを占領。
 キチ・ムハンマドが防衛のために帰還、ギヤス・アディーンは1か月のの維持後、敗れ、恐らく殺された。
 ウル・ムハンマドは1436年、ギヤス・アディーンによって退位させられ、クリミアに撤退、そこでハイダルと喧嘩、ハイダルは
サイド・アフマドに支援を求めた。ウル・ムハンマドはクリミアを去り、ロシアとの国境行った。ウル・ムハンマドはそこに留まらず、
カザンに行った。ヴォルガ中流地域で勢力を築き、ロシア諸公国への支配回復を試みた。
 息子のカシム(1452−1469)はカシム・ハン国(1462−1681)を築いた。

 サイド・アフメド1世はトクタミシュの息子とも、孫(ケリムベルディの息子)ともいわれる。
 リトアニア大公国で育ち、1430年代初期、クングラト氏族ハイダル・ベイの支援でクリミアで権力確保し、ウル・ムハンマドと対立。
 サイド・アフメド、ウル・ムハンマドとキチ・ムハンマドが黄金オルダでハンを競った。
 サイド・アフメドはハジ(1世)・ギライ(クリミア・ハン国創建)、ウル・ムハンマド、キチ・ムハンマドと戦った。
 1436−1437年にサイド・アフメドとキチ・ムハンマドは別の方面からウル・ムハンマド領を攻撃、ウル・ムハンマドは敗れ、
モスクワ侯国南国境に逃走。
 1441年、サイド・アフメドはクリミアで権力を失い、北黒海とヴォルガ地域を巡ってキチ・ムハンマドと争い始めた。
 サイド・アフメドはポーランド・リトアニア国境の土地を何度も襲撃。
 1440年代末にはモスクワ大公国に軍事行動を開始。
 1455年、サイド・アフメドがリトアニア南部を襲撃、帰途、ドニエプルを渡るとき、ハジ・ギレイ軍に敗北。
 サイド・アフメドはリトアニアに逃げ、キエフで捕まり、コヴノで死まで名誉的捕囚として生きた。

 クチュク(キチ)・ムハンマドはティムル・ハンの息子で、ノガイ・ビイでエディグの息子のガジとナウルスの支援を得た。
 更にハジタルハンで多くの支持者を持った。
 1428年頃、彼はウル・ムハンマドに対抗。この頃ヴォルガ地域の天候が良くなく、人々は困難に陥いたが、ウル・ムハンマドが
人々を助けなかったために多くがキチ・ムハンマド側に就いた。しかし、勝利間近でキチ・ムハンマドとノガイ・ビイとで紛争が起き、
ノガイ・ビイがキチ・ムハンマドを見捨てた。同時にナウルス・ビイがウル・ムハンマド側に就き、これを強化。
 1432年、キチ・ムハンマドが再び活発に行動を開始。
 ウル・ムハンマドは非常に弱体化し、テギネとハイダルが彼を見捨てクリミアに移動、そこで別の競争相手のサイド・アフマドを
支援。そこでウル・ムハンマドはキチ・ムハンマドと交渉し、ヴォルガ地域を譲り、彼は西部のロシア辺境、北黒海地域を確保。
 キチ・ムハンマドはサライを所有する権利を得たが、ハジ・タルハンに留まった。
 1434−1436年に、ウル・ムハンマドとキチ・ムハンマドとサイド・アフメドの間で一時的に均衡が起きていた。
 1436−1437年に均衡が揺らぎ、ナウルスがウル・ムハンマドと折り合いが悪くなり、キチ・ムハンマド側に就き、
ウル・ムハンマドはまずサイド・アフマド、ついで、キチ・ムハンマドに攻撃されたが、決着つかず、この間に、カザン・ハンの
ギアス・アディーンがサライを占領。
 キチ・ムハンマドが防衛のために帰還、ギヤス・アディーンは1か月の維持後、敗れ、恐らく殺された。
 ウル・ムハンマドはこのような状況でなんとか生き残り、ヴォルガ中流地域に移り、カザン・ハン国を築いた。
 彼は最早、黄金オルダのハン位を争わず、モスクワ大公国との戦いに忙しかった。
 キチ・ムハンマドの主要な敵はサイド・アフマドで、これはヴォルガからドニエプルまでの草原を確保し、大オルダの
祖(1433年から)と見なされた。
 キチ・ムハンマドは1459年頃死亡。
 キチ・ムハンマドは息子のマフムドアフメド(アフマト)に継承された。

