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〔USA(アメリカ)共産党〕 Communist Party USA
 米国で最初に社会主義を主張したのは1876年にマルクス主義者組織として結成された社会主義労働党SLP
Socialist Labor Party of Americaである。
 この党は1890年、ダニエル・ド・レオンの指導下に入り、以降ド・レオン主義の党となった。
 ド・レオン主義は党の労働組合への指導性を軽視する。産業別組合が労働者階級の中核となる。
 それ以前のアメリカのマルクス主義者はドイツ移民が中心でドイツ語が多数派であったが、以降英語が公式用語となった。
 この党は依然として今日も存在するが、アメリカ社会党のような他の改良主義政党に移ったものもいる。
 モリス・ヒルキットらのド・レオンの反対派(当初はドイツ系やユダヤ系と組合主義者)はSLPを離れ1901年、ユージン・デブス
社会民主党Social Democratic Party of Americaと合流しアメリカ社会党Socialist Party of America を結成した。
 これら社会主義政党に大きな影響をもったのが言語連合(同言語使用移民組織)で初期は東欧・南欧からの移民が中心であった。
 初期の共産党にはロシア(スラブ系)とフィン人連合が特に重要である。
 1919年2月、レーニンはアメリカ社会党の左派をコミンテルン参加に誘った。
 1919年春、社会党左翼幹部はロシア革命に巻き込まれた国中の多数の新しいメンバーの流入に支えられて、
社会党の支配をもぎ取ろうとした。コミンテルン参加投票は90%の賛成で通ったが、現幹部はこの結果を無視した。
 党全国執行委員会選挙は15人中12人が左派となった。
 穏健派の党からの追放要求がなされた。穏健派幹部はいくつかの全国組織、12のうちの半分の言語連合、多くの地方の
3分の2のメンバーを追放することでお返しをした。
 社会党は1919年8月緊急大会を要求した。左派幹部は大会から追放されたグループによって党支配を戻すための
6月会議を計画した。
 チャールズ・ルセンバーグルイス・フレイナが参加した言語連合は1919年9月別の大会を開催し共産党を結成した。
 ジョン・リード(1920年10月死亡)とベンジャミン・ギットローによる社会党大会粉砕計画が進んだ。幹部は警察を導入し左派
を会議場から追い出した。アルフレッド・ワーゲンクネヒトマックス・ベダッハトルードウィッヒ・カターフェルド、アレクサンダー・ビラン
ら左派は1919年8月共産主義労働党Communist Labor Party(1919年)を結成した。
 コミンテルンにより統一共産党の名での統合とモスクワ路線への服従が要求された。                  
 チャールズ・ルセンバーグジェイ・ラヴストンのグループは従ったが、ニコラス・アワーウッチ(ロシア連合)とアレクサンダー・
ビッテルマン
(ユダヤ連合)たちは共産党の名で独立して行動し続けた。
 更に強い命令がコミンテルンから発せられ、1921年5月統合した。新党はわずか5%が本来の英語言語者で多くの
メンバーはIWWの幹部であった。
 初めから共産党は州および連邦政府の後にはFIBから攻撃された。
 1919年、無関係な爆弾と政府高官暗殺の連続で数千の党員が逮捕され始め、そして特に外国生まれが追放された。
 共産党は地下潜行を余儀なくされ種々の名称変更を経験した。
 1922年8月、地下組織志向の頑固路線派(ガチョウ派、ギットロー、カッターフェルド、ワーゲンクネヒト等)と少数派(親合法独立左派、
ラヴストン、ジェームズ・キャノン、ベダッハト等)に分裂。
 党機構は大部分地下にあった。1923年小さな合法組織・アメリカ労働者党Workers Party of Americaが出現した。
 1923年地下組織の共産党解散し、1925年再建。
 1924年農民労働党問題でフォスター・キャノン・ビッテルマン多数派ととペッパー・ルセンバーグ・ラヴストン少数派が分裂。
 1920年代初期の赤狩りと国外追放が引いて、党は大胆に公然としてきた。
 しかし党組織は依然として非公然でCPUSA秘密組織として知られていた。
 この時期、東欧から来たユダヤ人が数以上の顕著な役割を果たしたとされる。
 社会党メンバーの多数派は移民で、共産党はそれを越える割合の直近の移民よりなりその相当の部分はユダヤ人であった。
 米国における共産主義者による破壊の恐怖と新たな孤立主義により1920年代の移民論議が起こり、1924年の制限的移民法
をもたらした。同時期、反セム・反共産主義文学が広まった。
 1918年、アレクサンダー・バークマンとソ連に渡ったアナーキスト、エマ・ゴールドマンは1923年、ソ連への幻滅を表意している。
 1925年のコミンテルンで1917年から1924年の革命高揚から今は資本主義の安定期に入り、革命は近い将来に遠のいたと
決議され、アメリカ共産主義者は連合路線に努めた。
 これは党内に分派闘争を巻き起こし、ジェイ・ラヴストンに支持された党議長チャールズ・ルセンバーグのグループと
ウィリアム・フォスター(党労働組合教育連盟指導者)とジェームズ・キャノン国際労働防衛組織指導者)の幹部グループが形成された。
 前者は党の多くの外国語連合メンバーをひきつけ、後者は本来の英語労働者が多かった。
 フォスターは1919年の鉄鋼ストに深く関与し、長い間組合主義者のウォブリー(IWWメンバー)で、シカゴ労働連合の進歩的
指導者と、これにより進歩党Progressive Partyや初期の農民労働諸党Farmer-Labor Partyと硬い結合を持っていた。
 しかしコミンテルンの圧力で1924年に両グループと関係を絶った。
 1925年、コミンテルン代表セルゲイ・ギュセフは多数派フォスター派にルセンバーグ派の支配下にはいるよう命令した。
 フォスターは従ったが党内分派闘争は終わらなかった。
 1927年ルセンバーグが死亡し、ジェイ・ラヴストンが跡を継いだ。
 キャノンは1928年のコミンテルン第6回会議に出席し、ジェイ・ラヴストンに対する優位を得るため指導者たちとの関係を利用
しようとした。しかし彼と、カナダ共産党のモーリス・スペクタートロツキーの影響を受けて帰ってきた。
 キャノンはアメリカに戻って、マックス・シャハトマンやマルティン・アバーンのような国際労働防衛ILDの彼の親密な仲間と、
武器なき3将軍とあだ名され、トロツキー支持派を組織し始めた。しかしこれが左翼反対派に発展するのが明らかになると彼らは
追放された。キャノンとその支持者はトロツキーの国際左翼反対派としてアメリカ共産主義者同盟を1928年組織した。
 一方ラヴストンはコミンテルン総書記のブハーリンの指導力に印象を受けたが、これは1929年のブハーリンのスターリンとの
闘争による敗北で彼に悲惨な結果をもたらす。
 1925年とは逆にコミンテルン代表団はラヴストンが辞任しフォスターと交代することを要求した。
 フォスターは社会党からの分裂時には共産党に加わらなかったが1921年のモスクワの赤色国際労働組合プロフィンテルン
出席しプロフィンテルンの米国代理人に指名され帰国後参加した。
 ラヴストンと彼の同盟者ベンジャミン・ギットローは党の指導権を握っていたにも関わらず1933年永久追放された。
 ラヴストン、バートラム・ウォルフとギットローは親ブハーリンの国際共産主義(右翼)反対派の共産党(反対派)を形成し、これは当初トロツキスト
より大きかったが1941年以降生き延びれなかった。
 ラヴストン派はチャールズ・ジマーマン(1970年代初期社会民主USA指導者)率いるユダヤ語使用メンバーの国際女性衣服労働者組合
地域22から大きな支持を得た。
 このグループ1930年から1941年までCPUSA(多数派)、CPUSA(反対派)、独立共産主義者労働同盟、1938年アメリカ独立労働同盟
名乗った。1930年ベンジャミン・マンデルが去り、進歩労働行動協議会(1933年アメリカ労働者党AWP)に参加。1933年ベンジャミン・ギットロー
周辺が分裂し革命的労働者党同盟に参加(1934年社会党へ移る)。1934年ハーバート・ザムの周辺が分裂し社会党参加。
 第二次世界大戦解釈でアメリカ介入賛成のラヴストン、帝国主義戦争として支援反対のウォルフに分裂。ウォルフら後にに反共主義者となる。
 革命的労働者党同盟は1934年アメリカ共産主義者同盟から追放されたB.J.フィールドがギットローのグループと結成。
 これは米国では小さなグループであったがカナダではウイリアム・クレームの指導の下1937年までトロツキスト運動を代表した。
 ギットロー・グループが去り、残党はアルバート・ワイスボード闘争共産主義者同盟(1931年アメリカ共産主義者同盟から分裂)や
革命的労働者同盟イーライト)やイタリア系のボルディガ派などと統一交渉を行ったが成功せず、1936年に多数が去り、1940年代に解散。
 哲学者モートン・ホワイトがコロンビア大学生グループに参加。

 1928年のCPUSAの騒乱をもたらしたソ連の変化は更に大きな変化を伴っていた。
 スターリンの社会ファシスト論は西側社会主義諸党とのどんな形態の協力を否定しこれは特にドイツに厳しい結果をもたらした。
 この政策の米国での衝撃で1928年には2万4千だった党員が1932年には6千まで落ち込んだ。
 CPUSAは労働組合教育連盟TUELによるアメリカ労働連合AFL内での組織化努力を放棄し、労働組合統一同盟(1929−
1935年)による2重組合組織化の努力に転じた。
 フォスターは彼の以前の政策と矛盾するにもかかわらずこの変化をやってのけた。
 1930年まで米国共産党は下からの統一戦線のスローガンで大不況期に失業者組織化、赤色組合結成、アフリカ系アメリカ人
の権利擁護、農民と貧しい労働者の追いたてと闘った。
 彼らは社会党に愛想をつかした人々やアフリカの血の同胞と呼ばれるアフリカ系アメリカ人社会主義者組織から新しいメンバー
を求めた。アフリカの血の同胞メンバーのあるものはたとえばハリー・ヘイウッドのように後に黒人の間での共産主義活動で
重要な役割を果たした。

 1930年代中期にはエドーガー・スノーオーウェン・ラティモアウイリアム・ヒントンらのジャーナリストが中国共産党支配地区に入った。

 1932年、引退したフォスターはソ連をアメリカの革命と社会主義のモデルとした。
 同年アール・ブラウダー(1934−1945年)が総書記になった。ブラウダーは社会党で徴兵制に反対し逮捕されていた。
 1921年の統一で共産党に参加。
 最初ブラウダーは党をソ連の利益に接近させ、秘密組織あるいは地下組織網展開を助けた。
 1932年のフランクリン・ルーズベルトの選出と1933年のヒットラーの権力奪取により第3期時期の思想的頑迷さが砕け始めた。
 ルーズベルトの1933年全国産業復興法NIRAは1933年と1934年の労働組合組織化の高揚をもたらした。
 党路線は依然として革命的独立組合を選択したが、党活動家はこれらの組織を折りたたみ、大量の労働者が彼らが攻撃している
AFL組合に入るのに従うことを選んだ。

