<<イギリス(英国)の左翼>>


英国(イギリス)共産党

 1920結成−1991年解散。
 1920年、ブリテン社会党BSP、社会主義労働党SLP(1903−1980)の共産主義統一グループアーサー・マクマナス
トム・ベルウィリアム・ポール)、南ウェールズ社会主義協会の小マルクス主義者グループが統合して設立。
 (あるいは1909年ロバート・スチュアート結成の禁酒・改革党も参加、初期のメンバーはトム・ベルウィリアム・ポール
アーサー・マクマナスハリー・ポリット(WSF)、ラジャニ・パルメ・ドゥットヘレン・クローファードアーサー・クック
アルバート・インクピン(BSP)、ジョン・マーフィ(SLP)、アーサー・ホーマー(ILP)、ジョン・キャンベル(BSP)、ロバート・スチュアート
シャプルジ・サクラトヴァラ(ILP)、パンクハースト、ロビン・アーノットなど。)
 旧ブリテン社会党アルバート・インクピンが最初の総書記となった。(アーサー・マクマナスが議長、トム・ベルハリー・ポリットが専従)
 党は全国ギルド同盟のギルド共産主義者グループ、職場委員(ショップ・スチュワード)グループ、労働者委員会、
社会主義者クラブ、ロシアから手を引け(ハンズ・オフ・ロシア)運動などの支持も得た。
 独立労働党の多くの個人メンバーや支部も加盟した。
 ブリテン社会党BSPの国会議員として旧リベラルセシル・レストランジェ・マロンが加わった。
 シルヴィア・パンクハーストSylvia Pankhurst労働者社会主義連合WSF主導)・グループ共産党(第3インター英国支部)の多数派と
スコットランド共産主義労働党が統一に合意したので1921年1月に再設立された。
 パンクハースト・グループは議会闘争を否定する左派であったが第3インターの説得で統一した。
 第一次世界大戦とロシア革命の後、党は成長し英国では赤いクライドサイドRed Clydeside運動で代表された。
 党内で問題となったのは議会主義への疑問と労働党への態度であった。
 左派はパンクハーストやウィリー・ギャラッチャーWillie Gallacherに支持されていた。
 ロシア共産党はこの見解に反対した。レーニンは”共産主義における左翼小児病”で共産党は改良主義労働組合及び社会党と
働くべきだと主張した。(ウィリアム・ポール、ウィリー・ギャラッチャーはレーニンの労働党との協力論に反対)
 そこでCPGBは労働党の内部で活動しようとしたが、独立労働党のジェイムズ・マクストンのような著名な人物の支持にも
かかわらず、労働党は共産党の加入を拒否した。
 そこでCPGBはメンバーの労働党への個人加入と議員立候補に勤め、1922年の選挙でシャプルジ・サクラヴァラ
ウォルトン・ニューボルドの二人が議員となった。
 ラジャニ・パルメ・ドゥットハリー・ポリットアルバート・インクピンがコミンテルンの仕事に関わった。
 1921年9月、パンクハーストは追放され共産主義労働者党(−1924)結成に動いた。彼女は評議会共産主義に傾いていた。
 1924年、SIS(M16:秘密情報部)によると思われるでっちあげ事件が発生した。すなわち英国の共産主義者は武装勢力の間で
破壊活動に従事すべきだというジノヴィエフの手紙がでっちあげられ、これは保守党の選挙を優利にするためのものであった。
 1925年トム・ベルジョン・マーフィハリー・ポリットアルバート・インクピンアーサー・マクマナスロビン・アーノット
ウィリー・ギャラッチャー、ジョン・キャンベルウォール・ハニングトンアーニー・キャントトム・ウィントリンガム
ウィリアム・ルストが逮捕、1797年の反乱法の罪を受ける。
 1920年代から1930年代の間中、CPGBはレーニン主義(何をなすべきか―鉄の規律の党)の採用を決定した。
 ラジャニ・パルメ・ドゥットRajani Palme Duttが週刊労働labourを創設し長く主要な理論家となった。彼は生涯スターリン主義に
忠実であった。
 1926年の全国ストライキの際には多くの幹部が投獄された。
 特に鉱員ストライキの連帯に勤め、このため1926―1927年には鉱山地域で組織が拡大した。しかしこれは第3期に失われた。
 ジョン・バーナルJohn Desmond Bernalは1923−1933年まで党員であった。
 1929年アルバート・インクピンに代わりハリー・ポリットHarry Pollittが総書記となった。(1時中断を除き−1956年)
 1929―1932年の間の第3期と呼ばれる時期は“階級対階級”路線が採用され、“社会ファシスト“とのどんな協力も禁止された。
 第3期は全く政治的失敗の時期であったがウォール・ハニングトン全国失業労働者運動NUWMが大きな成果をあげた。
 1930年トム・ウィントリンガムデイリー・ワーカー創設。
 1930年代にNUWMにより多くの失業問題の行進が行われた。
 NUWMは人民戦線の時期の主要な運動団体であったが、1941年解散した。
 ドイツでのヒットラーの勝利によりすべての共産党は人民戦線戦術に転換し、労働党や更に右翼労働組合とも協力した。
 1935年の選挙で初めて共産党の国会議員ウィリー・ギャラッチャーが誕生した。
 1930年代に共産党はナチス・ドイツとファシスト・イタリアに宥和主義をとる保守党に反対した。
 街頭では英国ファシスト連合との戦いで主導的役割を演じた。
 スペイン内戦では多くの知識人党員が戦死した。ラルフ・フォックスクリストファー・コードウェルジョーン・コーンフォード
デイヴィド・ゲスト等。
 1939年の第二次世界大戦の開始にはCPGBは国内ではチャンバレンと国外ではナチス・ファシストとの戦いを支持していたが
コミンテルンの介入により変更された。
 この戦争を帝国主義戦争として労働者はどちらの側にも加わらないとされた。
 これはCPGB内のハリー・ポリットデーリー・ワーカー編集者ジョン・ロス・キャンベルの反対にあったが、両者は辞任させられ、
ポリットパルメ・ドゥットに交代させられた。
 1938年スペイン戦争の闘士トム・ウィリンガムはスペインで知り合った愛人キティ・ボーラーがトロツキーのスパイとして
アンドレ・マルティにより断罪され、党と愛人の選択をせまられキティ・ボーラーを選びパルメ・ドゥットにより追放される。
 ウィリンガムは1942年バーモン・バートレットリチャード・アクランドジョン・プリーストリーらと共和党結成。
 1939―1941年までCPGBは活発にストライキを支持し、政府の戦争遂行を批判した。
 レイモンド・ウイリアムズRaymond Williamsは1941年軍役につき事実上党から離れた。
 1941年、ソ連がドイツにより侵略されるとファシズムとソ連の戦争になったという理由で戦争支持に方針転換した。
 CPGBの愛国主義的立場は1943年のカーディフの補選で独立労働党の候補に対し保守党候補支援の運動を積極的にする
ほどであった。ストライキ活動家をトロツキストと攻撃した。
 1945年の選挙では103000票獲得し、2議席を得た。これは1950年選挙では失われた。
 1943年には党員は6万人に達した。
 1946年クリストファー・ヒルエリック・ホブズボームロドニー・ヒルトンドナ・トールファエル・サミュエルE.P.トムソンモーリス・ドッブ
ジョン・サヴィルレスリー・モートンブライアン・ピアス(1957年追放後一時トロツキストへ)、ヴィクター・キーマンらは歴史家グループを結成し、
雑誌”過去と現在”発行した。
 指導的知識人とりわけ共産党の歴史家グループは大陸の諸党(フランス、イタリア)にくらべてまだ小さいと指摘した。
 ジョン・ルイスJohn Lewis(キリスト教徒)は1946−1953年に現代季刊の編集者として論陣を張り特にルイ・アルチュセールとの
議論は著名である。
 モーリス・コーンフォースMaurice Cornforthカール・ポッパールドルフ・カルナップウィリアム・ジェームズらの経験主義哲学を
批判した。
 1950年代初期にはモーリス・ドップMaurice Dobbポール・スウィージーの間で封建主義から資本主義への移行をめぐって論争が
起こった。商業の役割を重視するスウィージーと農村都市からの発達を重視するドップ、外因説と内因説、共同体の外部からと内部から、
これは日本では大塚史学の2極分解説と宇野経済学の囲い込み運動説による労働者生成論争とも関連する。

 党は1935年、1943年、1946年に労働党に加入しようとしたが成功しなかった。
 1951年、党はイギリスの社会主義の道という綱領を発表し、平和的改革による社会主義移行の可能性をはっきりと擁護した。
 戦時期から1956年までが党の労働運動への影響の絶頂期であった。
 全国鉱山労働者労働組合に強い影響を及ぼしただけでなく、電気労働組合、技術労働者組合連合にも影響を及ぼした。
 反対派はほとんどなく後に労働党議員になるエリック・ヘファーが1940年代に離党したぐらいである。
 1953年のスターリンの死と東ドイツ反乱はほとんどCPGBに影響を与えなかった。
 しかしフルシチョフの秘密演説と1956年のポーランド騒動はCPGBも大きな影響を受けかつてない離党を招いた。
 ハンガリー動乱は最初CPGEのデイリー・ワーカーの通信員ピーター・フライヤーが伝えた。
 事件は詳しく報じられる前に封印された。フライヤーは帰国して辞職し党を追放された。
 この事件でE.P.トムソンE. P. Thompsonクリストファー・ヒルジョン・サヴィルラファエル・サミュエルロドニー・ヒルトンなど
多くの知識人党員(歴史家グループなど)が離党したがホブズボームEric Hobsbawmは離党しなかった。
 ラファエル・サミュエルジョン・サヴィルE.P.トムソンなどは新左翼に有名になった。
 サヴィル、トムソンはラルフ・ミリバンドスチュアート・ホールレイモンド・ウィリアムズチャールズ・テイラー(1960年代カナダで新民主党に参加、
後にコミュニタリアンとして著名になる)、オーレンス・デイドリス・レシングらとニュー・リーズナー(1957−1960年)、ニュー・レフト・レヴュー
(1960年−)などの雑誌を発行し新左翼に影響を与えた。
 ニュー・リーズナーにはアラスデア・マッキンタイアらも投稿。
 スチュアート・ホールらはカルチュラル・スタディ理論を打ち立てた。
 1960年代ラルフ・ミリバンドRalph Miliband(国家=道具説)はニコス・プーランザスルイ・アルチュセールアントニオ・グラムシ
影響を受けた、国家=構造説)と国家論争を行っている。
 ブライアン・ピアスはトロツキストに転向し1957年追放され、一時社会主義労働同盟に参加。
 ピーター・フライヤーは労働党内のトロツキスト・クラブの雑誌編集者となりゲリー・ヒーリー社会主義労働同盟結成に参加。

 ニュー・レフト・レヴューは最初スチュアート・ホールが編集、1962年ペリー・アンダーソンに代わり、1982年ロビン・ブラックボーン
(以前国際マルクス主義者グループ)に代わった。
 ケン・コーツはトロツキストとなり国際グループを結成した。
 1956年の不幸なできごとの後、党は労働組合運動でのよく組織された基盤を利用し労働党左傾化に努める圧力集団として
機能した。しかし選挙基盤を設立する努力は繰り返し失敗した。
 党は一握りの議席をブリテンに分散して地方議会にもったが、唯一の国会議員は1963年死んだ父のあとを継いだ貴族院議員の
ウォーガン・フィリップスであった。
 1966年、党の機関紙はデイリー・ワーカーからモーニング・スターに変更された。
 同時に党はソ連との密接な関係維持しようとする人々とモスクワから自立しようとする人々に分極化した。
 1961年のモスクワと北京の衝突は多くの共産党に党内分裂をまねいたが、小党のCPGBにはほとんど親北京派はいなかった。
 マイケル・マックレーがモスクワ路線に反対し共産主義者統一修正主義打倒委員会を形成した。
 この小グループは1963年までに離党した。
 後により重要なグループが技師労働組合幹部のレグ・バークの周囲に形成され、1968年、ブリテン共産党(ML)が結成された。
 最初このグループは中国共産党の位置を支持した。
 1968年のワルシャワ条約機構軍のチェコスロヴァキア介入でモスクワからの自立に関する党内分裂は危機に達した。
 CPGBは1956年を思い出してモスクワの批判に応答した。
 このやりとりはアピール・グループと呼ばれる、小さな地域的分裂を巻き起こした。
 これはいろいろな面で1977年の新共産党を形成した分裂の先駆であった。
 このときからCPGBの最も伝統的な分子はワルシャワ条約機構軍支持のゆえに党内の反対派によりタンキーズと称される
ようになった。他の人々はユーロコミュニズムの立場に傾いた。
 1960年代中期3万のメンバーと1200支部があったが、1990年代には4000人以下となった。
 最後の力強い選挙結果は1974年でのダンバートンシア・セントラルで候補のジミー・レイドが6000票獲得だが、これは
個人的な結果であって、彼は著名な労働組合指導者であった。全国的には得票は低下し続けていた。
 この時期CPBGは急速に斜陽化し、他のどの時代よりも大衆から孤立した。党員減少とモーニング・スター配布数の減少は加速した。
 青年共産主義者は崩壊した。
 党内の増大する危機は指導部の信用に影響し、以前の古参の影響力のある党員が地位を降りた。
 1976年、党の方向を決定する決定的な役割を演じていた上層機関幹部のうちのジミー・レイドら4人が辞任した。
 1956年から総書記であったジョン・ゴランが辞任、ゴードン・マクレンナン(1976−1989年)が後継。
 1970年代初期ジミー・レイド(後穏健化し労働党へ移る)らがアッパー・クライド造船業者生産管理運動を指導しクライド川の
造船所閉鎖を阻止しようとした。

 抗争グループが党内に出現した。1960年代以来スミス・グループという秘密グループ、のちにはパーティー・グループが
アントニオ・グラムシの思想によって行動。ゴラン指導部はユーロコミュニズムにつくことにより党を支えようとした。
 もう一方はファーガス・ニコルソンに率いられていた。

 公式的党史によればこの時期はアントニオ・グラムシの著作に強く鼓舞された文化的政治従事者(ビル・ワレンを中心とし、
ベアトリクス・キャンベルらが参加)と戦闘的労働主義政策を擁護する党の強力な産業部門との間の分裂で刻印される。
 文化的政治派は1960年代の党の青年層を支配し、学生集団でも強力であった。
 そのような多くのメンバーは学者か職業的知識人であった。彼らは環境運動と、とりわけフェミニズ運動に影響された。
 ホブズボームモンティ・ジョンストン戦中トロツキストとも)、1977年に今日のマルクス主義ジェームズ・クルッグマン
取って代わったマーティン・ジャックスら同様にベアトリックス・キャンペルスー・リップマンNUS議長)、ピート・カーター(スターリ
ニストと称されている!→議論)らが党内に地位を占めた。

 他の集団は労働組合運動の古参者(組合のトップになったものはほとんどいないが)で強力であった。
 反対派の見解によれば文化あるいはユーロコムニズム派は労働人民の生活や態度の本当の変化に接触していなかった。
 70年代が進むにつれて、大量失業に面し産業戦闘主義は衰退し、党は衰退しつづけたにも関わらず党内の緊張は上昇した。
 1977年までに社会主義への英国の道の新しい草案に関する議論は破局に達した。
 反ユーロコミュニズム主義者の多くは彼ら自身の反修正主義共産党を形成する必要があると決心した。
 当時自分たちはモスクワの支援を受けると考えたものもいたが。そのような支援は現実化したように見えない。
 ブリテン新共産党はシド・フレンチの主導下で形成された。彼は機関に強固な基盤をもつサリー地区の党書記であった。
 ファーガス・ニコルソンに率いられた他のグループ(Straight Left)は党内にとどまり、Straight Leftという新聞を発行し、
労働党内での組織化の手段とした。労働者学生運動の内部にグループ形成に参加した。
 ストレート・レフト周辺のグループは労働組合運動、核非武装運動CND反アパルトヘイト運動と何人かの労働党議員に
かなりの影響を与えた。
 ホブスボームの影響のもと党内反対派のマーティン・ジャックMartin Jacquesは党の理論誌マルクシズム・トゥデイの編集員になり、
党のユーロコミュニズム意見に対するそして結局広いリベラル左翼の修正主義傾向、特に労働党のネイル・キノックの周囲の
軟らかい左翼に対して重要な出版物とした。
 1985年、CPGBで分派闘争が勃発した。党の綱領に忠実なメンバーはモーニング・スター読者グループのネットワークと
平行して組織を確立し、共産主義キャンペーン・グループと称した。
 1988年、この分子(ロバート・グリフィスら)はブリテン共産党CPBとして知られる分裂集団を形成した。

 1991年、ソ連の崩壊でニナ・テンプルに率いられるCPGBのユーロ共産主義者の支配する指導部は解党を決定し、政党
というより左翼傾斜シンク・タンクの民主左翼を設立した。民主左翼は1999年解散し、新政治ネットワークが取って代わった。
 鉱山労働者全国組合の指導者ミック・マクガーイ、旧総書記ゴードン・マクレンナンらは1991年スコットランド共産党を形成した。
 スコットランド共産党は選挙活動をせずスコットランド社会党を支援している。
 ゴードン・マクレンナンは2005年選挙でレスペクト連合のジョージ・ギャロウェイを支持。

 1993年にマルクシズム・トゥデイのメンバーはシンク・タンクのDemosを設立した。
 その一人マーティン・ジャックスは愛知大学招請教授となった。
 CPGBに1980年代早期に再加盟したレーニン主義者の支持者は党を再建する意志を宣言し、緊急会議を開催し党名を
請求した。彼らは現在イギリス共産党CPGB(準備中央委員会)として知られ、CPGBと称し、ウィークリー・ワーカーを発行している。
 ブリテン共産党CPBが選挙委員会により英国UKの共産党と認められている。


教条主義者の分裂
 1963年共産主義者統一修正主義打倒委員会が分裂。
  マイケル・マクリーリが率い、親中国、アルバニア。前衛Vanguardを1963年から発行。1964−1965年に活動の頂点。
  1965年マイケル・マクリーリが死亡し、斜陽化。多くはマルクス・レーニン主義統一センターに再結集。
  一部がのちにスコットランド労働者党とロンドン労働者委員会結成。1966年ロンドン労働者委員会が分裂し1968年イングランド労働人民党
 結成される。
  一部のアイルランドのメンバーが1965年アイルランド共産主義者グループに参加。この分裂で彼らはアイルランド共産主義者組織を結成。
  アイルランドのメンバーのノエル・ジェンキンソンは公式IRAに参加し1972年のアルダーショット爆破実行で有罪となる。
  前衛は1972年まで発行。

  マルクス・レーニン主義統一センターはCPGBのビル・ブランドニュージーランド共産党のメンバーでもあった)周辺のグループに起源する。
  1967年ブリテンマルクス・レーニン主義者組織となり、間もなく毛支持からホッジャ支持に転向。
  1975年イギリス共産主義者同盟と改名しブランドの2001年死後以来著名でなくなる。スターリンを強く支持しスターリン協会内で活動。
  スターリン協会はブリテン革命的共産党(ML)や英国共産党(ML)CPGB−MLメンバーらを基礎とする。多くがスカーギルの社会主義労働者党
 SLPメンバーとも重なる。議長のひとりがハーパル・ブラー(SLPからCPGB−MLへ)。彼により共産主義労働者協会とも結びついている。