 マフムドは1460年頃、兄弟のアフメドとの大オルダのハンを争い、ハジタルハンに逃げ、そこで独立ハン国を築いた。
 彼は大オルダとノガイ・オルダ、オスマン帝国との関係を維持。
 あるいは別の説では、彼は父の後に権力を確保、これは明らかに1459年。
 アフメドはヴォルガ地域を所有し、独立政策を追求、一方、マフムドはドニエプルからヴォルガの間の南部草原を所有、このため、
その主要な敵はクリミア・ハン国でその支配者は黄金オルダからの独立を達成し、黄金オルダの後継者を主張し始めた。
 1465年、マフムドはロシア遠征に行き(モスクワ大公国、あるいはリトアニア大公国では知られていない)、ドンを渡るとき、
ハジ・ギライ軍に攻撃され、マフムドは深刻な敗北を受ける。
 マフムドはなんとかハジタルハンに逃げたが、多くの臣下はハジ・ギライの権威を認め、ハジ・ギライは大オルダの支配者を
主張し始めた。しかし、ハジ・ギライが死亡し、クリミアが混乱し、マフムドは影響を回復。
 1471年、マフムドが死亡、大オルダの全権力はアフメドのものになり、ハジタルハンはマフムドの息子カシムが支配。

 アフメドの父、キチ・ムハンマドの最後の貨幣は1459年、一方、ロシア年代記は既に、1460年、アフメドのリャザン遠征を報告。
 マフムドはハジタルハンを主拠点に南ロシア草原を支配し、クリミア・ハン国と接触。
 アフメドはヴォルガ中流地域を恐らくサライとともに受け取った。
 マフムドはクリミア・ハン国と衝突し、一方、アフメドはこの時期、クリミアと直接の接触、衝突はなく、東方に向かっていた。
 かつて、黄金オルダに属していた東方の土地は独立を獲得。明らかにアフメドの主目標は豊かなホラズムへの支配回復であった。
 これで、アフメドはシバン氏族のウズベク・ハンのアブル・ハイルと衝突、これもこの土地への権利を主張。
 アフメドは衝突を避け、1468年のアブル・ハイルの死までまった。彼は厳しい支配者でこれでその支配者はウズベク貴族や
周辺から否定的に見られた。彼の死で貴族はシバン系の別の分枝のヤドガル・ハンに権力を与えた。
 しかし、ヤドガルは1469年に死亡し、アブル・ハイルの息子シャイフ・ハイダルが権力を得た。
 しかし、強力なオルダが彼に対立、カザフのジャニベクギレイノガイムサヤムグルチ、ヤドガル・ハンの息子ブレケ・スルタン
シビル・ハンのイバク。1470−1471年ににシャイフ・ハイダルはほとんどの領土を失った。
 1471年、東方にアフメドが出現しホラズムを要求。シャイフ・ハイダルはイバクに急襲され、殺された。
 その後、アフメドはシャイフ・ハイダルの敵と和平。
 この頃、兄弟のマフムドが死亡、アフメドはヴォルガ地域へ急いで戻った。ヴォルガ地域に戻って、アフメドはアブル・ハイルの孫の
ムハンメド・シャイバニマフムド・スルタン(ウズベク・ハン国を争っている)がアストラハンのアフメドの甥カシムのもとへ
避難していることを知った。アフメドはアストラハンに遠征し、これにイバクとノガイ・ギイのアッバスが参加。
 アフメドの甥カシムは恭順を示し、アフメドは軍隊を解散。しかしムハンメド・シャイバニは支持者を結集し、1472年、突然、イバクの
陣営を攻撃し、ついでアフメドの本拠を攻撃。この時、アフメドはロシアを襲撃中であったが、急いで戻った。
 以降、アフメドは東方で積極策を行わず、西方での兄弟からの深刻な問題を受け継いだ。アフメドはクリミア独立問題を兄弟から
受け継いだ。この問題は究極的に大オルダを滅亡に至らす。
 1476年、アフメドはクリミア・ハン国の内紛に干渉。これには当時クリミアの一部を占領していたオスマン・トルコも関与。
 結局、トルコの支援したメングリ・ゲライが復帰し、オスマン・トルコに従属。
 1480年、アフメドはモスクヴィーに遠征を行い、ウグラ河畔の大対峙が起き、両軍は戦わずして撤退。
 草原に戻って、間もなく、本拠でアフメドは突然ノガイとシビル騎兵に襲撃された。
 アフメドはチュメン・ハンのイバク・ハンとノガイのムルザ(貴族)のムサとヤムグルチによって殺される。