 シドニー・フックはマルクス理論家として著名になり1929年ソ連を訪問し、熱心にソ連について書いた。
 1932年大統領選ではブラウダーを支持したが、1933年コミンテルンと衝突し、アブラハム・マストの労働者党の指導者となり、
マルクス主義についてマックス・シャハトマンと論争した。冷戦期には反共主義者になり、後にレーガンから自由勲章をもらった。

 1935年の第7回コミンテルン会議は公式に路線を変更し、ファシズムに反対するすべてのグループの人民戦線の必要性を宣言した。
 CPUSAはニュー・ディールへの反対を放棄し、多くの活動家を産業組織会議CIOに送り込んだ。
 社会党、農民労働党との協力を求め、労働者無党派同盟を支持。
 党はその右派との統一に努めた。ブラウダーは1936年の大統領選で社会党のノーマン・トーマスの副大統領として立候補する
ことを提案したが拒否された。結果的にCPUSAは多くのかれらの労働組合でルーズベルトを支持した。
 CPUSAは自己の候補を立て続けながら、民主党の政策をよりましとして追い求めた。
 党員はスペイン戦争の間(1936−1939年)スペイン共和国防衛に結集した。
 CPUSAは世界中の左翼と共に、医療のための資金を集め、党員はスペインに赴き、国際旅団の1つリンカーン大隊(とジョージ・
ワシントン大隊、ブルネテの闘いで両者消耗し統合)に参加した。
 リンカーン大隊は黒人と白人が同等の基礎で統合されたアメリカ最初の軍隊であった。
 1937年2月ハラマで負傷したロバート・メリマンの跡を継ぎ黒人のオリヴァー・ローが司令官となり彼は1937年7月のブルネテの
闘いで最前線で戦死した。戦争中米国からの志願兵は約2千800人でその3分の1が戦死した。    
 スティーヴ・ネルソンはリンカン大隊の政治委員となった。
 アナーキストのエマ・ゴールドマンCNTを支援した。
 人民戦線期に知識人や芸術家の間に共産主義者は強い影響を広げた。
 ブラウダーのもとのCPUSAはモスクワ裁判を支持した。ブラウダーは無批判にスターリンを支持した。
 1937年までのスターリンの粛清は世界の共産主義運動に大きな亀裂をもたらした。
 多くの反スターリン派はソ連に呼ばれ、ほとんど全ては拷問、投獄、銃殺された。
 これは米国にも及びCPUSA創設メンバーのジュリエット・ポインツが誘拐され多分殺された。
 CPUSAは人民戦線期には断固としてファシズムに反対し、1938年まで党員は7万5千に上昇したが、1939年のモロトフ・
リッベントロップ協定で多くの党員が離党した。
 協定によりCPUSAは反ファシズム活動から平和支持に転換し、ヒットラーへの反対も非難した。
 この路線は1941年のヒットラーのソ連攻撃で変化した。
 第2次大戦中CPUSAは労働組合のストライキに反対し、戦争中もストライキを支持した社会主義労働者党Socialist Workers PartySWP
幹部のスミス法による告発を支持し、黒人労働者の労働での平等な扱いの要求を脚色したワシントン行進を組織したフィリップ・ランドルフ
を批判した。

 ピート・シーガーは1936年17歳で青年共産主義者同盟に参加、1942年共産党員となり1950年代に党から離れた。
 著作家のハワード・ファストは1944年共産党に加わり、1953年スターリン平和賞受賞、1950年代末ソ連と西欧問題で党と衝突。
 ハワード・ファストは1955年ナジム・ヒクメットの小さな娘を英訳(THE LITTLE DEAD GIRL)、これをポール・ロブソンが歌った。
 この曲は後にI Come and Stand at Every Doorとしてピート・シーガーにより歌われた。

 ブラウダーは戦中のソ連と西側の連合が戦後も長い社会調和をもたらすことを期待し、共産主義運動のアメリカ社会への統合のため
1944年共産党を公式に解散し、共産主義政治協会associationに置き換えた。
 しかし調和は破壊され国際共産主義運動は戦後左に揺れた。
 フランス共産党ジャック・デュクロの批判の手紙が世界に回り、ブラウダーは孤立した。この結果かれは引退し、ウィリアム・フォスター
(1945−1957年)が跡を継いだ。
 国によりCPUSAの迫害が更新され、1947年トルーマンの政府忠誠宣誓要綱が導入され、左翼の公職追放が促進され共産主義者
の破壊活動家という観念が正当化され、公的および私的雇用から追放された。
 下院非米活動委員会の公聴会では現在およびかつて共産主義者であったものやその共感者が失職の脅威のもと他の共産主義者の
名を告白するよう強制され、短期間のCPUSAや関係グループへの加盟さえ、公然摘発と攻撃の理由とされた。
 更におなじようなことが地方自治体にも奨励された。映画産業や自称監視人グループのような私的集まりにまでこれは広げられた。
 これは論議となったハリウッドの戦前・戦中に共産主義者だった、あるいは共産主義者支配または影響下の組織と関係あった
俳優、作家、演出家のブラックリストも含む。
 同様に労働運動も党員を追放した。産業別組織会議CIOは1948年大統領選での党のヘンリー・ウォラス立候補(進歩党)支援と
そのマーシャル・プランへの反対をきっかけとした内部論議のあと1949年公式に多くの左派組合を追放した。
 一方CPUSA支持の組合運動指導者はその組合を追われるか、党との協力から脱落した。
 1949年のソ連原爆実験とソ連のスパイ行為の暴露のあと共産主義への脅威の広がりはより激しくなった。
 リチャード・ニクソンジョセフ・マカーシーのような野心的政治家はトルーマン政権内やマカーシーの場合はそのあと米軍内の
共産主義者を暴露するあるいは暴露すると脅すことで名を上げた。
 米国民主行動(1947年ー)のような自由主義者は共産主義者と共産主義運動から距離を置いたばかりでなく反共主義と自称した。

 1949年リチャード・ライトルイス・フィッシャーアーサー・ケストラーステーヴン・スペンダーアンドレ・ジイドイグナシオ・シロネ
と共産主義への幻滅を著した神は躓くに寄稿。

 1951年、ウィリアム・パターソンは国連に我々は告発するという文書で米国における黒人リンチはジェノサイドであると米国政府の
責任を告発した。彼はポール・ロブソンと共に著名な市民権会議活動家であった。

 米国政府は1954年共産主義者管理法でCPUSAを非合法化した。1956年のソ連のハンガリ介入とフルシチョフの秘密演説は
CPUSAの以前のスターリン主義多数派党員に劇的な影響を与えた。     
 ハワード・ファスト(小説家)らが党を去り、ドロシー・ヒーリーは党を改革しようとしたがついに1974年に新アメリカ運動
1982年アメリカ民主社会主義者に参加。
 党員は激減し、幹部はデイリー・ワーカー編集員ジョン・ゲート率いる緩やかに結びついたグループの挑戦に直面した。
 ジョン・ゲートは党を民主化しようと望んだ。1924年から発行されてきたデイリー・ワーカーは部数が激減し1958年中止に
追い込まれた。
 多くの批判者は党から離れ、他のものは以前として進歩的運動で活動し党員との調和的活動を終えたものもいる。
 これら離散者は1960年代の新左翼発展に重要となる全国ガーディアンマンスリー・レヴュー(1949年、ポール・スウィージー
発行)のような出版物の読者となった。
 ライト・ミルズ新左翼理論家やスウィージーと関係をもって、影響を与えた。

 1955年ウィリアム・バックレイ・Jrが創刊した共和党・保守派雑誌全国評論National Reviewにはジェームズ・バーナム
ウィルモア・ケンドールらのトロツキストやフランク・メイヤーウィタッカー・チャンバースらの元共産主義者が参加。

 1958年、カリフォルニアのネルソン・ピアリーの周辺がカリフォルニア共産主義者同盟として分裂。これは1974年共産主義労働党となり、
1993年新アメリカ革命同盟となる。
 1950年代末反修正主義の先駆の黒人ハリー・ヘイウッドが追放される。
 1959年元鉄鋼労働者のガス・ホール(−2000年)が総書記となった。ホールの考えはその助言者のフォスターと同じであった。
 しかし若者は古参より厳格で党を完全な正統にしようとしとした。
 このため一方で党を自由化しようとするものは追放され、また反フルシチョフ主義の反修正主義者も追放された。
 米国両岸の多くのこれら批判者は1961年、進歩労働党Progressive Labor Partyを結成した。進歩労働党は1960年代中期と
1970年代初期の多くの毛沢東主義組織に重要な役割を果たすようになる。
 フォスターの書記のジャック・シュルマンはこれらの組織で重要な役割を演じた。
 幹部からの多くの反修正主義者毛沢東グループの離脱にもかかわらず1970年代CPUSAはなんとか約2万5千の党員まで
回復した。
 1961年、93歳の市民権活動家ウィリアム・デュ・ボアが共産党に参加。
 1961年エリザベス・フリンが議長となった。彼女は1907年IWWの組織者となり重要な役割を果たした。
 また1920年アメリカ市民権連合の創設メンバーとなり、サッコ・ヴァンゼッティの支援活動を行った。彼女は女性の権利、産児制限、
女性参政権の活発な活動家であった。
 1968年チャーリン・ミッチェルが最初のアフリカ系の大統領候補となった。

 1984年、ロナルド・レーガンの反共政治の人気とCPUSAメンバーの減少により、それまでアンジェラ・デーヴィスらと大統領選
をたたかってきたガス・ホールは全国的選挙運動を終えることを選んだ。
 1990年代から党は米国の貧しい少数派の周辺、とりわけ黒人の周辺から主に補充してきた。その結果、CPUSAには若い黒人
やスペイン系が多い。CPUSAは依然として地方選挙には候補を立てる。
 最近、党は米国の共和党に強く反対する。彼らは共和党を極右あるいは時にはファシストと呼ぶ。
 現実的立場としてはCPUSAは共和党を打倒すべき脅威と見なし、共和党に反対し、強く民主党を支持する。
 共産党は依然として両党を本質的に資本主義政党とみなし、アメリカにおける保守支配を覆す手段としてのみ民主党を支持している。
 社会主義運動の多くは2つの敵のよりまし戦術に同意せず、これが共産党から他の左翼グループへの移行の原因となっている。
 ソ連崩壊で共産主義の脅威が小さくなった1990年代早期からメンバーのある程度の増加がある。