  スコットランド労働者党は1967年に結成され、スコットランド独立をキャンペーン。メンバー約60名。
  1972年銀行強盗で3人が有罪となる。非暴力犯罪で4人が長期刑を受ける。その他も銀行強盗を行い、マシュー・リゲイトは27年刑を受ける。
  17年後の釈放後反人頭税運動を行う。

  イングランド労働人民党は医療開業医組合の著名メンバーのポール・ヌーンが率いスコットランド労働者党と協力。分裂に苦しみ英国人民解放軍
 もこれに起源すると言われる。1980年労働者ニュース・レター・グループ、1985年労働者協会と名を変え、翌年解散。

 1968年ブリテン共産党マルクス・レーニン主義CPB(ML)分裂。
 1977年ブリテン新共産党NCPB分裂。
 1979年ブリテン革命的共産党RCPB(ML)が結成される。
  当初はイングランド共産党CPE(ML)であったが毛沢東主義を拒絶し再組織化してからRCPB(ML)と称する。
  カナダ共産党(ML)創設者のハーディアル・ベインズ(1939−1997年、インド生)の理論に依拠。
  ベインズは1961年中ソ分裂で毛沢東を支持する国際主義者たちを創設。1967年ロンドンで後の反修正主義運動を決定する
 ”変化のための必要性”協議会を開催。ベインズは国際的に反修正主義運動の指導者として世界各国でマルクス・レーニン主義ML党結成を支援。
  他のベインズ触発政党同様にCPE(ML)は当初中ソ分裂で中国支持であったが、中国・アルバニア関係悪化でアルバニア側につく。
  前衛作曲家コルネリウス・カーデューマイケル・チャントが指導的メンバーであった。
  カナダ共産党(ML)と密接な関係にあり、ブリテン新共産党とも良好な関係にある。
  朝鮮民主人民共和国連帯推進に積極的。2004年連帯連合支援したが党に権力を渡す制度廃止を要求し労働者、人民集合が直接政治過程に
 介入することを呼びかけた。

 1991年イギリス共産党(臨時中央委員会)CPGB(PCC)創設。

 1968年革命的マルクス・レーニン主義者同盟RMLL結成。
  1968年アビヒマニュ・マンチャンドラ周辺の学生グループが結成した毛沢東主義小政党。
  共産主義者合同joint委員会に参加、1969年ハーパル・ブラー(1939年インド生まれ)周辺が分裂し共産主義労働者協会結成。
  1971年更にマルクス・レーニン主義者労働者連合が分裂。1977年革命的マルクス・レーニン主義共産主義者同盟と名乗り、第3世界論を採用。
  1980年解散。
  共産主義労働者協会は女性解放運動に従事し、ブラーを通してインド人労働者連合、インド人共産主義者連合、スターリン協会と関係を持つ。
  徐々に毛沢東主義から反修正主義に移動し、1997年グループはスカーギルの社会主義労働者党SLPに参加。
  2004年多くがSLPを離れイギリス共産党(ML)CPGB(ML)結成。
  CPGB(ML)の創設メンバーの多くは以前の共産主義労働者協会あるいはインド人労働者連合のメンバー。
  ブラーは2008年選挙のために政党プロレタリアン結成。

新政治ネットワークNPN
 NPNは2000年、民主左翼Democratic Leftの後継として設立された。2007年チャーター(憲章)88に合流。
 チャーター88は1988年、主にリベラル及び社会民主主義知識人と活動家によって、サッチャーの1987年選挙勝利のあと出現。
 彼らは雑誌”ニュー・ステーツマン”への手紙”異議の一般的表明”への署名から出発した。
 彼らの行為は1970年代のサッチャー主義に対する直接的反応である。
 彼らはイギリスに成文憲法がないことを問題とし簡単な憲章(政治的、市民的、および人としての権利よりなる)を作成、これへの
署名というかたちで運動が展開してきている。
 2004年には新政治ネットワーク活動的市民転換(2004年結成、英国を躍動的、参加的、持続可能な社会に変えるよう
市民を動員することを目的)と協力関係を発展させた。2007年にチャーター88とNPNは合流しアンロック(解錠)民主主義
Unlock Democracyを結成。指導者はピーター・フェイシーでこれはNPN後はチャーター88の指導者。
 アンロック(解錠)民主主義は成文憲法によるより参加的な民主主義への運動組織で、貴族院の上院化運動などを推し進めている。
 アンロック(解錠)民主主義は投票数にしろMVC連合Make Votes Count Coalitionにも加わっている。
 MVC連合は庶民院(下院)の投票制度をより比例的にすることを要求している。


ブリテン共産党CPB
 1988年CPGBから共産主義キャンペーングループが分裂。英国最大の共産主義者党。
 1991年のCPGB解散でストレート左翼の多くがCPBに参加、他は民主左翼に留まったり労働党に参加したりした。
 1998年結成時からの総書記マイク・ヒックスがモーニングスター編集者ジョン・ハイレットによりロバート・グリフィスと交代させられる。
 ヒックス派は離党する。
 2001年の総選挙では6人の候補を立て1003票獲得。
 戦争を止めろ連合に参加、核非武装運動ケイト・ハドソン)にも関係。
 2004年から共産主義者大学を開催。同年ジョージ・ギャロウェイとの選挙連合問題で党分裂、賛成派のロバート・グリフィスら敗北。
 2006年演壇者には労働党議員ジョン・マクドネル、鉄道・海員・輸送労働者全国連合総書記ボブ・クロー、核非武装運動CND議長
ケイト・ハドソン、米国共産党副委員長ジャーヴィス・タイナー、フランス・共産党・経済理論家ポール・ボッカラ、パレスチナ解放機構大使
ノハ・ファレフらが参加。
 2008年ロンドン議会選挙ではインド共産党(マルクス主義者)、バングラディッシュ共産党、ギリシャ共産党支部と選挙連合、
平和と社会主義のための統一を結成、0.26%獲得。
 2009年EU議会選挙は鉄道海員運搬労働者RMT連合率いるEUにノー−民主主義にイエスに参加。
 2015年選挙では9候補を立て、1229票。

ブリテン新共産党NCPB
 1977年、シド・フレンチ合同機械電気組合員)、ア−ニー・トローリアンディ・ブルックスらが設立。設立から分裂を繰り返し、
1980年代初期には親ソ派を追放。
 1990年代初めにはのちに共産主義者行動グループを形成するグループが追放される。
 2000年にケン・リヴィングストンのロンドン市長選支持で”どこでも労働党へ投票”路線がかわり、これで大量追放が起こる。
 1977年末にはCPGBから約6000人離党したが、NCPBに加わったのは少なく1977年には1000人前後で1983年には
500人程度。
 フレンチが1979年に死亡し、指導者エリック・トレヴェットに交代。
 NCPBは選挙では候補を立てず、労働党候補を支援している。NCPは労働党員組織の労働者代表委員会LRCに加盟。
 NCPBは1992年の平壌宣言に署名。
 ギリシャ共産党が組織する国際協議会やベルギー労働者党が組織するメー・デー行事に参加。
 ブリテン革命共産党(ML)(1979年設立の毛派その後アルバニア派)と近い関係にある。

ブリテン共産党マルクス・レーニン主義(CPB(ML)〕
 1968年CPGBよりレグ・バーチ一般・自治体労働者組合員)らが分裂、親中派。
 1976年共産主義労働者運動が分裂し後に英国の対抗手のブリテン革命的共産主義者同盟に参加。
 中国・アルバニアの衝突でエンヴェル・ホシャを支持し1980年代にはソ連を支持するようになり、ゴルバチョフ時代にはこれをやめる。
 最近CPB(ML)は民族主義路線をとり、EU連合に強く反対。
 新共産党同様に選挙ではサッチャー排除のため労働党を支持。

ブリテン革命的共産主義者同盟RCL)
  1968年旧CPGBメンバーと種々の青年組織により連合共産主義者委員会が結成される。
  1969年ブリテン共産主義者連合(ML)と改名し間もなくブリテン共産党(ML)の主要な競争相手となる。
  1977年共産主義者統一協会(ML)と合同し革命的共産主義者同盟RCLとなる。1980年共産主義者労働者運動が参加。
  1980年代には1989年の天南門広場抗議の暴力的抑圧に反対し中国共産党批判を展開。
  1998年解散。

英国(イギリス)共産党CPGB(ML)〕
 2004年、アーサー・スカージル社会主義労働党SLPSからの追放あるいは離脱者が結成。
 彼らの多くは以前共産主義労働者連合ACWのメンバーであった。
 ACWは1969年、ハーパル・ブラーの周辺が革命的マルクス・レーニン主義者同盟(毛派)から分裂、
当初は毛派であったが、女性運動に関わった。徐々に毛派から離れ、1997年、社会主義労働党SLPに参加した。
 2004年、多くがSLPを離れCPGB(ML)結成。


〔イギリス共産党CPGB(臨時中央委員会PCC)

 CPGB自称のレーニン主義政治グループ、週刊労働者(1993年1号)発行。ジョン・ブリッジ(当初NCPBに参加し追放される)が指導者。
 グラスゴー大学の社会主義理論運動学習センターと密接に関係。
 他のグループと異なり統一した欧州連合共産党結成を志向。
 一部はヒレル・ティクティン(1937年南ア生まれ、1960年英国へ、ついでソ連に渡るが1965年英国に戻りグラスゴー大で教える、
1973年社会主義理論誌”批判”を共同創刊、2000年グラスゴー大教授、2002年退官)の影響で旧ソ連を官僚的社会主義と称するが
他に農民を基礎とする封建主義から資本主義への過渡に凍結された社会とするものもいるが公式には党はどのようなソ連分析理論をも支持していない。
 起源は1977年分裂のブリテン新共産党にあり、トルコ共産党の影響でジョン・チャンバレン(別名ジャック・コンラッド、ジョン・ブリッジ)率いる
一握りのNCPB青年集団がCPGP再加入を試みる(1980年少数がレーニン主義者グループ結成)が、ほとんど成功せずレーニン主義発行。
 CPGBの崩壊後堅固なレーニン主義原則で党を鍛えることを宣言、非常時協議会を組織化、党名を要求したが資産は要求しなかった。
 1981年CPGBのレーニン主義者は党を鍛えること公言、1991年臨時中央委員会を選出

 組織が開放的なため種々のグループと、特にトロツキストと関係し、イギリス最大の極左となる。スパルタクス同盟を始め種々のグループと関係する。
 1990年初期まで小集団革命的民主グループと関係。
 旧社会主義労働者党メンバーとも深い関係をもった。1992年選挙の間労働党議員ケン・リヴィングストンはCPGB(PCC)はMI5(軍諜報部)
部員と主張。他からもこの党とのM15との関係が主張されている。
 1990年代のコソヴォ戦争でアルバニア系コソヴォ解放軍を支持。
 短期間メンバーはSLPに入ったが離れ社会主義連合に参加。そこで労働者自由連合と関係、新聞の統合を試みるが拒否される。
 2004年社会主義連合は事実上解散したとしてレスペクトに加盟、その主要素である社会主義労働者党SWPメンバーに影響を与えようとした。
 少数派はレスペクトで行動するのに反対し、マニー・ネイラらが赤い綱領を結成し、社会主義者連合民主綱領参加を要求。結局赤い綱領は2004年分裂
し、赤党結成。
 CPGB(PCC)グループはマルクス主義党運動で活動し、新労働者党運動左翼会議に批判的。
 CPGB(PCC)はイラン人民から手を引け運動に深く関係し、共産主義学生団とも関係している。
 2009年EU議会選挙は労働党支持でEUにノー−民主主義にイエスを左翼民族主義者と批判。
 2008年、CPGB(PCC)はマルクス主義党運動解散を宣言するが少数派は拒否。
 以来CPGB(PCC)は労働党と左翼統一でグループ(傾向)として活動。
 2013年にはケン・コーチの新左翼党運動に介入、運動を陳腐なケインズ主義とし、厳格なマルクス主義綱領を要求。
 社会主義抵抗を運動内の老いぼれと批判。結局CPGB(PCC)は左翼統一内で共産主義者プラットフォームを結成。
 2016年CPGBはプラットフォームを解散し、左翼統一から去る。
 2015年には労働党党首選でジェレミー・コービンを支援、CPGBは労働党マルクス主義者LPMを支援。LPM書記のスタン・キーブルは
2017年労働党から追放された。CPGBは週刊労働者WWの別の労働党組織魔女狩りに反対する労働を推進。

マルクス主義党運動
  CPGB(PCC)民主社会主義者連合(2005年社会主義者連合民主綱領の一部結成)、批判社会民主グループ(1998−2002年、
ミリタント社会主義展望Socialist Outlook 活動家結成)が結成。執行部は主にCPGB(PCC)よりなり民主社会主義者連合は党を乗っ取られた
と批判。2008年CPGB(PCC)は運動解散を宣言。

共産党(第3インター英国支部)CP(BSTI))
 1920年6月の緊急会議で左翼共産主義者(主に評議会共産主義者、シルヴィア・パンクハーストなど)によって設立され、
600人ほどの人々が含まれていた。
 緊急会議は8月に予定されていた共産主義者統一大会に備え、左派共産主義者は右派に対して自身を組織化しようとしていた。
 発議は労働者社会主義者連合(パンクハーストの1910年代女性参政権運動諸組織を起源とする諸組織)によってなされた。

スコットランド共産主義労働党
 1920年9月、スコットランド労働者委員会と共産党(第3インター英国支部)のスコットランド支部CP(BSTI)
社会主義労働党SLPの一部と種々の地方共産主義者集団が結成。
 同月、南ウェールズと西イングランド共産党が同様の綱領で設立された。
 ジョン・マクリーン・MAの影響でまずスコットランド共産党という名をとったが、創建大会にマクリーンは参加せず、
共産主義労働党という名になった。これは英国共産党に参加するための準備組織であることが決定され、
ウィリー・ギャラッチャーが指導者になった。敗北したマクリーンはSLPに参加した。
 1921年、CP(BSTI)の残りのメンバーとともに共産主義労働党はCPGBに参加した。

反議会共産主義者連合APCF)
 1921年、アナルコ・共産主義者ガイ・アルドレッドの新聞スプールSpur周辺グループが結成。多くは以前の共産主義者同盟メンバー。
 ジョン・マクガヴァン(1923年ILPへ))も含まれる。共産主義者同盟は1919年3月、ロンドンの社会主義労働党SLPとアナーキストが結成。
 1941年労働者革命同盟と改名。

独立労働党ILP

 19世紀末、都市労働者が増加し、これらの利益を代表する政党が必要となった。
 最初自由党Liberalが労働組合支援候補を取り込んだ。1869年結成の労働者代表同盟は自由党に吸収された。
 1870年代から労働者階級候補が労働組合の財政的支援を受けて、しばしば自由党に受け入れられ支援された。
 労働組合会議TUCは1887年労働者選挙協会LEAを結成した。
 これによりLib−Lab(労働組合に支援された自由党議員)議員が発生した。
 これとともに社会民主連合SDF(1881年、H.Mハインデマン結成)、フェビアン協会(1884年設立)などの
社会主義者グループが結成された。
 自由党との活動は広範囲には主張されたわけではなく、SDFなどは労働者階級の党を議論した。
 1888年、ケア・ハーディはスコットランド労働党を結成。(1893ILP統合)
 1890年米国が外国布地に関税を課し、これで全国的賃金カットが起こり、このためストライキがおこりこのなかからリベラルからの
分離運動が発生した。
 1891年、ロバート・ブラチュフォードが週間新聞クラリオンを発行、このなかで新党結成が議論された。
 1892年、総選挙でリベラルの支援なしで3名の労働者が選出されたが他の2人はハーディと意見を異にした。
 1893年、ケア・ハーディトム・マンらSDFメンバーによって独立労働党ILPが結成された。
 創設議長のジェームズ・ケア・ハーディは前年の選挙で議員に選ばれていた。
 初期は小さな社会主義者・左翼グループの数多くの混在によって特徴付けられる。
 1895年総選挙にILPは25候補をたて44325票獲得したが議席0。ハーディは議席を失った。
 最初ハーディが議長になり、1900年、ブルース・グレザーが継いだ。
 1903年、福音社会主義者のフリップ・スノードンが3代目となった。1906年から最初の労働党の首相ラムゼイ・マクドナルド
が議長となった。
 1900年、TUC主催による会議で労働者代表委員会LRCが創設されラムゼイ・マクドナルドが書記に選ばれた。
 1900年10月選挙で15候補で2議席獲得(ケア・ハーディとリチャード・ベル)。
 1906年選挙では自由党との秘密協定(マクドナルドとグラッドストーン)によりLCRは29議席獲得。
 2月15日、議員メンバーは労働党という名前の採用を決定。ケア・ハーディが議長となった。
 ILPは1900年の労働者代表委員会形成で中心的役割を演じ、1906年労働党が結成されると、これに属した。
 1918年まで労働党は個人加盟権がなかったのでILPが底辺活動家を提供した。
 ILPと労働党の関係は衝突で特徴付けられる。多くのILPメンバーは労働党が臆病で穏健だと考えた。
 その結果多くのILP支部は社会民主連合と1912年ブリテン社会党を結成した。
 第1次世界大戦でキリスト教信念に基ずく平和主義を基礎に戦争反対のILOと労働組合官僚に支持された労働党との間に
溝を生じた。
 第二インターが戦争支持であったのでILPは1920年離れた。
 ILPの右派指導者、ラムゼー・マクドナルドフィリップス・スノードンは第3インター加盟に反対した。
 エミル・バーンズやシャプルジ・サクラトヴァラらの左派は加盟論議に敗れて1921年CPGBに参加した。
 1922年の選挙で数人のILPメンバーが議員となった。
 1924年の最初の労働党政権にILPは非常に失望した。
 1929−1931年の第2次労働党政権ではILPは37名の労働党議員を後援し左派的立場をとった。
 1932年、ILPは労働党からの離脱をきめ、同年左翼社会主義主義者のロンドン・ビュローの共同設立者となった。(後の
国際革命的マルクス主義者センター
 労働党にとどまるメンバーはスタフォード・クリップに率いられ社会主義者同盟(1937年解散)を結成した。
 これにより1930年代ILPは長期衰退に入った。
 右は労働党に脅かされ、左は共産党やトロツキストに脅かされた。
 スペイン戦争では共和国を支持しPUOMを支援した。

 1930年代中期から種々のトロツキス・グループトが加入し、シリル・ジェームズデンジル・ディーン・ハーバーテド・グラント
などがマルクス主義者グループ(1934−1938)を結成したりした。
 1941年ILPは倫理的理由から戦争に反対し左派に転じた。
 戦後、党会議が労働党再加盟を拒絶し、ILPは最終的衰退に入った。
 1946年党の有力人物のジェームズ・マクストンが死亡し、1948年すべての議員が労働党へ移った。
 1950年代から1960年代初期は核兵器に反対し、労働者統制という思想を広めるのに努力した。
 1970年代ILPは労働党を再評価し、1975年、独立労働表明と名を変え党内圧力グループとなった。