 アフメドの死後、息子たちのムルタザサイド・アフマド2世シェイフ・アフメドは互いに戦い続けた。
 彼らには最早、父のような力はなかったが、支持者の支援を得ることができ、これで約50年以上、継続した。
 アフメド・ハンの暗殺後、マングートのティムルはムルタザとサイド・アフマドをクリミアに逃亡させ、
クリミア・ハンのメングリ1世ゲライはこの逃亡者を受け入れたが名誉的捕囚であった。
 イバク、ムサ、ヤムグルチはハン位を得ようとしなかった、彼らはオルダの貴族の十分な支持を得ていなかった。
 権力の真空状態が生じ、1481あるいは1482年頃、シェイフ・アフメドはハンを宣言。
 1485年、彼の兄たちがクリミアから逃げようとして、ムルタザは捕らえられたが、サイド・アフマドはティムルと
なんとかデシュト・イ・キプチャクへ逃げた。そこで、サイド・アフマドもまたハンを宣言したが兄弟の衝突には
至らなかった。同年か翌年、サイド・アフマドとティムルは突然メングリ・ゲライを攻撃し、ムルタザを解放、しかし、
首都攻撃には失敗。クリミアから撤退したが、ムルタザはハンを宣言。
 当時、草原にはすでに3人のハン(3人目はムルタザでなくメングリ・ゲライか)がいたが衝突は起きなかった。
 1486年、ムルタザは当時モスクワにいたゲライの兄のヌル・デヴレトの支援でゲライを王座から除こうとしたが
イヴァン3世が応ぜず失敗。これでムルタザの権威が落ち、サイド・アフマドはだんだんシェイフ・アフメドに接近。
 1490年、彼らはアストラハン・ハンのアブド・アル・ケリムの支援でクリミアを奪おうとした。
 メングリ・ゲライはオスマンのバヤジド2世の支援で軍隊を動員、一方、イヴァン3世はでカザンのムハンメド・アミンと
カシム・ハンのサティルガン(ヌル・デヴレトの息子)がいる南方軍を動かした。
 兄弟は急いで自分たちの領土に撤退した。
 バヤジドは懲罰しようとしていたのでムルタザは言い訳をし、サイド・アフマドに責任を押し付けた。
 バヤジドは懲罰遠征を行わなかった。
 ノガイとの関係を改善しようと、シェイフ・アフメドは1493年、ムサの娘との結婚を急いだ。これは貴族に否定的
反応を引きおこさせ、彼らはシェイフ・アフメドを降ろし、ムルタザをハンに据えた。
 同じ頃、共同支配者のサイド・ハンとベグリャルベグのマンギートのハジケは依然その領土にいた。
 1494年、シェイフ・アフメドが権力の座に復帰、ムルタザとハジケはテレクのチェルケス人に逃げた。
 ティムルの息子、タバククルが新しいベグリャルベグに指名された。
 サイド・ハンは依然、共同支配者に留まったが、以降、政治に積極的には参加しなかった。
 1498年、ムルタザはリトアニア公子アレクサンドル・ヤゲロンチクに亡命を求めた。
 1500−1501年にシェイフ・アフメドはクリミアを攻撃を準備し、サイド・ハンとムルタザさえ、そして
アブド・アル・ケリムも呼んだが、サイド・ハンだけが参加。しかし喧嘩が発生し、サイド・ハンは陣営を去った。
 ハジ・アフマドとベグリャルベグのタヴァククルらがシェイフ・アフマドと留まった。

 1502年、メングリ・ゲライはクリミアからオルダに向かった。
 この頃、シェイフ・アフメドはスラの要塞を築いていたが、臣下が大挙してクリミア側に就いた。
 メングリ・ゲライはシェイフ・アフメドを破り、全土を進軍、遠征はサライ焼き払いで終わった。
 以降、クリミア・ハンは大オルダの支配者を称した。

 一連の軍事と外交的失敗の後で、1504年、シェイフ・アフメドはリトアニアで捕虜となった。

 ノガイはシェイフ・アフメドの解放を訴えたが、待ちきれず、ムルタザが王座に座ることを申し込んだが、
彼は拒否し、弟のハジ・アフマド(ハジケ)を指名した。これはカルガ(ハンの次の地位)でシェイフ・アフメドの下に居た。
 ハジケは1514年秋、テレクでムルタザ、ムザッファルとノガイ貴族在席でハンとなった。ノガイ・ビイのシェイフ・ムハンメド
ベグリャルベグとなった。
 1519年、シェイフ・ムハンメドはカザフ人に敗れ、ついでアストラハン・ハンで殺され、ハジケは後見人を失った。

 シェイフ・アフメドは、1527年にオルシャニツァの戦い(クリミアとリトアニア)後に解放された。彼はハジタルハンに陣営を築いた。
 アストラハン・ハン国は内紛に揺すぶられた。
 一説には、シェイフ・アフメドは1527−1528年、アストラハンのハン位を奪った。1528年に死亡。