 1991年、社会民主主義を主張するグループが離党しジル・グリーンらが通信委員会を組織、2000年民主・社会主義通信委員会CCDS
となる。
 共同議長にチャーリン・ミッチェルレスリー・ケイガンマーク・ソロモンら、助言団としてティミエル・ブラック、ノーム・チョムスキー、
アンジェラ・デイヴィスルビー・ディー、エレーヌ・ハゴピアン、コニー・ホガース、エリザベス・マルティネスマニング・マラブル
ピート・シーガージャック・オデルユージン・ニューポートらが参加。CCDSは社会党(1973年ー)との2重加盟を許容している。
 CCDSのメンバーは共産党に戻ったり、緑党に移ったりして組織は分解状態となる。
 2009年の共同議長はカール・ブロイス、ルネ・カーター、カール・デイヴィドソン、パット・フライ。
 他にイラ・グルッパー(市民権活動家)、ハリー・ターグ(理論誌共同編集員)ら。
 
 CPUSAは大統領選では1932年にフォスターで0.3%103307票を獲得している。
 歴史家のハーバート・アプシェーカーは1957−1991年に全国委員会に参加、1970年代、1980年代にアメリカ・マルクス主義
研究所の指導者となっている。

 理論的問題では、基本的に中国の現在の方向にたいして肯定的であるが完全肯定とはなりきれていないようである。
 サム・ウェッブ(2000−)は“社会主義の反省”で民主主義、反人種差別、反性差別、米国での最近の左翼の変化への支持
を述べている。
 社会主義陣営の崩壊については民主主義が十分でなかったとしている。一方で後進社会の現代化、経済保証、
社会的権利、植民地解放支援、ナチスへの勝利への貢献に寄与し、ほぼ50年間、資本家階級の労働者階級と民主的運動への
譲歩と米国帝国主義の攻撃的野望への対抗力となったと述べている。
 また米国は平和的革命的変化を求めていると強調している。
 ウェッブは資本主義は経済不況、人種主義、性差別、貧困を解決できないといっている。
 資本主義から社会主義更に共産主義への過程は多様であるとも述べている。
 市場経済については問題は多いが社会主義経済に相容れる余地がないというには理由は不十分であるといっている。

 1930年代にソ連秘密諜報局を助ける秘密組織ウェア・グループがあったとされる。
 これにはアルジャー・ヒスビクター・パーロらが加わっていたとされる。
 また第2次大戦中には同じようにビクター・パーロ率いるパーロ・グループが活動していたとされる。これにはハリー・マグドフらが
参加していたとされる。

民主・社会主義通信委員会CCDS〕
 1991年CPUSAの3分の1が分裂して新組織”通信委員会”結成、2000年民主・社会主義通信委員会となる。
 1991年11月の会合での署名者はテド・ピアソンミルドレド・ウイリアムソンパット・フライカール・ブロイスジル・グリーンチャーリーン・ミッチェル
ジェームズ・スティールクライド・グルッブスなど。

 1992年の第1回協議会に代表を送ってきたのはクロス・ロード(社会経済学習研究所発行雑誌、マックス・エルバウム)、アメリカ民主社会主義者
独立政治行動全国委員会、連帯(1986年結成)、社会主義者組織化ネットワークなど。

 2008年はシカゴでティミエル・ブラック、カール・デイヴィドソンらがバラク・オバマを支援。
 オバマ選挙では民主党内で活動するものや、独立組織で活動するもの、ニュー・ヨークでは労働家族党で活動するものも存在するが民主党に
反対し緑党やカリフォルニアの平和・自由党でシンシア・ムキニーのために活動するものも存在。
 2009年2月大会では
  左翼統一に関するシンポジウムにはCCDS指導者ミルドレド・ウイリアムソンのほかにCPUSAのジュディス・ルブラン、アメリカ民主社会主義者の
 ジョー・シュワルツ、連帯のマイケル・ルビン、自由の道社会主義者組織のジャマラ・ロジャースとそのほかリンダ・バーナムが参加。
  国際ゲストとして南アフリカ共産党のクリス・マトルハコ、ベネズエラ大使館のマルコス・ガルシア、ドイツ・リンケのヘルムート・ショルツ、FMLNの
 ジャクリーヌ・リヴェラが挨拶、更にフランス共産党のダニエル・チルラが参加。キューバとベトナムから連帯メッセージ
  チャーリーン・ミッチェルマーク・ソロモンジェームズ・キャンベルレスリー・ケイガンの旧指導者からパット・フライカール・ブロイス
 レネー・カーターカール・デイヴィドソンの新指導者に移行。

独立進歩政治ネットワーク〕   *Key・Wikiは左翼暴露を目的としている
 1995年いくつかの組織が全国独立政治サミットをピッツパーグに召集。企業が支配する2政党体制にたいする抵抗文化と統一独立政治イニシアチヴ
創設を呼びかけ、220人が呼びかけに応じ最初の会議に参加。
 ジョージ・フライディーが全国調整者、他の指導者はテド・グリックカレン・クビー(社会党)、シンシア・ムキニージェローム・スコットなど。
 助言団としてエド・アスナーエレーヌ・バーナードヴィニー・バーローズレスリー・ケイガンボブ・クラークロン・ダニエルコニー・ホガース
ジョアンヌ・ランディーマニング・マラブルガス・ニューポートマイケル・パレンティグウェン・パットンドン・ロハスバルデマール・ベラスケス
ルーシャス・ウォーカーヴィクター・ウォーリスハワード・ジンら。(アメリカ民主社会主義者あるいは民主・社会主義通信委員会周辺の人々など)

 2008年加盟組織
  民主・社会主義通信委員会、緑党USA、新アメリカ革命同盟全国法律家ギルド、平和自由党、社会党USA、連帯、学生環境行動連合
 ティクンTikkun共同体北米農場連合黒人農民・農業技術者協会市民兵士宇宙での兵器・原子力反対グローバルネットワークなど。
 
平和と正義のための統一
 イラク戦争抗議と永続戦争・帝国建設政策に反対する1400以上の地域、全国グループの連合。
 政策学研究所マーカス・ラスキンらが1963年創設、親マルクス主義)のパートナー組織。
 全国調整者はレスリー・ケイガンジュディス・ルブラン平和行動)が共同議長などCPUSAの影響が強い。

民主社会運動Movement for a Democratic Society〕
 2006年初めアメリカ民主社会主義者活動家ポール・ビュール率いる旧SDSのメンバーやシンパと新世代の学生がSDSを再建。
 これには2010年で全米で130を越える支部が所属。
 2006年にポール・ビュール、トーマス・グッド、ブルース・ルビンシュタインらが民主社会運動結成。
 2006年指導部はエリオット・アダムス平和のための古参兵)、バート・ガースコフ(緑党)、トム・ハイデンノーム・チョムスキーバーナーダイン・ドーン
ビル・フレッチャーJr、ロビン・ケリーマイケル・クロンスキーエセルバート・ミラーチャーリーン・ミッチェルマーク・ラッドハワード・ジンら。
 2007年SDSの資金形成のためSDS法人創設、マニング・マラブルが議長。ポール・ビュール、ジュディス・マリーナ、ジェス・ザールが副議長。
 チャーリーン・ミッチェルバーバラ・エーレンライヒバート・ガースコフマーク・ラッドらが指導部。
 非出席者ではエリオット・アダムスアンジェラ・デーヴィスイマニュエル・ワレンシュタインコーネル・ウエストハワード・ジントム・ハイデン
ノーム・チョムスキーバーナーダイン・ドーンバーバラ・エプシュタインタリク・アリビル・フレッチャーJr、ロビン・ケリーマイケル・クロンスキー
エセルバート・ミラーエリザベス・マルティネスらが指導部。

 トーマス・グッドは2004年、新左翼ノートNLNを再建。NLNにはSDS古参のバーナーダイン・ドーン(元ウエザー地下指導者)、
 ビル・エイヤーズウエザー地下共同結成)、ポール・ビューレポール・ラッドらや新SDSのパット・コートらが寄稿。旧ウエザー地下メンバー
 に近すぎるという批判がある。

(アメリカ労働者党WPA) Workers Party of America
 1920−1930年頃に存在したアメリカ共産党の合法組織。
 アフリカ人血の同胞(1919年、シリル・ブリッグスらが人種主義者の襲撃に対応するため結成)や米国労働者評議会のような
独立社会主義者グループの加盟も受け入れた。
 一方でメンバーが重なる地下共産党はパルマーの手入れ(1991−1921年)の抑圧にもかかわらず政治的扇動を行った。
 1923年まで公然党は社会党との人民戦線活動従事に努力したが拒絶された。
 1924年の大統領選の前、WPAとSPAは別々に労働党ALP(農民労働党)に参加した。SPAは進歩政治活動会議(1922−
1924年)に参加、これは進歩党(1924−1946年)に解消。
 WPAは全国農民労働党(1819−1924年)支配に成功したがこの党はすぐに構成部分(地方組織)に戻った。
 コミンテルンの第3期路線で左翼統一戦線は放棄され公然独立党路線になり、WPAと地下党は1920年代末に徐々に統合した。

