<<スウェーデンの左翼>>


〔スウェーデン左翼党〕 Vansterpartiet
 
 スウェーデン左翼党はスウェーデンの社会主義者とフェミニストの政党で1967年から1990年までは左翼党−共産主義者
VPKとして知られている。

 1917年、革命的熱狂がスウェーデンを飲み込んだ。反乱が多くの都市で起った。ヴェステルヴィックVastervikでは
労働者評議会が日常を支配した。ストックホルムではメー・デーで兵士が労働者と一緒に行進した。
 ストックホルム近隣上層地区のオステルマルムでは住民が起こりうる武装革命から防衛するため政府組織を形成した。
 社会民主党が分裂し、スウェーデン社会民主左翼党SSVが設立された。新党はゼト・ヘグルンドの指導下(1917−1924年)、
青年同盟が主に関わっていた。他にトゥーレ・ネルマンフレデリク・ストロムカール・リンドハーへンカール・キルボムらが参加。
 SSVは広い範囲の社会主義者の党で多くの左翼的傾向を含んでいた。
 1919年SSVは共産主義インターの創設メンバーとなった。党の少数の部分が抗議して離党した。
 1921年コミンテルンの21テーゼに応じて党名をスウェーデン共産党Sveriges Kommunistiska Parti SKPに変更した。
 自由派と非革命的部分は追放された。インヴァル・ヴェネルストロムカール・リンドハーへンらは社会民主左翼党SSVという
名で再結集し、1923年には社会民主党に合流している。
 17000名のうち6000名が追放された。
 1924年、主要な指導者のゼト・ヘグルンド、フレデリク・ストロムが分裂した。
 ヘグルンドはレーニン死後のモスクワの展開に不満だった。彼はコミンテルンから独立した共産党SKPを結成した。
 SKPの約5000名の党員が彼に従った。1926年、ヘグルンドのSKPは社会民主党に合流した。
 1926年1月、SKPは8万人の労働者を代表する代表団と労働組合協議会を組織した。
 1927年、SKPは失業者国民連合の協議会を組織し失業者委員会AKの廃止を要求した。
 1929年、党史で最大の分裂が起った。すべての国会議員と党員の多数派がコミンテルンによって追放された。
 追放者はKilbommare(キルボム派)と呼ばれコミンテルンに忠実なものはSillenare(フーゴ・シレン派)と呼ばれた。
 17300名の党員のうち4000名がシレンとコミンテルン側についた。
 党の資産をめぐる抗争が起った。キルボム派はSKPの名で行動し続けた。
 カール・キルボムKarl Kilbomニルス・フリグ(1924−1929年指導者)らが参加。
 かれらは1934年、社会党Socialistiska partietと党名を変更した。
 シレン派の主導権で党は階級対階級路線に固執し、社会民主党とのいかなる協力も拒否した。
 行動的な若い指導者のスヴェン・リンデロットが議長となった。(1929−1951年)
 1931年、非武装デモ労働者への恥ずべきオダレン銃撃が起った。
 この展開が労働者の戦闘性を上昇させ、危機に悩まされたSKPに新しい境地をもたらした。
 1936年スペイン内戦が始まり、SKPとその青年ウイングはかなりの派遣団を国際義勇軍として戦うために送った。
 約500人のスウェーデン人が義勇軍に参加し大部分は共産主義者だった。3分の1は決してスウェーデンには戻らなかった。
 スウェーデンでは自発的にスペイン共和国とスペイン人民に対し強い連帯が組織された。
 1930年代に党は再建され、キルボム派は消え去った。党の基礎は拡大した。
 1939年まで党は19116名の党員を持った。
 1939―1945年の第二次世界大戦は党にとって困難な時期であった。
 フィンランド冬戦争ではスウェーデンでソ連を支持した唯一の政治勢力であった。
 ソ連の西部国境での軍事的拡張をその地域の帝国主義への従属からの解放の戦いとして支持した。
 更に党はモロトフーリベントロップ協定を支持した。
 1940年4月、ドイツがノルウェーを侵略したとき、SKPは中立的立場をとった。
 引き続くストックホルムのドイツ公使館の命令に際し、スウェーデン政府により党に対し、いくつかの抑圧的手段がとられた。
 出版物は禁止された。党と青年同盟の主要幹部は公式的には軍役としてキャンプに抑留された。
 3500名が抑留され大部分は共産主義者であった。
 議長を含め大部分の活動家は地下に潜った。
 党に対する完全な禁止が政府周辺で議論されたが決して実行されなかった。
 1940年、党の地域機関の事務所が爆撃され、2名の子供を含む5人の人々が殺された。
 これはスウェーデン現代史での最も血塗られたテロリズムのひとつである。
 攻撃の背後にいた犯罪者の一人のポウル・フレットリンドはストックホルムの自由党の地域指導者であった。
 戦争の間中、スウェーデン史上最大の警察活動が党に対し起こされたが犯罪活動の証拠は見出されなかった。
 党は積極的にノルウェーとデンマークでのレジスタンス闘争を支援した。
 北スウェーデンではノルウェーのレジスタンスと協力し、また反ファシストの避難民の救援を行った。
 ドイツの軍事的後退により党はスウェーデン政治において強固な地位を再獲得した。
 1944年の議会選挙でSKPは10.3%を得た。(318446票、15議席)
 1945年、SKPに指導され国民的規模の金属労働者のストが起った。
 1946年の地方選挙でSKPは11.6%を得た。党員は歴史的ピークの51、000人に達した。
 ソ連の新政策の平和共存路線とこれらの展開で党はスウェーデン政治への再適応を取り始めた。
 選挙での勝利で議会主義の枠内で権力獲得できるという予想が強められた。そのうえ党内の議論で社会民主党との統一戦線
という考えが基盤を獲得した。党の労働組合政策は労働組合運動内での社会民主主義者に対して衝突の少ないものに変化した。
 このような変化に党員の間には抵抗もあった。
 しかし冷戦が党を困難に陥れた。戦後数年の選挙での勝利は長続きしなかった。
 首相のタゲ・エルランデルはすべての労働組合を共産主義との戦場にするつもりだと宣言した。
 共産主義者は労働組合運動から追放された。しかし党は統一戦線戦術の展開を継続した。
 セット・ペルソンニルス・ホルムベーリが新路線反対派の中心となった。
 1948年の選挙は244826票、6.3%、8議席。
 1952年は164194票、4.3%、5議席。
 1952年の補欠選挙で党は社会民主主義者を当選させるため候補者名簿を引っ込める決定をした。
 しかし党内の少数左派は新路線を社会民主党への降伏と見た。
 青年同盟には他の争点があった。
 フィンランドでの同様な展開をみて党は広範囲な青年運動の創設に着手した。
 1952年、すでにある青年共産主義同盟と並行して民主青年同盟が広範囲な青年運動として創設された。
 強硬派はこれを青年同盟の政治的性格を薄めるものと見た。
 争点の重要な象徴はメーデーを社会民主主義者と一緒に行うことの推進の決定であった。
 もうひとつの争点は社会民主主義者の手にある労働者出版に財政支援を行うことであった。
 1951年、ヒルディング・ハグベーリが議長に選出された。ハグベーリは外交ではソ連に忠実で内政では社会民主主義者
に接近した。党内論争は1953年の党会議でそのピークに達した。
 少数左派は激しい批判を行い、新議長を日和見と汚名を着せた。それに対しても激しい反批判がなされ、最終的に一部の
少数左派(セット・ペルソンら)は追放された。ニルス・ホルムベーリペルソンを批判した。