 
黄色:金帳汗国、紫:イル・ハーン国      15世紀末


 東翼(左翼、オルダ・ウルス)と西翼(右翼、バトゥ・ウルス) ここでは西翼が青オルダ、東翼が白オルダとなっている




<参考> 黄金オルダの翼(英:ホルド、スラヴ:オルダ)

 ジンギス・ハンの最年長の息子ジョチが死亡するとその領土をバトゥが最高権力ハンとして黄金ホルドを継承。
 オルダとその兄弟の一部は黄金ホルドの東(左、青)翼を支配し、バトゥと他は西(右、白)翼を支配。
 これらホルドはスラヴとペルシャ歴史学で白、青、灰色(シャイバン)ホルドとして知られる。
 2つの主要な分割はバトゥ・ウルスとオルダ・ウルスとしても知られている。
 別の著者は青と白を逆に使用し、混乱を招いている。

 1550年代のヒヴァのオテミシュ・ハジによると、バトゥのウルスは白ホルド、オルダは青ホルド、シバン(シャイバン)は
灰色ホルドとして知られていた。

青ホルド
東翼資料
 ロシア年代記では青ホルドは黄金ホルドの東翼、これは西翼に忠誠してでき、オルダ・ハンの子孫が支配。
 1360年代でのバトゥ系の継承紛争後、黄金ホルドの両翼の権威は東のジョチ朝に渡った。
 ロシア年代記では青ホルドはヴォルガ東部に位置し、2度言及、1度目は紛争時、これはトクタミシュによって終焉、
2度目は1395年のティムール侵攻時。

西翼資料
 一部の資料は青ホルドを黄金ホルドの西翼とする。
 左翼、ノガイの子孫はアク・ホルド、右翼(子孫トクタ)は青ホルド。

西翼の2分割
 カザフスタンでは白と青の分割は黄金ホルドの東部だけ。青はシバンで右翼とオルダ・ハンのホルド(現在西カザフスタン)の間。

歴史 *英語ウィキペディアは白と青の混用がひどいのでここでは右(西)を白、左(東)を青に統一。
右翼
 バトゥ・ハンは1241年のヨーロッパ撤退で白ホルドを築き、1245年までにサライを首都として下ヴォルガに築いた。
 同時に黄金ホルドの東部の土地はバトゥの年長の兄弟オルダが支配し、左翼として知られるようになった。
 1238年のウラジミール大公国と1240年のキエフ襲撃後、バトゥはロシア人公国支配を主張、例年貢納を要求し、
公子自称を許可。
 バトゥのウルスはウラル川からダニューブ河口とカラパチア山脈まで広がった。
 ほとんどのロシア人公国から貢納を取り、西はポーランド、南はイランとブルガリアまで襲撃を行った。

 ベルケのイスラム転向から白ホルドは共通の敵イル・ハンに対しエジプト・マムルークと伝統的に提携した。

 1280年代から1299年まで、白)ホルドは2人のハン、正統なハンとノガイ・ハンの支配下にあった。
 ノガイ・ハンはビザンティン帝国と提携し、白ホルド国境諸国、特にバルカンを侵攻。

 ノガイの優位性は正統ハンのトクタの主張で終焉し、白ホルドは14世紀中期にウズベク・ハンとその息子ジャニ・ベグ
時代に勢力と繁栄の頂点に達し、分解するイルハン国の問題に介入。
 白オルダはその創建(1240年頃)から1350年代まで強勢であった。
 オルダの西での問題で、やがてワラチア、ドブルジャ、モルダヴィアと西ウクライナとキエフの西の諸公国を失いようになり、
1362年の青水の戦いでの敗北後、これらの土地をリトアニアにそしてポーランドに失った。
 ジャニ・ベグの死で内紛に至った。ママイが白ホルデの実力者となった。この頃、モスクヴィがモンゴル支配を逃れた。
 トクタミシュの出現で対立するハンが除かれ、彼は1380年に短期間、青を白と統一。

左翼
 オルダのウルスあるいは黄金ホルドの左翼は、1225年頃形成されたモンゴル帝国のウルスの一つでジョチ死後、
息子のオルダ・イチェンが継承。黄金ホルドの東部。
 オルダとその子孫は黄金オルドの左部分を支配したので左翼の公子と呼ばれた。
 初めはジョチ朝の支配する西部を覆い、中央アジア西部と南西シベリアを含んだ。青ホルドの首都は始めは
バルハシュ湖にあり、後にはカザフスタンのシル・ダリア川のシグナクに移動。
 クブライとアリク・ベケの間の継承を巡る、1260−1264年のモンゴル継承戦争で青オルドの上層はアリク・ブケを支持。
 彼らはまたベルケとモンケ・テムルのようなハンが支持したオゴデイ朝公子カイドゥを支持。
 1280年以降オルダの後継者コチュは元朝とイルハン国と提携。
 1299年、左翼ハン、バヤンはカイドゥとドゥワの支援を受けた従兄弟のコベレクによって退位させられた。
 1304年までに、バヤンはほとんどの祖先の土地を再占領。彼のホルドはシル・ダリア付近を遊牧し、シャイバン朝
取って代わった。バヤンの部隊はロシアとマジャール兵士を含んだ。
 そのハン、チムタイは白オルドの混乱期(1359−1380)に兄弟たちを黄金オルド王位奪取に送った。
 しかし彼らすべは成功前に殺された。青オルドからの一員ヒズルとその息子または縁者のアラブ・シャイフは短期間、
黄金ホルドの王位を奪った。