社会民主連合SDF
 1881年、ヘンリー・ハインドマン設立のブリテン最初の社会主義者の政党。
 ウィリアム・モリスジョージ・ランズベリーエレノア・マルクスなども参加。しかしエンゲルスはハインドマンの冒険支持を拒否。
 当初民主連合であったが、労働者解放同盟と統合し1884年改名。
 1887年、トラガルファー広場でのデモは血の日曜日となった。
 SDFの姿勢と政策は多くの内部批判と分裂を惹き起こした。
 1884年、エレノア・マルクス、モリスらは社会主義者同盟(1890年代アナーキストに乗っ取られ1901年解散)を結成。
 彼らはSDFを改良主義、排外主義と批判した。
 ヘンリー・リーが総書記となった。
 1903年には社会主義労働党が、1904年には英国社会党が分裂してできた。
 SDFは労働運動を無視していると批判された。ハインドマンは議会闘争に集中した。
 1890年、ジョン・バ−ンズトム・マンが離れた。
 SDFは右派の基礎も失った。たとえばケア・ハーディ独立労働党
 この党はSDFの倫理的マルクス主義よりキリスト教社会主義に強く影響された。
 1892年、ハーディは庶民院議員に選ばれ、これでILPがSDFより優位にたった。
 ヘンリー・ハイド・チャンピオンベン・ティレットジム・コネルジョージ・ランズベリーなどがSDFからILPに移った。
 1900年、ハインドマンらSDF、ILP、ファビアン協会、労働組合指導者が会合し、議会に労働者グループを結成することとし、
労働者代表委員会LRCを樹立した。
 LRCは徐々に労働党に組み込まれていった。多くのメンバーはSDFのマルクス主義に不満で、ハインドマンは政治グループの
発展に影響をもたなかった。ハインドマンは労働党を離れ1911年、彼はブリテン社会党BSPを結成した。
 ハインドマンはBSPの主導権争いに敗れ1916年、ヘンリー・リーウィル・ソーンらと国家社会党を結成した。
 ハインドマンの死後グループは労働党に消えた。

社会主義労働党SLP) 1903−1938年
 1903年、SDFから分裂してジェームズ・コノリーネイル・マクリーンらによって結成。
 彼らは米国の社会主義労働党を結成したダニエル・ド・レオンに影響を受けた。
 彼らはSDFやILPのような改良主義と一緒に活動するのを拒否し、産業組合に宣伝を集中することを主張した。
 SLPは赤いクライドサイド運動に主導的役割を果たした。
 1918年、SLPはBSPとブリテン共産党結成の会話を始めた。指導部はBSPの新党が労働党に加盟するという計画に反対し、
CPGB参加を拒否したがメンバーの多くはCPGBに参加した。
 残りの少数派は党を存続させ、1960年代は瀕死状態であったが若いメンバーによって生き残り1980年に解散。
 一部の分裂者はトロツキズムに変わり、革命的社会党となり1938年革命的社会主義者同盟(1938−1944)に合流した。

英国(イギリス)社会党SPGB〕 1904−
 1904年、SDFの改良主義とH.M.ハインドマンの支配に反対してジャック・フィッツジェラルドエルネスト・アレンコルベリウス・レハン
(初代総書記)らが社会民主連合SDFより分裂し設立。
 これはSDFが後に労働党を創設する労働者代表委員会に関係したことへの反発でもあった。
 これはモリスらの社会主義者同盟の結成へいたる分裂に反映する。
 SPGBの設立者は自分たちを第2インター内の広範なインポシビリストの一部と考えた。
 1903年、SDFのスコットランドのメンバーの多くが衝突し社会労働党SLPを結成したとき彼らもSPGBを結成した。
 SPGBは社会主義者同盟と異なり投票と議会の革命的利用を支持した。
 1930年代からエドガー・ハードキャースルが党の対外論争の中心となった。
 1930年代ハロルド・ウォールズビー、ジョージ・ウォルフォードがシステマティック・イデオロギーを展開して分裂。1944−1956年に
社会科学協会を創設。彼らは人のイデオロギーは物質的条件や生産手段との関係で説明できず、社会には社会階級を横断する頑固で特異な
思想グループが存在し、一連の思想を形成し、家庭、権威、知識、伝統に取り込まれ、これにより最大派グループの思想・行動が導かれるとする。
 よくしられた歴史的に重要な議論は1940年代の革命的共産党RCPとのものである。
 このなかでサミー・キャッシュはRCPのジョック・ハストンをソ連=国家資本主義説で説得した。
 これはトニー・クリフに引き継がれ、今日の社会労働党(1977−)SWPの起源になっている。
 彼らは頑固に民族主義を拒否しているのでベトナム戦争で民族解放戦線支持を行わなかった。
 彼らは反核兵器運動にも反対している。
 1960年代からのの著名な活動家はアダム・ブイック
 1911年、社会主義情宣同盟が分裂(−1951)、1930年代、組織的思想グループ分裂、1950年代、社会主義統合運動発生。
 1991年追放されたグループが社会主義学習グループ結成。これにはエドガー・ハードキャースルが参加。
 SPGBはトロツキストの比較的新しい名である以前のミリタント傾向イングランドとウェールズ社会党とその同一性について
抗議している。現在メンバーは150人程度である。
 2015年選挙は10名の候補で899票。

ブリテン社会党BSP)
 1911年設立、ILPの一部、クラリオン・グループや個人、小社会主義者党によて結成された。
 ハインドマンが指導権を握った。ハインドマンは民族主義者だったので党内に異論が出た。
 1914年労働党に加盟。1915年最右派が社会主義国家防衛同盟結成、1916年、ツィンメルヴァルト会議支持の国際主義者
グループに敗れてハインドマンが国家社会党結成。
 アルバート・インクピンジョン・マクリーンアルフ・ワッツの新指導者は労働党加盟。1920年、SLPのメンバーとCPGB結成。

赤いクライドイサイド
 1910年代から1930年代のスコットランドのグラスゴーでの政治的急進運動。
 第1世界大戦への英国の参加への労働者階級の反対運動に起源をもつ。
 1911年4月1万1千人の大ミシン工場労働者が女性同僚の労働工程再組織化の抗議に連帯しストライキには入った。
 これでアーサー・マクマナスを含む400人のストライキ指導者やIWGBメンバーとされた労働者が解雇された。
 1910−1914年に特に女性や不熟練労働者による労働者反乱は増加し1900−1910年の4倍以上のストライキ日となった。
 この4年間でスコットランド労働組合会議加盟メンバーは1909年の役12万9千から1914年23万に上昇。
 クライドサイド労働者を第1世界大戦反対に動員するためウィリー・ギャラッチャーデイヴィド・カークウッドジョン・ムイールらにより
クライド・労働者委員会CWCが結成される。CWCはロイド・ジョージ政権の戦時軍需産業法反対運動を進めた。ギャラッチャー
カークウッドはそのため投獄された。職場以外の街頭での反戦活動でジョン・マクリーンILPジェームズ・マクストンも投獄された。
 20世紀初期グラスゴーで住宅問題はもっとも大きなものであった。1915年の貸家の激増は大衆に不評判であった。
 ジョン・ウィートリーエアリ・バーバーらが貸家増加反対運動を行い1915年貸家ストライキを組織化した。これは英国中に広がり
11月政府は貸家を戦前レベルに制限する規制を導入した。
 戦後も40時間労働(マニー・シンウェルら)や労働条件改善運動で労働者っが組織化された。1919年1月31日大衆集会が
グラスゴーの中心の広場で労働組合により開催され9万人が参加。スコットランドの軍隊が労働者側につくのを恐れ政府は反乱と革命
阻止のためイングランドの軍隊を送った。
 1922年の選挙ではILPを中心にマクストンウィートリーシンウェルカークウッドムイールらが下院議員となった。


イギリスのトロツキスト>   系統図

古いトロツキスト) 共産主義者同盟マルクス主義者グループミリタント・グループRSL労働者国際同盟WIL、RCP

 共産主義者同盟はブリテンの最初のトロツキストグループ。1932年CPGBの元メンバーが結成。
 CPGB内でハリー・ウィックスらがトロツキストのバルハム・グループを形成(後国際左翼反対派英国支部)、
1932年追放され共産主義者同盟を結成。1933年トロツキーによりILPに加入するよう指示されたが、指導部は拒否し、
デンジル・ディーン・ハーバーに率いられた小集団がILPでボルシェヴィキ・レーニン主義者分派を結成し、1934年、
マルクス主義者グループを形成、、これにシリル.L.R.ジェームズ南アフリカから移ってきたテッド・グラントらが参加。
 1936年、ILP党会議でグループは第4インター加盟を求め、拒否され追放される。ILPの外でグループはマルクス主義者同盟
と一緒に活動を始めた。
 共産主義者同盟は徐々に発展し、分裂を繰り返し1930年代後半労働党内にボルシェヴィキ・レーニン主義者が形成された。
 そこで共産主義者同盟は解散し、メンバーは労働党に入り、ハリー・ウィックスに率いられマルクス主義者同盟となる。
 ウィックスはマルクス主義者グループの指導者シリル.L.R.ジェームズと親密に活動し1938年両グループ(マルクス主義者
グループとマルクス主義者同盟)は革命的社会主義者同盟(1938)RSLとして合流。

 1935年、労働党に加入したマルクス主義者グループの以前の指導者デンジル・ディーン・ハーバーミリタント・グループ
を結成。これに1934年CPGBから分裂しトロツキストになったジョック・ハストン率いるパディントン・グループが加入。
 1937年、ラルフ・リーに率いられた南アフリカのトロツキスト・グループ(リー・グループ、チャーリー・ヴァン・ゲルデレンなど)が
ロンドンに現れ、ハストンがミリタント・グループに引き入れた。
 1937年、グラント、リー、ハストン、ゲリー・ヒーリーらが分裂して労働者国際同盟WILを結成。

 革命的社会党RSPは当初、国際社会主義労働党と名乗り、社会主義労働者党SLPのスコットランドを基礎とする分派から出現し
1930年代初期にSLPから離れた。1937年ILPに接近したがトロツキストとして拒否された。
 1938年、ジェームズ・キャノンマックス・シャハトマンはロンドンにきて、4つのブリテン・トロツキスト・グループを
統合しようとした。RSLミリタント・グループ革命的社会党RSP、は合流して新革命的社会主義者同盟RSLを結成したが
労働者国際同盟WILは拒否した。新RSLは新第4インターナショナルのブリテン支部となった。彼らは労働党加入に関わった
メンバーの統一戦線としてミリタント労働同盟を維持し、ミリタントを発行した。

 WILは労働党、CPGB、ILP、マルクス主義者グループから補充し成長した。
 RSLと異なり、WILはトロツキーのプルレタリア軍事路線を採用。1941年以降、戦争支持、反ストライキのCPGBに反対。
 WILは労働組合に目を向け、労働党加入に優先させた。ILPメンバーやアナーキストと戦闘的労働者同盟を結成し、労働組合
の活動家を支援した。1943年までノッティンガムの軍需工場に労働者統制を受け入れさせた。
 1944年、第4インターはWILが効果的でFIの政策にRSLより近いと認め、分裂していたRSLとの統合を進め、革命的共産党
RCPが結成された。

 RSLは第2次世界大戦中、敗北主義を採用し、WILに平和主義と見なされた。準職場委員連合が1940年にこの立場を採用、
このため労働党は戦闘的労働者同盟を禁止した。
 RSLの路線はグループ内及びWILとの抗争を巻き起こした。
 1939年、RSLから革命的労働者同盟RWLが分裂した。これには間もなくアイザック・ドイッチャーが加わった。
 1940年、RWL多数派はWILに参加。他は1941年RSLに戻った。別の分裂により社会主義労働者グループが発生し、
これはILPに加わった。この一部が1942年にRSLから追放されたトロツキスト反対派に加わわり、このジョン・ローレンスに率い
られたグループはWILに合流した。
 1943年、平和主義をとる左派(左翼分派)は追放された。
 1944年、第4インターの介入により結局RSLは左派と再統一しWILと新しい革命的共産党RCPを結成した。
 旧RSL左派は労働党加入戦術をとり1945年追放された。左派は1967年までに活動停止。
 左派ハリー・セルビは1974−1979年に労働党国会議員となった。

革命的共産党RCP) 1944−1949年
 1944年、第4インターの介入によりRSL(1938−1944)はWILと新しい革命的共産党RCPを結成した。
 デンジル・ディーン・ハーバージョン・ローレンスが指導した。
 新党は労働党への加入戦術を維持し、この分派はチャーリー・ヴァン・ゲルデレンに率いられ、ミリタントを機関紙として維持した。
 党は産業戦線に焦点を置いた、そこでは1941年以降、CPGBが超愛国主義に転換していた。
 RCPは警察の介入を受け指導者は逮捕された。
 この産業戦線を進めるためILPとアナーキストと一緒に戦闘的労働者同盟を組織した。

 1947年、党は労働党加入戦術問題で分裂した。ジョック・ハストンは反対し、ゲリー・ヒーリージョン・ローレンスは賛成し、
分派を形成した。労働党外での存在は困難だった。RCPのメンバーと影響は衰退し始めた。
 新しい東欧体制がRCP内に議論を巻き起こした。
 斜陽しても新しい方向は見つからず、労働党加入が議論となり、指導部は結局1950年、解散と労働党参加をきめた。
 インターはRCPにヒーリーの加入グループ”クラブ”参加を指示した。
 ハストンらは政治から身を引き、テッド・グラントらはヒーリーから排除された。トニー・クリフ周辺は追放された。
 クリフは雑誌社会主義評論の周囲に支持者を再結集し、グラントは革命的社会主義者同盟RSL(1957−1964年)を形成した。
 RSLは労働党に加入し、1964年雑誌ミリタントを発行しまもなくミリタント傾向となる。
 多くのRCPメンバーは1951年までトロツキズム運動から去った。
 クラブは1959年社会主義労働同盟SLLとして再構築された。SLLは1973年労働者革命党WRPとなる。

 クラブゲリー・ヒーリーに率いられ1950年から労働党内で活動、1957年革命的社会主義者同盟RSL、1959年労働者革命党WRP
社会主義労働同盟)派生。
 テッド・グラントミリタント、国際社会主義者のちの社会主義労働者党SWPもRCPから派生。


国際グループ
 1961年、パット・ジョーダンケン・コーツらがRSLから分裂し国際グループ結成。
 1968年、国際マルクス主義者グループとなり、1969年第4インターナショナル支部となる。

 1985年、国際マルクス主義者グループ社会主義者同盟)から分裂し結成、1987年、社会主義者グループ(1983年WSLから
アラン・ソーネットらが分裂)と合流し国際社会主義者グループとなる。

革命的社会主義者同盟RSL)
 革命的共産党RCPの解散のあとテッド・グラントと彼の支持者はクラブから1950年追放され国際社会主義者グループを結成。
 彼らは第4インターナショナル国際書記局の支持者と合同し1956年革命的社会主義者同盟となる。
 労働党内加入グループは社会主義者戦闘Fightを発行。1958年第4インターナショナル国際書記局支部、1963年再統一
第4インターナショナル支部となる。しかし他の第4インターナショナル支持者(国際マルクス主義者グループ)との統合に失敗。
第4インターナショナルは両者をシンパ支部としたためRSLは第4インターナショナルに背を向けるようになる。
 1964年RSLは新聞ミリタントを創刊しグループはミリタントとして知られるようになる。

 RSLから1962年革命的労働者党RWP、1966年労働者自由連合AWL、1968年国際マルクス主義グループIMG(IMGから
1982年社会主義行動SA、1987年国際社会主義者グループISG、2002年社会主義者抵抗SRが派生)、1997年
イングランドとウェールズ社会党SPEWが派生。

 革命的労働者党RWPは1962年RSLのポサダス派支持者がポサダス派の国際書記局からの分裂で結成。
 RWPはシン・フェイン、黒豹党、を支持し労働党の青年社会主義者内で活動。
 1970年代初め大分裂でデイヴ・ダグラスの支持者が社会主義者連合(国際主義者)結成。
 残留者は依然としてポサダス路線を支持。


国際マルクス主義グループIMG

 1968−1985年。再統一第4インター支部。1970年代は1000名、1983年は約700人のメンバー。
 パット・ジョーダンケン・コーツが結成した国際グループからIMGは出現した。
 彼らは1956年CPGBのノッチンガム大会で分裂した。彼らは1950年代短期間革命的社会主義者同盟(1957−1964年)
RSLのメンバーであった。
 彼らは1961年RSL指導部に反対し分裂し国際主義者グループを結成し、(RSL同様)第4インターに加盟。
 ISFIが再統一第4インターに代わりその統一書記局はRSLに国際主義者グループとの統一を提言した。
 1964年、しかし統合は受け入れられなかった。
 国際主義者グループは以前のSLLの一部(チャーリ・ヴァン・ゲルデレンら)と国際グループを結成。
 1965年FIはRSLをシンパ・グループに降格し、国際グループを同じ地位とした。
 RSLはFIを去りミリタント傾向となった。国際グループは労働党に加入した。
 1968年、国際グループは国際マルクス主義者グループIMGとなった。1969年、再統一第4インターブリテン支部となる。
 グループは学生運動と労働運動に注力し、組織的加入戦術は放棄するようになった。
 革命的共産主義者同盟が1969年、労働党加入を希望するIMGからの追放者とミリタント傾向の2つのグループからのメンバー
により結成された。
 1968年、パット・ジョーダンがインターナショナル(1969−1980)発行。IMGの種々の潮流が種々の新聞を発行。
 潜行していた加入が破られた。
 1968年、タリク・アリが黒い小人発行。この新聞の創造性・多様性は多くの人を惹きつけ、ジョン・レノンも友好的だった。
 RSLやSLLが活動しなかったベトナム連帯運動ラッセル法廷で活動しアーニー・テートが著名である。
 労働者統制研究所と革命的社会主義者学生戦線ではピーター・ゴーワンとマレー・スミスが活発であった。
 IMGはヴェトナム、キューバ、チェコスロヴァキア、南アフリカ、ボリヴィア、メキシコとの国際連帯運動を支援した。
 国内では1970年代、議会政治を拒絶した。
 1970年、黒い小人編集部がレーニン主義問題で分裂、赤いもぐら発行。IMGメンバーはニュー・レフト・レヴューの発行
にも参加。タリク・アリロビン・ブラックボーン、クインティン・ホアレらが編集に加わった。
 1973年、レッド・ウィークリーに代わる。
 1970年代いくつかの緩いグループが形成された。
 アラン・ジョーンズ、ブライアン・グローガンらの指導部、パット・ジョーダンタリク・アリニュー・レフト・レヴューの編集者の
IMG支持者の著名な少数派、米国SWP支持少数派、WSLに移行した小グループ。
 1976年、マルクス主義労働者合流。
 1977年社会主義者挑戦がレッド・ウィークリーにとってかわる。
 1979年総選挙では社会主義者統一を発議、当初SWPとの連合が提案されたが拒否され、準毛派のビッグ・フレーム
(1980年アナーキストが合流したが1983年解散)が参加した。
 1980年、トニー・ベンの運動がIMGを労働党に目を向けさせる。
 1981年、革命青年を結成、労働党青年社会主義者に加入。
 労働党加入の第2の波が訪れ、1982年USFIの小さなグループ社会主義行動同盟と統合し労働党に加入。
 1982年社会主義者同盟(あるいは社会主義行動)と改名し労働党に完全加入。
 ケン・リヴィングストンアーサー・スカージルのような人物とどう関係すべきかで異なった潮流発生。
 1984−1985年鉱山ストライキの敗北で3グループに分解。
 最大少数派が1985年、国際グループ結成。1987年社会主義者グループと統合国際社会主義者グループとなる。
 多数派はケン・リヴィングストンアーサー・スカージルを支持、社会主義行動として加入。
 1988年、第3派が共産主義者同盟結成。