 スターリンの死に際しては党は追悼行事を組織し、C.H.ヘルマンソンが弔辞を述べた。
 1956年、ハンガリー動乱が勃発した際は、どのような立場をとるべきかについて党内に論争が巻き起こり、結局、指導部はソ連の
公式路線支持を選んだ。
 1956年、セット・ペルソン が共産主義労働同盟 Sveriges Kommunistiska Arbetarforbundを設立した。
 1956年選挙、194016票、5.0%、6議席。1958年、129319票、3.4%、5議席。
 1960年、190560票、4,5%、5議席。1964年、221746票、5.2%、3議席。
 1960年代、フルシチョフのスターリン批判と、ハンガリー反乱のあと、党の変革を求める若いC.H.ヘルマンソンラルス・ヴェルネル
キエル・ヨハンソンらが行動し始めた。
 1964年、C.H.ヘルマンソンが議長に選出された。ヘルマンソンは以前の指導者と異なり大学の研究者であった。
 ヘルマンソンは党の政治的方向をユーロコミュニズムスカンジナヴィア人民社会主義の方向へ変化させ始めた。
 スカンジナヴィアの人民社会主義は1956年のデンマーク共産党からのアクセル・ラルセンの分裂に起源し、ラルセンは
社会主義人民党を結成し共産主義と社会民主主義の間に党を位置づけた。ノルウェーの社会主義人民党は反NATO、反EECによる
ノルウェー労働党からの分裂によって結成された。
 1967年の党会議の前に過熱した論争が起った。いくつかの異なった傾向が存在した。
 ある集団は党をデンマークのSF路線の非共産主義者の党に変えることを望み、党名を左翼党に変えるべきだと提案した。
 労働組合の党の幹部を主とする集団は党の共産主義者の性格の維持をとソ連共産党との兄弟的関係を望んだ。
 前の党の指導者の親ソ派と関係があるヒルディング・ハグベーリは妥協案として労働党を提案しようとした。
 党の指導者は別の妥協案をだし党名を左翼共産党(左翼党−共産主義者)VPKVansterpartiet Kommunisternaに変えた。
 党機関紙Norrskensflamman周辺の騒々しい親ソ派少数集団とともにVPKはユーロコミュニズム路線を継続した。
 更にボ・グスタフソンニルス・ホルムベーリらに率いられる親中国集団があり、彼らは離党してマルクス・レーニン主義共産主義
同盟KFML Kommunistiska Forbundet Marxist-Leninisternaを結成した。
 青年集団は離党してマルクス・レーニン主義闘争同盟MLK Marxist-Leninistiska Kampforbundetを結成した。
 1968年、VPKはソ連のチェコスロヴァキア介入を公式に批判した最初のスウェーデンの政党であった。
 党はストックホルムのソ連大使館の周辺でデモを組織し、ヘルマンソンが演説した。
 ソ連による侵略の不承認は西側の共産党では例外であった。党のチェコスロヴァキアに関する路線について親ソ派はいらだった。
 1968年の地方選挙はVPKは3.8%と戦後時期の選挙で最低の結果であった。
 活動的青年及び学生集団の欠如のため党は青年急進主義の国際的波を利用できなかった。
 米国のベトナム戦争にたいする抗議の開始にはVPKはスウェーデン―ベトナム委員会を創った。
 委員会はベトナムに平和をという要求を掲げ、この問題に対する全党団結を訴えた。
 委員会はすぐに統一FNLグループ (DFFG)De forenade FNL-gruppernaに乗っ取られ、組織はKFMLに率いられた。
 KFMLは積極的に南ベトナム民族解放戦線FNL.の武装闘争を支持した。
 VPKはスウェーデン―ベトナム委員会から去り、多くのメンバーがDFFGの活動家になった。
 1972年、新党綱領の採用でより左翼的立場へ移行した。
 党の重要部門で新レーニン主義傾向が現れた。
 1970年選挙、236659票、4.8%、17議席。1976年、258432票、4.7%、17議席。
 1975年、ラルス・ヴェルネルが議長に選ばれた。対抗候補は親ソ派のロルフ・ハーゲルであった。
 ヴェルネル162票、ハーゲル74票であった。
 1977年2月、親ソ少数派は離党し、労働者党共産主義者Arbetarpartiet KommunisternaAPKを設立した。労働者党共産主義者は
機関紙Norrskensflammanを取り、国会議員2名(ロルフ・ハーゲルとアルフ・ローゲンボール)を引き連れて行った。
 1500〜2000のVKPメンバーがAPKに参加した。
 1978年の党会議で党部門は民主宣言の採用を提案した。
 提案された宣言には東欧の人権状況を批判する文章が含まれていた。
 友党代表団として会議に出席していたソ連共産党の代表団は公式の苦情を申し立て会議から退場すると脅した。
 結局、宣言は会議では採択されなかった。
 1979年、305420票、5.6%、20議席。1982年、308899票、5.6%、20議席。
 1980年、VPKは原子力に関する国民投票で積極的に反対運動を行った。
 1985年、298419票、5.4%、19議席。1988年、314031票、5.8%、21議席。
 1990年、党名を左翼党に変更。
 1991年、246905票、4.5%、16議席。1994年、342988票、6.2%、22議席。
 1993年、ヴェルネルが退任し、グドルン・シッマンが議長に選ばれた。
 1994年、議会選挙で党は6.2%を獲得した。長引いた党の選挙危機はこのようにして終わった。
 戦後、党は何回かの危機を除きほぼ5%前後の得票を得ていた。
 党の影響力はとりわけ若者の間で拡大し始めた。同じ年のEU参加の国民投票で積極的に反対運動を行った。
 厳しい危機の時代を切り抜け、党は1990年代中期に公衆の支持を再獲得し始めた。
 振り返ってみるとこの推移は党自体によってではなく、かなり先立つ数年での社会民主党の右傾化の事実により引き起こされた
ものである。
 1996年、党はフェミニストを宣言した。
 1998年の議会選挙で党はそれまでの最高の12.0%(631011票、43議席)を獲得した。
 引き続き社会民主党と協定に入り、閣外支援を始めた。
 1991年のソ連崩壊で社会主義、フェミニズム、環境主義を標榜する革新派が発生し、2000年代初期伝統主義者と闘争を行い
敗北し2004年、左翼路線選択ヨハン・ロンロートカリン・スヴェンソン・スミスダン・ガンストロムら、2009年休眠状態、社民、リベラル、
緑、社会党などからも参加)を結成し、党指導部を批判。
 2005年ヨハン・ロンロートは左翼民主Vansterdemokraterna(2004年グネストで左翼党から分裂)に参加したが党に残留、他は緑党
カリン・スヴェンソン・スミス)などに参加。
 左翼民主は2006年全国規模政党化(マルゴ・インヴァルドソン代弁者、他に前社民党のマルガレタ・ペルソン)したが2009年に休眠状態。
 2002年の議会選挙では投票割り当ては8.3%(444854票、30議席)に低下し、低下分を社会民主党が得た。
 2003年、税金不正でシッマンが退任し、ウッラ・ホフマンが暫定指導者になった。
 2004年、ラルス・オーリが議長に選ばれた。年末にはシッマンが離党し、議会で無所属となった。
 ラルス・オーリは初め共産主義者を自称したが後に撤回した。
 同年TVで戦後の党の国際関係に関するドキュメンタリー放送がなされた。これにより再び党と以前の社会主義陣営の支配政党
との関係に関する議論が巻き起こった。
 2006年1月党会議で革新派再び敗北。
 2006年7月、新聞が以前の大物スパイStig Berglingが党に加わったことを暴露した。
 2006年9月の選挙で党は324722票、5.8%を獲得した。(22議席、349議席中)
 1998年から2006年まで左翼党は政権の社会民主党と緑と協定を結び、2006年まで社会民主党の少数政権を支持した。
 2008年社会民主党、緑党と提携してスウェーデン連合の連立政権反対派の赤・緑連合を結成。
 2009年EU選は5.66%と2004年の12.79%から大幅低下。
 2010年選挙は5.60%、19議席。
 2012年ヨナス・スヨステッドが議長となる。(スヨステッド179票対ロッサナ・ディナマルカ39票)
 スヨステッドは2006−2010年までニューヨーク在住でUSA社会党メンバーとなる。
 2014年EU選は6.3%、1議席。
 2014年選挙は5.7%、21議席。
 2018年選挙は8.0%、28議席。

 左翼党は北欧緑左翼連合のメンバーである。

 以上のように1921年に共産党と名前を変えるのをこばんだグループは追放され社会民主左翼党SSVを形成し1923年、
社会民主党に合流した。
 1924年にはコミンテルンの方針に賛同しないゼニス・ヘグルンドのグループが離党し共産党を結成し、1926年には社会民主党
に合流している。
 1929年にはコミンテルンによって党の多数派が追放されカール・キルボムKarl Kilbomらが社会党を結成している。
 これは1948年には崩壊している。
 1956年にはセット・ペルソンが共産主義労働同盟Sveriges Kommunistiska Arbetarforbundを設立した。
 1967年には親中国派がマルクス・レーニン主義共産主義同盟KFML.を形成した。
 1977年に親ソ派は労働者党共産主義者APKを設立した。