〔社会主義労働党SLP〕 Socialist Labor Party of America
 1828年米国最初の労働組合としてフィラデルフェアで労働者党Working Men's Partyが結成される。
 自由公共教育、10−11時間労働と男性普通選挙うを要求。5年後に解散。
 1876年、フィラデルフェアでアメリカ労働者workingmen's党として創設。1878年改名。
 SLPは米国中の小マルクス主義政党の連合で最初の全国的社会主義者党。大きなドイツ移民共同体のあったニューヨークで特に強固
であった。同時期同じような労働者党Workingman's Partyにサンフランシスコでのデニス・カーネイによるものがあった。
 これらのグループの主目的は無財産、無宗教、無中国人の標語に要約される。1881年急進アナーキストグループが離れ
革命的社会主義者労働党を結成した。
 これは1883年他のアナーキストと国際労働者人民協会に合流。
 1890年、SLPはダニエル・ド・レオンの指導下に入った。以降SLPはド・レオン主義を固執した。
 ド・レオンは党の多数派言語だったドイツ語を英語に置き換えた。
 1890年代エルネスト・ウンターマンはSLPメンバーで、1908−1910年は社会党全国執行委メンバーであった。
 彼はドイツ生まれでドイツで社会民主主義者と関係を持っていた。彼はヴィルヘルム・リープクネヒトアウグスト・ベーベル、エンゲルス
らの著作を翻訳した。
 モリス・ヒルキット率いるド・レオンの反対派は1901年SLPを離れユージン・デブス社会民主党と合流しアメリカ社会党を結成した。
 議会活動による改良をめぐりSLPは改良主義の支持者に強く反対した。SLPはインポシビリストとして知られる。
 SLPはセクト主義としばしば批判されるが、SLPは労働組合で活動を続け、そのメンバーは労働騎士で活発であった。
 騎士との衝突でSLPメンバーはアメリカ労働連合AFLに反対する小組合連合を立ち上げた。これは一部にはAFLは労働者階級の
広範囲な非熟練多数派の組織化を拒否していたことによる。
 ド・レオンは社会主義労働組合は労働組合を守るためだけでなく将来の社会主義の一部を形成すると考えた。
 SLPにとっての大きな衝撃は1905年の世界産業労働(組合)IWWであった。しかしSLPは1908年これから離れ労働者国際産業組合
WIIUをデトロイトを基礎に結成。ドレオンは1914年死亡し、WIIUは中心焦点を失い、SLPメンバー以外はいなくなり、1924年解散。
 ド・レオンの死亡でソ連と社会党の改良主義を批判していたSLPはアメリカ左翼多数派で孤立した。
 しかし残った確固としたメンバーにより党は依然影響をもった。党は20世紀に2度の勃興を経験した。
 大統領選では15000−30000票であったが1944年に45226票になった。上院候補はこの時期平均40000票であったが、
1946年96139票、1948年1000072票となった。この幸運は1950年代初期には衰退し、1954年には30577票となった。
 エリック・ハースは1950年代初期SLPで影響をもち、1952−1964年の大統領候補となりSLPを再建した。
 彼は小さな本”社会主義:家庭学習コース”を著作し好評であった。
 1952年の30250票から1960年には47522票にしたが1964年には45187票になった。
 ハースは他のすべての第3党を凌駕した。
 1960年代末期上院候補票は増加し1972年、112990票となった。1960年代のSLPへの関心の増加は長続きしなかった。
 新参者は時代の反権威主義意見に同意し、古い時代の党の労働者と同等の声をもつことを望んだ。
 彼らは党はあまりに小さなグループに支配されていると感じ不満が広がった。1976年を最後に大統領運動をほとんどしなくなった。
 1980年、ミネソタのメンバーを中心に分裂し新連合党を結成した。
 2008年全国事務所を閉鎖、2010年には事実上の解散状態となる。

(社会民主党SDP) Social Democratic Party of America
 SDPは、短期間存在した、マルクス主義者、労働組合主義者(特にアメリカ鉄道組合)、オーウェン主義者、人民主義者、未所属の
急進主義者の種々のグループのアメリカ社会民主SDAという非政治的社会運動から発展した。
 SDAは社会主義協力植民地を確立しようとした。1898年の会議では具体化に失敗、ビクター・バーガーのグループはSDAを
を離れSDPを結成した。1900年、ユージン・デブスが大統領選に立候補約87000票を獲得。
 1901年デブスを含むSDPのの多くのメンバーはいくつかの独立した州社会主義者諸党と統一しアメリカ社会党を結成した。

合衆国世界社会党
 英国社会党SPGBやカナダ社会党に影響されて1916年アメリカ社会党のデトロイト地区の42名が合衆国社会党SPUSとして結成。
 これはカナダでのインポシビリスト運動の成長に励まされ、またアメリカ社会党の改良主義化に失望したことによる。
 SPUSはアメリカ・プロレタリア党と提携するがソ連支援で分裂、SPUSはソ連を国家資本主義と考えたがプロレタリア党は労働者国家
とみなした。
 1920年代初めパルマー狩りの脅威やアメリカ社会党の党名への抗議で社会主義者教育協会と名乗るが1927年労働者社会党となる。
 1930−1940年が頂点で約150のメンバーを数え労働運動、特に統一自動車組合で活動。
 WSPUSメンバーはニューイングランドの国際女性衣類労働者組合国際印刷組合でも活動。
 カナダ社会党の機関紙西洋社会主義者は1939年から戦争のためカナダで発行できなくなりボストンで発行され、カナダ社会党とWSPUSの
両者の機関紙となり、1980年まで発行。
 1947年党名が合衆国世界社会党となる。1990年代中期にインターネットの出現で蘇る。
 世界社会主義者運動の友党。世界社会主義者運動は1904年英国社会党SPGBが結成。これには合衆国世界社会党の他に
英国社会党カナダ社会党ニュージーランド世界社会党、アイルランド世界社会党が参加。

労働者党、USA
 労働者党、USAはシカゴ拠点のマルクス・レーニン主義学習グループに起源がある。指導者はマイケル・ソーンバーン
 1992年に30−50名が参加して組織化協議会が開催される。欧米の政党マルクス・レーニン主義政党と提携。

(アメリカ社会党) Socialist Party of America 歴史 1901−1972年
 1901年、社会民主党(1898年設立)SDPと社会主義労働党SLPの穏健派、ジョージ・デイヴィス・ヘロンらのキリスト社会主義者が結成。
 1905年大学間社会主義者協会(1921年産業民主同盟LIDとなる)がジェームズ・ストークス、ジャック・ロンドンノーマン・トーマス
アプトン・シンクレアクラレンス・ダローフロレンス・ケリーらにより結成された。
 ローズ・パスター・ストークスは1905年ジェームズ・ストークスと結婚し、1909年グリニッジに移りそこで夫の知的社会主義者サークル
ウィリアム・ウォーリングら)に参加。
 二人は社会党の活動家となった。ローズ・パスター・ストークスマーガレット・サンガーエマ・ゴールドマンらとも活動した。
 パスター・ストークスは1917年防諜法で10年の宣告を受ける。1920年共産党に参加。

 1904−1912年に種々の少数民族集団の間で興隆し、ユージン・デブスが大統領候補となった。
 1901年から第一次世界大戦まで社会党は多くの選挙に参加し、ニューヨーク市のメイヤー・ロンドン(1915−1919年、
リトアニア・ユダヤ人)とミルウォーキーの清掃社会主義Sewer Socialism運動家のビクター・バーガー人民党社会民主党をへて
社会党へ、ハンガリー・ユダヤ人)の二人の下院(Rep)議員と、70人以上の市長、多くの州議員、市議会議員がいた。
 集票力は移民してきたばかりのユダヤ、フィンランド、ドイツ人、炭鉱夫、中部の以前の人民主義農民で強かった。
 党の眺望は急進社会主義からニューヨークの党指導者モリス・ヒルキット(ラトビア移民)の社会民主主義、より右派のバーガー
と色々であった。急進社会主義者と労働組合主義者syndicalistは世界産業労働(組合)IWWメンバーとユージン・デブスを含み
党左派であった。
 更にカンサスのジュリアス・ウェイランドのような農業ユートピア傾斜急進主義者がおり、彼は党全国紙”理性への訴え”を労働組合
活動家、ユダヤ、フィンランド、ドイツ移民、ウォルター・リップマン(ドイツ・ユダヤ系)のような知識人やヒューバート・ハリソンのような
黒人知識人と編集していた。
 作家のジャック・ロンドン社会主義労働党に参加し、1901年社会党に参加。1916年党の闘争性の欠如を理由に組織から離れた。
 1909―1921年、ヘレン・ケラーは社会党員として労働者階級のために積極的に運動し執筆した。
 彼女は社会党大統領候補、ユージン・デブスの選挙運動を支援した。
 1912年、彼女は議会社会主義は政治バッグに沈みつつあるとしてIWW(ウォブリーズ)に加盟、1916―1918年にIWWのために
執筆した。
 1910年代初めニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジでマベル・ドッジのサロンにジョン・リードアプトン・シンクレアエマ・ゴールドマン
マーガレット・サンガーチャールズ・デムートビル・ヘイウッドリンカン・ステファンスらが集った。

 1910年エミル・ザイデルがミルウォーキー市長となり1916年ダニエル・ハオンがミルウォーキー市長となり21年間在職した。

 1911年雑誌”大衆”が創刊されマックス・イーストマンジョン・リードフロイド・デルらが紙面を飾った。これは1918年
マックス・シャハトマン兄弟の解放者に引き継がれた。これは左翼的カートーン(時事漫画、風刺画)で知られた。1922年には
アメリカ労働者党に渡されロバート・マイナーが編集者になった。これは1924年他の出版物と統合し月刊”労働者”
 1926年には新大衆マイク・ゴールドにより創刊されリチャード・ライトグランヴィル・ヒックスアプトン・シンクレア
ドロシー・パーカーラングストン・ヒューズ、ヘミングウェーらが投稿した。

 党はアメリカ労働連合(労働総同盟)AFLと敵対関係にあった。AFL指導部は強固にSPAに反対したが、バーガーやヒルキット
のような穏健社会主義者は広範な労働党結成の希望のもとAFLとの協力を主張した。
 彼らのAFLの指導的同盟者は国際印刷労働組合のマックス・ヘイズであった。しかし彼らの努力はIWWあるいは
ジュリアス・ウェイランドのような意見を持つ社会党多数派によってはね付けられた。
 1911年にIWWの指導者ウィリアム・ヘイウッドが社会党全国執行委員会に入った。
 これによりヘイウッドとヒルキットらの間で労働組合主義か社会主義かの論争が起こり1913年左派がヘイウッドと組織から出て行った。

 1912年全国大会の委員会では極東からの移民についてAFLの支援を受けた排除派のエルネスト・ウンターマンスティット・ウィルソン
ら多数派とジョン・スパーゴメイヤー・ロンドンの少数反対派が発生したが、本会議では採決に至らなかった。

 党の第一次世界大戦反対で党は急激な斜陽に陥った。ボルシェヴィキ革命による言語連合での党員増加はそのなかの著名な人物
共産主義労働党CLPへの移行によって幻像となった。
 ジェームズ・オニールユージン・デブスモリス・ヒルキットアドルフ・ジャーマージョーン・ワークの主流に対し右派は
アラン・ベンソンチャールズ・ラッセルジョン・スパーゴエマニュエル・ハルドマン・ジュリアスカール・トンプソンで第一次世界大戦
へのアメリカ参戦に賛成し、ウォルター・リップマン、ジョージ・ストークス、ウィリアム・ウォーリングなどの特に著名な人物らとともに
党から離れていった。
 最初ジョン・スパーゴエマニュエル・ハルドマン・ジュリアスチャールズ・ラッセルらはアメリカ社会民主連合SDLを結成。
 ついで彼らはセオドア・ルーズベルト進歩党禁酒党とのかなわぬ希望で民族national党を結成(元社会党ではデイヴィッド・コーツ
アプトン・シンクレアジョン・スパーゴ、ジョージ・ストークスら)した。
 