 1375年、左翼の8代目ハンのウルス・ハンは青ホルドと白ホルドの両方のハン位を争った。
 ウルスは1377年に死亡し、翌年、トクタミシュがウルスの息子ティムル・マリクから白オルダの支配を奪った。
 彼は青オルダの支配も得た。トクタミシュは両ホルドを強化し、黄金ホルドのハンとなった。

 1395−1396年のトクタミシュの敗北で、クルイチクがティムールによって白オルダの首領に指名された。
 以降、ジョチの息子、トゥカ・ティムル、シバンとオルダの一族が互いに一緒になり、ウズベクカザフ・ホルドを形成。
 そのなかで、クルイチクの子孫バラクが短期間、1421年に黄金ホルドの王位を主張。
 バラクの暗殺後、ホルドは2人のハンの2部分に分裂、モハンマドとムスタファ。ムスタファはホルドを再征服。
 しかし、シベリアでアブル・ハイル・ハンの脅威が出現。彼は、1446年、ムスタファに勝利し、オルダのウルス(黄金ホルドの
左翼)が終焉。

ハン
 西半分(白ホルド)
  バトゥ・ハン(1240−1255):ジョチの息子、ジンギス・カンの孫。
  サルタク・ハン(1255−1256):バトゥの息子。
  ウラグチク・ハン(1257):サルタクの息子またはバトゥの息子。
  ベルケ・ハン(1257−1266):ジョチの息子。  
  メング・ティムル(1266−1280):バトゥの息子のトコカンの息子。ノガイ・ハンが1266−1294年、事実上支配。
  トゥダ・メング(1280−1287):トコカンの息子。
  タラブガ(トゥラ・ブガ)(1287−1291):バトゥの曽孫。
  トクタ・ハン(1291−1312):メング・ティムルの息子。
  ウズベク・ハン(1312−1341):メング・ティムルの孫。イスラム教を国教に採用。
  ティニ・ベグ(1341−1342):ウズベク・ハンの息子。
  ジャニ・ベグ(1341−1357):ウズベク・ハンの息子
  ベルディ・ベグ(1357−1359):ジャニ・ベグの息子。兄弟のクルパに殺される。娘はママイの妻。
  クルパ・ハン(1359−1360):兄弟のナウルズ・ベグに殺される。
  ナウルズ・ベグ(1360):死因不明、死後、オルダは無政府状態となる。この時期ママイが影響を持つ。
   1362年、サライのケルディ・ベグ、ヴォルガ・ブルガリアのブラト・テミル、クリミアのアブドゥラーに分裂。
  ヒズル・ハン(1360−1361):オルダ系のサシブガの息子。オルダ系の最初の黄金オルダのハン。
  ティムル・ホジャ・ハン(1361):ヒズルの息子。
  オルドメリク(1361):ジョチの息子のトゥカ・ティムルの子孫。
  キリジベク(1361−1362):ジャニ・ベグの息子を自称するが疑問。
  ムラド(1362−1364):一説にはヒズルの息子。アブドゥッラーとの2重権力。
  ミル・プラド(1364−1365):シバン系の最初の黄金オルダのハン。
  アジズ・シェイフ(1365−1367):ティムル・ホジャの息子。
  アブドゥッラー(1367−1368、1369−1370):ウズベク・ハンの息子。名目的、実質はママイ。
  ハサン(1368−1369):シバン系。
  ブラク・ハン(1370−1372、1375):アブドゥッラーの息子。
  ウルス・ハン(1372−1374):トゥカ・ティムル系。一説にはチムタイの息子(オルダ系)。
   両翼統一。1360年までシグナクに遷都。1372年、西進しサライ占領。
   トクタミシュとティムールの攻撃に耐える。ママイは1380年死亡。
  チェルケス(1374−1375):西翼のエミール。
  カガンベク(ギアス・アディーン)(1375−1377):シバン系。
  アラブシャー(1377−1380):シバン系。ミル・プラドの息子。
  トクタミシュ(1378−1397):トゥイ・ホジャの息子、トゥカ・ティムル系。統一。ママイを破る。
   1399年、エディグノガイ・オルダ)を破る。
  コイリチャク(1395−1410):ウルス・ハンの息子、バラク・ハンの父。
   1395年、ティムールのトクタミシュへの遠征に随行。
   トクタミシュのテレクでの敗北で、ティムールによって黄金オルダのハンとされる。彼は東に行き国を築く。
   1396年、サライの権力はテムル・クトゥルグに移行。コイリチャクは明らかにヴォルガ地域に拠点を築けなかったが、
   黄金オルダの東部を支配した。