・ゼト・ヘグルンド Zeth Hoglund(1884−1956)
 ゼト・ヘグルンドはヨーテボリの下中流家庭で育った。父は事業を行っていた。
 高等学校の頃から社会主義者を目指し、マルクス、ラッサールW・リープクネヒト、
アクセル・ダニエルソン(1863−1889、初期の社民党指導者、共産党宣言をスウェーデン語翻訳)、
ヤルマール・ブランティングの本やニーチェやストリンドベリの本を読む。
 1902年、学校を終え、自由派の新聞の見習いとなる。その倒産でヨーテボリ大学で歴史、政治学、
文学を学ぶ。
 ここで年長のフレデリック・ストロムと出会い終生の友情を持つ。
 1903年夏、2人はパリに行き、クリスマスに戻る。
 1904年、ヘグルンドは社民党に参加し、青年運動の指導者となる。                             右から2人目コロンタイ、その左隣ヘグルンド
 1905年、ヘグルンドはノルウェーの自決権と独立を支持、スウェーデン労働者はノルウェー               (1917年ペトログラード)
との戦争を強制されたら、その武器でスウェーデンの支配階級と戦うだろうと書いた。
 戦争は回避されたが反戦扇動により6ヶ月の投獄に会う。
 これにより彼はK.リープクネヒトやレーニンより賛辞を受ける。
 1912年、ヘグルンドはヤルマール・ブランティング、トューレ・ネルマンTure Nermanらとバルカン戦争勃発によるバーゼルの
社会主義インター会議に出席。
 このあとヘグルンドはフレドリック・ストロムハンネス・スコルドとともに反軍国主義宣言を書き、”スウェーデンは武装要塞であり
貧者の家”であると批判、”軍国主義に1クローネ、1オーレたりともやるな”をスローガンとする。
 これはブルジョア政治家とメディアから軽蔑された。
 1914年、下院議員となる。国会で社会主義のため演説し、資本主義、戦争、スウェーデン君主制を批判し、ブランティングを刺激
する。若い社会主義者はヘグルンドを真の指導者と見なし始める。
 1914年、第一次大戦勃発、ヘグルンドはネルマンとともにツィンメルヴァルト会議のノルウェー・メンバーとなる。
 ここで、レーニン、ジノビエフカール・ラディック、トロツキーと会いロシア・ボルシェビキに親近感を感じる。
 スウェーデンは参戦しなかったがヘグルンドは王国への裏切りにより再び投獄される。
 1917年4月、2月革命のあと、レーニンたちはスイスから追放されストックホルムを通ってロシアへ戻る途中、オット・グリムルンド
ネルマン、ストロム、カール・リンドハーヘンらと会い、ついで獄中のヘグルンドと会おうとしたが会えなかったので、友情の電報
を送った。
 1917年、ヘグルンドと左派は社民党から追放され社会民主左翼党を結成。
 1916年、左翼社会主義者たちは彼らの新聞Politikenを発行し、それにはレーニン、ジノビエフ、ブハーリン、ラディックらの文章
を載せた。
 戦争の間中、ラデックとブハーリンはスウェーデンで時を過ごしスウェーデン左翼社会主義者の発展に大きい影響を与えた。
 1917年、ヘグルンドとストロムはボルシェビキと会うためペトログラードへ旅した。そこでレーニンと会った。
 新年のソビエト・ロシア訪問の国際グループの1つとしてスウェーデンの派遣団にヘグルンドとグリムンド、リンドハーヘンが参加した。
 ヘグルンドとリンドハーヘンはペトルグラードの大衆の前で演説し、スカンジナビア経験の長い、コロンタイが通訳した。
 ヘグルンドは1918年の春までとどまり、国中を旅し、ボルシェビキの指導者と一緒に働いた。
 帰国の途中、内戦中(whiteの勝利に終わる)のフィンランドでRedsを訪れた。
 1919年3月、共産主義インター(コミンテルン)が創設され、グリムンドがスウェーデン左翼社会主義者を代表した。ヘグルンドは
仲間に党のコミンテルン参加を説得した。1920年の会議はカタ・ダルストロームKata Dalstromがスウェーデン共産主義者を代表した。
 1921年夏の3回会議では、ヘグルンド、ストロム、ヒンケ・ベルヘグレンが代表となった。
 ヘグルンドは党名変更を含め21条件をスウェーデンの党が受け入れるように必死に働いた。
 21テーゼを受け入れなかったあるものは離党し、リンドハーヘンを含むあるものは追放された。
 1922年、彼はコミンテルン執行委員に選ばれたが、1924年コミンテルンに政策の発展に関し、不同意し、スウェーデン共産党
から分裂し、彼自身の共産党を結成した。彼はコミンテルンの新方針でモスクワからの直接支配が強すぎると考えた。
 1926年、彼は社民党に再加入し、そこで急進左派の部分となった。彼は1956年の死まで自分を共産主義者と見なし、レーニンと
トロツキーの元来の思想を守り、スターリンに反対した。
 彼は1940−1950年までストックホルムの市長を務めた。

・スヴェン・リンデロ−ト Sven Linderot(1889−1956)
 1914年社会民主党活動家となり、1917年分裂してSSV結成に加わり、1921年、共産党に党名変更。
 1921年、レンデロートはコミンテルンで働くためモスクワに行く。
 1929年の分裂でフゴ・シレンとともに親ソ派として現れ、1929〜1951年まで指導者となる。
 1939〜1949年の間、下院議員。

・ヒルディング・ハグベルグ Hilding Hagberg(1899−1993)
 鉱山労働者として共産党に加盟。1930〜1935まで共産主義者の新聞Norrskensflamman 編集者。
 1943〜1964まで党機関紙Ny Dag(新しい日)編集者。
 1933〜1964年の間、下院議員。1951〜19864年の間、指導者として親ソ路線を維持した。

・C.H.ヘルマンソン Carl-Henrik Hermansson
 1917年生まれ。1964〜1975年までの左翼共産党指導者。
 1967年、左翼共産党に党名変更。
 1963〜1985年まで国会議員。多くの著作を著し、また妻の財産により裕福であった。

・ラルス・ヴェルネル Lars Werner
 1935年生まれ。建築労働者出身。1975〜1993年までの左翼共産党指導者。
 1990年、党名を左翼党に変更。1965〜1993年まで国会議員。

・グドルン・シッマン Gudrun Schyman
 1948年生まれ。1993〜2003年までの左翼党指導者。
 彼女の時期に左翼党はフェミニズムを採用した。
 彼女は党勢向上に大きな寄与をした。税金詐欺問題で退任。
 彼女は最初、マルクス・レーニン主義闘争連盟MLK(毛派)のメンバーであった。
 2004年に離党し、2005年、フェミニズム・イニシアチブの設立に参加。

・ラルス・オーリ Lars Ohly
 1957年生まれ。父は聖職者。2004年2月からの左翼党指導者。
 ギムナジウムを終えて、1978年国鉄で働き始める。
 1970年、自由青年同盟に加盟。1978年、共産主義者ユースに加盟。1979年、左翼党に加盟。
 1994〜2000年まで党書記。1998年から国会議員。

テューレ・ネルマン(1886−1969)
・カタ(カタリナ)・ダルストロームKata Dalstrom(1858−1923)
 1893年、社民党参加。1900年、最初の女性党執行委員に選ばれる。
 1917年の分裂で左翼に参加。
 カタはキリスト教に対する寛容さを求めキリスト教は社会主義と完全に提携できると考えた。
 この見解は無神論者のネルマンにより批判された。ネルマンは宗教の自由を支持したが、共産主義政治家はマルクス主義を
理解するため無神論者たるべきであると考えた。
 晩年。彼女は仏教徒となった。
カール・キルボム(1885−1961)
セット・ペルソン(1897−1960)


(スウェーデン社会党) Socialistiska partiet
 1929年、カール・キルボムKarl Kilbomニルス・フリッグらにより共産党から分裂、当初は同じ党名を名乗っていた。
 このグループはキルボマーレとして知られている。この党は議会派閥と活動家では完全に上回っていた。
 1934年、キルボムの党はヨーテボリに基礎を置くアルビン・ストロムらの社民党分裂グループと一緒になりスウェーデン社会党
と党名変更。
 彼ら党は当初コミンテルン復帰を求めていたが、この党名変更は対コミンテルン路線の変更をもたらして行く。
 党は徐々に崩壊していき、キルボムをはじめとする著名な指導者は1937年、離党する。
 フリッグが指導者となる。
 第二次大戦中、彼らの頑固な反ソ路線は親ナチ路線に変質して行き、多くのメンバーが離党していった。
 この結果1940年、ストロムらが分裂し左翼社会党を結成する。
 戦争の最終段階まで親ナチへの変身は完成せず、スウェーデン社会党と名を変えナチグループと選挙協力をを始める。
 1943年、フリッグが死亡する。ドイツの敗戦に引き続き1948年、党は崩壊する。
 地域単位の党は社会主義労働者コミューンとして知られる。
 1932年の国会選挙では5.3%、1936年は4,4%、1940年は0.7%を得ている。
 国際的には最初、国際共産主義反対派に関係し後、国際革命的マルクス主義センター(ロンドン・ビュロー)に関係した。

(左翼社会党Vanstersocialistiska Partiet VSP) 1940−1963年
 1940年、アルビン・ストロムらが社会党から分裂して結成。
 ヨーテボリのストロム周辺の集団になる。
 戦争中は政府の迫害を受けながら、機関紙”労働者ポスト”をほそぼそと発行。
 1963年、ストロムが死亡し解散。
 1945年、エヴァルド・ヘグルンドとアントン・ニルソンらが党は親西側陣営の方向に滑り込んだとして分裂。
 ヘグルンドは独立労働党を結成。 

(スウェーデン共産主義労働同盟Sveriges Kommunistiska ArbetarforbundSKA)
 1956年に強硬なスターリニスト派によって形成された。
 彼らは1950年代にスウェーデン共産党SKPを離党あるいは追放されている。
 この集団は初期はマルクス主義者サークルを結成し、SKPの活動家たちが秘密に参加していた。
 この集団は1953年にSKPを離党したセット・ペルソンによって率いられていた。
 SKAはスターリンを擁護し、フルシチョフ下の新ソ連体制をポピュラリズムと批判した。
 この集団は東側陣営の人権状況に対し批判もしている。
 1960年にペルソンは死亡し、ほとんどのメンバーは消え去ったが1967年まで一応、党は存在。