 1918年、ユージン・デブスは徴兵制への抵抗を呼びかける反戦演説を行い、逮捕・投獄された。
 1919年防諜法によりアドルフ・ジャーマールイス・エングダールビクター・バーガーウィリアム・クルーズら5人は20年の刑を
宣告されたが、のちにひっくり返された。

 オランダ人マルクス主義者セバルト・ルトヘルスが左派に影響を与えた。
 1919年1月レーニンは社会党左派にコミンテルン参加を呼びかけた。ルイス・フライナの左派宣言の周囲に社会党左派が出現。
 ボルシェビキ主義者は党の支配権を握ろうとしたが、追放され、言語連合にチャールズ・ルセンバーグルイス・フライナが加わり9月2日
アメリカ共産党を結成した。
 ジョン・リードベンジャミン・ギットローは党大会を粉砕しようとしたが、大会から追い出された。残ったボルシェビキ主義者は9月1日
共産主義労働党を結成した。この2党は1921年合流しUSA(アメリカ)共産党を結成した。
 左派には1921年中残って社会党をコミンテルンに参加させるために闘っていたグループもいた。これらは共産党の秘密組織に
反対していた。ジャーナリストのルイス・エングダール、青年社会主義同盟のウィリアム・クルーズ、シカゴ組織などで1921年の
党大会後去った。彼らの公然組織化はアメリカ労働者党の結成で実現し、これに関わっていった。
 ウィリアム・クルーズは1920年代ペッパー・ルセンバーグ・ラヴストン・グループを支持した。

 党の正規派Regularはアドルフ・ジャーマージェームズ・オニールジュリウス・ガーバーに率いられた。
 彼は皮肉なことに1916年には言語連合の支持でカール・トンプソンに勝利。

 1920年ニューヨーク州議会は社会党員で不忠誠だとしてルイス・ウォルドマンサミュエル・デウィットチャールズ・ソロモン
オーギュスト・クラエッセンスらの5人の社会主義者を追い出した。

 1919年前半に10万いた党費党員が、1921年後半には1万4千以下となり、大規模でよく組織されたフィンランド社会主義者連合
の離脱が拍車をかけた。これは大部分が1921年の労働者党結成に参加、1923年には40%以上を占めた。
 1921−1925年には進歩政治活動会議CPPAによる進歩勢力結成に失敗。

 デブスは1900年から1920年まで5回大統領候補となった。
 ノーマン・トーマスは1928年から1848年まで6回大統領候補となり、1932年に2.2%、88万票獲得。
 党初期の大統領選ではユージン・デブスを候補とし1900年の0.6%、87945票から始まり、1904年、3.0%、1912年には最高の
901551票、6.0%を獲得、以降3%台で1928年、ノーマン・トーマスで0.7%になり、1932年2.2%に回復、1936年、0.4%と
なってから1948年まで0.2ないし0.3%台で、1952年には20065票(0.1%以下)にまで落ち込んだ。
 1924年にはロバート・ラフォレット・シニアを支持した。

 1928年ポール・ダグラスシャーウッド・エディノーマン・トーマスらによって労働者、農民、知識人を統一して新たな政治的結集のため
独立政治行動同盟が結成され、ジョン・デューイが議長、ハワード・ウイリアムズが執行書記に選ばれた。
 独立政治行動同盟にはアブラハム・マスト、ラインホルド・ニーバー、ウイリアム・デュボアスオスワルド・ヴィラード
デヴェア・アレンDevere Allen、ジェイムズ・ジョンソンハリー・ライドラーロバート・ラヴェットカービー・ペイジらも参加。

 独立政治行動同盟は1932年の大統領選で社会党のノーマン・トーマスジェイムズ・マウラーを支持した。
 しかし同盟の多くのメンバーはフランクリン・D.ルーズベルトを支持するようになっていった。
 独立政治行動同盟ミネソタ農民労働党(1919年結成、無党派連盟、ミネアポリス社会党の政治組織として機能)に密接に関係しながら、
1933年には農民労働者政治連合を結成、2年後にはアメリカ共和Commonwealth政治連合となり、1936年のルーズベルトの
勝利の余波で運動は消滅していった。

 1926年のデブスの死で社会党の指導部に空白が生じた。バーガーヒルキットは外国生まれで大統領候補に不適で、
ダニエル・ハオンはミルウォーキー市長だった。1928年の大統領選はノーマン・トーマスが候補となった。
 10年近くの停滞後社会党は再び上昇に向かい1928年には党費党員8千以下が1932年には1万7千までになった。
 これで若い新参者・マルクス主義ミリタントと守旧派ヒルキット、ジェームズ・オニール、ルイス・ウォルドマンらに亀裂発生。
 ミリタント・グループサミュエル・デウィットハイム・カントロヴィッチデイヴィド・ベレンバーグレオ・クルツィツキハーバート・ザム
マカリスター・コールマン、アンナ・ベルコヴィッツ、デイヴィド・ベレンバーグなど。

 大不況の間最初は若者の間で支持を拡大した。しかしこれら若いミリタント指導者たちは人民戦線路線と歩調を合わせ共産党との
和解、再統合に移っていった。これら人民戦線派指導者はラインホルド・ニーバー(プロテスタント理論家、正義の戦争思想に重要な
寄与、第2次世界大戦でキリスト現実主義に関係し、反共主義、核兵器開発支持者となる。マルティン・ルター・キングに影響を与えた、
また戦後の米国の一連の対外政策を米国が正義に向かっていると見なした。)、アンドリュー・ビエミラーダニエル・ホアン
ガス・タイラーなどで、これらの多くは冷戦期の鍵となるリベラル組織アメリカ民主行動ADAを創設した。
 これら当時の親共産主義者グループは戦後反共主義者となっていった。
 
 1932年大会には守旧派、ミルウォキーの実践社会主義者、青年マルクス主義ミリタント、リベラル平和主義トーマス派の4派が生成。
 ヒルキットはミルウォーキのダニエル・ホアンによる挑戦を受け105対86、党員では7526対6984で勝利。

 1934年の全国大会でトーマスの前進グループ(ダーリントン・フープスクラレンス・シニア)とミリタントの連合がヒルキット・グループに勝利し、
これにより守旧派(モリス・ヒルキットルイス・ウォルドマンジェームズ・オニールアルジャーノン・リー)の離脱に至った。
 ミリタントはデヴェア・アレンノーマン・トーマスの資本主義議会主義の偽民主制を非難し真の労働者民主制確立を宣言する原則宣言
を支持、ジャスパー・マクレヴィジェームズ・マウラールイス・ウォルドマンらは保護委員会を結成して対抗。
       
 トーマスとミリタントの連合は社会党の全包含政党化を推進し、急進知識人、労働組合活動家だけでなく共産党やさらにラヴストン派や
トロツキストにも努力がなされた。バートラム・ウォルフェラヴストン派)、ハーバート・ザム、ベンジャミン・ギットロー(1939年共産主義
放棄)、マックス・シャハトマン、ジェームズ・バーナム、マーティン・アバーン、ハル・ドラッパーらが党に接近し党誌にはアメリカ学生連合
ジョセフ・ラッシュ(親共産党)、ジェームズ・ファレルシドニー・フック(1930年代後半の大粛清でマルクス主義に疑問を持ち始める)、
1910年代アメリカ・マルクス主義指導者ルイス・ブディンBoudinらが寄稿した。
 
 1936年の守旧派追放でフランスの転換と歩調を合わせての米国労働者党から大量流入が起こった。
 しかし党員は低下し始めた。さらに組織は深く分派化、ミリタントはジャック・アルトマン、ポール・ポーターの右派、クラリティClarityと
称されるハーバート・ザム、ガス・タイラー、フランク・トレイガー、マックス・デルソンの中央派、アッピールと称されるトロツキスト
アルバート・ゴールドマン)の左派に分裂し、更にトーマス派とダニエル・ホアンのグループが存在した。

 ルイス・ウォルドマンらは1936年社会民主連合SDF結成した。彼らは党の財産を支配し、党財政は困窮に至った。
 1936年デイヴィド・デュビンスキーらがアメリカ労働党ALPを結成するとSDFはこれに関係していった。彼らはフランクリン・ルーズベルト
を支持していった。
 しかし1940年この組織が親共産主義者派のシドニー・ヒルマンらにのっとられたとしてウォルドマンはALPから離れデュビンスキーらも
同様の結論で自由党(1944年結成のニューヨークの地域政党)結成に結びついた。
 
 トロツキストの参加は大混乱を巻き起こし、1938年までに彼らは追放された。社会党青年グループ青年人民社会主義者同盟
ハル・ドラッパー)もトロツキストと一緒に去った。彼らは1938年社会主義労働者党SWPを結成しジェームズ・キャノンを指導者とした。
 
 1940年まで平和活動家を含む小さな献身的核が依然党内に存在していた。
 社会党はルーズベルトのニュー・ディールを資本主義改良として反対した。
 1940年ノーマン・トーマスが唯一の親ソ外交政策に反対する大統領候補であった。
 1941年トーマスは孤立主義者アメリカ第1委員会の活発な代弁者となった。
 1941年のアメリカ参戦で残りのミリタントと守旧派はこれを支持、社会党は公然とは参戦に反対しなかった。
 1941年ラインホルド・ニーバーは共産党と社会党の孤立主義に対し民主行動連合Union for Democratic Actionを結成。
 これは1947年アメリカ民主行動ADAへ発展。
 ADAは1947年、民主党指導者によって共産主義者を受け入れていると見なした指導者と戦うために結成されエレノア・ルーズベルト
ハーバート・ハンフリーアーサー・シュレジンジャー・ジュニアジョン・ガルブレイスなども参加し、市民権、女性の権利、反戦運動に
重要な役割を果たした。

 ハーバート・ハンフリーは1944年民主党とミネソタ農民労働者党(1918年結成)を合同しミネソタ民主・農民労働党を結成し、
1945年共産主義者の党掌握排除に成功。1945−1949年市長となり、1948−1964年、1971−1978年年上院議員となる。
 1965−1969年にはリンドン・ジョンソンの副大統領となった。1968年には民主党大統領候補となりニクソンに敗北。
 (新社会民主のサイト

 1948年トーマスは最後の大統領運動を行い、その後、戦後リベラル合意の批判的支持者となった。
 党はミルウォーキー、ブリッジポート、コネチカット、レディング(ペンシルバニア)などで地方的成功を維持した。
 ミルウォーキーでは1948−1960年までフランク・ザイドラーが市長を務める。
 ニューヨークでは自由党路線で自前の候補を立てた。
 ダーリントン・フープスは1952、1956年の候補となったが1952年に約2万票。