 労働党議員のキャサリン・ホーイが1960年代参加。

マルクス主義労働者MW)
  労働者戦闘WF(のちの労働者自由連合AWL)のボルトン支部が1976年の労働者の力との合同に反対し結成。
  1970年代末国際マルクス主義グループIMGと合同、一部はかわりに選挙ブロック社会主義者統一でのIMGの相棒の大炎
 ビッグ・フレーム)に参加。
  大炎は1970年リヴァプールで結成された革命的社会主義者フェミニスト組織。グループは革命党は必要だが大炎
 党でもその胚芽でもないとした。このグループはイタリアの継続闘争(ロッタ・コンティヌア)の影響を受ける。
  メンバーはヘイルウッドとダーゲンハムのフォード工場で活発であった。彼らはリバータリアン・マルクス主義者と自己規定
 するようになった。1978年国際マルクス主義グループIMGの選挙ブロック社会主義者統一に参加。
 1980年リバータリアン共産主義者グループが大炎に参加。この頃革命的マルクス主義者潮流も参加。
 1978年の最盛期で約160のメンバー

革命的マルクス主義者潮流
  1972年のIMGとその青年組織スパルタクス同盟合同の際以前の主要な指導者(パット・ジョーダン、ボブ・パーディー)が交代させられた。
  これらのかなりはもともとはオックスフォード支部メンバー(ジョン・ロス、ボブ・ペニングトン)で2年前路線変更を提案していた。
  新指導部は労働者階級に向かう路線を希望し、選挙ごとに争点に飛び移るのを終えたかった。しかし新指導部は長続きしなかった。
  1973年協議会には6グループが存在し、1973年末には新指導部の著名な人物(タリク・アリ、ピーター・ゴーワン、ロビン・ブラックボーン)
 が反対派となった。
  左翼反対派傾向LOTは旧オクスフォード・グループ(政治委員会参加)とマンチェスター・グループ(のちに大炎に参加)によって1973年
 結成され、著名なメンバーを含まなかった。主な批判は現実を省みず保守党政府倒閣のためのストライキを労働者に呼びかけていたこと。
  1973年協議会で6グループ中3番目で13.4%獲得。LOTは間もなく解散。1974年に旧LOT支持者の多くがIMGを去る。
  旧LOTの一部が1975年革命的マルクス主義者潮流RMC結成。
  RMCは1974年から労働者戦闘WFとの再結集を議論、1976年にはマルクス主義労働者グループとの結集を議論。
  しかしRMCはメンバー拡大に失敗し1977年大炎に参加。

社会主義行動同盟
  1976年国際マルクス主義グループIMGの米国社会主義労働者党SWP支持者が分裂結成。再統一第4インターナショナルに所属。
  労働党に加入。1982年IMGに再合流。

共産主義者同盟
  1988年社会主義行動SAから追放されたメンバーが結成。米国社会主義労働者党SWPの開拓者傾向に参加。
  2005年総選挙で2名、2010年選挙で1名(エディンバラ南西で48票)立候補。

国際社会主義者グループ
 1987年国際グループ社会主義者グループが結成。このグループは労働党内で活動、1990年代の労働党左派の後退の影響
を受け分裂を繰り返した。
 労働党左派内で活動し労働短信を支持、広い左派(ブロード・レフト)ないではチェスターフィールド社会主義運動(レイモンド・ウイリアムズ、
ラルフ・ミリバンドらの社会主義者協会ニュー・レフト・レヴューから出現)、社会主義キャンペーン・グループ)を支持。
 1989年社会主義者労働者グループ、1990年社会主義者同盟、1992年労働者自由連合からそれぞれ小グループが参加。
 2009年社会主義者抵抗に合流。

社会主義者労働者グループSLG)
  1979−1989年に存在したトロツキスト・グループ。
  SLGは1971年の第4インターナショナル国際委員会の分裂(英国社会主義者労働者同盟SLLのゲリー・ヒーリーとフランスのランベール派の
 国際主義共産主義者組織との分裂)に起源する。
  SLL創設者のベティ・ハミルトンは1971年ランベールに味方し孤立していが1974年までSLLにとどまる。
  ジョン及びメアリ・アーチャーは労働党からの引き上げに不満で1960年代中SLLから分裂し引き続き労働党内で活動。
  彼らに1970年代初期SLLでヒーリーと衝突(WRP化でスターリニスト化したと批判)したロビン・ブリック、マーク・ジェンキンスが1975年接触。
  ハリー・ヴィンスとケン・ストラドフォードは1960年代末期SLLと衝突し労働者戦闘(1966年マットガンマがRSLから分裂)に参加するも
 追放され社会主義行動を結成。
  フランス人の旧SLLメンバーのレジス・フォジエがSLLの外でハリー・ヴィンス、ケン・ストラドフォードを含む支持者グループを組織化。
  1972年からフォジエはOCIと接触、1973年からはハミルトンと接触。
  1974年末ロビン・ブリック、マーク・ジェンキンスのグループとフォジエ、ヴィンスの2つのグループがブルティン・グループ
 (マルクス主義者ブルティン)となる。これはランベールの第4インターナショナル再建組織委員会派。
  1974年には同じくSLLの反対派のアラン・ソーネットらが追放され労働者社会主義者同盟WSL結成。
  WSLの分裂によりSLL内での影響は急速に低下し内部緊張が生じる。
  ブリック、ジェンキンスのグループがOCI支持者から離れ更に1976年頃トロツキー・レーニン主義に疑問を持ち始めブルティン・グループから去る。
  ベティ・ハミルトンらと不和なグループが新しい学生メンバーを結集しブルティン・グループ維持し、一部が労働党に加入。
  ベティ・ハミルトンらは第4インターナショナル再建ブリティッシュ委員会を結成し分裂。
  両者がOCRFIに参加。
  ハリー・ヴィンスは1975年アイルランドに移る。
  ジョン及びメアリ・アーチャーはランベール派支持であったが、ハミルトン、ストラドフォードと敵対。
  1979年ヴィンスが戻り、両グループは社会主義労働グループSLG結成。1981年IMGからマイク・フィリップスらモレノ派の一部参加、
 SLGは第4インターナショナル再建同格委員会に加盟。
  SLGは依然労働党内で活動。
  1985年ランベール派内でランベールの楽観的革命予想とラテン・アメリカでの戦術に対して内部批判が起こり、1987年SLGの指導部の
 多くが再建国際センターFI−ICRのルイス・ファヴルカミロ・ゴンザレスらのグループ側につく。
  1989年までにSLGは解散し、残存メンバーは国際社会主義者グループISGに参加するがほとんどは数年でこれを去る。
  フランスの国際主義労働者組織OCIに忠実なグループ(チャーリー・カラランブス)とISGに入ったFI-ICR支持者は
 1991年欧州労働者連合ブリティッシュ委員会を結成し労働党に加入。
  労働者インターナショナル国際連絡委員会のブリテン支部は小さなグループで時々労働者統一を発行。

社会主義者抵抗
 社会主義者抵抗は2002年社会主義連帯ネットワーク、国際社会主義者グループ、その他個人が結成。
 創設メンバーにはスコットランド社会党SSPの指導者(フランス・カランカトリオナ・グラント)、戦争を止めろ連合のアンドリュー・バージン、
社会主義者連合のメンバーを含む。

 社会主義連帯ネットワークは主に旧社会党(イングランドとウェールズ)メンバーが結成し、イングランドでは社会主義者連合、スコットランドでは
スコットランド社会党を支援。長い間ミリタント・メンバーであったレスリー・マフムド、以前の社会主義者展望Outlook(国際社会主義者グループ
機関誌)編集者フィル・ハースらが支援。
 2002年社会主義民主グループ吸収、2003年国際社会主義者グループ社会主義者抵抗発行。
 社会主義民主グループは1998年旧ミリタント傾向と社会主義展望のスコットランド社会党支持者が結成。

革命的共産主義者同盟RML)
 1969年、労働党加入を希望する国際マルクス主義者グループIMGからの追放者とミリタント傾向の2つのグループからのメンバー
により結成された。同盟は労働党議員左派のトリビューン派と社会主義憲章を推進。
 1973年に右に移行、中心メンバーのアル・リチャードソンらはグループから離れた。分裂が展開し右派は労働調整委員会に接近、少数派は
労働短信に関係。

社会主義行動
 1982年、国際マルクス主義者グループが労働党に加入し結成。公式には社会主義者同盟。指導者ジョン・ロス
 雑誌社会主義行動は1983年3月発刊。
 1983年のミリタント追放で公然活動をやめ秘密行動をとるようになる。1980年代中に約500のメンバー。
 1985年フィル・ハースらの少数派が国際グループ(1985)結成、1987年、社会主義者グループと合流し国際社会主義者グループISGとなる。
 残りの多数派のひとつは親米国社会主義労働者党グループ(開拓者傾向支持グループ)でジョン・ロスらにより追放され
1988年共産主義者同盟結成。
 1991年一部が国際社会主義者グループISGに参加。
 ISGは労働党内で活動しケン・リヴィングストンおよび議員グループ社会主義運動グループの支持者となった。
 2000−2008年まで大ロンドン市長ケン・リヴィングストンと深く関係、ジョン・ロスら数人の社会主義行動メンバーがアドヴァイサーとなる。
 全国中絶運動、核非武装運動人種主義反対全国会議、各種戦争反対運動などの各種運動に参加。
 ISGは1991年再統一第4インター派となったが、1995年社会主義行動が代わって再統一第4インター支部となった。
 2001年社会主義行動発行停止。
 2007年レスペクトに参加。

ミリタント傾向MT  ミリタントの興隆
 1964年、労働党加入グループが結成。1975年、加入戦術が労働党により暴露される。
 1985年からの労働党の一連の動きでミリタントの労働党への影響は終わる。1991年、最終的に労働党を諦める。
 1997年社会党(イングランドとウェールズ)となる。

 テド・グラント、ジミー・ディーンピーター・ターフェらの革命的社会主義者同盟RSL(1957−1964年)は労働党に加入し、
1964年雑誌ミリタントを発行しミリタント傾向となった。
 1969−1972年にミリタント支持者は労働党青年社会主義者多数派となり始め1972年にはっきりと全国委員会多数派となった。
 1972年労働党全国大会でミリタント支持者のパット・ウォール、レイ・アップスが主要独占企業の公有化をを求める動議を提案し
3501000対2497000で通過。
 1983年総選挙でミリタント支持者テリー・フィールズリヴァプール・ブルードグリーンから当選。コンヴェントリー北東からは
デイヴ・ネリストが当選。これは1966年の国際社会主義者グループのシド・ビドウェル以来のことであった。
 1983年労働党全国執行委員会はミリタント編集部のピーター・ターフェ、テド・グラントら5名を追放、これは大労働組合の支援で
全国大会で5160000対1616000で承認された。
 1991年国会議員テリー・フィールズが労働党から追放される。同年のミリタント全国編集部会合で公然転換派が多数派となる。
 多数派はミリタント労働と称し、テド・グラント、アラン・ウッドの少数派は雑誌社会主義の訴えの周辺に結集。
 ミリタント労働は1997年社会党(イングランドとウェールズ)となる。

社会主義の訴え
  1991年のミリタント傾向の公然転換を巡る議論で93%がこれに賛成(ピーター・ターフェら)し社会党(イングランドとウェールズ)が
 結成されたがこれに反対した、テド・グラント、アラン・ウッドらは1992年ミリタント傾向を追放されマルクス主義者インターナショナルを
結成。国内的には雑誌社会主義の訴えを発行し結集し労働党内にとどまる。
 2006年からマルクス主義者インターナショナルは国際マルクス主義者傾向となる。

労働者革命党 (WRP)

 トロツキスト、1970年代ないし1980年代初期結成。
 WRPは革命的共産党RCPのゲリー・ヒーリージョン・ローレンスの分派から成長。RCPは労働党への加入を主張し、
第4インター指導者もこれを議論した。多数派は1947年これを拒否、ヒーリーらの分派は分裂し労働党内でクラブとして活動。
 翌年RCP多数派はクラブ参加を決定。
 1948年、労働党左派組織結成のためクラブに労働党左派と労働組合指導者が参加し新聞社会主義展望を発行。
 1953年第4インター国際委員会ICFIが結成されクラブがブリテン支部に認められた。
 社会主義展望は1954年労働党によって禁止され、クラブは雑誌トリビューンを配布。
 ハンガリー革命でのCPGBに態度への幻滅した人々(ピーター・フライヤークリフ・スローターなど)と労働組合
ブライアン・ベハンなど)から補充されてグループは成長した。これにより1959年、独立の始めての公然組織として
社会主義労働者同盟SLLが結成された。彼らは依然労働党にとどまり、その青年組織青年社会主義者で活動し、
1964年解散されるまでその支配権を握った。
 1959年、フライヤーが去り、1960年、離脱者が連帯を結成、これはコルネリウス・カストリアディスに強く影響されていた。
 1963年、SLLの指導部は自分たちをブリテンの革命派であるべきと主張し、党結成を重要と考えた。
 日刊紙ワーカー・プレスを1970年代発行、メンバーの転向が増加し警察の浸透を恐れ始めた。
 この頃労働者革命党WRPとなる。
 世間の注目を浴びるようになり、党内外の不和が話題に上るようになった。
 その1例がカナダ人トロツキストのアーニー・テートの警察による攻撃事件である。
 労働党を去り、WRPはサダム・フセインやガダフィ大佐などのアラブ民族主義者グループ支援を主張した。
 1970年代中にメンバーが徐々に減少したがヴァネッサ・レドグラヴ(著名女優)などが加わった。
 アラン・ソーネット(CPGBから1966年SLL加入)が追放されたとき大きな分裂が起こり、労働者社会主義者同盟が結成された。
 これにはテリー・イーグルトンが参加。
 1979年分裂により労働者党が結成された。労働者党は国際レーニン主義労働者党更に経済・哲学科学評論となりスカーギルの
SLP結成でこれに参加するが間もなく多くが再び分離。
 1980年代初期新聞はWRPがガダフィから財政的支援を受けていると主張、またリビアやいくつかの中東政府から金を受け取って
いたといわれる。
 1980年代初期党はゲリー・ヒーリーとシェイラ・トレンスのグループWRP(ニュースライン)とクリフ・スローターのグループWRP
(ワーカーズ・プレス)に分裂した。
 1987年、ヒーリー派WRPが分裂、労働者国際同盟が結成されすぐに労働者行動となる。
 1986年、ICFIでヒーリーと米国労働者同盟のデイヴィド・ノースが衝突し、ICFIが分裂した時、ノースのICFI支持派はWRPを離れ国際共産党を結成、
1996年社会平等党SEPとなる。
 1986年、ヒーリー派はWRP(ニュースライン)を追放し、ヒーリーはヴァネッサおよびコリン・レドグラヴマルクス主義党(ー2004年)を結成した。
 マルクス主義党は1989年のヒーリ死後斜陽し、1990年、分裂し共産主義者同盟が結成される。
 共産主義者同盟は2005年勝利のために世界A world to winとなる。
 WRP(ワーカーズ・プレス)は分裂に苦しみ、一部は分裂後すぐに再分裂しモレノの国際労働者同盟に参加。
 1990年ワーカーズ・プレスのグループはバルザス・ナジ(ミッシェル・ヴァルガ)の反対派グループ・第4インターナショナル継続(ヴァルガが
 自分の第4インターナショナル再建国際同盟から追放され1984年結成)などと第4インターナショナル再建労働者インターナショナルを結成。
 WRP(ワーカーズ・プレス)は1996年、社会主義運動クリフ・スローター)となった。
 トレンスのWRP(ニュースライン)が現在はWRPとして存在している。
 2015年選挙では7名の候補で488票。

 WRPからは1960年連帯、1985年社会主義運動MFS、1986年社会主義平等党、1987年マルクス主義者党(1990年共産主義者同盟
分裂)、労働者国際同盟、2004年平和進歩党P&Pが派生。

労働者社会主義者同盟WSL)
  アラン・ソーネットらが労働者革命党から追放されて1974年結成。
  ソーネットらはWRPの転換をセクト主義と考え、これはWRPを孤立化させると主張し、トロツキーの過渡期綱領に戻ることを要求。
  トニー・リチャードソンテリー・イーグルトン、ジョン・リスターらがこのグループの著名な人物。
  最盛期でメンバーは150を越える事はなかった。1970年代末には労働運動は衰退しWLSはメンバーを減少し、党内抗争も起こった。
  1975年アメリカ人によりスパルタクス主義者ロンドンが結成された。スパルタクス主義者とWSLは第4インターナショナル国際委員会
 共通の過去をもっていたのでスパルタクス主義者はWSLからメンバーを勧誘し、1977年レーニン主義者分派fractionを結成。
  レーニン主義者分派は1978年分裂しスパルタクス主義者ロンドンとスパルタクス主義者同盟を結成。
  1979年には他のWSLメンバーもスパルタクス主義者に勝ち取られトロツキスト分派となる。
  1979年保守政権は労働組合に攻勢をかけ、そのため労働党は左傾化し、トロツキストの注目を引いた。
  1980年までWSLは基本的に労働党内で活動し、これがトニー・ベンの労働党左派とどう関係するかで内部差異が生じた。
  また国際共産主義者同盟との合同問題も発生。1981年合同がなり労働者社会主義者同盟が結成され、新聞社会主義者組織者
 発行される。
  労働者社会主義者同盟はトロツキスト・インターナショナル連絡委員会に参加。
  しかし主にフォークランド戦争を巡って内部抗争が発生。1982年までに旧国際共産主義者同盟のショーン・マットガンマ周辺、
 アラン・クリントン周辺のグループ、旧WSLよりなる第3グループの3派の分裂。トロツキスト・インターナショナル連絡委員会の多くの党は
 第3グループを支持、このグループは1983年国際主義者傾向を結成、すぐに国際主義者ファクションを名乗る。しかし国際主義者ファクション
 内で不和が生じ一部が労働者の力に参加。
  1983年のトロツキスト・インターナショナル連絡委員会集会でアラン・ソーネットに対してショーン・マットガンマの修正主義と闘う事を
 要求されWSLは集会から去り、トロツキスト・インターナショナル連絡委員会に同情的な国際主義者ファクションはWSLから追放され
 労働者国際主義者同盟結成。
  その後ショーン・マットガンマの支持者とアラン・ソーネットの支持者が分裂し、1984年アラン・ソーネットのグループが追放される。
  ショーン・マットガンマの支持者はやがて社会主義組織者という名をとる。
  アラン・ソーネットのグループは社会主義者グループとなる。これは1987年国際主義者グループと合同し国際社会主義者グループとなる。