〔共産党APK(親ソ派)〕
 左翼共産党内の正統的親ソ派集団であるFlamman(炎) グループはヘルマンソンが指導者となり、党がモスクワと距離をとり始めた
ときに出現した。このグループは党機関紙Norrskensflamman(北の炎)に集まった。
 1975年、ヘルマンソンが指導者を滑り落ちたとき、炎派はロルフ・ハーゲルを候補として党の指導権をラルス・ヴェルネルと争い
162対74で敗北した。同年炎派シンパは党の青年連盟の共産主義ユースから追放された。
 1977年、グループは分裂し共産主義労働者党(労働者党−共産主義)APKを形成した。
 創立会議には多くの外国派遣団が参加した。とりわけソ連共産党から強い精神的支持を得た。
 多くの地域で全VPK党単位がAPKに参加した。(25%あるいは10〜15%)
 多くはAPKに参加したのはVPKの労働組合幹部であった。ハーゲルら国会議員2名が指導権を分け合った。
 APKはしかし選挙戦を突破できず、徐々に党は後退していった。
 ソ連崩壊は党に否定的衝撃を与えた。多くのメンバーが離党あるは左翼党に再加盟した。
 1995年、APKは政党として始めて当局により金融的破産を宣言された。
 ハーゲルの周辺はスウェーデン共産党Sveriges Kommunistiska Partiを再建した。党は選挙には共産主義者という名で参加している。
 グン・イサクソンが2006年からの指導者。


(マルクス・レーニン主義共産主義同盟(共産主義同盟−マルクス・レーニン主義)KFML
 1967年、左翼共産党VPKから親中派(毛派)が離党して結成。(ボ・グスタフソンニルス・ホルムベーリら)
 1960年代および1970年代に出現したスウェーデンの多くの新左翼集団のさきがけ。
 KFMLはベトナム人民との大衆連帯活動で重要な役割を果たした。
 統一FNLグループはアメリカのベトナム撤退とベトナム人民支援のための統一組織として1967年に結成されたがやがて
KFMLが主導権を握った。
 1970年、ヨーテボリに基礎を置く左派は分裂しKFML(r).を形成した。
 1973年、KFMLはスウェーデン共産党SKPを名乗った。
 1976年ボ・グスタフソン(ウプサラ大歴史教授)ら幾人かの指導者は右翼偏向とされた。
 ベトナム戦争終了と文化大革命の敗北でボ・グスタフソンらは1970年代後半社会民主主義に移った。
 1980年、SKPは中国問題に関して批判的なグループを追放した。
 追放されたグループは新党スウェーデン共産党(マルクス・レーニン主義)を結成した。
 (後にスウェーデン共産主義労働者党Sveriges Kommunistiska Arbetarpartiと改名、1993年解散)
 1980年代はSKPの危機の時代であった。
 小平の中国、カンボジア・ベトナム戦争などで分裂した。
 1982年から国会議員選挙で社民党を支持した。
 指導者や基礎的活動家を含めて多くのメンバーが離党した。党は毛沢東主義から離れ始めた。
 1986年、連帯党と改名し、非共産主義綱領を採用した。党名は彼らが支持したワルサのポーランドの連帯運動に鼓舞された
ものだろう。
 1988年の総選挙では地域的にVPKなどと協力関係をとった。
 1990年までに党は全国的党としての機能を失った。

青年左翼(VUF)〕
 左翼党の青年組織。1967年極左(毛派、1970年マルクス・レーニン主義闘争同盟MLKとなる)に乗っ取られる(FK)。
 1970年共産主義青年同盟KUとして再建。

(マルクス・レーニン主義闘争同盟Marxist-Leninistiska Kampforbundet (MLK)(親中派)) 
 左翼青年同盟VUF(左翼共産党VPKの青年組織)の毛派が1972年に形成。
 VUFには1960年代、VUFを毛派にしようとする新左翼潮流がいくつか起こった。
 1968年、VUFはVPKと衝突し、1970年、MLKが形成された。
 MLKはKFML(SKP)と思想的に近く、選挙ではKFML(SKP)を支持した。
 1972年、アンデルス・カールベーリ(後社民となる)のグループが分裂し同盟共産主義者結成、1970年代の荒れるストライキで
評議会社会主義の傾向をとり、トロツキズムや毛沢東主義と無関係になり、更に反原発運動にかかわり改良主義化し多くは社民党
やVPKに参加し1982年解散。
 MLKはセット・ペルソンの名をとった書店を4つ持っている。
 1981年、MLKは赤い青年(もともとはSKP:毛派)と再統合した。
 グドルン・シッマンヨラン・スキョッテミカエル・ヴィーへとキャバレー・オーケストラ結成)がこの組織のメンバーであった。
   赤い青年

〔マルクス・レーニン主義同盟(革命派)KFML(r).〕
 1970−1977年までマルクス・レーニン主義共産主義同盟、1977−2004年までスウェーデン共産党マルクス・レーニン主義
(革命派)を名乗る。1977年、スウェーデン共産主義労働者同盟が分裂。
 2005年共産党Kommunistiska Partietと改名。いくつかの市で議員確保。

(共産党Kommunistiska Partiet i Sverige (KPS).(親アルバニア派))
 KFML(毛派共産党)から分裂した親アルバニア派等により1982年結成される。
 VPK、APK(親ソ派)、KFML(r)等を修正主義と見なし、共産主義者は米国とソ連の両方とたたかうべきだと主張。
 KPSはやがて徐々にアルバニアから距離をとり始める。
 1989年KPSは大きな分裂に悩み、主要な部分が離党。1993年に解散。


スウェーデンのトロツキスト> WIKI スウェーデン語によるトロツキズム

 第4インターの社会党、第5インター同盟労働者の力労働者インター委員会社会主義正義党国際マルクス主義傾向
社会主義者などが存在。

 戦前はアメリカ帰りのペトルス・カールソンがトロツキズムを導入しようとしたが成功しなかった。
 これは共産党と社会民主主義者の中間のキルボムとフリッグの社会党が存在したことにも起因する。
 共産党はフリッグをトロツキストと批判したが彼はトロツキズム運動と組織的接触をしたことはない。
 しかし社会党の中から第2次大戦後トロツキズム運動が出現した。
 1940年左翼社会党が結成され、このグループからおもにストックホルムのメンバーが第4インターに接触し、1949年第4インター
支部となる革命的社会党が結成された。

革命的社会党(トロツキスト))
 1945年、エヴァルド・ヘグルンドとアントン・ニルソンらが左翼社会党VSPは親西側陣営の方向に滑り込んだとして分裂。 
 1949年、革命的社会主義者RSとして再建。スウェーデン最初の第4インター支部となる。翌年革命的社会党RSPとなる。
 間もなく第4インターはRSPに社会民主党SAPへの加入戦術を指示し、メンバーはこれに反対し、1953年解散。

社会党(トロツキスト)〕
 トロツキスト組織は1969年、革命的マルクス主義者として再組織。
 現SPは革命的マルクス主義者同盟RMFに起源がある。
 RMFは1969年、革命的マルクス主義者とクラルテ・グループ結成のボルシェビキ・グループが統合してできた。
 RMFは1975年、共産主義労働者同盟KAFと名を変え、1982年、社会党と名を変えた。 
 1980年ボルシェビキ派が追放され社会主義同盟SF結成。
 国会選挙では1985年に最高の16247票を得ている。

 1989年追放されたグループが共産主義者同盟結成。これはアメリカのSWPの兄弟組織。
 1990年初期に小分裂があり開拓者潮流が形成された。
 1994年には小グループが第4インターの労働者の力第5インター同盟派)として分裂した。これに1996年社会主義正義党から
分裂したマルクス主義左翼が1988年参加。2001年労働者の力から社会主義選択Socialistiskt Alternativが分裂しこのグループは
左翼党や社会民主主義に関係する。

社会主義同盟SF)
 トロツキスト組織。1979年、共産主義労働者同盟KAFからボルシェビキ派が追放されて結成。
 第4インター統一書記局内のボルシェビキ派は1976年のボルシェビキ潮流の拡大として1978年に形成。
 SFはナウエル・モレノの国際労働者同盟の支部。
 1982年、SFに綱領潮流PTが参加、PTはKAF内分派として存在し、SFに参加するため離脱。
 PTはSF内の分派として存在。1985年一部はマルムベリエット労働者協会MAF結成し地方選挙に乗り出し、1988年国際グループ
連帯党(旧KFML)と統一社会主義者結成、1990年労働者名簿に参加し解散。
 PTは少数派を排除しSFを支配。
 排除されたの少数派は分裂したが1987年革命的社会主義者として再統合。
 革命的社会主義者は1990年労働者名簿参加、このの失敗で消滅。
 1988年の選挙ではSFはSPを支持しようとしたが、PTは社民党支持を提案し分裂して国際グループ結成。
 1990年、SFは労働者名簿Arbetarlistanに融合するがこの企てが失敗し、1993年、労働者名簿−選択を結成、
1994年、SPに再参加。

社会主義正義党
 1997年形成。トロツキスト。労働者インター委員会の支部。”労働者同盟−攻撃”から発展。指導者はペルオケ・ヴェステルルンド
 攻撃グループは1970−1980年代の社民党(と社会民主青年同盟)への加入戦術を行ったグループから発展。
 1992年社会主義グループが追放される。これはゼト・ヘグルンドの娘のグンヒルド・ヘグルンド(2007年死亡)が支持を
与えていた。
 社会主義正義党は2006年の選挙で1097票。地方議会に数議席確保。
 2009年欧州議会選挙は社会党と労働者イニシアチブとして独立候補擁立、2862票。
 2010年選挙は1057票。
 2010年選挙の前にヴェステルボッテン(地区)派が分裂、労働者党結成。