 東(青ホルド)
  オルダ・ハン(1226−1251):ジョチの息子。バルハシュ湖とヴォルガ川の間の地域を支配。
  クン・クラン(1251−1280):オルダの息子。
  コチュ(コニチ)(1280−1302):サルタクタイの息子、オルダの孫。
  バヤン・ハン(1302−1309):コチュの息子。
  サシブガ・ハン(1309−1315):バヤンの息子。
  イルバサン(エルゼン)(1310−1320):サシブガの息子。
  ムバラク・ホジャ(1320−1344):サシブガの息子。
  チムタイ(1360−1344):イルバサンの息子。
  ウルス・ハン(1361−1377):チムタイの息子(オルダ系)あるいはトゥカ・ティムル系ともいう。両翼統一。
  トクタキヤ(1377):ウルス・ハンの息子。
  ティムル・マリク(1377−1378):ウルス・ハンの息子。

 トクタミシュ以降
  テムル・クトゥルグ(1397−1399):ティムル・マリク(東翼のハン、トクタミシュと争った。)の息子。
    1379年のティムルの死後、トクタミシュの宮廷で育てられた。反乱に失敗し、エディグとティムールに逃げた。
    1391−1395年のトクタミシュ・ティムール戦争の間、下ヴォルガとウラル川の間の地域で独立ウルスを築いた。
    首都をサライ・ジュクに置いた。トクタミシュの敗北後、エディグの支援で黄金オルダのハンとなる。
    ヴォルスクラ川の戦いに参加。(エディグ、テムル対トクタミシュ、リトアニア大公国のヴィタウタス、リトアニア敗北。)
    トクタミシュの息子に殺される。
  シャディ・ベグ(1399−1407):ティムル・マリクの息子。
  プラド・ハン・イブン・シャディ・ベグ(1407−1410):シャディ・ベグの息子。
  ティムル・ハン(1410−1412):テムル・クトゥルグの息子。
  ジャラル・アルディン(1411−1412):トクタミシュの息子。
  ケリムベルディ(1413−1414):トクタミシュの息子。
  ケペク(1414):トクタミシュの息子。
  チョクレ(1414−1416):トクタミシュの従兄弟。
  ジャバル・ベルディ・ハン(1417−1419):トクタミシュの息子。エディグ(後のノガイ・オルド)と戦う。
    死後、支配は息子のデヴレト・ベルディと甥のウルグ・ムハンマドに分裂。
  デルヴィシュ・ハン(1417−1419):トゥカ・ティムルジョチの息子)の子孫。
  カディル・ベルディ(1419):トクタミシュの息子。
  ハジ・ムハンマド(1419):シバンの子孫。チュメン・ハン(1420−1427)。
  ウルグ・ムハンマド(1419−1423、1428−1437):トゥカ・ティムルの子孫のクリミア分枝のイチレハンの息子。
    始め彼の競争相手は従兄弟のデヴレト・ベルディ。
    1422年、バラク・ハンがウルグ・ムハンマドとデヴレト・ベルディを破り、追い払う。
    リトアニア大公国の支援でバラクを破る。1436年支配を失い、クリミアに逃げるが1439年、モスクワ大公国軍に敗れ、
   ヴォルガに移動し、1438年、カザン占領。
    黄金オルダ支配(1436以前)、クリミア支配(1437)、カザン・ハン(1438−1445)。
    カザン・ハン国創建。カシム・ハン国(1452−1681)創建。
  デヴレト・ベルディ(1419−1421、1428−1432):ジャバル・ベルディの息子。
    彼とウルグ・ムハンマドはバラクに敗れる。
    1427年、クリミア支配するがハジ1世ギライのため支配強化できず、1432年暗殺される。
  バラク・ハン・イブン・コイリチャク(1423−1426):ティムール朝のウルフ・ベグの支援で1422年、ウルグ・ムハンマドと
   デヴレト・ベルディを退位させる。1427年、ウルグ・ムハンマドに敗れ、暗殺される。
  サイド・アフマド1世(1433−1435):ケリムベルディの息子、トクタミシュの孫。
  クチュク(キチ)・ムハンマド(1428、1435−1459):ティムル・ハンの息子。マフムドとアフメドの父。