社会主義運動MFS)
  1985年の労働者革命党の分裂の後、ワーカーズ・プレスのグループはクリフ・スローターとマイケル・バンダによって率いられていたが、
 マイケル・バンダが去り1986年共産主義者フォーラムを結成。(共産主義者フォーラムは翌年マルクス主義者哲学フォーラムとなりまもなく消滅)
  初期の別の分裂で国際共産党、のちの社会主義平等党が生じる。
  1987年ビル・ハンターマーティン・ラルフらの少数派がボルシェヴィキ・ファクションを結成し、1988年分裂してナウエル・モレノ派の
 国際労働者同盟支部としての国際社会主義者同盟を結成。
  国際社会主義者同盟はイングランドの北西で活動中で、社会主義者連合で活動している。
  1990年ワーカーズ・プレスのグループはバルザス・ナジ(ミッシェル・ヴァルガ)の反対派グループ・第4インターナショナル継続(ヴァルガが
 自分の第4インターナショナル再建国際同盟から追放され1984年結成)などと第4インターナショナル再建労働者インターナショナルを結成。
  1996年WRPという名を放棄し社会主義(のための)運動となるが、まもなく分裂しスローターのグループは社会主義運動の名を使用し
 他のグループは第4インターナショナル再建労働者インターナショナルWIRFIで通す。

[社会主義平等党]
  第4インターナショナル国際委員会ICFI参加。
  起源はWRPにあり、この多数派が1986年ICFIから分裂したときにWRPのICFI支持者が分裂してシェフィールドを拠点に国際共産党を結成。
  国際共産党は1995年社会主義平等党となる(ICFI加盟諸党は社会主義平等党となる)。

マルクス主義者党
  1987年シェイラ・トランスのWRPからゲリー・ヒーリーヴァネッサおよびコリン・レッドグレイヴらが分裂して結成。
  1989年のヒーリー死後斜陽し、1990年追放されたグループが共産主義者同盟(社会主義未来運動)を結成。
  マルクス主義者党は2004年解散しレッドグレイヴ姉弟は人権のリベラル原則を支持する平和進歩党P&P結成。

労働者自由連合AWL (1969年−)1993年−
 1966年、ショーン・マットガンマミリタント・傾向革命的社会主義者同盟RSLを内部志向と批判し、RSLから
追放され、労働者戦闘WFを結成、1969年、国際社会主義者IS(のちSWP)の申し出を受け入れ、分派トロツキスト傾向となる。
 しかしトロツキスト傾向はISと意見の相違があり、ISからの離脱を要求される。
 1975年、労働者の力(旧IS内左派分派)と統合し国際共産主義者同盟ICLとなる。小集団がマルクス主義者労働者グループ
を形成しのち国際マルクス主義者グループIMGと統合。労働者戦闘は労働者行動と名を変える。1976年労働者の力グループの多くが分裂し独立。
 ICLは労働党内で活動を行い、1978年、労働者勝利社会主義者運動SCVLを立ち上げる。
 これに労働党左派が関係し、SCVLの新聞社会主義者組織者を支援するが、数々の議論により労働党左派は社会主義者組織者
から撤退する。1979年まで機関紙・誌が廃止され、これが労働党への加入に影響する。
 1981年、ICLはアラン・ソーネット労働者社会主義同盟WSLと合流しこれは労働党に加盟。これはフォークランド戦争
で分裂。
 社会主義者組織連合が労働者勝利社会主義者運動から発展し、マットガンマの分派(WSL内)となる。
 グループは労働者学生全国組織NOLSで学生組織化を決め、社会主義学生を結成し、全学連内で運動。
 1990年社会主義者組織者が労働党により禁止され、これにより社会主義者組織連合が解散。
 1985年WSLが分裂、社会主義者グループが結成され、これは1992年、国際グループと合流国際社会主義者グループとなった。
 1992年、小集団が離脱し、国際社会主義者グループに参加。
 1993年、社会主義者組織者の編集者が労働者自由連合AWLに乗り出すがこれは徐々に労働党から焦点を移す。
 1998年、AWLは社会主義者連合設立を支援。後に社会主義者連合民主綱領を支援し、2005年、総選挙では
社会主義者緑統一連合の一部として候補を立てた。
 自由教育運動非商業教育を通じて英国全学連NUSに影響、2004−2006年、キャスリン・フレッチャーがNUS議長となるが、
間もなくグループを離れ右派組織へ移る。

社会主義労働グループSLG)
 1979−1989年に存在したトロツキスト・グループ。
 SLGは1971年の第4インターナショナル国際委員会ICFIのヒーリー派(英国社会主義労働者同盟SLL)とランベール派(フランス
国際主義共産主義組織OCI)の分裂にに由来する。
 SLL創設者のベティ・ハミルトンは1971年ランベールに味方し孤立していが1974年までSLLにとどまる。
 ジョン及びメアリ・アーチャーは労働党からの引き上げに不満で1960年代中SLLから分裂し引き続き労働党内で活動。
 彼らに1970年代初期SLLでヒーリーと衝突(WRP化でスターリニスト化したと批判)したロビン・ブリック、マーク・ジェンキンスが1975年接触。
 ハリー・ヴィンスとケン・ストラドフォードは1960年代末期SLLと衝突し労働者戦闘(1966年マットガンマがRSLから分裂)に参加するも
追放され社会主義行動を結成。
 フランス人の旧SLLメンバーのレジス・フォジエがSLLの外でハリー・ヴィンス、ケン・ストラドフォードを含む支持者グループを組織化。
 1972年からフォジエはOCIと接触、1973年からはハミルトンと接触。
 1974年末ロビン・ブリック、マーク・ジェンキンスのグループとフォジエ、ヴィンスの2つのグループがブルティン・グループ
(マルクス主義者ブルティン)となる。これはランベールの第4インターナショナル再建組織化委員会派。
 両グループは労働党に加入。・ブリック、ジェンキンスのグループはOCIから離れる。このグループはトロツキズムーレーニン主義に疑問を持ち始め、
1976年頃ブルティン・グループから去る。
 ハリー・ヴィンスは1975年アイルランドに移る。
 ジョン及びメアリ・アーチャーはランベール派支持であったが、ハミルトン、ストラドフォードと敵対。
 1979年ヴィンスが戻り、両グループは社会主義労働グループSLG結成。1981年IMGからマイク・フィリップスらモレノ派の一部参加。
 SLGは依然労働党内で活動。
 しかし1985年からOCIが分裂し始め、ヴィンスはランベール派の批判を始める。SLGの多くはルイス・ファヴル派を支持。


赤党
 2004年、CPGB(準備中央委員会)労働者自由連合AWL、平和党(1996年結成)の旧メンバーが結成。
 政治的にはCPGB(準備中央委員会)の赤色綱領の継続的要素がある。これは2004年CPGB(準備中央委員会)レスペクト−統一連合
の選挙支援に反対し社会主義者連合民主綱領に復帰させることを目的とする。これには勝利したが雑誌出版論争で多くのメンバーが去る。
 2005年、意見の相違により分裂、モーリス・ブリンストンの著作と連帯の影響で労働者自由連合に向かう者が発生。
 残ったメンバー(赤い星)は自分たちを絶対自由左翼の一部と考え、階級戦争アナーキスト連合、サレイ・アナーキスト・グループで
活動する同志がおり、絶対自由マルクス主義を維持し、社会主義連合(準備)を通して伝統左翼とも関係。

連帯
 1960年社会主義労働者同盟から追放されたグループが結成。コルネリウス・カストリアディス社会主義か野蛮かの影響を受ける。
 知識人指導者はクリス・パリスモーリス・ブリンストン)。
 メンバーは少なかったが出版活動で影響を与える。1960年代初期は平和運動の100委員会、1980年代初期はポーランド連帯運動などで
主要な役割を果たす。1981年まではロンドンのグループと全国的組織が存在、ロンドン・グループは1992年まで出版活動を行う。
 左翼共産主義者の世界革命国際共産主義者潮流)や準ボルディガ派の共産主義者労働者組織(1970年代中結成、革命党国際局所属)
にも影響を与える。

〔スコットランド社会党SSP
 スコットランドの左翼政党で社会主義者の経済綱領とスコットランド独立を運動する。
 支部構造と支持者網または運動グループや党内の開かれた分派(プラット・フォーム)よりなる。
 
 SSPは1997年の選挙での連合の結果から新スコットランド政府の最初の選挙に単一党で参加するためスコットランドの
左翼連合組織であるスコットランド社会主義者連合(1996−1998、社会主義者グループが形成)から形成された。
 結果は思ったよりよく、全国会議招集者トミー・シェリダンがグラスゴーから選出された。
 更にスコットランドの社会主義労働者党SWPが参加し、また鉄道・海運・運輸労組RMTが党に加盟した。
 2003年には5議席増の6議席となった。
 2004年、トミー・シェリダンが個人的理由で代表convenerから辞任しコリン・フォックスに代わった。
 2006年、シェリダンは離党し連帯を結成すると宣言。
 2007年選挙では全議席を失い、得票率で社会主義労働党SLPの後塵を拝した。
 (連帯1.5%、SLP0.7%、SSP0.6%、2003年は6.7%)
 2010年UK総選挙は3157票。
 2015年選挙は4候補で875票。

 現在のプラット・フォームは共和共産主義者ネットワーク(1999年ー)、労働者統一プラットフォーム(1999年ー)、連帯傾向
(2006年ー、労働者自由連合支持者よりなる)、以前のプラット・フォームには国際社会主義者運動(1999−2006年)、
国際社会主義者(2001−2006年)、この2者は労働者インター委員会CWI英国支部から出現、スコットランド共和社会主義者
運動(1999−2006年、スコットランド共和社会党から出現)、社会主義労働者党SWPのスコットランド支持者(2003−2006年、
2006年連帯参加)、統一左翼(2006−2007年)。

社会主義労働党SLP〕 Socialist Labour Party
 1996年、全国鉱員労組NUM指導者アーサー・スカーギルがトニー・ブレアの労働党の方針に反対して結成。
 著名な労働組合活動家のミック・リックスGMB執行委員)、ボブ・クロウRMT書記長)やCPGB(準備中央委員会)
革命的民主グループ(1980年代SWPから分裂)、共産主義労働者連合ACW、国際ボルシェヴィキ傾向(トロツキスト)、
経済・哲学科学評論グループ(元労働者革命党WRPでトロツキズムを拒絶しML派となる)などが参加。
 スカーギルのそのような組織やトロツキストへの不信から彼らは追放された。
 2004年ハーパル・ブラーの周辺が英国(イギリス)共産党CPGB(ML)結成。
 スカーギルは最初経済・哲学科学評論グループや第4インター支持者幹部を受け入れるつもりであった。
 2001年総選挙で0.2%、57288票(SSP0.3%、72516票、社会主義者連合0.2%、社会党0.0%、CPB0.0%)
 2005年もほぼ同様の結果。
 2015年選挙は8候補で3481票。

社会党(イングランドとウェールズ)〕
 労働者インタ−委員会に所属。選挙では社会主義者選択を名乗る。
 以前のミリタント傾向MTでこれは1964年、労働党内で活動する、労働者と青年のマルクス主義者の声として結成された。
 1983−1987年にリヴァプール市議会の保守党政権にたいする闘争で主導的役割を果たした。
 1980年代ミリタント傾向は労働党議員テリー・フィールズデイヴ・ネリストパット・ウォールを支持。
 1980年代、労働党を去る前、MTは全ブリテン反人頭税連合を率い不払い運動を通し、サッチャーを打ち破った。
 これに関わったMTの労働党議員テリー・フィールズは追放された。
 1991年MT内で労働党内で活動しつづけるべきかどうかの議論が起こった。
 大部分は公然の転換を支持し、テド・グラントTed Grant周辺の少数派は分裂し労働党内にとどまり社会主義者の訴えを形成した。
 スコットランドではスコットランド・ミリタント・労働者の名でトミー・シェリダンが獄中立候補した。
 MTは1990年、労働党を去りミリタント・労働者を名乗った。1997年社会党に変えた。
 英国社会党の抗議によりイングランドとウェールズの社会党として知られるようになり、選挙では社会主義者選択と表現する。
 社会党は社会主義連合を結成したが2001年に去った。
 2005年選挙では単独で約9000票獲得。
 2005年新労働に代わる新広い左翼の選択肢の新労働者党運動に乗り出し、元労働党議員で市議会議員のデイヴ・ネリスト
議長となった。労働党議員ジョン・マクドネルも賛意を表した。
 2008年の新労働者党運動協議会議論フーラムにはボッブ・クローデイヴ・ネリスト、労働左派シメオン・アンドリュー、リスペクト
代表ロブ・ホウヴマンが参加。公共・商業サーヴィス組合PCS、公務員組合UNISON、大学組合UCUの労働組合幹部も多く署名。
 2009年EU選挙のため鉄道・海運・運輸全国組合RMTボッブ・クロー率いる”EUにノー、民主制にイエス”に参加。
 EUにノー、民主制にイエスには緑社会主義者連合、ブリテン共産党CPB、インド労働者協会、社会党(イングランドとウェールズ)、
社会主義抵抗(2002年社会主義連帯ネットワーク国際社会主義者グループが結成)、連帯が参加。
 結果は153256票、1%で11番目でアーサー・スカージルの社会主義労働党(173115票、1.1%)にも遅れをとった。
 他はスコットランド社会党10404票、19位、SPGP(英国社会党)4050票。

社会主義労働者党SWP 歴史
 革命的社会主義者の伝統に立つブリテンの極左の最大政党。
 1名の国会議員ジョージ・ギャロウェイGeorge Gallowayと少数の地方議員との選挙連合の尊敬(レスペクト)連合の一部である。
 スコットランドではSWPはスコットランド社会党SSPの綱領(プラットフォーム)としてあるがトミー・シェリダン.と新しい政治グループ
追求のため2006年分裂をきめた。その年の末にSWPは新選挙連合連帯のメンバーとなった。
 世界的には国際社会主義者傾向(トロツキスト).に参加している。学生組織は社会主義労働者学生協会

 社会主義労働者党の起源は1951年設立会議が開催された社会主義評論グループにある。
 このグループはトニー・クリフTony Cliff(ソ連=資本主義官僚国家説)の周辺にあり革命的共産党(1944−1949)を追放された。
 大衆化のため労働党で活動する立場をとっている。重要なのは青年労働同盟である。
 1962年社会主義評論グループは国際社会主義者ISグループとなった。
 核非武装運動と労働党内青年運動を通して新しい世代を獲得した。
 1968年のベトナム連帯運動で学生から多くのメンバーを得て組織は400人から1000人に拡大した。
 しかし多くの分裂に苦しんだ。
 1968年革命的統一を呼びかけたがマットガンマの労働者戦闘(後の労働者自由連合)だけが参加、これも1971年追放。
 1970年代初期工場支部設立に取り組み、1972年3月から1974年3月までに2351人から3310人に増え、多くの
手工業労働者が加入した。 トニー・クリフは1970−1974年を人生のもっともよき時代とのべた。
 1974年労働党が政権に戻り社会契約が導入され、また組合専従者が増え、労働組合活動家の戦闘性が低下した。
 工場支部は1974年の38から1976年は2ないし3になった。
 1973年革命的共産主義者グループを形成する(1975年)グループが追放される。
 1974年左派のデイヴ・ストッキング労働者の力が追放される。
 1975年労働者同盟が分裂。
 1977年、国際社会主義ISグループは社会主義労働者党と改名した。
 1970年代国民戦線NFが街頭で目立つようになった。1977年8月13日、地域の多くの黒人青年を含む数千の
反ファシストがNFの行進を阻止した。これにより反ナチ同盟ANLがSWPと労働左翼グループによって提案された。
 これは他のトロツキスト・グループと共産党の支持を受けた。
 ANLは1976年エリック・クランプトンの提案に応え反人種主義の大ロック・カーニヴァルを開催した。
 1976−1979年に組織危機発生。1982年までに宣伝戦術に転換、戦闘者運動設立放棄。女性組織女性の声も解散。
 1984−1985年鉱山ストライキに情宣活動注力。

 2001年、スコットランドでは社会主義労働者SWプラットフォームとしてスコットランド社会党SSPにメンバーが加わっている。
 これは連帯に受け継がれている。
 イングランドとウェールズでは社会主義者連合に関係し、レスペクトに引き継がれている。
 戦争を止めろ連合リンゼー・ジャーマン)を通して反戦運動に関係し、グローバル化レジスタンスにより反グローバル化運動にも
関わっている。
 2007年、SWPはレスペクトから離れ左翼選択結成。
 2007年、SWプラットフォームはSSPを去り労働者インター委員会メンバー、トミー・シェリダンローズマリー・バーンらと連帯結成。
 2006年指導者はアレックス・カリニコスリンゼー・ジャーマンクリス・ハーマンジョン・リー等。他著名人はマイケル・ラヴァレット
イアン・バーチャルなど。
 2009年から分裂が発生し、2010年、ジョン・リーリンゼー・ジャーマンクリス・ナインハムらが党を去る。

 1974年労働者の力分裂、1975年革命的共産主義者グループRCG分裂、(RCGから1978年革命的共産党RCP分裂)、
1981年赤い行動RA分裂(RAから1995年独立労働者階級協会IWCA分裂)、1980年代共和主義の革命的民主グループRDG分裂。

[革命的共産主義者グループRCG]
  1970年代に発展、ロイ・ティアスの政治理論に強く影響され、RCGは国際社会主義者ISの革命的反対派分派から成長。
  革命的反対派の指導者がISから追放されて行動路線決定の際にロイ・ティアス支持者と多数派のデイヴィド・ヤッフェ周辺グループの
 不一致が表面化し、ロイ・ティアスのグループは討論グループを結成、このグループは解散まで労働党内で静かに行動していた。
  デイヴィド・ヤッフェ周辺グループは1974年革命的共産主義者グループRCGを結成。RCGはイギリスの選挙制度は社会変革に無意味
 として選挙には参加せず。またイギリス帝国主義に強く反対。人種主義にも反対。
  1975年理論誌革命的共産主義者発刊。
  初期に当初のメンバーを大量に喪失、たとえばバーミンバム支部は労働者社会主義者同盟WSLに参加。
  創設数年後にスターリン主義と南アフリカ政府を巡って不一致が出現、フランク・フレディのグループがデイヴィド・ヤッフェのグループの見方
 に論難し始める。1976年フランク・フレディのグループが追放され革命的共産主義者傾向を結成。これはまもなく分裂し共産主義者綱領委員会
 が結成される。これに引き続き革命的共産主義者傾向は1981年革命的共産党となる。革命的共産党は1988−2000年に雑誌
 生きているマルクス主義を発行し、レーニン主義からリバータリアンマルクス主義に移っていく。
  1970年末から1980年初めにRCGは深くアイルランド民族解放闘争に関与。1980年にはネルソン・マンデラ解放要求でロンドンの南アフリカ大使館
 で非停止ピケットに参加。これはWRP人道主義者党などと一緒に行われる。
  1980年代にはヴィライ・メンディス防衛キャンペーンに関わる。
  1995年キューバ革命連帯のロック・アラウンド・ザ・ブロッケイド(封鎖反対ロック)を開催。
  2001年一部が反動的極左見解(2001年9月11日攻撃について等)として離党を要求され共産主義者フォーラム(雑誌反撃)を結成するが
 間もなく活動停止。
  2010年保守・リベラル民主連立政権の政府予算削減、特に大学資金削減に対する学生抗議が11−12月に広範に発生し、ユニヴァーシティ・
 カレッジ・ロンドンUCLのジェレミー・ベンサム・ルームが数週間占拠される。抗議するUCL学生はいくつかの左翼組織のパネル・ディスカッション
 を組織。これにはRCG、イングランドとウェールズの緑党社会主義の訴え労働者の力などが参加。