(人民社会主義者Folkdemokraterna
 1990年ストックホルムで労働者名簿Arbetarlistanとして結成。党は緩い組織で労働運動の種々の組織から参加。
 党の老練の多くは毛派SKP(ラルス・アロンセン、キエル・エリクソン、ヨルゲン・ラルソンら)、あるいはトロツキストの社会主義同盟
から来たが、メンバーの多くは社会民主党から来た。選挙の前に分裂し1991年選挙では0.1%。
 1990年代に人民社会主義者と名称変更。


〔スウェーデン・アナルコ・サンディカリズム青年連合SUF
 1993年設立。

フェミニスト・イニシアチブ
 2005年グドルン・シッマンティーナ・ロセンベーリソフィア・カールソンモニカ・アマンテスサンネ・リンデらが結成。
 グドルン・シッマンデヴリム・マヴィソフィア・カールソンが代弁者(スポークスパーソン)となる。ティーナ・ロセンベーリ
(クイアQueer Feminist)、エッバ・ヴィット・ブラットストロム(極左的と批判)、スサンネ・リンデ(元リベラル人民党)らと内部分裂発生。
 2006年選挙は0.7%獲得。2006年リベラル人民党からEU議員マリア・ロブサームが移ってくる。
 2009年EU議会選挙では2.2%獲得。2010年選挙は0.4%。
 2014年EU選で5.3%、ソラヤ・ポスト(母親はロマ)が議席獲得。
 2014年選挙は3.1%。


(プロッグProgg
 1960年代末のスウェーデンに根源をもつ左翼、反商業主義音楽運動。progressive musicの省略。
 一つジャンルではなく幅広い分野からなっており、ロシア民謡、レゲエ、シンガー・ソングライターや政治的歌詞を演ずるものもあった。
 1970年夏に頂点に達した。1970年代末に斜陽し始めた。
 グディブラランは恥よ社民を歌い、KPMLやSKPは各自のレコード会社をもって参加。
 統一FNLグループは強く南ベトナム民族解放戦線を支持。
 クヌトナ・ナヴァルは共産主義フォークバンド、ロダ・カペレットは共産主義左翼党VPKや共産主義青年同盟KUとむすびついていた。

 テント計画は1977年に国中を大サーカステントで実行された巨大な劇場パフォーマンスでナツィオナルテアテルンが有名。
 これは非常に急進的で種々のアナーキスト、共産主義者、社会主義者からなっていた。

 ビヨルン・アフツェリウスミカエル・ヴィーへトッタ・ナスルンドペップス・ペルソンらは継続して演奏を続け、1990年代には
トラッド、グラスとステナルサマラ・マンマス・マンアなどは再評価され始めた。ナツィオナルテアテルンはずっとツアーを続けている。
 ミカエル・ヴィーへ →ビクトル・ハラ

クラルテ(1960年代))
 1960年代急進的なクラルテ・グループが共産主義者組織を自称。
 1960年代末から1970年代KFMLと密接な協力を行う。
 1968年ゴットフレト・アペルス(デンマークの左翼のブレキング通りギャング参照)の影響を受けた反対派が出現、労働者階級は
帝国主義により買収されているから労働者に注力した活動は無益としフランシスコ・サリオンらが反乱運動を結成。
 クラルテは1960−1970年代多くの大学で成果を収め、特にウプサラではスティグ・ビヨルン・リュングレン率いるArgusという
学生政治組織が出現。これにはボ・グスタフソンらが参加。
 1980年代に斜陽、1982年スウェーデン共産党SKPとの関係を絶つ。

68左翼
 スウェーデンの1968年左翼(1970年代左翼)の出来事として代表的なのは以下の事件である。
 1965年ベトナム戦争に反対するアメリカ大使館へのクラルテグループや反戦主義者のデモで警察との衝突が起こった。
 (ホトレットの闘い
 1968年5月デビス・カップの試合(スウェーデン・ローデシア戦)の抗議デモで会場変更させる。(ボスタードの反乱
 同年5月大学制度改訂に抗議するクラルテ、KFML、左翼青年同盟などの社会主義者学生組織がストックホルム大学学生会館
Karhusを占拠。教育大臣のオロフ・パルメアンデルス・カールベリらと話し合いをするが成果なし。その後学生はストックホルムで
劇場・コンサート・ホール・駅等を占拠しようとするが失敗。警察による兵糧攻めで占拠終了。
 1969年のストックホルムのアイスホッケー世界選手権ではソ連のチェコスロヴァキア介入への抗議が行われた。
 1971年ストックホルムの国王の木公園の伐採をめぐり選択都市Alternativ stadなどの環境主義者と警察の衝突が起こった。
 (アルム闘争) 
 1969年12月9日〜1970年2月4日に国立鉱山企業LKABで非人間的合理化に反発する数十人の労働者の自発的ストライキ
から5千人の大ストライキに発展、非合法であったが全国的支援を得た。(LKAB衝突
 LO全国組織グループLandsorganisationen i Sverigeストライキで1975年林業労働者ストライキ(1975年3月21日〜6月3日
まで継続、1万5千人参加)で頂点となる。

 またプログレシヴ音楽運動(プロッグ)、人生のための運動(プロヴィエ)(オランダのプロヴォ(挑発)運動の影響、寸劇的抗議行動
などを展開)、雑誌”画像・文化戦線の人民Folket i Bild/Kulturfront”(1972年創刊、表現の自由を守り人民文化推進と反帝国主義
を支援)、グループ8(1968年結成、フェミニスト問題を提起する基礎グループとしてのフェミニストの秘密ネットトワーク、8人よりなる、
1970年公然化し16人のメンバーとなる、1978年約2千人がストックホルムのデモに参加。)など運動も起こった。
 クラルテ統一FNLグループ (DFFG)同盟共産主義者KFMLKFML(r)MLK反乱運動などの毛沢東主義系グループや
 共産主義労働者同盟KAFなどのトロツキストグループが登場、活発に行動した。


〔スウェーデン緑党(環境党緑)Miljopartiet de Grona
 1980年の原子力発電反対国民投票から現れ1981年結成。多くの緑党同様に党首を置かず男女2人の代弁者制(spokesperson)採用。
 党は環境志向のリベラル人民党から分裂したペル・ガルトンを中心とする人々を基礎とした。
 1982年選挙はラグンヘルド・ポハンカ(2002年左翼党に移る)が中心となる。
 1985年緑党となる。
 エヴァ・ゴエスが1986−1988年の代弁者。
 1988年に初めて議席確保(5.5%、20議席)、1991年は4%条項に達せず、1994年から再び議席確保。
 1995年環境党が分裂。これは後に緑党参加。
 2006年は5.2%、19議席。
 全国レベルではやや左よりだが、いくつかの地方ではリベラル諸党と提携。
 1998−2006年まで社民と協力。2008年からは社民、左翼党と赤緑連合結成。
 2009年EU選は11.02%。
 2010年選挙は7.34%、25議席で第3党となる。
 2011年からオサ・ロムソングスタフ・フリドリンが共同代弁者。
 2014年EU選は15.4%、4議席。
 2014年選挙は6.8%、24議席。社民党の少数政権に参加。オサ・ロムソンが副首相と環境相。
 メフメト・カプランが家庭・郊外発展相、アリス・バフ・クーンケが文化・民主制相など。
 2018年選挙は4.41%で16議席。社会民主との連立政権に再度参加、イサベラ・レヴィンが副首相と環境相。


〔スウェーデン社会民主(労働)党〕 Sveriges socialdemokratiska arbetarparti 
 スウェーデンの社会主義思想の端緒はアウグスト・パルムAugust Palm(1849−1922年)による。
 彼は18歳でドイツに旅行し社会主義思想を知るようになり、スウェーデンで労働組合と社会主義について説いて回わり
1885年宣伝新聞社会民主アクセル・ダニエルソン(1863−1899)と発行した。
 この新聞発行にヤルマール・ブランティングHjalmar Branting(1860−1925)も加わった。
 1889年スウェーデン社会民主労働党SAPがパルム、ブランティングらにより結成された。
 1898年までに労働組合連合であるスウェーデン全国組織LOがSAPメンバーにより組織化された。
 党と労働組合の密接な関係は労働運動の歴史で重要である。
 1896年ヤルマール・ブランティングがリベラルの支援によりストックホルムで最初のそしてその後6年間唯一の社会
民主主義者国会議員となった。
 アクセル・ダニエルソンAxel Danielssonが最初のスウェーデン製の綱領を作成し1897年採用された。
(以前のはドイツ社会民主労働党のゴータ、エアフルト綱領の焼き直し、ダニエルソンは1890年代スウェーデンの著名な社会
主義者知識人ベンクト・リッドフォルス(1868−1913))周辺の学生サークルとトゥアコテリエト:リッドフォルス周辺の急進的知識人、と関係していた。
 彼はまたマルクス解釈でクヌート・ヴィクセルと論争した。)
 1902年、フレデリック・オットー内閣提案の選挙権改革は不十分でリベラルのニルス・エデンブランティングはこれを
批判し社会民主主義者はストライキを呼びかけた。ストは議会に影響を及ぼさなかったが、これは政治上の重要問題となり、
ブルジョアジーは分裂した。
 1905年、リベラル(1902年起源)のカール・スターヴが政権をとり社会民主主義者は15議席となり、保守は弱体化した。
 1906−1908年にアナーキスト傾向のヒンケ・ベルヘグレン青年社会主義が追放された。
 1905年、党は教育を重視し人民高等学校を設立、労働者教育協会とLOが運営。
 1906年、カール・スターヴ(1905−1906年、1911−1914年首相)のリベラル内閣が社会民主主義者の支持で普通選挙法を
提出したが保守の反対で通らず、1907年アルヴィッド・リンドマン保守政権が後退した比例代表性を導入した。
 1909年、大ストライキが発生したが敗北し労働組合運動と社会民主主義者は大きな打撃を受けた。
 (アルヴィッド・リンドマン保守政権、1906−1911年、1928−1930年)
 1910年、LOの少数派がアナルコ・サンディカリズムのスウェーデン労働者中央組織SACを結成。
 1911年選挙ではリベラル40.2%、保守(起源は1904年、1952年右翼党、1968年穏健党)31.2%、SAP28.5%。
 1911年綱領に共和制要求をいれた。
 1914年、国中が危機になり、スウェーデンは革命に近い状況となった。社会民主主義者は革命に反対し党は分裂した。
 第1次世界大戦の間、党内衝突は頂点に達し1917年左派は追放され、青年同盟を中心に社会民主左翼党を結成し1921年、
スウェーデン共産党となる。
 1917年党は党に忠実な新しい青年同盟、スウェーデン社会民主青年同盟を結成した。
 20世紀初頭の重要な闘争は普通選挙の導入であった。
 この闘いで1917−1920年の社会民主主義者の同盟者はリベラルであった。