 主なベクリャルベク
  ノガイ(1256−1267、1280−1300):ジョチの子孫。
  ママイ(1357−1359、1363−1364、1367−1369、1370−1372、1377−1380):
   クリミアが本拠。
  エディゲイ<エディグ>(1395−1419):マングート氏族出身。
  マンスル・ビイ(1419):エディグの息子。
  ナウルス・ビイ:ウルグ・ムハンマドとクチュク・ムハンマドのとき。



(7−2) シャイバン朝

 中央アジアのペルシャ化したトルコ・モンゴル王朝で現在のカザフスタンのほとんど、ウズベクスタンの多く、と南ロシアの
一部を15世紀に支配。
 ジンギス・ハンの孫、ジョチの5男のシバンの男系子孫。
 14世紀中期まで、ウズベク・ハンのようなシバンの兄弟のバトゥ・ハンとオルダ・ハンの子孫の権威を認めた。
 シャイバン朝は始めはウラルの南東の灰色オルダ(ウズベク)を率い、1282年、イスラム転向。
 盛時には現代アフガニスタンの一部と中央アジアの他の部分を含んだ。
 14世紀の大内戦でバトゥとオルダの血統が滅亡し、アブルハイル・ハンのシャイバン朝はジョチの唯一の
正統継承者と自称し、ジョチの全ウルスの権利を主張、これにはシベリアとカザフスタンを含んだ。

 競争相手はトゥカ・ティムル朝でこれは側室(メルキト族)のジョチの13番目の息子トゥカ・ティムルの子孫を主張。
 トゥカ・ティムルはバトゥからマンギシュラク、ハジ・タルハンと北コーカサスのアセ(アラン系)地域を含むウルスを得た。
 1361年、トゥカ・ティムル朝のウルス・ハンはシルダリア・ウルスでハンとなり、以降、トゥカ・ティムル朝はまず東翼で、
ついで黄金オルダのハンを求めて統一のために戦った。
 トゥカ・ティムル朝はクリミア、カザン、アストラハン、カザフなどのハン国を築いた。
 (ブハラ・ハン国のジャニ朝もトゥカ・ティムル子孫。)

 シバン系は何度かジョチ・ウルスのハンを得たが、維持し続けられなかった。

 アブル・ハイル・ハン下(1428−1468)でバラバラなウズベク族を結合し始め、まずチュメン周辺とトゥラ川、ついで
シル・・ダリア地域を固めた。孫のムハンマド・シャイバン(1500−1510、シャイバン朝祖)はサマルカンド、ヘラート、
バルフとブハラを征服。子孫はブハラ・ハン国を1505−1598年に、ヒヴァ・ハン国を1511−1695年に支配。
 別系はシビル・ハン国を1563−1598年に支配。


(8−2) 大オルダ 1433−1502

 15世紀中期にカザン、クリミア・ハン国、ノガイ・オルダおよびその他の分裂した黄金オルダ(ジュチ・ウルス)の残余の
タタール・ハン国を言及する、中世資料及び現代歴史学の用語。(カザン・ハン国等が分裂していった以降の黄金オルダ(の残り)。)
 大オルダの同時代人はこれを黄金オルダと区別せず、ハンたちは自分を以前のジュチ・ウルスのすべてのタタール国の
最高支配者と考えた。
 大オルダの領域はドンとヴォルガの間の土地、下ヴォルガ地域、北コーカサス草原を含んだ。首都はサライ・ベルケ
 最初のハンはサイド・アフマド1世トクタミシュの孫。
 サイド・アフマドはハジ・ギライ(クリミア・ハン国)、ウル・ムハンマド(カザン・ハン国)とキチ・ムハンマドと争った。