 冷戦で社会党が反共右派に移行し、1956年社会民主連合SDFと和解し再統合。
 (社会党−社会民主連合が1964年公式に社会党となる。)
 統一反対の小グループが民主社会連合結成。1972年社会民主USAに合流。
 1958年、マックス・シャハトマン独立社会主義者同盟メンバーを幹部に受入れる。
 シャハトマンの若い支持者は党に活気をもたらし、新左翼の初期同様に市民権運動で積極的役割を果たすのを手助けした。
 シャハトマンは歴史的反シオニズムの理由でユダヤ労働同盟との党の合流を阻止するのに成功した。

 1950年代中期エーリッヒ・フロムは社会党に参加、マッカーシズムに対して闘った。
 またフロムは核兵器競争と米国のベトナム戦争参加に反対して闘った。
 1968年民主党大統領候補指名選でリンドン・ジョンソンに対しユージン・マカーシーを支持した。
 1958年フロムは社会党のため社会主義者宣言と綱領(人間を優先しよう)を書いた。

 シーモア・リプセット青年人民社会主義者同盟の全国委員長を経験し1960年に社会党を去り、自分を中道と規定した。

 1960年代社会党で最も強力な存在はシャハトマンとマイケル・ハリントンのグループで社会党を自分たちの候補をもつ独立第3党
として維持する一方民主党内の圧力グループとして行動する平行戦略に同意していた。
 ハリントンは1950年代初期ドロシー・デイカトリック労働者運動に関わっていたがやがて宗教に幻滅し、シャハトマン
独立社会主義者同盟に参加、やがて彼らと共に社会党に入ってきた。
 党は3派に分裂し、デイヴィド・マクレイノルズに率いられるデブス・グループは伝統的な独立政党立場の最も強固な左派で、
マイケル・ハリントンの中央派連合グループは民主党内で民主党の左傾化を期待していた。
 シャハトマンの右派統一グループは民主党の反共・偉大な社会派のリンドン・ジャクソンヘンリー・ジャクソングループの強い
支持者であった。
 この分裂はヴェトナム戦争と新左翼に対する考えに反映し、シャハトマンはヴェトナム戦争賛成、新左翼不信で、ハリントンは
ヴェトナム戦争反対、新左翼懐疑で、デブス・グループは戦争反対、新左翼許容であった。
 シャハトマンはベトナム戦争、キューバ介入(ビッグス湾侵攻)を断固支持した。
 一方でシャハトマン・グループは自己版マルクス正統主義で民主集中制支持で、他の2派は折衷的であった。
 1968年民主党大会ではデブス・グループは外で抗議運動を行い、他の2派は大会代表団にいた。
 1972年大統領選ではデブス・グループはベンジャミン・スポックを支持し、連合グループはジョージ・マクガヴァン指名を支援し、
統一派はヘンリー・ジャクソンを支援し、ジャクソンが撤退するとマクガヴァンとニクソンに対し中立となった。
 デブス・グループ(デイヴィッド・マクレイノルズ)は1972年分裂し民主社会主義連合UDSを結成した。
 
 1973年、他のすべてのグループが社会党名を放棄し、民主社会主義連合UDSが社会党USAとなりフランク・ザイドラー
(ルター派信者)が指導者となった。
 マイケル・ハリントンアーヴィング・ホーウェ民主社会主義者組織委員会のちにアメリカ民主社会主義者となり、民主党内左派
支持活動をしている。

 シャハトマンは1972年11月死亡し、グループ(ペン・ケンベルら)は社会民主USASocial Democrats USAとなり、政治組織というより
シンク・タンクに発展し、多くのメンバーは後に民主党と共和党政府の官僚となった。
 シャハトマンは反既成共産主義が度をこし、シャハトマンの周囲では多くが新保守主義に移行した。
 古くはアーヴィング・クリストルアメリカの新保守主義の創設者とみなされる)、ナサン・グレイザーからジーン・カークパトリック
ジョシュア・ムラヴィッチペン・ケンベルカール・ガーシュマン(レーガンの発議で1983年設立の全国民主基金代表)、
マックス・グリーン(アメリカ企業研究所)などが青年人民社会主義同盟の指導者で右翼シンク・タンクに参加した。
 同じくトロツキストから新保守主義になった人物には1983年レーガンにより大統領自由勲章を授与されたジェームズ・バーナム
(経営者革命で所有と経営の分離を主張)がいる。
 (新左翼から新保守主義になったのはデイヴィド・ホロヴィッツなど。)
 これらの多くは20世紀中期にニューヨーク知識人として知られていた。


 青年人民社会主義者同盟出身者で右傾化したのはジョシュア・ムラヴィッチジーン・カークパトリックリンダ・チャヴェス
エリオット・アブラムスペン・ケンブルアルバート・シェンカーなど。
 1972年民主党でジョージ・マクガヴァンの大統領候補指名に反対しヘンリー・ジャクソン結成の民主多数派連合には
ジョシュア・ムラヴィッチペン・ケンブルアルバート・シェンカーらがナサン・グレイザーアーヴィング・クリストルミッジ・デテクター
らとともに参加。
 他の出身者はストークリー・カーマイケルデイヴィド・デリンジャーエレノア・ホルムズ・ノートンデイヴ・ヴァン・ロンクなど。

 キリスト教社会主義者
  ラインホルド・ニーバーノーマン・トーマスコーネル・ウェストアメリカ民主社会主義者)、ジャクソン・スティット・ウイルソン
 フランク・ザイドラーブライアン・ムーアフランシス・マティーセンドロシー・デイウォールト・ブラウンカール・トンプソン
ダイアン・ドルフェンブロックなど。

 ニューヨーク知識人
 ニューヨーク知識人は20世紀中期のニューヨークのユダヤ系作家・文学評論家を主とするグループで反スターリン主義の左翼政治を
支持。パルチザン・レヴュー(1934−2003年、ウィリアム・フィリップフィリップ・ラーヴ、当初ジョン・リード・クラブの雑誌、1937年
モスクワ裁判余波でソビエト路線と衝突しグランヴィル・ヒックス新大衆と抗争)、コメンタリー(1945年−、エリット・コーヘン)、
ディサント(異議あり)(1954年−、マイケル・ウォルザー)などの雑誌に集まった。 
 フィリップ・ラーヴウィリアム・フィリップスメアリ・マカーシードワイト・マクドナルド(文化自由会議に参加、ベトナム戦争反対)、
ハンナ・アレント、デルモワ・シュワルツウイリアム・バレットライオネル・トリリングダイアナ・トリリングクレメント・グリーンバーグ
ハロルド・ローゼンバーグリチャード・ホフスタッドラー(1938年共産党参加、1939年末離党)、ハーヴェイ・スワドス(学生時代
青年共産主義者同盟参加1930年代末トロツキスト転向)、リチャード・チェイス、ソール・ベローアイザック・ローゼンフェルド
シドニー・フックアーヴィング・ホーウェアルフレッド・カジンロバート・ウォーショーダニエル・ベル(イデオロギーの終焉)、
アーヴィング・クリストルナサン・グレイザーノーマン・ポドレッツスーザン・ゾーンタークマーシャル・バーマンマイケル・ウォルザー
レスリー・フィードラーポール・グッドマンエリザベス・ハードウィックなど。

 1920年末〜1930年初期の来参エリット・コーヘンライオネル・トリリング、ハンナ・アレント、シドニー・フックダイアナ・トリリング
メイヤー・シャピロフィリップ・ラーヴウィリアム・フィリップス、緩い参加はマックス・イーストマンエドムント・ウイルソン
ドワイト・マクドナルド、フレッド・デュペー、ラインホルド・ニーバージェームズ・ファレル他にマイケル・ゴールドジョセフ・フリーマン
 雑誌は新大衆(1926−1948年、マイケル・ゴールド、アメリカ労働者党WPA系)とパルチザン・レヴュー
 1930年代中・末期の来参はアルフレッド・カジンハロルド・ローゼンバーグリチャード・ホフスタッドラークレメント・グリーンバーグ
ソール・ベローデルモワ・シュワルツポール・グッドマンバーナード・マラムッドアイザック・ローゼンフェルド、ライオネル・アベル、
緩い参加はメアリ・マカーシーウイリアム・バレットエリザベス・ハードウィック、リチャード・チェイス、ジェームズ・ボールドウィン
ラルフ・エリソンアーサー・シュレジンジャー・Jrなど。
 1930年代末から1940年代来参の第2世代はダニエル・ベルアーヴィング・クリストルアーヴィング・ホーウェメルヴィン・ラスキー
レスリー・フィードラーナサン・グレイザーロバート・ウォーショー、  シーモア・リプセットゲルトルード・ヒンメルファルブ
アーヴィング・クリストル妻、英国労働党のゴードン・ブラウンが彼女の賞賛者)、デイヴィド・バゼロン、緩い参加はムレイ・ケンプトン
ライト・ミルズ、雑誌はパルチザン・レヴューコメンタリー遭遇(1953年−ステファン・スペンダーアーヴィング・クリストル)、
ディサントなど。
 1940年代末から1950年代初期来参はノーマン・ポドレッツロバート・シルヴァース、ステーヴン・マーカス、スーザン・ゾーンターク
ミッジ・デテクターポドレッツ妻、新保守主義)、ノーマン・メイラー、ジェイソン・エプスタインロバート・ブリュースタイン
テオドア・ソロタロフフィリップ・ロス、緩い参加はマイケル・ハリントン。雑誌はパルチザン・レヴューコメンタリーパリ評論(1953年、
ウィリアム・デュ・ボワジョージ・プリンプトン)、ニューヨーク雑誌評論(1963年ロバート・シルヴァースバーバラ・エプスタイン)。
 
 このなかからアーヴィング・クリストルノーマン・ポドレッツシドニー・フックナサン・グレイザーらは新保守主義になる。
 雑誌パルチザン・レヴューからはいくつかの流れが生じたがディサントにはドワイト・マクドナルド(ベトナム戦争反対、新左翼支持)、
フィリップ・ラーヴらとともに冷戦期の強硬派メルヴィン・ラスキーアーヴィング・クリストル、ジェームズ・バーナム、、シドニー・フック
ノーマン・ポドレッツダニエル・ベルナサン・グレイザールイス・コーザーらにさらにヨーロッパ化された現代主義者
クレメント・グリーンバーグデルモワ・シュワルツハロルド・ローゼンバーグマルコム・コーリーらが参加。
 これらのほとんどの人物はトロツキズムについてのいささかかの知識を有していた。
 アーヴィング・クリストルが創設した遭遇(エンカウンター)ノーマン・ポドレッツが編集者となったコメンタリー(論評)新保守主義
中心的雑誌となった。