 1914年3月選挙ではりベラル32.2%、保守37.7%、SAP30.1%。
 1914年9月選挙ではりベラル26.9%、保守36.5%、SAP36.4%、農民同盟8.5%。
 1917年選挙はSAP39.2%、リベラル27.8%、保守24.7%。
 リベラルニルス・エデン内閣(1917−1920年)にヤルマール・ブランティングが入閣。
 1920年、ニルス・エデンが辞任しヤルマール・ブランティングが首相となった。
 1920年、1922−1923年、1924−1925年とヤルマール・ブランティングは3回政権を維持。
 1925−1926年にはリカルド・サンドレルが首相となった。
 1920年選挙はSAP36.1%、リベラル21.8%、保守27.9%、農民同盟14.2%。

 1918年フィンランドに内戦が始まったが党は革命と距離を置き、赤に対し支援を送らなかった。
 1919年、8時間労働導入。
 革命状況で1921年普通選挙制が導入された。
 選挙改革による絶対多数派獲得の期待は大きかったがこれは達成されなかった。
 1921年の選挙結果はSAP39.4%、93議席、保守25.8%、62議席、リベラル(ニルス・エデン)19.1%、41議席、
農民同盟11.1%、21議席、社会民主左翼党インヴァル・ヴェネルストロム)、2.2%、6議席、共産党、2.4%、7議席。
 1928年はSAP37.0%、90議席、保守29.3%、73議席、リベラル12.9%、28議席、農民同盟11.1%、27議席、
共産党6.4%、8議席。
 1921年フランスに範をとりクラルテが創設された。1930年代には反国家社会主義の立場をとった。
 多くの若い社会民主主義者が活動した。ルンドではタゲ・エルランデル、ウプサラでの後の保守のヤルル・ヤルマルソンなど。
 1939年に分裂、1944年再創設。
 1920−1926年の間、2度の短期間を除いて政権を維持したが絶対多数派ではなく成果は少なかった。
 党内では急進化が起こり、社会主義化・国有化の要求が高まった。
 大恐慌とファシズムの脅威で社会主義化政策は後回しにされた。
 ストックホルム学派クヌート・ヴィクセルグンナル・ミュルダール)の影響を受けたエルンスト・ヴィクフォルスErnst Wigforss
ケインズ的政策で大不況からの回復に成功した。彼はフェビアン協会シドニー・ウェッブら)、ギルド社会主義ジョージ・コールら)
リチャード・トーニーレオナード・ホッブハウスジョン・ホブソン帝国主義論著者)などの影響を受けた。
 1932年の選挙後ペル・アルビン・ハンソン農民同盟の支持で政権を握ったが危機対策が主で、1936年は2党連立であった。
 1932年選挙はSAP41.72%、104議席、保守23.45%、58議席、リベラル(1934年人民党)10.03%、20議席、
農民同盟14.08%、36議席。

 福祉国家の目標、人民の家(1928年ペル・アルビン・ハンソンが導入した考え)に向けて動き始めた。
 ペル・アルビン・ハンソンは1932−1946年まで4度政権をもった。1936−1945年は農民同盟と連立。
 ハンソンは労働者階級の政党に対し全国民の政党を主張。
 第2世界大戦で福祉制度建設は遅延させられた。
 第2次世界大戦中は共産党を除く連立政権を結成し戦時体制構築。

 1948年選挙後タゲ・エルランデルTage Erlander(1946−1969年政権維持)は1951−1957年は中央党(旧農民同盟)と
少数政権を結成した。
 福祉国家の政策と制度によりSAPは長期政権を維持、1968年には50%を越えた。

 1969年タゲ・エルランデルは地位をオロフ・パルメOlof Palmeに譲った。
 オロフ・パルメは1969−1976年、1982−1986年に政権を維持。
 パロメは断固とした性格のため国内でも国際的場面では批判も当然多かった。
 米国のベトナム戦争への辛辣な批判、反核兵器増強キャンペーン、アパルトヘイト非難、南アフリカへの経済制裁支持、
ANCとPLOへの政治的・経済的支援、カストロと会ったこと(1975年7月)、これらのすべてで国外での敵に欠かなかった。
 ソ連のチェコスロバキア侵攻を批判し、スペインのフランコ体制批判をしクルド武装組織のテロリズムを批判した。
 国内的にはかれの左翼的考え、とりわけ企業への労働組合の影響を拡大する社会民主的推進はスウェーデンの右翼に
大きな敵意を生じさせた。
 またパルメは社会主義インターの副議長で社会主義インターに南アフリカ問題に眼を向けさせた。
 ドイツのブラント(1913−1992、1969−1974連邦首相)、オーストリアのクライスキー(1911−1990、1970−1983
年首相)とともに社会主義インターの方向性とイメージを変革するのを手助けした。
 パルメは首相になって、物質的生活条件、市民関係での社会的平等が社会の民主化の目標で民主主義は企業に対する
労働者の影響力を増大することにあると述べた。
 パルメはスウェーデンの政治に対決の要素を持ち込んだといわれ選挙に苦戦しついには政権を失うという経験をしている。
 1973年の選挙では社会主義ブロック(社民党と左共産党)とブルジョア・ブロックは175対175議席となり1976年には
ついに敗北した(169対180)。1932年からの44年間の社民党が途切れる。
 中央党のトルビヨルン・フェルディンが3党連立政権。1978年から連立、政権入れ替わる。
 1976−1982年は中央党は中道右派と連立(1991−1994年も)。
 1973年、SAP156議席、左翼党19議席、中央党90議席、穏健党51議席、人民党34議席。
 1976年、SAP152議席、左翼党17議席、中央党86議席、穏健党55議席、人民党39議席。
 1979年、SAP154議席、左翼党20議席、中央党64議席、穏健党73議席、人民党38議席。

 選挙の争点の一つは原発であった。国民は原発に批判的でブルジョア・ブロックが反原発を主張するという日本では想像
もつかない事態で(ブルジョア・ブロック第1党の中央党−旧農民党が反原発・緑を主張)、ブルジョア・ブロックはこの争点を
めぐって内部不統一を起こしたが1979年の選挙ではわずか1議席差でブルジョア・ブロックが勝利した。
 ブルジョア・ブロックではオーソドックスな保守主義(高所得者の減税と公的部門の削減を主張し企業の主張を代弁)
が伸び、体制の大きな変更を望まない他のブルジョア政党との不和をもたらし経済政策もうまくいかなかった。

 1982年の選挙は労働者基金をめぐり社会主義ブロックと企業(代弁する穏健党)との厳しい対決となった。
 労働者基金は企業利潤の一部を提供しその基金で組合が企業の株を購入しそのことによって労働組合が企業の
共同所有者となり経営参加を実質的なものとするのが狙いである。(ドイツは1976年に共同決定法を導入)
 スウェーデン経営者連盟と労働組合全国組織との激しい対決となり、スウェーデン政治の両極化の兆しが見えた。
 ともかく社会主義ブロックは過半数を超え社民党は「第3の道」を提起した。
 第3の道は政府が経済目標と指標を提示し企業と組合に協力させ計画的に経済回復・再建をおこなうもので
穏健党のサッチャー主義を否定するもので、雇用の確保と公平な分配・福祉と適正な成長が目標であった。
 1982年選挙はSAP45.61%、166議席、穏健党23.64%、86議席、中央党15.48%、56議席、人民党5.90%、
21議席、左翼党5.56%、20議席。