革命的共産党
  1978年トロツキスト政治組織として結成され、1981年革命的共産党となる。1991年以降リバータリアングループに変身していく。
  党は1997年解散。旧メンバーの多くは緩い政治ネットワークを維持。
  最初革命的共産主義者グループRCG内傾向として発生し、フランク・フレディの反アパルトヘイト運動支援でRCGと不一致となり
 革命的共産主義者傾向を結成しやがて革命的共産党となる。
  RCPの反人種主義労働者運動は多くの国外追放問題と闘う。またアイルランド共和主義を支持し支援活動を行う。
  1993年には反軍国主義キャンペーン(欧米の軍事介入抗議)着手を支援。
  1980年代末階級闘争の理論を放棄。
  1987年選挙では赤色戦線からメンバーが立候補。赤色戦線は14候補で3177票。
  1988年次の段階として月刊生きているマルクス主義を創刊。雑誌はしかしリバータリアニズムを打ち出す。
  1997年党が解散され、生きているマルクス主義(1998年LMマガジン)はミック・ヒュームによって編集され種々の議論を巻き起こし
 2000年閉鎖。
  旧メンバーはクレール・フォックスのシンク・タンク、ブレンダン・オネイルの雑誌スパイクトの周辺などで活動し右派・左派思考を否定。

[革命的民主グループRDG]
  1980年代初期ロンドンとスコットランドのSWPから分裂して結成。
  RDGは共和主義を支持し、極左は経済闘争中心で民主制の必要性に注意していないと考える。
  RDGは一貫して他の社会主義者グループとの提携を追求。
  1984年には社会主義者連盟Federationと協働、1987年総選挙では赤色戦線に参加、1988年には赤い行動との合同が検討された。
  1990年代末スカーギルの社会主義労働党SLPに参加し共和主義グループ結成。これから去り再びRDGとなり、間もなく
 社会主義者連合参加。
  時にCPGBと関係をもつ。またリヴァプールの統一社会党内でも活動。

労働者の力
 国際社会主義者ISグループの左派として発生、1974年解散拒否し追放され労働者の力グループ結成。1975年短期間労働者戦闘
国際共産主義者同盟ICLを結成、間もなく分裂独立。第5インターナショナル同盟参加。
 2006年少数派(33名)が永続革命HP)を結成、多数派の革命状況への楽観説に反対し、当面資本主義は上昇するという意見支持。
 永続革命はレーニン主義・トロツキストインターナショナル結成。
 2012年労働者の力から反資本主義イニシアチヴが分裂。


社会主義者連合SA〕 
 1992−2005年に存在した左翼選挙連合。2005年再建。
 社会党(イングランドとウェールズ)、労働者自由連合独立労働ネットワーク(1998年、スコットランド議員MEPsケン・コーツ
Ken Coatesらが結成)、独立社会主義者が1992年から結成。
 1999年トロツキストグループ(SWP国際社会主義者グループISG、労働者の力)が参加し拡大。
 スコットランド社会党SSPとは兄弟関係にある。
 2001年、社会主義者連合のネットワークは一人1票の社会主義者連合という政党に転換。
 これは最大で統制の届いた民主集中制党(SWP)に組織を支配させることになった。
 2001年、社会党(イングランドとウェールズ)離脱、2003年、労働者の力離脱。
 2003年SWPはISGに支持されSAをジョージ・ギャロウェイ戦争を止めろ連合と関係するグループとの連合に入らせ、レスペクト連合
を結成。これに反対する少数派の多くは社会主義者連合民主綱領結成。
 2004年レスペクトの外の組織メンバーは社会党と緑社会主義者連合に参加し社会主義者緑統一連合結成。
 SAは2005年2月解散し11月再建し、レスペクト連合には参加しなかった。
 再建SAは2007年緑社会主義者連合と相互加盟。
 SAは新労働党運動(2005年11月、社会党を中心に組合活動家などが結成)を支援。
 参加組織はAWL英国共産党(準)PCC、民主労働党DLP、独立労働ネットワーク(2003年以前解散)、国際社会主義者グループ
ISG、国際社会主義者同盟ISL赤い行動(2001年離脱)、革命的民主グループ社会党(イングランドとウェールズ、2001年離脱)、
社会主義展望Socialist Perspectives 、社会主義者抵抗社会主義連帯ネットワークSWP、労働者インターナショナル、
労働者の力(2003年離脱)など。


緑社会主義者連合AGS〕
 1991年共産党が解散し、ニナ・テンプル民主左翼を結成したが長くは続かなかった。マルクス主義路線に固執する古参、特にロンドンの
メンバーは民主左翼と分裂し1992年デイヴ・クックらが緑社会主義者ネットワークを結成。
 2003年、ニュー・レイバーの労働党から離脱したヨークシャーのグループのリード左翼連合と合同し緑社会主義連合結成。
 リーズ左翼連合は以前旧社会主義者連合と関係があり、AGSの少数は2005年SWPによって解散するまで
社会主義者連合に関係があった。
 AGSは2005年社会主義者連合を再結成しようとした社会主義者連合民主綱領の支援を受けていた。
 AGSは2004年EU選挙にヨークシャーとハンバーで候補をたて、2005年総選挙では社会主義者緑統一連合と連合
し候補を立てた。
 2004年の欧州議会選挙は13776票。
 2010年は6候補で1581票。
 2015年選挙は4候補で852票。


社会主義者緑統一連合
 2005年議会選挙のために結成された左翼の選挙連合。
 レスペクト統一連合がほとんど社会主義労働者党のものであったので衝突を避けるため結成された。
 社会党(イングランドとウェールズ)、緑社会主義者連合労働者自由連合社会主義統一ネットワーク民主社会主義連合
その候補は2005年には統一社会党のメンバー、これは1990年代有名なストを行ったリ旧ヴァプール造船所メンバー、
革命的民主グループ(1980年代SWPのロンドン、スコットランド支部結成)、国際社会主義者同盟が関係)が参加。
 多くは以前のSWP支配前の社会主義者連合に参加。
 緑社会主義者連合の影響で環境問題と持続可能な経済制度建設を優先。
 連合メンバーは緑党と対決して立候補するが、レスペクト連合SSPとは競合しない。
 2005年12000票以上獲得。

社会主義者連合民主綱領
 社会主義者連合SAの分派、1999−2005年にイングランドとウェールズに存在。
 SAを支配する社会主義労働者党に対抗のためSA内政治綱領として結成。
 労働者自由連合国際社会主義同盟赤党が支持。
 2004年地方選挙でに民主社会主義連合として候補をたて、のちに社会主義者緑統一連合に参加。
 SA解散後一方のグループは社会主義連合(準備)を他方は民主社会主義連合を結成。
 労働者自由連合はどちらの結成にも関係しなかったが、社会主義連合(準備)支持。

連帯(連帯−スコットランド社会主義運動)
 2006年9月、トミー・シェリダンの勝手な行動の余波でスコットランド社会党SSPから分裂してSSPの6人のMEPsの
うちの2人が結成。以前のSSP綱領であった社会主義労働者党SWPと労働者インター委員会の支持を受ける。
 2007年スコットランド議会選挙では議席獲得できなかった(1.5%)がSSP(0.6%)より上回った。

レスペクト(レスペクト−統一連合)

 2004−2016年に活発であった。盛期の2007年には1MPを得た。
 2004年1月、イングランドとウェールズの政党としてロンドンで結成。
 メンバー組織は社会主義労働者党ブリテン・ムスリム連合・ブリテンムスリム評議会など。
 個人では労働党から追放された唯一議員ジョージ・ギャロウェイサルマ・ヤコーブなど。
 CPGB(準備中央委員会)ISG社会主義統一ネットワーク社会主義抵抗ブリテン革命的共産党(ML)なども支援。
 社会主義者連合解散までこれを支持。
 2004年EU議会選挙で1.7%獲得。
 2005年総選挙で21選挙区に候補を立て、ジョージ・ギャロウェイが当選。
 2007年分裂し、2008年選挙ではSWPに率いられた左翼名簿(左翼選択、ジョン・リースリンゼイ・ジャーマンなど)と
レスペクト革新ジョージ・ギャロウェイサルマ・ヤコーブなど)に分裂。
 2010年総選挙はベスナル・グリーン・バウからギャロウェイに代わって立ったアブジョル・ミアは労働党のルシャナラ・アリに大差で敗れ、
となりのポプラー・ライムハウスからたったギャロウェイも議席獲得ならず、10候補で得票33251票、0.1%獲得、
このうちミア8532票、ギャロウェイ8160票。

 2010年総選挙では労働党地盤地域(リスペクトのミアギャロウェイらの立った、ロンドンの多様性地域)のキャンバーウェル・ペッカムでは労働党の
ハリエット・ハーマンが27619票、59.2%でリベラル民主22.4%を下しているが、ここではWRP211票、SLP184票、AWL75票となっている。
 となりのルイスハム・デプトフォードでは労働党22132票、53.7%、社会主義者連合イアン・ペイジ645票。
 ヴォクス・ホールでは反資本主義者・労働者の力109票、社会党GB143票、労働党21498票、49.8%。
 ハックレー・サウス・ショアディッチでは労働党23888票55.7%、直接民主制(共産主義者)党(2007年結成のML党)202票、共産主義者同盟
110票。クロイドン北では労働党28949票、56.0%、レスペクト272票、ブリテン共産党160票。

 スコットランドは労働党41議席42.0%、1035528票、リベラル民主11議席18.9%、スコットランド国民党6議席19.9%、保守1議席16.7%。
 北アイルランドは民主連合主義者党8議席25.0%、168216票、シン・フェイン5議席25.5%、社会民主労働党3議席16.5%。
 ウェールズは労働党26議席、36.2%、531601票、保守8議席、26.1票、リベラル民主3議席20.1票、国民党1.6%。

 ロンドンは労働党38議席、36.6%、1245637票、保守28議席、34.5%、リベラル民主7議席、22.1%、国民党1.5%。
 イースタン(ロンドン北)は保守52議席、47.1%、1356739票、47.1%、リベラル民主24.1%、4議席、労働党19.6%、2議席、国民党2.1%。
 サウス・イースト(ロンドン南)は保守75議席、49.9%、2140895票、リベラル民主26.2%、4議席、労働党16.2%、4議席、国民党0.7%。

 その他のグループは社会主義者連合が3候補、3298票、スコットランド社会党が10候補、3157票、緑社会主義連合が6候補、1581票、
ブリテン共産党が6候補、947票、WRPが7候補、738票となっている。

 2012年ブラドフォード・ウェストの補欠選挙でギャロウェイは労働党候補に対し地すべり的勝利を得、議会復帰するも、
2015年選挙では敗北。4候補で9989票。

労働組合主義者と社会主義者連合
 2009年のEU議会選挙のために左翼選挙連合EUにノー−民主主義にイエス鉄道海員運輸等同社全国連合RMT
ボブ・クロウ)主導で緑社会主義者連合、ブリテン共産党CPB、インド労働者協会、社会党(イングランドとウェールズ)、
社会主義抵抗(2002年社会主義連帯ネットワーク国際社会主義者グループが結成)、連帯リベラル党が参加して結成された。
 これにはレスペクト−統一連合、社会主義労働者党の一部メンバーの支援も得た。
 ボブ・クロウデイヴィド・ネリストトミー・シェリダンロバート・グリフィス(CPB)、デイヴ・ヒル(2005年労働党を去り社会主義者抵抗へ)、
スティーヴ・ラドフォードリベラル党)らが候補となった。
 結果は153256票、1%の11番目でアーサー・スカージルの社会主義労働党(173115票、1.1%)にも遅れをとった。
 EUにノー−民主主義にイエスは一時的選挙連合を目指していたが社会党は協力の継続を望んだ。
 ブリテン共産党CPBは参加拒否、RMTは同様の支持はしないが個人参加は許可。労働者自由連合は秘密裏に進められ民主的でないと批判。
 結局、社会党(イングランドとウェールズ)、社会主義抵抗社会主義労働者党連帯などが参加して2010年選挙のため
労働組合主義者と社会主義者連合が発足。
 デイヴィド・ネリストトミー・シェリダンデイヴ・ヒルらが候補となり、RMTや総合大学・単科大学組合UCU緑左翼からも参加。
 41選挙区で候補を立てるが12275票とレスペクトの33251票に遅れをとる。
 2015年選挙では135候補で36327票、0.1%。

左翼統一
 ケン・ローチがケイト・ハドソン、ギルバート・アッカーの支援で2013年結成。
 個人参加であるが組織として積極的なのは
   労働者自由連合AWL、反資本主義イニシアチヴ、CPGB(PCC)、独立社会主義者ネットワーク、国際社会主義者ネットワーク、
  社会主義抵抗、労働者の力。
 2014年CPGB(PCC)が内部グループ(傾向)として共産主義者プラットフォーム結成。これは左翼統一の社会主義プラットフォームに対抗したもの。
 2015年選挙は3候補で455票。

連帯連合(アナーキスト)〕
 階級闘争派アナーキストの連合。1979年、直接行動運動DAMとして結成され1994年、連帯連合となる。
 彼らは反ファシスト活動AFAにも関係している。AFAは赤い行動Red ActionとDAMによって始められ、英国のファシスト
と極右グループとの物理的戦闘を行っている。
 連帯連合はアナーキスト連合(1986−)、階級戦争(1983−)とともに国際労働者連合のブリテン支部である。

 階級戦争は2015年選挙で7候補で526票。

赤い行動
 1981年、社会主義労働者党SWPからのスクワッド運動(極右人種主義者に対する暴力行動)活動家の排除により結成。
 人種主義者とファシストに反対する激しい行動でしられるようになった。反ファシスト行動AFAを支持。
 赤い行動アイルランド共和主義運動と密接な関係にある。
 1987年選挙で赤い戦線革命的共産党RCP、SWPから分裂した革命的民主グループが参加)に参加し14候補で
3177票、1999年はイングランドとウェールズで社会主義連合に参加、これはSWPの支配に対し社会党とともに離脱。
 1995年一部が独立労働者階級協会反ファシスト行動AFAなどが結成し地方議会選挙に参加、2003年全国組織化に乗り出す)結成に参加。

ウォンブルズWOMBLES:絶対自由libertarian効果的闘争構築白いツナギ運動〕
 ロンドンのアナーキストと反資本主義者の緩い結合グループ。
 2000年代初め、イタリアの白いツナギを真似、白いツナギに詰め物、ヘルメットの服装で抗議行動を行った。
 ウォンブルズはプラハのIMF・国際銀行会議の抗議に関わったグループが結成した。
 ハロウィーン2002抗議(イラク戦争抗議)、メー・デー2001、テッサロニキ、ユーロ・メー・デーグレンイーグルズ(G8サミット)などの
抗議グループが関わっている。
 不服従というネットワークが近づくイラク戦争抗議のため2002−2003年始めに立ち上げられた。

〔通りを取り戻せ(リクレイム・ザ・ストリート)〕
 公共空間の地域(コミュニティ)所有思想を共有する集合。グローバル化での企業勢力による支配と輸送方法の車支配に反対する。
 1991年秋、ロンドンでアース・ファースによって始めは結成され間もなく英国中に広がる。
 数年後中核メンバーは資本主義制度そのものを問題にするようになった。
 当初は道路占拠を中心にを行っていたが1999年6月の反資本主義祭り、11月のシアトル連帯行動などに参加し始めた。
 2000年メーデーにはロンドン国会広場で集団ゲリラ・ガードニング行動を組織化した。

グローバル化抵抗
 英国の社会主義労働者党周辺の集団の組織。
 リクレイム・ザ・ストリートや(アース・ファーストからは社会主義労働者党のフロント組織という批判を受けている。


ロンドン自主管理主義者
 1980年代にロンドンを拠点に階級戦争などの自主管理主義者が活動、1983年の新聞階級戦争の発行や、ワッピング自治
センターの組織に協力した。

ワッピング自治センター
 1981―1982年にロンドン・ドックランドのワッピング地区に開設された社会センター
 かかわったのは主にアナーキストで動物の生体解剖実験や肉産業、サッチャー政策を主要直接行動の対象とした。
 一方でアナーキスト・パンク運動の中心点となり、クラス、ザウンズ、フラックス・オヴ・ピンク・インディアンなどのアナルコ・パンクが関係した。
 センターの解放方針で薬物使用者や物乞い犯罪者などが集まり、資金問題も生じ閉鎖。
 活動家の多くはセントロ・イベリコで類似の目的のスカッド運動に参加。
 後にはロンドン行動資源センター(1994−)、ランパート社会センター(ロンドン、2004−)などが開設された。

 社会センターはこのような自由空間の形態をとり特に社会的少数派支援のネットワークの役割を果たし、公的制度の
地域センターとは違いがある。
 1960年代からオランダでは占拠社会センターの伝統があり、イタリアでは1970年代にアウトノミア運動とともに流行した。

労働者統制研究所
 1968年、トニー・トプハム、ケン・コーツ(当時国際マルクス主義者グループ指導者)により設立。
 ショップ・スチュワード(職場委員)や戦闘的労働者を引き付け生産の労働者統制を議論。
 これは1964年週刊誌ウィーク、ボイス、社会主義教育センターによって組織された労働者統制協議会から成長。
 1969年には約1200人にまで成長。のちに国際マルクス主義者グループの強い干渉で1970年にはメンバーは激減。

王様の群集:キング・モッブ
 1970年代ロンドンを拠点とし、国際プロレタリア革命の寄与しようとした対抗文化グループ。
 状況主義者やニューヨークの卑劣なやつらを壁につるせの文化的転換グループ。
 ポップ文化を評価し、思想の普及に努力した。

怒りの旅団(ストーク・ニューイントン・8))
 1970―1972年英国で一連の爆弾攻撃に関係した絶対自由主義(リバータリアン)共産主義グループ。
 アナーキズムと状況主義に強い影響を受け、銀行、大使館、トーリー議員の自宅など25回の爆弾がかれらによるとされる。
 爆撃は主に財産損害に限られるが1人が軽症を負った。
 このグループにはゲイ活動家のスチュアート・クリスティーもかかわっていた。

アンティファ
 1970年代、国民戦線NF、ブリティッシュ運動のようなファシスト・極右が台頭、1977年レウィシャム戦闘でNFのロンドン行進が
大衆によって阻止される。このあとSWP反ナチ同盟ANL結成、NF集会や新聞販売攻撃のようなスカッド(分隊活動)などをも行い
成功を収めるがスカッドは英国共産党のフィル・ピラティンにより批判され、彼はより大規模な活動を主張。
 トニー・クリフはANLを解散したが、活動家は活動をやめず1981年追放され赤い行動を結成。
 1985年赤い行動の一部とアナルコ・サンディカリストの直接行動運動反ファシスト行動AFA結成。
 2002年AFAの一部は無綱領を結成、2004年アナーキスト連合階級戦争、無綱領がアンティファ組織結成。
 統一対抗ファシズムがANL、反人種主義全国会議労働組合会議TUC指導者などにより結成されている。


赤い楔)Red Wedge
  若者を政治一般に、特に労働党に関わせようと試みた英国人気音楽家集団で1987年選挙でサッチャー政権打倒を望んだ。
  ビリー・ブラッグポール・ウェラージミー・サマーヴィルらが前面に立ち演奏会ツアー開催やマスメディアに登場し労働党運動を支援。
  1985年12月労働党議員ロビン・クック主宰の歓迎会で結成された。選挙の保守党勝利で多くの集団が去り1990年公式解散。