アメリカ・プロレタリア党PPA) 1920−1971年
 1920年デトロイトを拠点とするミシガン社会党から出現。ミシガン・グループはジョン・ケラッチャーを中心にデニス・バット、アル・レンナー、
ハリー・ウィックス(ミシガン・グループで唯一共産党執行部参加、コミンテルン代表としてオーストラリア共産党再建に関与、1937年共産党
から追放)らからなる。
 彼らはマルクス理論を支持し、ロシア革命に影響を受けアメリカ社会党を左傾化しようと試みた。アルフレッド・ワーゲンクネヒト
ルードウィッヒ・カターフェルドらは共産主義労働党を結成したが、ジョン・ケラッチャーらは言語連合とアメリカ共産党を結成。
 しかしミシガン・グループはアレクサンダー・ストクリツキー、オスカー・ティヴェロフスキー、ニコラス・アワーウィッチらのロシア共産主義者連合、
ジョセフ・スティルソンらのリトアニア共産主義者連合と合わず1920年アメリカ・プロレタリア党を結成。
 ジョン・ケラッチャーはプロレタリア大学を運営し、アメリカ最大のマルクス主義出版社チャールズ・H・カー出版社創設者チャールズ・カーと密接な
関係をもち、やがてチャールズ・H・カー出版社に経営を支配し、ジョン・ケラッチャーの著作を出版した。
 PPAは1930年代プロレタリア・ニュースを発行し、労働組合と一緒の活動に注力した。

社会党USA   HP
 1972年のアメリカ社会党の分裂でデブス・グループ(デイヴィッド・マクレイノルズ)は民主社会主義連合UDSを結成した。
 1973年、他のすべてのグループが社会党名を放棄し、民主社会主義連合UDSが社会党USAとなりフランク・ザイドラー
(ルター派信者)が指導者となった。
 再建社会党(社会党USA)は1976年大統領選にはフランク・ザイドラーJ.キン・ブリスベンをたて、1980年にはアメリカ最初の党
として公然のゲイデイヴィッド・マクレイノルズを候補とした。10州で6038票獲得。
 21世紀には党員は600名から2000名に拡大。リサ・ウェルトマンやデイヴィッド・マクレイノルズ緑党の候補としても運動し、
他のメンバーと衝突を起こしている。

 カレン・クビー(エンマ・ゴールドマン女性診療所理事)はアイオワ市市議会議員を2000年引退まで11年務めた。彼女は1992年
アイオワ市議選史上最大票を獲得。ウェンデル・ハウスは2000年ミルウォーキー市長選で20%獲得。ジョン・オズンボーンは2008年
上院選
でロードアイランド選挙区で2494票、21.6%獲得。
 社会党の党員は21世紀初期に約600から1700に成長した。
 2010年には約1000とされる。
 
 1992年大統領選候補に1960年代市民権、反ベトナム運動活動家J.キン・ブリスベンが劇作家のバーバラ・ガーソンと組んだ。
 1980年、2000年デイヴィッド・マクレイノルズが大統領選候補となった。彼はヴァーモントの自由連合党の支持を受けた。
 副大統領候補にはダイアン・ドルフェンブロックがなった。
 2004年大統領選はウォールト・ブラウンメアリー・アリス・ハーバートと組んで候補となり1万を越える票を獲得し再建党の最高を記録。
 彼は1975−1987年の民主党のオレゴン上院(セナート)メンバー。
 2008年ブライアン・ムーア自由連合党との共同候補となった。 エリック・チェスターは2000年、2004年、2008年候補を争って
敗北。彼は1960年代SDSのメンバー、1970年代は新アメリカ運動のメンバーで、経済学を大学で教えたことがある。
 副大統領候補はスチュアート・アレクサンダー。8州で6581票。
 2010年上院選でオハイオ社会党のダン・ラ・ボッツは25368票(0.68%)獲得。
 共同議長はジェリー・レヴィ自由連合党)とアンドレア・ペイソン、全国書記はグレッグ・ペイソン(アンドレア夫、ニュージャージー)
 党は連帯民主・社会主義通信委員会アメリカ民主社会主義者との2重党員を認めている。
 この党は多様傾向組織であることを認めている。
 党のサイトではデブス・グループ(エリック・トレン)と草の根グループ(エリック・チェスター)が挙げられている。
 また拳にバラ傾向直接行動傾向の存在が示唆されるが、直接行動傾向は消滅、拳にバラ傾向の中心は2007年追放される。
 2012年大統領選はスチュアート・アレクサンダーを指名。3州で4033票。
 その他第3党はリバータリアンのガリー・ジョンソン1224359票、0.98%、緑のジル・スタイン439248票、0.35%、憲法のヴァージルHグッドJr
117284票、0.09%でその他平和自由党のロザンヌ・バー57855票、0.05%、社会主義解放党のピータ・リンゼイ9227票、社会主義労働者党SWPの
ジェームズ・ハリス3876票、社会主義平等党のジェリー・ホワイト1143票、草の根党ジム・カールソン3149票。

  拳にバラ傾向 署名者 
  2005年メルヴィン・リトルが対外政策問題(党路線が社会主義インターから逸脱)で拳にバラ傾向を結成。
  アトリー・ヤロー、メルヴィン・リトルらが2007年追放される。他にウォールト・ブラウン、マイケル・マリノのオレゴン社会党など。
 
  直接行動傾向 機関紙
  トーマス・グッドが結成。ポート・ヒューロン宣言的方向を志向。再建SDSと結びつく。解散したとされる。
  トーマス・グッドは2004年、新左翼ノートNLNを再建。NLNにはSDS古参のバーナーダイン・ドーン(元ウエザー地下指導者)、
 ビル・エイヤーズウエザー地下共同結成)、ポール・ビューレポール・ラッドらや新SDSのパット・コートらが寄稿。旧ウエザー地下メンバー
 に近すぎるという批判がある。

 *2011年3月時点の社会党USAのHPではデブス・フォーラム、赤・黒行動連合傾向、革命的統一グループなどが非公認グループとして挙げられている。

 *USAキリスト社会党HPによるとアトリー・ヤローが2006年党創設となっている。キリスト社会主義者としてはザイドラーブライアン・ムーア
  ウォールト・ブラウンらが挙げられ、ザイドラーは2004年緑党大会に代表として参加とされ、ブラウンは2004年中絶問題で党の一部と
 不和となる。
  2011年2011年3月時点のHPではキリスト社会主義となりメンバーは社会主義労働党SLP、社会民主USA、アメリカ民主社会主義者、
 アメリカ労働党、社会党USA、社会主義解放党、社会主義労働者党SWPから来ているとする。
    
  社会党としては社会党USAのほかにアメリカ社会党America's socialist Party(この党の州党の自己紹介はキリスト社会主義と同じものとなっている)
 と別のアメリカ社会党America's socialist Party(アトリー・ヤローらがメンバー、メンバーはキリスト社会主義、民主社会主義者、デブス傾向
 革命的社会主義者、社会民主などのグループを含む)が見えている。フォーラム・ネットワーク・サイト)
  デブス傾向にはAmerican socialist Party、社会主義労働党SLP、社会民主USA、アメリカ民主社会主義者が挙げられている。

〔アメリカ民主社会主義者DSA〕 Democratic Socialists of America
 1982年、消滅したアメリカ社会党の最大残党であるマイケル・ハリントンアーヴィング・ホーウェ民主社会主義組織委員会
DSOCと新アメリカ運動NAMの合流により結成。NAMは1960年代新左翼運動とより伝統的旧左翼に根をもつ作家と知識人の連合。
 創設ではDSAは5000人の旧DSOCと1000人の旧NAMメンバーより構成、1983年まで約7000人に達した。
 ハリントンと社会主義・フェミニストのバーバラ・エーレンライヒが指導者。社会主義インター加盟。
 DSAはハリントンの今日現実的左派は民主党内に存在という立場と結びついている。
 DSAは初期にはジェス・ジャクソン虹連合Rainbow/PUSH(ジャクソンが1971年の人類救援統一人民PUSHと1984年設立の
全国虹連合を1996年統合)と結びつく劇的に成長した左派より民主主流のウォルター・モンディアルなどを支持、まもなく
1988年のジェス・ジャクソン大統領選挙運動を熱狂的に支持。
 DSAメンバーの上院議員バーニー・サンダース(ヴァーモント)とともに議会進歩グループ(サンダースが1991結成)と行動、
民主党の伝統的人民主義位置からの移動を主張する民主指導評議会を批判。
 バーニー・サンダースは1991−2007年ヴァーモント選出下院議員となり、2007年上院議員。社会民主主義者自称。
 2000年には党として公式立場はなかったがメンバーは緑党ラルフ・ネーダーを支援。
 2004年はジョン・ケリーを支持。
 2005年はバーニー・サンダースの上院選挙運動に注力。
 ロナルド・デルムス(1971−1998年)、メイジャー・オーウェンズ(1983−2007年)、ジェリー・ナドラー(1992年−)がDSAの
下院議員。
 著名なDSAメンバーはドロレス・フエルタウィリアム・ウィンピジンガーアーヴィング・ホーウェグロリア・スタイネム
エド・アスナーロン・デルムルス・メッシンジャーヴィクター・ロイターコーネル・ウェスト、ノーム・チョムスキー(非常に消極的)、
ステファン・サロムハロルド・メイヤーソンエレーヌ・バーナードネルソン・リヒテンスタインステファン・ブロンナー

〔社会民主USASocial Democrats USA〕  アメリカ社会主義運動の歴史
 1972−1973年のアメリカ社会党分裂で結成。アメリカのベトナム撤退反対のシャハトマン(1972年死亡)周辺の最右派。
 ノーマン・ヒルペン・ケンブル、トム・カーンらが指導者でこれらは民主多数派連合にも参加。
 冷戦期はレーガン政府に多くが参加し干渉主義を支持、メンバーのかなりが新保守主義となる。
 1994年から全国委員会が開催されなくなる。2002年に突然ペン・ケンブルにより会議が開催され2005年が最後の活動となる。
 2005年中心のペン・ケンブル死亡、これによりグループの動向に変化が見られる。
 2003年頃から社会党USA右派との間(親社会主義インター派)で再編の動きがある。
 ウォールト・ブラウン、マイケル・マリノのオレゴン社会党、メルヴィン・リトルの拳にバラ傾向がその中心。
 2006年ペンシルヴァニア社会民主党(ジェフ・ブリンドル)が結成され社会民主に参加。
 これら(オレゴン社会党、ペンシルヴァニア社会民主党)はアメリカ社会党を名乗る。
 現在社会民主USAの指導者を名乗るのはガブリエル・ロス(元ペンシルヴァニア社会党議長)で2008年に社会党から追放される。