 1981年社会民主青年同盟SSUはトロツキストを追放、1982年党がトロツキスト追放。
 トロツキストは1997年社会主義正義党結成。

 1985年の選挙でも社民党は勝利し前回の選挙で大きく伸びた穏健党は後退した。
 SAP159議席、左翼党19議席、穏健党75議席。人民党51議席、中央党44議席。
 1986年オロフ・パルメは暗殺されイングヴァル・カールソンIngvar Carlssonが跡を継いぎ1986−1991年、1994−1996年
と政権担当。
 1991年イングヴァル・カールソンはブルジョア連合に敗北。SAP138議席、左翼党16議席。
 穏健党カール・ビルトの4党連立政権成立。
 1994イングヴァル・カールソンで政権復帰。財政危機のため福祉国家政策を後退させる。
 ヨラン・ペルソン、アンナ・リント、モナ・サリーンらがEU参加推進。
 1996年イングヴァル・カールソンヨラン・ペルソン(1996−2006年)に地位を譲った。
 1994年はSAP161議席、左翼党22議席、緑党18議席。1998年はSAP131議席、左翼党43議席、緑党16議席。
 2002年はSAP144議席、左翼党30議席、緑党17議席。
 議会ではしばしば中央党の支援を得た。
 1998−2006年までは左翼党、緑と協力関係。
 2003年9月、イラク侵攻を批判し、イスラエル・パレスチナ衝突で国際法と人権を支持し、親ユーロ運動を行っていた外務大臣
アンナ・リントAnna Lindhが暗殺される。パルメに続く政治家の暗殺であった。セルビア人が犯人として逮捕・有罪となった。
 2006年は1914年以来の最悪でヨラン・ペルソンの不人気の影響もあった。
 SAP34.99%、130議席、穏健党26.23%、97議席、中央党7.88%、29議席、リベラル人民党7.54%、28議席、
キリスト民主6.59%、24議席、左翼党5.85%、22議席、緑党5.24%、19議席、フェミニスト・イニシアチブ0.68%、
スウェーデン連合穏健党中央党リベラル人民党キリスト民主)178議席、赤−緑ブロック(SAP、左翼党、緑党)171議席。
 穏健党フレデリック・レインフェルトの4党連立政権成立。

 2007年3月モナ・サーリンMona Sahlinが議長となった。彼女は13歳ですでにFNLグループ(南ベトナム民族解放戦線支持で
共産党が結成し後に毛派に乗っ取られた)に参加していたという。
 人気のあるマルゴット・ヴァルストロムが有力とみられていたが彼女はその地位を望まなかった。
 2008年11月緑党との提携を決め、12月これに左翼党参加し赤緑連合成立。
 2009年EU選は24.41%。2010年選挙は30.66%、112議席と大敗、スウェーデン連合173議席、赤緑連合156議席。
 選挙の敗北で2011年モナ・サーリンが辞任しホーカン・ユホルトに交代。ユホルトは醜聞が発覚し、2012年ステファン・レヴェンと交代。
 ステファン・レヴェンは2006年統合により結成されたIF金属(LO第2の組織)の初代議長。
 2014年EU選は24.2%、5議席。
 2014年選挙は31.2%、113議席で第1党、以下穏健党23.2%、84議席、民主12.9%、49議席、緑党6.8%、24議席、中央党6.2%、22議席、
左翼党5.7%、21議席、リベラル人民党5.4%、19議席、キリスト民主4.6%、17議席と右翼・反移民の民主が引き続き大躍進。投票率83.3%。
 民主は南部で支持が高い。
 選挙の結果ステファン・レヴェンが10月首相(少数政権、緑と連立)となる。連合(穏健党、リベラル人民党、中央党、キリスト民主)と左翼党は棄権し、
民主党は反対。
 12月予算案否決で解散総選挙に危機に陥るがなんとか切り抜ける。
 2018年9月総選挙ではSAP100議席、穏健党70議席、民主62議席、中央31議席、左翼党28議席、キリスト民主22議席、リベラル20議席、緑16議席
で、赤・緑144、連合143となり、レヴェンは不信任(信任142、不信任204)、しかし組閣交渉は暗礁に乗り上げ、穏健党のクリステルセンは民主の支持を嫌う
中央とリベラルの支持が得られなった。(154:195)
 結局、リベラルと中央党と左翼党の棄権でレヴェンが再選。(支持115、棄権77)
 レヴェンは緑と第2次内閣を形成。


 戦後の選挙では1948年以降は1970年まで44.6%−50.1%、多くは46−47%程度での得票率で1968年に50.1%
とピークとなり、その後は43−44%程度となり、1991年に37.7%と40%をきり、1994年には45.3%と戻ったが、1998年、
36.4%、2002年、39,9%、2006年35.0%となっている。
 1932年以降、社民党が政権から外れたのは1976−1982年、1991−1994年と2006年ーが3度目。

 社民党支持母体のスウェーデン全国組織LOは産業労働者中心の180万の組織で組織率は80%。
 そのほかアナルコ・サンディカリズムのスウェーデン労働者中央組織SAC(1910年結成、約7千5百メンバー)がある。
 1931年結成のスウェーデン専門職雇用者連合TCOは130万で2番目の組織で無党派、スウェーデン専門職協会連合は56万で無党派。

社会民主青年同盟Sveriges Socialdemokratiska UngdomsforbundSSU
 1889年社会民主労働党が結成されその青年組織として1897年青年社会主義者が結成された。
 青年社会主義者は革命的傾向で初期から党と遊離、いくつかの地域クラブにより1903年社会民主青年同盟
Socialdemokratiska UngdomsforbundetSDUFが結成され、1905年党の新青年組織となる。
 青年社会主義者の指導者のヒンケ・ベルグレンらは1908年追放され青年社会党を結成、また1909年の
大ストライキのあと1910年のサンディカリズム労働組合労働者中央組織SACの結成にも寄与。
 SDUFはグスタフ・モラーペル・アルビン・ハンソンらが指導者となる。
 1909年会議でゼト・ヘグルンド率いるグループが多数派となる。1917年党の分裂でSDUFが社会民主左翼党の
中心となった。そのため新しい青年組織、スウェーデン社会民主青年同盟SSUがグスタフ・モラーペル・アルビン・ハンソン
らにより結成された。
 1950年代SSUで核兵器をもつかどうかが問題となった。ベルティル・ロフトベリが賛成でオスカー・ルンドクヴィストが反対。
 イングヴァル・カールソン(1961−1967年)、ボセ・リングホルム(1967−1972年)が指導者となった。
 この時期のSSUの主要な反対派は左派であった。
 国際問題に眼が向けられるようになったがベトナム戦争について執行部は決定をしなかった。
 何回かの会議での敗北後左派は1972年火曜日クラブを結成。しばらくしてこのグループは分裂、少数が1973年
新聞攻撃の周囲に結集。
 1976年トロツキストの秘密活動が明らかになる。7名追放される。1981年100名以上追放となる。

・ヤルマール・ブランティング Hjalmar Branting 1860年生−1925年死亡
 1907−1925年の社民党指導者、1920から1925年の間、断続的に首相。
 計算天文学を学び、ストックホルム観測所勤務、1884年科学者としての仕事を捨てジャーナリストとなる。
 1886年新聞”社会民主”をアウグスト・パルムAugust Palmと編集し始めた。
 1889年社民党設立メンバー、1896年最初の社会民主党国会議員となる。
 ベルンシュタインの考えを受け入れ、1917年ロシア2月革命ではメンシェビキ支持、10月革命では
ボルシェビキを非難。
 首相時国際連盟加盟、1921年、国際連盟での仕事によりノーベル賞受賞。

・ペル・アルビン・ハンソン Per Albin Hansson1885年生−1946年死亡
 労働者家庭出身、12歳で働き始める。1903年兄弟と社会民主青年同盟を結成、1908−1909年議長、1909年ゼト・ヘグルンド
が多数派となると、1910年ストックホルムに移り、新聞”社会民主”に参加、1918年国会議員となる。
 1920−1928年種々の政権に参加。1925年のブランティングの死で党首となる。

・タゲ・エルランデル Tage Erlander 1901年生−1985年死亡
 教師の息子、ルンド大学で学生政治と急進学生に関係、1928年政治科学・経済学を卒業。
 1929−1938年百科辞書編集スタフとなる。1930年地方議員、1932年国会議員となる。1938年国家秘書となる。
 1944年無任所大臣となる。1946年ペル・アルビン・ハンソンの突然死で首相と党指導者のあとを継ぐ。

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スウェーデンの保守、リベラル、中道

 中央党  歴史
  1913年農民同盟として結成。保守的で地方志向、小さな政府志向。
  1914年リベラルのカルル・スターフ政権の防衛政策への保守的反応として土地所有者、農場主らを主とする農民武装支持行進が起こる。
  この影響で1915年農民全国同盟結成、農民全国同盟は東部、南部の大農場所有主の強い支持。
  1917年2つのグループは議会へ、議会では共同議会グループとして活動。
  1917年選挙では社民39.2%、リベラル連合党27.6%、全国選挙同盟24.7%、農民同盟8.5%。
  1921年農民同盟と農民(農場主)全国同盟(1915−1921年)が合同。
  1933年ペル・アルビン・ハンソン社会主義政権と交渉を行う。
  1936年3ヶ月間政権樹立、2院選挙のあと社民との連立政権、1939−1945年は社民、農民同盟、リベラル、保守の連立政権。
  1951−1957年社民と連立。
  1950年代後半年金問題では自発的個人路線で社民との連立解消。
  1950年代末から1960年代若い世代が党に登場、農民利益から地方自治、脱中心化、環境を主張するようになる。
  1960年選挙後党の保守的性格が出てき、左派に対しリベラルと結ぶ。