統一社会党
 リヴァプールを拠点とする。
 1990年代のストライキ以来活発な旧リヴァプール造船所メンバーとリヴァプール労働党市議らが1997年(?)結成。
 大衆党結成のための運動として始まる。
 革命的民主グループ国際社会主義者同盟も関わる。
 2004年からニュー・レイバーに反対し独立路線をとる。
 2005年国会選挙では民主社会主義連合として社会主義者緑統一連合に参加。
 2006年から社会主義者学習発行。
 旧SLP(アーサー・スカーギル)のジミー・ノーランが代弁者。

イングランド・ウェールズ緑党
 イングランド・ウェールズ緑党は1973年トニー・ウィタッカーが結成した人民PEOPLE 党に起源する。
 人民党は1974年2月総選挙で6名立候補し4576票獲得。その後左派が人民党を左傾させようとしてさせようとして分裂。
 同年10月総選挙では5人で1996票。レスリー・ウィタッカーらが離党。
 1975年エコロジー党となり1977年ジョナサン・ポリットが指導者となり、デイヴィド・フレミングらと活動。
 1979年総選挙では53候補で39918票獲得。
 1985年緑党、1990年イングランド・ウェールズ緑党となる。同年スコットランド緑党が結成される。
 社会民主党結成で1980年代は苦難となる。
 1983年総選挙はドイツ緑の成功の影響もあり109人の候補で54299票。
 1986年ポール・エキンズジョナサン・タイラーらが党を掌握しよう(組織の合理化)として脱中心化グループにより拒絶され離党。
 1989年EU議会選挙は欧州全体で緑にとって大成功でこれで英国でもサラ・パーキンデイヴィド・アイクが著名になる。
 デレク・ウォールの原理主義的立場が論争となる。
 この時期の議会代弁者は貴族院のジョージ・マクリード
 1991年党を合理化しようとする緑2000グループ形成される。緑2000は1991年には主導権を握るが1992年には失う。
 緑2000グループはジョナサン・ポリットサラ・パーキンジャン・ランバートキャロライン・ルーカスジェミー・ジョーンズダレン・ジョンソンら。
 1992年シノグ・ダフィスがプライド・クムル(ウェールズ党)名簿で最初のMPとなる。
 1997年の労働党による選挙改革(比例制導入)でロンドン、ウェールズ議会で成功を収める。
 1999年欧州議会にキャロライン・ルーカスジャン・ランバートが選出される。2292695票、15%獲得。
 2005年総選挙では257758票獲得。2009年欧州議会選挙では1223303票、8.7%獲得でルーカス、ランバート再選。
 キャロライン・ルーカスジャン・ランバートらは中道派緑2000の支持者。
 2010年総選挙でキャロライン・ルーカスが労働党から議席を奪い、緑はじめてのMPとなる。
 キャロライン・ルーカス(1960年生)は核非武装運動CNDから活動をはじめ、現在は王立動物虐待防止協会戦争を止めろ連合などに
関わっている。
 2008年指導者選はルーカスとアシュレイ・ガンストック(俳優)で争われ2559対210でルーカス。
 ジャン・ランバート(1950年生)はチャーター(憲章)88に関わっていた。
 市議会議員アドリアン・ラムゼイ(1982年生)が副指導者。
 他の主要人物はマイク・ウーディンヴァンダナ・シバなど。

緑左翼〕 
 2006年結成のイングランド・ウェールズ緑党内の反資本主義、エコ・社会主義者の組織。
 シアン・ベリーデレク・ウォールピーター・タッチェルら。
 デレク・ウォールはキャロライン・ルーカスが指導者となる前の第一代弁者。雑誌赤い胡椒社会主義抵抗にも関わっている。


労働党

 労働党の組織構成は 
 選挙区労働党(支部:イングランド、スコットランド、ウェールズの3地域)、
 加盟労働組合(鉄道運転士労組ASLEF、メディア労組BECTU、製パン・食品関連労組BFAWU、コミュニティ、通信労連CWU、一般労組GMB、
音楽家組合、全国鉱員労組NUM、輸送事務労組TSSA、建設関連職技術者組合UCATT、ユニゾン:公務員労組、
大労組、アミカス:民間最大労組、輸送一般労組T&G、商店流通労組USDAWなど16労組、ユニゾン、アミカス、T&G,GMBが4大労組、35の小組合は
労組総連GFTUが代表)、
 諸社会主義者協会(黒人社会主義者協会、キリスト教社会主義運動ファビアン協会、ユダヤ人労働運動、労働不能メンバーグループ、労働学生
レスビアン・ゲイ・両性・交差性権労働運動、労働住宅グル−プ、社会主義者環境資源協会、・・・)、
 選挙協定を結んだ協力党(単数、いかなる選挙でも単独で候補はたてず、労働党に加わり協力党として立候補)よりなる。

 19世紀末、都市労働者が増加し、これらの利益を代表する政党が必要となった。
 最初自由党Liberalが労働組合支援候補を取り込んだ。
 1869年結成の労働者代表同盟は自由党に吸収された。労働組合会議TUCは1887年労働者選挙協会LEAを結成した。
 これによりLib−Lab(労働組合に支援された自由党議員)議員が発生した。
 これとともに社会民主連合SDF(1881年、H.Mハイデマン結成)、フェビアン協会エドワード・カーペンタージョン・ダヴィッドソン
ヘイヴロック・エリスエドワード・ピースらが1884年設立)などの社会主義者グループが結成された。
 1888年、ケア・ハーディはスコットランド労働党を結成。(1893年ILPに統合)
 1891年、ロバート・ブラチュフォードが週間新聞クラリオンを発行。
 1893年、ケア・ハーディトム・マンらSDFメンバーによって独立労働党ILPが結成された。

 1894年キリスト自由主義と社会主義の雑誌としてニュー・エイジが創刊され1907年バーナード・ショーの支援でアルフレッド・オレイグ
ホルブルック・ジャクソンが買収しニーチェ、フェビアン社会主義、のちにギルド社会主義の方向に向ける。
 1912年ニュー・エイジはフェビアン路線からはずれ、シドニーベアトリス・ウェッブ夫妻は1913年ニュー・ステーツマン創刊。
 ニュー・エイジG.D.H.コールS.G.ホブソンらのギルド社会主義(ギルドは賃金・労働条件だけでなく産業統制も目指す組織)
路線を支持。
 第1次大戦後はオレイグはC.H.ダグラス社会信用カナダ豪州などの社会信用党の理論となる、生産の目的は消費で、生産は
消費者の利益に奉仕しなければならない、生産政策は適正な購買力をもつ消費者の貨幣の投票で確立される)理論を支持。

 1895年総選挙にILPは25候補をたて44325票獲得したが議席0。
 1900年、TUC主催による会議で労働者代表委員会LRCが創設されラムゼイ・マクドナルドが書記に選ばれた。
 1900年10月選挙で15候補で2議席獲得(ケア・ハーディとリチャード・ベル)。
 1906年選挙では自由党との秘密協定(マクドナルドとグラッドストーン)によりLCRは29議席獲得。
 2月15日、議員メンバーは労働党という名前の採用を決定。ケア・ハーディが議長となった。
 1913年フェビアン協会と結びついたニュー・ステーツマンシドニーベアトリス・ウェッブ夫妻、バーナード・ショー
により創設される。1930年、キングスレー・マーティンが編集者となる。1931年には他紙と合同し”ニューステーツマンとステイト”
となりJ.M.ケインズが大きな影響を与える。1930年代には反ファシュズムの姿勢を示し政府の宥和政策批判。

 1918年まで党は個人加盟権がなかったのでILPが底辺活動家を提供した。1910年庶民院で42議席獲得した。
 第1次世界大戦で党は分裂し、戦争反対派のマクドナルドが辞任し、アーサー・ヘンダーソンにかわりアスキス
戦争内閣に入閣した。(1915年)
 ILPは戦争反対運動を行った。ブリテン社会党(1911年)は非公式ストライキを組織した。
 1917年ヘンダーソンが内閣辞任し、ジョージ・バーンズに代わった。
 労働者の底辺地方活動家と組織の成長が戦後の選挙に反映し、更に協力運動が協力党を生むこととなった。
 1922総選挙で自由党の不統一で労働党は142議席、第2党となった。
 1924年、アスキスの自由党の支持でラムゼイ・マクドナルドが内閣(最初の労働党内閣)を形成した。9ヵ月後に自由党と衝突し崩壊。
 1929年に37.1%、287議席で第1党となり、自由党支持で少数内閣形成。
 1931年、マクドナルドは辞任し少数の古い仲間と他党と国民政府を形成し、労働党から追放され全国労働党を、スノードン
ジェームズ・トーマスらと結成した。
 このあとの選挙で52議席と労働党は大敗した。指導者がヘンダーソンからジョージ・ランズベリに代わった。
 1932年分裂がおこり、ILPが労働党から離れ、ILPは長期衰退に入った。
 ILPの離脱に反対しスタフォード・クリップス社会主義者同盟(1932−1937年)結成。
 チャールズ・トレヴェリアン、G・D・Hコール、アヌリン・ベヴァン、ハロルド・ラスキ、マイケル・フット、バーバラ・カスルらがメンバー。
 社会主義者同盟は1937年にはILP、共産党と人民戦線結成を試みたが失敗。党から追放され解散。メンバーはトリビューン創刊。
 1935年、クレメント・アトリが指導者になった。選挙で38%、154議席に回復した。
 1939年エヴァン・ダーバンヒュー・ゲイツケルダグラス・ジェイは政府の軍事徴兵支持に動く。
 1940年戦時連合内閣に参加した。
 エヴァン・ダーバンが’民主的社会主義の政策’を書いてケインズの経済学をもとに市場経済での経済計画に焦点をあてる。
 1936年左翼書籍クラブスタフォード・クリップス(労働党政治家)、ヴィクター・ゴランツジョン・ストレイチー(労働党政治家)、
ハロルド・ラスキによって創設され1930−1940年の左翼の主要な研究団体となった。
 G,D,H,コールアンドレ・マルロークレメント・アトリージョージ・オーウェルアーサー・ケストラーカトリーヌ・バードキン
クリフォード・オデッツエドガー・スノーR.H.トーニーレオン・ブルムJ.B.S.ハルデイン(生物学者、一時期共産党参加)、
ステファン・スペンダーらが寄稿。1939年の独ソ協定まで共産党メンバーないし容共派の多くの著作家も参加。
 1940年ゴランツが共産党と衝突、以降解散の1948年まで民主社会主義路線となる。
 1949年アーサー・ケストラーステファン・スペンダーリチャード・ライトルイス・フィッシャーアンドレ・ジイドイグナシオ・シロネ
と共産主義への幻滅を著した神は躓くに寄稿。
 ジョン・ストレーチーは1931年共産党支持となり、1930年代のイギリスのマルクス・レーニン主義理論家となる。1940年共産党と
衝突、1943年労働党復帰。

 1937年労働党議員スタフォード・クリップスジョージ・ストロースが労働党と社会主義者同盟、独立労働党、イギリス共産党による
反ファシズム、反宥和主義の統一戦線を確立するための統一運動支援のため雑誌トリビューン創設。
 最初の編集者はウィリアム・メロー(1920年共産党参加、1924年離党)で記者にはマイケル・フットバーバラ・キャッスルら。
 幹部は他にアヌリン・ベヴァンエレン・ウィルキンソンハロルド・ラスキH.N.ブレイルスフォード
 1938年メローは共産党新路線を拒否して非難されH.J.ハーツホーンと交代。
 1939年スタフォード・クリップスジョージ・ストロースアヌリン・ベヴァンC.P.トレヴェリアンと人民戦線支持のため党から追放される。
 1940年スターリン主義者のH.J.ハーツホーンがレイモンド・ポストゲイドと交代させられ以降労働党の開戦派民主左派の声を
代弁する。1941年ジョン・キムシュが運営しチャーチル政権を批判しドイツとの第2戦線開戦を主張。
 1945年にはフレデリック・ムラリーと交代。1948年以降強固な反共路線となる。

 1942年戦中の主要政党の選挙協定に失望した労働党の一部メンバーが共和党Common Wealth Partyを結成。
 これはリチャード・アークランドリベラル党議員)、ヴァーモン・バートレットジョン・プリーストリートム・ウィントリンガム
1941委員会(戦争遂行宣伝組織)により結成された。これは生きたvital民主主義、政治モラル、土地公有を主張。
 保守党の地盤に候補を立てた。1945年選挙では1議席しか獲得できず。1945年解散。

 1945年の終戦とともに内閣から引き上げ、1945年選挙ではチャーチルの保守党に反対し、50%弱、多数派の145議席
を獲得した。
 アトリー政権(1945−1951年)は急進的改革を行った。国有化と福祉国家。更に植民地への独立付与。
 アトリーは1942年のベヴァリッジ自由党)提案の推進による福祉国家建設を始めた。
 1947年の冷戦開始とともに秘密に核兵器開発を進めた。1951年に防衛費はGDPの14%に達した。
 これらの改革は保守党に受け入れられ、戦後合意となり、1970年代まで続いた。
 1951年の選挙で敗北し、13年の反対派を経験した。1950年代、党は思想分裂に悩んだ。
 マイケル・フットリチャード・クロスマンイアン・ミカードらのニュー・ステーツマンは1947年キープ・レフト発行。外交で第3勢力論を主張。
 1950年予算問題で政府分裂、朝鮮戦争で予算は逼迫し、健康大臣のヒュー・ゲイツケルは全国健康サーヴィス制度に料金を導入しようとし
アネイリン・ベヴァンが反対、これにハロルド・ウイルソンジョン・フリーマンも追従し大臣辞任。
 1951年ハロルド・ウイルソンキープ・レフトの議長となるが間もなくベヴァンと距離をとる。
 1951年1選挙で保守党が勝利し、首相はリチャード・バトラーに代わったが、ゲイツケルの経済政策は継続され、1950年代の政治的合意となり
バッツケリズムButskellismと称された。
 1955年アトリー引退でベヴァン、ハーバート・モリソン、ゲイツケルが争い、ゲイツケル勝利。
 ハロルド・ウィルソンはゲイツケルを支援。ジョン・ストレイチーもゲイツケルを支持。
 核武装、NATO参加をめぐって反対のベヴァン派と賛成のゲイツケル派が対立。
 ベヴァン派バーバラ・キャスルジェニー・リーリチャード・クロスマンマイケル・フットなど。
 ゲイツケル派ジョージ・ブラウンデニス・ヒーリーロイ・ジェンキンスアンソニー・クロスランド
 アンソニー・クロスランドは1956年社会主義の将来を出版し資本主義は変わった、マルクス主義者の主張はただしくないとした。
 ジョン・ストレイチーも現代の資本主義を出版し資本主義の変容を主張。
 1957年ベヴァン自身は核非武装に反対しベヴァン派と分裂。
 戦後経済回復で国民は保守政権に満足した。
 1959年選挙敗北でゲイツケルはベヴァン派を批判し党則第4条の国有化をひっくり返そうとして失敗。親ゲイツケル派は民主社会主義運動を結成。
 ビル・ロジャースディク・テイヴァーン、アンソニー・クロスランド、ダグラス・ジェイ、ロイ・ジェンキンスなどが参加。
 ベヴァン派はトリビューン(リチャード・クレメント、イアン・アイトケン)と草の根運動核非武装運動に依拠していた。
 1960年代早期の経済の停滞と醜聞の連続で1964年の選挙でハロルド・ウィルソンのもと政権に返り咲いた。
 1963年ゲイツケルの突然死で左派の押すハロルド・ウィルソンが右派のジョージ・ブラウンジェイムズ・キャラハンを破り党首となる。
 デニス・ヒーリー、アンソニー・クロスランドはジョージ・ブラウンを支持しなかった。
 1970年代は保守・労働両党に困難な時期であった。
 1973年ハロルド・ウィルソンの大企業公有化拒否に対し左派が労働党民主制運動CLPDを結成。フランク・アラウンが代表となる。
 ウォルター・ウォルフガングが1970年代の指導者。
 1979年議員の義務的再選択mandatory reselectionを実現し、1981年にはそれまで国会議員によって選ばれていた党首選を選挙区労働党CLP、
労働組合代表を含む選挙人団による選挙にすることを実現。
 1976年、首相はジェイムズ・キャラハンに代わった。
 1979年の選挙で労働党はマーガレット・サッチャーの保守党に敗北した。
 労働党は党組織と草の根レベルを支配するマイケル・フットトニー・ベンの左派とデニス・ヒーリーの右派に分裂した。
 1980年デニス・ヒーリーを破ってマイケル・フットが党首となる。
 1981年右派と中央派は分裂してロイ・ジェンキンス、デイヴィド・オーウェンビル・ロジャースシャーリー・ウイリアムズ社会民主党SDP
(1981−1988年、多数派は自由党と自由民主党結成)を形成した。
 副党首選にはデニス・ヒーリーに対しトニー・ベンが立候補したがマイケル・フット、とネイル・キノックが棄権し、トリビューン・グループから
社会主義運動グループが分裂。
 選挙区レベルではトロツキスト・グループが浸透していた。
 サッチャー政権は高失業とインフレで不人気であったが、1982年のフォークランド戦争(対アルゼンチン)で人気を回復した。
 1983年選挙で労働党は27.6%しか得られずSDP−自由党連合に大敗した。
 1983年選挙宣言は社会主義的色彩を強く帯び、貴族院廃止、銀行国有化、EEC撤退を謳っていた。
 フットは辞任しネイル・キノックに代わった。キノックは党を中道に移した。
 キノックはミリタント傾向などから右より過ぎるとみられた。彼はこれらを追放し、追放されたグループは社会党(イングランドと
ウェールズ)結成。
 1990年サッチャーは首相を辞職しジョン・メージャーに交代。
 1992年選挙は保守336議席に対し労働党271議席。党首はジョン・スミスに交代。
 スミスは労働組合の影響を弱めるように党規則を改訂。スミスは1994年病死。
 1994年、ジョン・プレスコットマーガレット・ベケットを破りトニー・ブレアが党首となった。
 ブレアは党則第4条の放棄し、アンソニー・ギデンズの第3の道という新標語を掲げようとした。
 第4条は1917年、シドニー・ウェッブにより起案された生産・分配・交換手段の公的所有を宣言していた。
 1995年、第4条から公有化は削除されたが労働党は民主的社会主義者党と規定された。
 このころ新労働(ニュー・レイバー)という表現が現れ1996年党から宣言が発表された。これはキノックからの傾向の継続であった。
 ニュー・レイバーは労働組合と国家の関係を軽視し、市場を重視。また情宣を重視しマスコミとの友好関係に努力。
 1997年、ジョン・メイジャー政権の不人気で労働党は地滑り勝利を得た。
 1998年草の根連合が全国執行委員会NECのメンバーによって創設される。中央派(労働改革Labour Reform,、アン・ブラック
から左派(CLPD、ウォルター・ウォルフガング)まで含む。NECでは少数派。
 2001年選挙も労働党が勝利。
 ブレアは2003年のブッシュのイラク戦争を支持し、不人気を蒙る。
 2005年選挙も議席を減らしたが勝利。2007年スコットランド選挙で敗北。まもなくブレアは辞任し、ゴードン・ブラウンが党首になった。
 左派のジョン・マクドネルは立候補に必要な支持を得られなかった。
 ラルフ・ミリバンドのふたりの息子、デイヴィッドエドワードはそれぞれブレアゴードン・ブラウンの政策形成に深く関与し、
ブラウン政権でそれぞれ外務大臣、エネルギー・気候変動大臣となる。
 2010年選挙は29.0%で第2党、野党となる。連立政権樹立に失敗。ブラウンは党首も辞任。
 党首選はデイヴィッド(1回目37.78%)とエドワード(34.33%)のミリバンド兄弟、
エドワード・ボールズ(11.79%)、アンドリュー・バーナム(8.68%)、ダイアン・アボット(最初の黒人女性下院議員、社会主義運動グループ、7.42%)
で争われ、デイヴィッドとエドワードの決戦投票となりエドワード50.65%、デイヴィッド49.35%でエドワード・ミリバンドが党首となる。