 15世紀中期に大オルダは東欧政治で重要な役割を演じた。

 1455−1456年に大オルダはクリミアのハンのハジ1世ギライに敗北。1459年にアストラハンが大オルダから分かれ、
ハンのマフムド(1459−1465)は彼に反乱した兄弟から逃げ、独立アストラハン・ハン国を築いた。
 アフメド・ハン(1459−1481)の下で大オルダは若干強化され、ポーランドとリトアニア(1472)との提携が結ばれ、
オスマン帝国(1476)と友好関係が確立された。
 クリミア・ハン国(1474−1478)とモスクワ公国(1472と1480のウグラ河畔の対峙)への遠征が行われた。
 モスクワ遠征失敗後、アフメドは部隊を解散し、本拠で、シビル・ハンイバク率いる小部隊とムサヤムグルチ率いる
ノガイによって殺された。
 アフメドの息子達たちはすでに大した政治的影響力はなかった。アフメドの息子サイド・アフマド(2世)・ハンが1485年、
兄のムルタザ・ハンをサライから追い出した。彼はシビル(シビル・ハン国)に逃げ、2年後にイバクがサライを占領。
 1486年に、大オルダとクリミア・ハン国で戦争が勃発。ムルタズ・ハンはクリミア軍との戦いで死亡。
 大オルダはクリミア・ハンのメングリ1世・ギレイ(ギライ)に敗れた。大オルダがクリミアに従属。イバクがヴォルガ地域に
侵攻し、サライを占領。シビルでの反乱でイバクは殺された。サライではサイド・アフメド・ハンの息子シェイフ・アフメド
ハンとなった。1502年、クリミア・ハン国が大オルダを攻撃し、ヴォルガを占領。
 大オルダが終焉し、クリミア・ハン国は黄金オルダの権威を継承したと考えた。
 奥ヴォルガ(ザヴォルガ)の土地はノガイ・オルダの一部となり、ドンとヴォルガの間の土地は公式的にクリミアに渡ったが、
すぐに1556年、ロシア帝国に併合。

大オルダのハン
 サイド・アフマド(1世)・ハン(1435−1465):黄金オルダのハン、ケリムベルディの息子、トクタミシュの孫。
 クチュク(キチ)・ムハンマド
 マフムド:黄金オルダ最後のハンのクチュク・ムハンマドの息子、アストラハン・ハン国のハン(1459−1476)。
 アフメド(アフマト)・ハン(1465−1481):クチュク・ムハンマドの息子。
 サイド・アフマド2世(1481、1485−1487):アフメド・ハンの息子
 イバク(1481、1487、1491−1495):シビル・ハン(1468−1495)。ジョチの息子のシバンの子孫。
 ムルタザ・ハン(1481−1485、1487−1491):アフメド・ハンの年少の息子。
 メングリ1世ゲライ(1491):クリミア・ハン(1467、1469−1475、1478−1515):
  初代クリミア・ハンのハジ1世ゲライの第6子。
 シェイフ・アフメド・ハン(1495−1502):アフメド・ハンの息子。







<参考> タタ−ル国

 15−16世紀に黄金オルダ(1224−1483)の崩壊で形成された諸国。

 アク・オルダ(白オルダ)
  大オルダ(1433−1502):首都サライ・ベルケ
  カザン・ハン国(1438−1552):ウルグ・ムハンマド創建。
  アストラハン・ハン国(1459−1556):マフムド・ビン・クチュクまたはその息子カシム1世が創建。
  クリム(クリミア)・ハン国(1441−1783):ハジ1世ゲライが創建。
 コク・オルダ(青/藍オルダ)
  ノガイ・オルダ(1440−1634):エディゲイが創建。
  シビル・ハン国(1468−1598):タイブガが創建。
  カザフ・ハン国(1465−1847):バラク・ハンの息子、ジャニベクとケレイの兄弟。
  アブルハイル・ハン国(ウズベク・ハン国)(1428−1468):アブル・ハイル・ハンが創建。

 タタール国はまたロシアに従属するカシモフ・ハン国(1452−1681)とテムニコフ侯国(1388−17世紀初め)を含む。
 彼らはタタール人の主要グループを形成:タタール・ミシャリ、アストラハン、カザンとクリミア・タタール、シベリア・タタールと
ノガイ。

 アク(白)・オルダは歴史学的には合意はないが伝統的見解では、黄金オルダの西部分で、バトゥとその子孫の支配、ジョチの右翼。
 1360年代のバトゥ朝の終焉で、権威はバトゥの兄弟シバンの東のジョチ朝(青オルダ)に渡った。
 これと反対に白オルダはジョチ・ウルスの東部で青オルダは西部という説や、ジョチ・ウルスの東部だけが白と青に分かれるという
説もある。
 アク・オルダは2部分に分かれる:西(北黒海沿岸、クリミア、ドン地域)のクレムサ(オルダの息子)、ノガイの所有と、
東(ヴォルガ地域、北コーカサス)のバトゥベルケと他のジョチ家。バトゥとベルケのウルスはベルケの時代に統一。

 コク・オルダは黄金オルダ(ジョチ・ウルス)の東部または左翼で西シベリアとカザフスタン地域に位置する。
 西に従属し、バトゥの兄、オルダ・エジェンの子孫が支配。1360年代のバトゥ系の制圧で両部分は東のジョチ系に渡る。

*バトゥの息子:オルダ、バトゥ、ベルケ、シバン、テヴァル/ブヴァル(ノガイの祖父)、トゥカ・テムル



カシム・ハン(1511−1521)時代のカザフ・ハン国               1500年頃のカザン・ハン国



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