 穏健党 SE

  1904年全国選挙同盟として結成。1893年結成の愛国者同盟(1913年解散)が先行組織。
  愛国者同盟は保護貿易、強力な防衛力、スウェーデン・ノルウェー連合支持で普通選挙制に反対。
  1800年代後半保守派は地方人党(下院)や1院保護貿易党に加わっていたが長い間全国組織はなく議員個人の組織であった。
  1院では1888−1909年の保護貿易党、1910年統一右翼と1988−1904年の少数党、1905−1912年1院穏健党、両者は
  1912年1院国民党となり、1935年右翼議会グループとなり、1938年全国選挙同盟全国右翼組織となる。
  1933−1934年にナチズムへの対応でアルヴィド・リンデマンは強くナチズムに反対し、ナチス傾斜を示した青年組織を党から追放。
  1952−1969年は右翼党。
  19世紀保守は議会で政党をもっていなかったが、1889年の社会民主、1902年のリベラルの党結成により政党化を迫られた。
  当初党は民族主義で強い防衛力と君主制を支持し、保護貿易で農業補助金も支持。1914年の防衛政策危機では王を支持。
  1918年ロシア革命の影響を恐れ普通選挙権を受け入れる。
  1906年リベラルのカルル・スターフ政権が普通選挙問題で倒れアルヴィド・リンデマンが1911年まで政権にすわる。
  スウェーデンの民主化の過程で党も近代化し、1900年代リベラリズム特に市場リベラリズムの影響を受け党の公式イデオロギーは
 リベラル保守となる。

  地方人党1867−1912年) 
  1867年ルイス・イェラルド・ドゥ・イェール司法大臣の政権支持問題でリベラルと意見不意一致の議員が結成。
  党はリベラルと保守の要素を持っていたが、かなりの部分は農場経営者の利益を擁護する党でもあった。
  当初は小さな党であったが1968年までにはかなりの党となる。
  1868年新リベラル党(1868−1871年)が結成されたが1871年防衛問題で分裂し一部は地方人党に参加。
  1888年自由貿易と保護貿易で問題で自由貿易支持派の古地方人党と保護貿易派の新地方人党に分裂、1895年再統一、
  1906年都市と農村の調整主張の国民進歩党分裂、1912年再統一し地方人・ブルジョア党結成。
  地方人・ブルジョア党は1935年国民党(1912年議会右派グループ結成)と右派議会グループ(全国選挙同盟)となる。


 リベラル連合党人民党)  リベラリズムと中道主義

  王政を終えさせたクーデターのあと1809年最初のリベラル党結成。(世界で最初にリベラルを使用した政党)しかし短期間しか
 存在しなかった。
  リベラルは議会オンブズマン制度創設や出版の自由確立に努力、更にスウェーデンやフィンランドの貧困地域の社会改革に努力。
  1895年古地方人党のリベラル・グループが人民党(1895−1900年)結成。主要問題は自由貿易と選挙制度などの社会改革。
  1900年人民党リベラル連合党に参加。人民党の半分はストックホルム地区の急進リベラルであったが北、中央スウェーデンの
 農民も有力な勢力であった。

  1900年人民党(1895−1900年)と2つのリベラル・グループボンデ討論クラブ(1897−1899年、大農場主カルル・カールソン・ボンデ
 主導、農民主)とフリーセン討論クラブ(1897−1899年、主に都市出身議員、シクステン・フォン・フリーセン主導)がリベラル連合党結成。
  地方人党からも一部参加。リベラル連合党は1900−1924年の議会党。
  1902年、グスタフ・ロセンらにより自由思考全国連合が全国組織として結成される。これは1890年結成の普通選挙同盟がもととなった。
  自由思考全国連合は自由信仰教会運動に大きく依存する全国的草の根リベラル政党。
  1905−1906年、1911−1914年カルル・スターフ政権、1917−1920年ニルス・エデン政権形成。
  1911年選挙ではリベラル連合党40.2%、全国選挙同盟31.2%、社民28.5%。

  1906年労働組合結成権が問題となりニルス・エデンらリベラルは社会主義者と協力。普通選挙権でもリベラルは社会主義者と協力。
  リベラルは自由や団結権などの権利のために努力。

  1924年アルコール禁止問題で分裂、禁止賛成多数派は自由思考人民党、反禁令少数派はリベラル党結成。
  1924年選挙では社民41.1%、全国選挙同盟26.1%、自由思考人民党16.9%、農民同盟10.8%、共産党3.6%、
 リベラル党3.9%。
  1934年リベラル政党は和解再統一し人民党となる。
  1936年選挙は社民45.79%、右翼党17.55%、農民同盟14.33%、人民党14.33%、社会党4.37%、共産党3.30%。


政権
1939−1945年 ペル・アルビン・ハンソン(社民党) 社民党、農民同盟、リベラル人民党、権利国民組織(穏健党)
1945−1946年 ペル・アルビン・ハンソン(社民党) 社民党
1946−1951年 タゲ・エルランデル(社民党) 社民党
1951−1957年 タゲ・エルランデル(社民党) 社民党、農民同盟
1957−1969年 タゲ・エルランデル(社民党) 社民党
1969−1967年 オロフ・パルメ(社民党) 社民党
1976−1978年 トルビヨルン・フェルディン(中央党)  中央党、穏健党、リベラル人民党
1978−1979年 オラ・ウッルステン(リベラル人民党) リベラル人民党
1979−1981年 トルビヨルン・フェルディン(中央党)  中央党、穏健党、リベラル人民党
1981−1982年 トルビヨルン・フェルディン(中央党)  中央党、リベラル人民党
1982−1986年 オロフ・パルメ(社民党) 社民党
1986−1991年 イングヴァール・カールソン(社民党) 社民党
1991−1994年 カール・ビルト(穏健党) 穏健党、リベラル人民党、中央党、キリスト民主
1994−1996年 イングヴァール・カールソン(社民党) 社民党
1996−2006年 ヨラン・ペルソン(社民党) 社民党 
2006−2014年 フレドリク・ラインフェルト(穏健党) 穏健党、リベラル人民党、中央党、キリスト民主
2014−      ステファン・レヴェン(社民党) 社民党、緑

右翼 穏健党 キリスト 中央党 リベラル 社会民主 左翼党 社会党
1928年   29.4(73   11.2(27 15.9(32   37.0(90 6.4(8  
1932年   23.45(58   14.08(36 11.85(24   41.72(104 2.98(2 5.32(6
1936年   17.55(44   14.33(36 12.87(27   45.79(112 3.30(5 4.37(6
1940年   18.03(42   11.98(28 11.97(23   53.81(134 3.53(3  
1944年   15.84(39   13.64(35 12.91(26   46.55(115 10.32(15  
1948年   12.34(23   12.38(30 22.75(57   46.13(112 6.31(8  
1952年   14.37(31   10.74(26 24.44(58   46.05(110 4.34(5  
1956年   17.11(42   9.45(19 23.81(58   44.58(106 5.00(6  
1958年   19.52(45   12.66(32 18.21(38   46.22(111 3.36(5  
1960年   16.57(39   13.62(34 17.50(40   47.81(114 4.48(5  
1964年   13.7(33 1.8(0 13.4(36 17.1(43   47.3(113 5.2(8  
1968年   12.9(32 1.5(0 15.7(39 14.3(34   50.1(125 3.0(3  
1970年   11.5(41 1.8(0 19.9(71 16.2(58   45.3(163 4.8(17  
1973年   14.29(51 1.75(0 25.10(90 9.42(34   43.56(156 5.33(19  
1976年   15.59(55 1.36(0 24.08(86 11.06(39   42.75(152 4.75(17  
1979年   20.34(73 1.39(0 18.07(64 10.59(38   43.24(154 5.61(20  
1982年   23.64(86 1.87 15.84(56 5.90(21 1.65 45.61(166 5.56(20  
1985年   21.33(76   12.42(44 14.23(51 1.50(0 44.68(159 5.36(19  
1988年   18.30(66 2.94(0 11.30(42 12.20(44 5.53(20 43.21(156 5.84(21  
1991年 6.73(24 21.92(80 7.14(27 8.50(31 9.12(33 3.38(0 37.71(138 4.51(16  
1994年 1.24 22.38(80 4.07(15 7.65(27 7.19(26 5.02(18 45.25(161 6.16(22  
1998年 (民主) 22.9(82 11.8(42 5.1(18 4.7(17 4.5(16 36.4(131 12.0(43  
2002年 1.44(0 15.26(55 9.15(33 6.19(22 13.39(48 4.65(17 39.85(144 8.39(30  
2006年 2.93(0 23.62(97 6.59(24 7.88(29 7.54(28 5.24(19 34.99(130 5.85(22 FI  
2010年 5.7(20 30.0(107 5.6(19 6.6(23 7.1(24 7.3(25 30.7(112 5.6(19 0.4
2014年 12.9(49 23.2(84 4.6(17 6.2(22 5.4(19 6.8(24 31.2(113 5.7(21 3.1
2018年 17.5(62 19.8(70 6.3(22 8.6(31 5.5(20 4.4(16 28.2(100 8.0(28 0.46
       Fi:フェミニスト・イニシアチヴ


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