 2011年5月地方選挙は、イングランドの36の大都市ボロboroughを含む279のカウンシルについて保守党は4増の157、労働党は26増の57、
自由民主党は9減の11地区を獲得。大都市ボロでは労働党は8増の24ボロを獲得。
 スコットランド議会assemblyはスコットランド国民党が44.04%、69議席(+23)、労働党23.31%、37議席(−7)、保守党12.36%、15議席(−5)、
自由民主党5.20%、5議席(−12)、緑4.38%、2議席(+1)、社会主義労働党SLP0.85%、スコットランド社会党0.42%、レスペクト0.35%、
連帯0.14%など。
 ウェールズ議会assemblyは労働党36.9%30議席(+4)、保守党22.5%、14議席(+2)、プライド・キムル17.9%、11議席(−4)、自由民主党8.0%
5議席(−1)、社会主義労働党SLP2.4%、ブリテン共産党0.3%、削減反対労働組合主義者・社会主義者0.2%など。
 北アイルランドは民主連合主義党30.0%、38議席(+2)、シン・フェイン26.9%、29議席(+1)、社会民主労働党14.2%、14議席(−2)、
アルスター連合主義党13.2%、16議席(−2)、利益の前の人民連合(アイルランド社会主義労働者党SWPなどが2005年結成)0.8%など。

 エドワード・ミリバンドら党幹部はブレアと新労働(ニュー・レイバー)の思想から徐々に転換しようとしている。
 労働党には青労働(ブルー・レイバー)という傾向が生じている。彼らは移民、犯罪のような社会および国際問題について保守的政策をとることで労働者が
労働党に回帰するという考えを支持している。
 2009年に一代貴族のモーリス・グロスマンはポスト1945年の労働党の中心的考え方の代案として互恵reciprocity、互助mutuality、連帯solidarityの
新政策を求めた。
 青労働はネオ・リベラル経済を拒否し、ギルド社会主義と大陸的コーポラティズムの思想の支持と、官僚的な伝統的福祉国家に頼るより地域と
民主的コミュニティ管理とサービス供与に転換することを支持している。
 この傾向はブレアを市場経済に無批判的、ゴードン・ブラウンを市場と国家に無批判的と批判。
 青労働は平等と国際主義という抽象的概念は労働党を多くの有権者の現実的関心との結合から切り離していると示唆している。
 青労働はリチャード・トーニーG.D.H・コールケア・ハーディウイリアム・モリスらの自助、互助という労働者伝統の影響を受けている。
 2011年にはブレア派に属するとみなされている多くの労働党の政治家によって紫本(労働者の進歩的将来)が出版され、これには
エドワード・ミリバンドが序文を書いているが、この本は青労働によって推進されている考えをかなり支持している。
 ロイ・ハッタースレーマイケル・ミーチャーらがこれを批判。

 2015年選挙は232議席(30.4%)で保守の330議席(36.9%)に敗北。エドワード・ミリバンド辞任を発表。
 特にスコットランドではSNP(スコットランド国民<または民族>党)により40議席を奪われる。
 9月の党首選ではジェレミー・コービンが初回で59.5%を獲得し、党首となる。2位はアンディー・バーナムの19.0%。
 コービンは民主的社会主義者を自称し、社会主義運動グループ、パレスチナ連帯運動、アムネスティ・インターナショナル、核非武装運動CNDの
メンバーであり、9月まで戦争を止めろ連合の議長であった。
 コービンの選出にはゴードン・ブラウン、トニー・ブレア、ジャック・ストロー、デイヴィド・ミリバンド、アラステア・キャンペルらが反対。
 国会議員MPの指名はバーナム68名(29.3%)、コービンは36名(15.5%)で4人の候補では最低であった。
 2017年選挙は40.0%で262議席、保守党42.4%、317議席、スコットランド民族党3.0%、35議席、リベラル民主7.4%、12議席など。
 2019年EU選はブレグジット党30.5%、29議席、リベラル民主19.6%、16議席、労働党13.7%、10議席、緑11.8%、7議席、
保守党8.8%など。この大敗で辞意表明、2020年1月党首選でケア・スターマー(56.2%)がレベッカ・ロング・ベイリー、リサ・ナンディーを破り、
党首に選ばれる。スターマーは柔らかい左翼とされる。


 ネオコン(新保守主義)は米仏とも左翼くずれであるが、左翼くずれでイギリスのネオコンと目されるのがオリヴァー・カム
 オリヴァー・カムはイラク侵攻を支持しブッシュ再選を支援。若くして労働党にかかわり1980年代は労働党を支持するが1988年に労働党から去る。
 ”リベラル民主制”の軍事的輸出を主張するオリヴァー・カムらの中心組織がヘンリー・ジャクソン協会
 ヘンリー・ジャクソン協会はブレンダン・スミスマーコ・アッティラ・ホアレ(ユーゴスラヴィア)、ロビン・シェファードらが創設。
 ヘンリー・ジャクソン協会は労働党ではギセラ・スチュアートグレッグ・ポープデニス・マクシェーンファビアン・ハミルトン
ジャッキー・ローレンスらが支持。ギセラ・スチュアートは労働党では唯一ブッシュ再選公然支援。


○ブラウン派とブレア派
 ブラウン派は市場を利用した改革にそれほど熱狂的でなく、国家の役割をより重視し、労働党と労働組合の結びつきをそれほど非難
しない。しかしブレア派との政策の違いは実際はそれほどたいしたことはない。むしろ1994年の党首選による個人的不和によるとされる。

硬い左翼柔らかい左翼
 硬いhard左翼は英国労働党内の潮流に対する名称。
 1980年代はトロツキストのミリタント傾向社会主義組織者と同様に社会主義運動campaignグループ(1981年トリビュ−ン
グループから分裂、議長ジョン・マクドネル)と労働短信に組織されたトニー・ベンの支持者に使われた。
 硬い左翼と結びついた政治家はダイアン・アボットジェレミー・コービンケン・リヴィングストンデニス・スキナーなど。
 現在はジョン・マクドネルマイケル・ミーチャーと議員組織社会主義運動グループ労働者代表委員会(2004年結成、
2007年結成の社会主義青年活動網networkをもつ)が硬い左翼と見なされる
 柔らかいsoft左翼は1980年代労働党の穏健左翼に対する名称。
 1981年、指導部選挙で左翼ネイル・キノックらがトニー・ベン支持を拒否したときに初めて顕れた。
 トリビューン・グループは1964年結成された労働党議員の新聞支持グループ、1960−1970年代は左派の主要なフォーラム、
1980年代は柔らかい左翼の政治幹部caucus。

労働調整委員会LCC
 1978年に結成され1995年の解散した労働党内グループ。
 労働党民主主義運動、労働短信、反トロツキズムのNOLSなどのメンバーを含む広い労働党左派の協力のため結成された。
 1981年には指導部闘争でトニー・ベンの反デニス・ヒーリー・キャンペーンを支援。
 これにより社会民主党の分裂を招いた。
 反トロツキストのNOLSは学生運動でミリタント傾向と厳しい闘争を行った。
 1983年の労働党の選挙での敗北で党の現代化に迫られた。
 議会ではロビン・クック、議会外ではピーター・ヘインが主要な人物でチェリー・ブース(トニー・ブレア妻)が組織を仕切った。
 ネイル・キノック指導部でLCCは指導部の支援のもとミリタントとの大闘争を行った。
 1988年には議会指導者としてロイ・ハッタースリーに対しジョン・プレスコットを支持。
 ミリタントの敗北で存在理由を失い、停滞し始め、1993年論争誌リニューアルニール・ローソンポールトンプソン編集部)を創刊、
柔らかい左翼というよりより現代化グループとなった。1998年には現代化派(ブレア)と協力を始め組織解散。

労働者代表委員会LRC〕
 労働党内の圧力グループ、2004年結成。個人、労働組合、と共に選挙区労働党、労働党支部が参加でき10の労働党支部が参加。
 議会では社会主義運動グループが代表、青年組織として社会主義青年活動網がある。
 議長はジョン・マクドネル、副議長はスーザン・プレス(町議)。
 所属議員はマイケル・クランプハムカティ・クラークジェレミー・コービンデイヴィド・ドリューデイヴィド・ハミルトン
ケルヴィン・ホプキンスライン・ジョンズボブ・ウエラリングジョン・マクドネル

社会主義運動campaignグループ
 下院労働党のの左派グループ、1982年トリビューン・グループの代替として結成。ニュー・レイバー(トニー・ブレアの路線、依拠するのは
アンソニー・ギデンズの思想)批判的。ノーマン・アトキンストニー・ベンらが結成、現在の中心メンバーはダイアン・アボットロニー・キャンペル
マーティン・ケイトンカティ・クラークジョン・クライアージェレミー・コービンデイヴィド・ハミルトンケルヴィン・ホプキンスイアン・レイヴァリ
リンダ・リオーダンデニス・スキナーなど。

スコットランド労働党社会主義キャンペーン
 スコットランド労働党内左派組織。MEP(EU議会議員)のアレックス・ファルコナーらが結成。
 1995年の党則からの4条(生産手段の公有化条項)削除に反対するグループが結成。

進歩
 1996年結成のトニー・ブレア支持派。リアム・バーンデレク・ドラパーピーター・マンデルソンらが創設。
 デイヴィド・セインズベリーが資金援助。

コンパス
 2003年、トニー・ブレアに不満な学者、政治家により発足。
 ニール・ローソンジグムント・バウマンの影響を受けている)、ジョン・トリケットチュカ・ウムンナなどが中心メンバー。
 2006年カタリストと合同。

カタリスト
 ブレアの労働党現代化の頂点の1998年発足。
 ブレア下の労働党で取り残されるのを危惧したトリビューン、赤い胡椒、草の根連合、完全雇用フォーラムなどの知識人や学者を惹きつける。
 2002年完全雇用フォーラムと合同。

マニフェスト・グループ
 1974年硬い左派のイアン・ミカルドが議会党の議長となりこれに反対してディクソン・マボンが結成。
 1970年代、労働党の左傾化に反対。
 ジョン・スミス、デニス・ヒーリー、ロイ・ハッタスレー、ジョージ・ロバートソン
 1981年ディクソン・マボンら多くがは社会民主党参加。1980年連帯グループと交代。

左翼会議
 2008年9月に第1回が開催されたイギリスの左翼、社会主義者、進歩、緑、諸党・組織の年協議会。
 労働党の2008年協議会の影の形態をとる。労働党の綱領の戦争屋、ネオリベラル私有化、環境破壊取り組み失敗挑戦を意図。
 宣言はトニー・ベン、アリス・マホン(元労働党議員)、ケン・ローチ(演出家)、ジョン・マクドネルロバート・グリフィスCPB書記長)、
ジョン・ヘイレット(モーニング・スター編集者)、リズ・デイヴィーズデレク・ウォールイングランド・ウェールズ緑党)、ジョージ・ギャロウェイ
サルマ・ヤコーブレスペクト)、クリス・バンベリー社会主義労働者編集者)、リンゼイ・ジャーマン社会主義労働者党)が署名。
 レスペクト革新社会主義労働者党は参加し、CPGB(準備中央委員会)は拒否したが共産主義学生団とともに会議支援に署名、
社会党(イングランドとウェールズ)は支援せず。
 支援党組織は緑社会主義連合労働者自由連合新労働者党運動共産主義学生団ブリテン共産党CPGB(準備中央委員会)
欧州左翼党ネットワーク、緑左翼労働者代表委員会左翼選択永続革命レスペクトスコットランド社会党社会主義者連合
社会主義抵抗社会主義労働者党連帯労働者の力
 新聞・雑誌のモーニング・スター(1945年のデイリー・ワーカーから出版はCPGBから人民出版印刷協会となる)、赤い胡椒(1980年代
後半の社会主義運動支持者によって1995年発行、社会主義運動レイモンド・ウイリアムズラルフ・ミリバンドらの社会主義協会
社会主義運動グループ社会主義経済学者協議会などから発生)、労働短信(現在は社会主義運動グループ支持)、社会主義労働者
社会主義労働者党週刊誌)、社会主義者(社会党(イングランドとウェールズ)週刊誌)も支援。


リベラル民主
 1988年自由党(リベラル)党(1859年結成)と社会民主党SDP(1981年労働党のロイ・ジェンキンスら穏健派4人組が結成)の合同で結成。
 社会リベラル(経済自由主義、小さな政府、国家の個人の権利への介入反対だが平和政策路線、選挙制度・貴族院改革)が基本。
 1983年、1987年選挙はSDP−リベラル連合結成。
 2010年保守党と連立政権形成。

イギリスの学生運動>   ⇒ 詳しくはこちら


<青年組織>

労働党青年社会主義者LPYS〕
 LPYSは1954年にいったん閉鎖、地方組織は存続していた。
 1960年、全国組織が青年社会主義者として再建、1965年労働党青年社会主義者と改名。
 初期はヤング・ガードとキープ・レフトが発行され両方ともトロツキストで青年社会主義者の指導部を形成していた。
 キープ・レフトはゲリー・ヒーリーの社会主義労働同盟SLLを支持、しかしSLLは1964−65年に労働党から離れた。
 ヤング・ガードは社会主義労働党ミリタント傾向の両者と協力していた。
 1963年までにヤング・ガードとしての協力は終わり、1964年ミリタントが結成され、ヤング・ガードは国際主義者によってしばらく継続
したが1967−1968年SWPの先駆者は労働党とLPSYから去った。
 1960年代末ミリタント傾向が全国大会で重要な地位を占めるようになった。
 1969年大会ではミリタント支持者がほとんどの議論で多数派となった。1972年ミリタント傾向が全国委員会多数派となった。
 労働党は1970年代は全体として左派に移行し、党全国執行委員会はミリタント傾向に対しいかなる処置もとらなかった。
 1985年にはミリタント傾向の主導により581支部がサッチャー政権反対デモを組織した。
 NOLSはミリタント支持者多数派を選出しなかった。多くの党指導者と政治スタッフのかつてはNOLSのメンバーであるものは
ミリタント傾向を追放しようと考えた。
 1983年ネイル・キノックが党首となると抗争が拡大し、1985年キノックはミリタント追放を決心。
 1986年党協議会はLPYS再建を決定。1990年までに支部は52となった。1993年新組織となる。


青年共産主義者同盟
 現在はブリテン共産党CPBの組織。
 1921年結成。
 1960年代後半ロック・グループ”フーWho”のピート・タウンゼントが短期間参加。
 1975年階級政策と区別される文化政策の重要性を強調。指導層はデイヴ・クックベアトリクス・キャンベルマーティン・ジャックらと
結びついていた。


首相
1937−1939年 ネヴィル・チェンバレン(保守党) 国民政府 保守、リベラル、国民労働国民リベラルリベラル国民
1939−1940年 ネヴィル・チェンバレン(保守党) 戦争政府 保守、リベラル、国民労働、国民リベラル、リベラル国民、スコットランド連合主義、
                                  アルスター連合主義
1940−1945年 ウイストン・チャーチル(保守党) 連合政権 保守、リベラル、労働、国民リベラル、リベラル国民、国民
1945年 ウイストン・チャーチル(保守党) 管理政権 保守、リベラル国民、国民、
1945−1951年 クレメント・アトリー(労働党)
1951−1955年 ウイストン・チャーチル(保守党)
1955−1957年 アンソニー・イーデン(保守党)
1957−1963年 ハロルド・マクミラン(保守党)
1963−1964年 アレク・ダグラス・ヒューム(保守党)
1964−1970年 ハロルド・ウイルソン(労働党)
1970−1974年 エドワード・ヒース(保守党)
1974−1976年 ハロルド・ウイルソン(労働党)
1976−1979年 ジェームズ・キャラハン(労働党)
1979−1990年 マーガレット・サッチャー(保守党)
1990−1997年 ジョン・メイジャー(保守党)
1997−2007年 トニー・ブレア(労働党)
2007−2010年 ゴードン・ブラウン(労働党)
2010−2015年 デイヴィッド・キャメロン(保守党) 保守、リベラル民主
2015−2016年 デイヴィッド・キャメロン(保守党) 保守
2016−2019年 テレサ・メイ(保守党) 保守
2019−      ボリス・ジョンソン(保守党) 保守

右翼 北アイル 保守 リベラル民主 スコ民族 シン・フェイン ウェールズ 労働党 共産党
1924年      46.8(412 17.8(40    0.2    33.3(151 0.2(1
1929年   0.1 38.1(260 23.6(59       37.1(287  
1931年   0.4 55.0(473 6.5(33       30.8(52 0.3
1935年   0.2 47.8(386 6.7(21 0.2   38.0(154 0.1
1945年   0.4 36.20(197 9.04(12     49.71(393 0.4
1950年   0.2 40.0(282 9.1(9   0.1 0.1 46.1(315 0.3
1951年   0.32(2 44.27(302 0.96(6   0.04 48.78(295 0.08
1955年     49.74(345 2.70(6 0.57(2 0.17 43.36(277 0.12
1959年     49.35(365 5.89(6 0.23 0.28 43.84(258 0.11
1964年     43.40(304 11.21(9 0.37 0.25 44.13(317 0.17
1966年   0.08 41.88(253 8.54(12 0.23 0.22 48.04(364 0.23
1970年   0.50(2 46.44(330 7.48(6   0.62 43.13(288 0.13
1974年 0.8(7 37.9(297 19.3(14   0.5(2 37.2(301 0.1
1974年 0.9(6 35.8(277 18.3(13 0.2 0.6(3 39.2(319 0.1
1979年 0.8(5 43.9(339 13.8(11 0.1 0.4(2 36.9(269 0.1
1983年   0.8(11 42.4(397 25.4(23 0.3(1 0.4(2 27.6(209  
1987年   0.8(9 42.2(376 22.6(22 0.3(1 0.4(3 30.8(229 0.1
1992年   0.8(9 41.9(336 17.8(20 0.2 0.5(4 34.4(271  
1997年 0.8(10 30.7(165 16.8(46 0.4(2 0.5(4 43.2(418  
2001年 0.7(5 31.7(166 18.3(52 0.7(4 0.7(4 40.7(413  
2005年 0.9(9 32.4(198 22.0(62 0.6(5 0.6(3 35.2(355  
2010年 3.1 1.2(8 36.1(306 23.0(57 0.9(6 0.6(5 0.9(1 0.6(3 29.0(258  
2015年 UKIP
12.6(1
DUP
0.6(8
36.9(330 7.9(8 SNP
4.7(56
0.6(3 3.8(1 0.6(3 30.4(232
2017年 1.8 0.9(10 42.4(317 7.4(12 3.0(35 0.7(7 1.6(1 0.5(4 40.0(262



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