新アメリカ運動NAM)
 1971年ベトナム戦争反対派の指導者たちが結成、マイケル・ラーナー(1960年代末バークレーの学生運動指導者)の発起に
よるが、彼は間もなく距離をとり、左派ユダヤ人立場の雑誌ティクンTikkunを発刊。
 初期には新共産主義運動(SDSから生まれた毛派系グループ)と政治基盤をかなり共有したが前衛党結成戦略を拒否。
 1980年代までにアメリカの政治的雰囲気の大変化と急進派の離脱によりNAMは社民化。民主社会主義組織委員会と合流しての
DSA結成時には約2500のメンバー。ロサンジェルスの共産党指導者ドロシー・ヒーリーの息子のリチャード・ヒーリーが1971年からの
指導者でドロシーの1973年共産党離党でドロシーもNAM参加。

議会進歩グループ
 進歩的政策推進のための下院最大のグループ、1991年ヴァーモント選出の無党派の議会人バーニー・サンダースが結成。
 政策学問研究所ムーヴオン・オルグ全国優先権計画正義と仕事平和活動アメリカ民主行動アメリカ進歩民主主義者
有色人民people向上全国委員会進歩多数派統一ラテンアメリカ市民連盟アメリカ市民自由連合Rainbow/PUSH連合
ラ・ラザ全国評議会ヒップ・ホップ・グループ市民権運動などの支援・支持を受けている。
 高品質健康管理、公平貿易協定、生活賃金法、労働者の権利、愛国法廃止、イラク戦争撤退、金持ちの所得税増税、貧者の減税、
連邦政府による社会福祉、自由貿易と協同福祉の取り締まりなどを要求。リン・ウォーゼイバーバラ・リーが共同議長。
 カリフォルニア、ニューヨーク、イリノイ、マサチューセッツなどにメンバーが多い。
 メンバーはデニス・クシニッチュピート・スタークマキシン・ウォーターズボビー・ラッシュエド・パストーマイケル・ホンダ
サム・ファージョン・ルイスネイル・アーバークロンビージャン・サコウイスキーバーニー・フランクジョン・コニャーズ
キース・エリソンタミー・バルドウィンなど。

アメリカ進歩民主主義者
 民主党内の草の根政治行動委員会。ハワード・ディーンデニス・クシニッチの大統領選運動から結成された。
 2004年民主党全国大会でティム・カーペンター、スティーヴ・コッブル、ケヴィン・スピデルミミ・ケネディらの以前の
クシニッチ運動支持者が結成。
 イラクからの軍隊撤退、単一支払者医療保険、公平貿易などを主張。
 著名なメンバーはミミ・ケネディジョン・コーナイアー・Jrラウル・グリジャルヴァバーバラ・リーマキシン・ウォータース
ダイアン・ワトソンリン・ウールゼイメディア・ベンジャミンジョン・ボニファズトム・ハイデンレノックス・イアーウッドなど。


人民党 1884−1908年)
 人民党は1873年恐慌のあとの農産物価格崩壊で頂点に達した農業反乱から成長した。
 1876年のランパスでの農民連合結成は農民による集団経済活動を推進し、南部と大草原で広く人気を博した。
 農業連合は結局目標を達成することができず多くは全国政治の変化を叫んで運動した。
 1880年代末まで連合は全国政治での規制と改革を要求する政治日程を展開した。多くは農業価格の低下の対抗するため
金本位制に反対した。
 運動からの新政党結成の推進力は連合が支持する政策を取り上げ推進するため民主、共和両党の拒否から起こった。
 それはとりわけ人民主義者の無制限銀貨の要求に関していた。
 人民党は1889−1890年に連合メンバーと労働の騎士との協力により結成された。
 運動は1892年のオマハ大会で頂点に達し、全国選挙の候補を指名した。
 オマハ綱領は全国銀行廃止、段階的所得税、上院senator議員直接投票、市民サーヴィス改革、8時間労働、鉄道・電信・電話
の国家統制を要求していた。
 1892年の大統領選でジェームズ・ウィーヴァーは1027329票を獲得した。
 党は南部同様に南西部と大草原の農民の間に広まった。人民党は米国で女性が積極的含んだ最初の政党であった。
 アメリカ社会のすべての面で白人優越の文化的態度が浸透していたときにトーマス・ワトソンを含む多くの南部人民主義者は
公然と経済的自己利益の共有の名で貧しい黒人と貧しい白人の人種的違いを無視した。
 しかしこれにもかかわらず人民党は人種主義を回避することはできなかった、実際、人民党の分解後、ワトソンは白人絶対主義者
の代弁者となった。
 1896年民主党は多くの人民党グループを全国レベルで取り上げ、党は全国的名声を失った。大統領選では人民党は民主党の
ウィリアム・ブライアンを指名した。しかしブライアンの保守的東部副大統領候補アーサー・スウォールを支持できず、副大統領候補に
トーマス・ワトソンを指名した。ブライアンはウィリアム・マッキンレイに敗北した。
 民主党との合流の結果は南部に悲惨な結果をもたらした。人種主義者民主党既成体制との協力はアフリカ系アメリカ人の支援で
政権を形成していた南カラライナの人民党・共和党連合を終焉させた。
 1898年までに南カラライナ人民党は悪意の人種宣伝で民主党を出し抜こうとした。
 1900年多くの人民党投票者はブライアンを再支持したが弱体化した党はホワートン・バーカーイグナティウス・ドネリーを指名した。
 1904年と1908年にはトーマス・ワトソンを指名し、その後は消滅した。

人民党 1971年
 1971年種々の個人、政党(平和自由党人権党自由連合党など)によって来る選挙に対する反戦基盤として結成される。
 1972年大統領選にはベンジャミン・スポックを擁立。1976年にはマーガレット・ライトを候補とする。

進歩党) 1912年セオドア・ルーズベルト)、1924−1946(ロバート・ラフォレット) 1948−1955年(ヘンリー・ワラス)
 1912年の進歩党は以前の大統領(1901−1909年政権)のセオドア・ルーズベルトが共和党での指名にウィリアム・タフト
(1909−1913年)に敗れて出版業者のフランク・マンセイがルーズベルト立候補のため結成。
 綱領では女性参政権(1920年実現)、女性と子供の社会福祉、労働者補償(労災保険)、農場救済、新相続税、所得税、軍艦制限
スト禁止命令制限、産業健康保険などを要求していた。
 ルーズベルトはトラストと独占をウドロー・ウィルソンウィリアム・タフトに、従って2大政党に結びつけた。
 結果は民主党のウッドロー・ウィルソン(1913−1921年)42%、ルーズベルト27%、タフト23%、この結果党は分解していった。

 ロバート・ラフォレットは1900年にウィスコンシン共和党内部に進歩派を創設した。
 ロバート・ラフォレットは1912年にはルーズベルトに敗北したがウィスコンシンを拠点に活動を続け、地方の進歩党グループ等を
結集し1924年に大統領選立候補、農民・労働者連合として社会党やAFLの支援を受けた。結果は共和党カルヴァン・クーリッジ
54.0%、民主党ジョン・デイヴィス28.8%、ラフォレット16.6%。
 1925年、老ロバート・ラフォレットの死後、息子の若ロバート・ラフォレットが共和党議員となり組織を受け継ぎ、1934年には
ウィスコンシンで州党が政権を取るが1940年代末には勢力を失う。
 
 1948年の進歩党はヘンリー・ワラスの大統領選出馬のため結成され以前の進歩党とは関係ない。
 ワラスはリベラル共和党員であったがルーズベルト(1933−1945年)のニューディールを支持し民主党へ鞍替え。
 選挙綱領で人種隔離終焉、黒人の完全投票権、統一政府健康保険などを支持。
 ニューヨークのアメリカ労働党など小政党が支持、共産党も密かに支援。
 結果は民主党ハリー・トルーマン49,6%、共和党トーマス・デューイ45.1%、ワラス2.4%。
 冷戦期に平和主義を採り、支持を拡大できず、1952年にははじめての黒人女性副大統領候補にシャルロッタ・バスがなったが
(大統領選候補ヴィンセント・ハリナン)ほとんど注目されず0.2%、1955年解散。

アメリカ労働党ALP)
 最初のアメリカ労働党結成の試みは1918年、ニューヨークで起こった。この組織は1920年代の農民労働党に参加。

 2回目のアメリカ労働党は1936年、労働運動指導者(シドニー・ヒルマンデイヴィド・ドゥビンスキーアレックス・ローズ)と社会党の
旧メンバー(ラインホルド・ニーバー)によって結成された。
この選挙のための合同党は大統領のフランクリン・ルーズベルト再選が当初の目的であった。
 1939−1951年にはヴィト・マルカントニオを下院に送り出している。
 1936、1940、1944年にはフランクリン・ルーズベルトを大統領選で支持。1948年には進歩党のヘンリー・ワラスを支持。
 1950年代までにALPは対抗主のニューヨーク・自由党(1944年結成、ジョージ・カウントドゥビンスキーローズニーバー)に
支持者を失った。これは部分的にALPへの共産主義者の影響批判のためである。
 ニューヨーク・自由党は1948年ハリー・トルーマン支持。
 1952年には大統領選候補にヴィンセント・ハリナンを指名したがほとんど支持を得られなかった。
 1956年消滅。

農民労働党FLP
 最初の現代の農民労働党は1918年ミネソタに出現。これは第一次世界大戦による経済的影響(物価騰貴と農産物価格低下と
労働賃金低下)によるものであった。
 他の農民労働運動に寄与した流れは労働党運動である。国際機械工協会のブリッジョポートでのストライキは1918年夏、5つの
コネチカットの都市での労働党に発展し強力なシカゴ労働連合は秋に労働党結成を決めた。
 同様の独立労働党運動はニューヨーク、ペンシルヴァニア、ミネソタ、オハイオ、南ダコダでも出現した。
 これらの州および地域組織は1919年シカゴでUS労働党を結成した。
 一方全国農民労働結成の先駆的集会として1920年2月シカゴで協同会議が開催された。
 参加者には協同運動、農民組織、労働組合、水道計画連盟が含まれていた。
 1920年7月US労働党は農民労働党に名称変更。ユタの弁護士パーレイ・クリステンセンを大統領候補に指名、265000票以上
獲得。
 1922年の農民労働党大会には17州の組織の代表と友誼組織社会党からビクター・バージャーセイモア・ステッドマン、オットー・
ブランステッターが参加。大会はFLPが英国労働党をなっらた連邦労働組織に転換することを決定。
 1921年末に労働者の進歩的リベラル的勢力結集のため16主要鉄道組合の名で進歩政治活動協議会CPPA結成推進が発せられた。
 1922年2月第1回全国協議会開催。右派の労働組合は民主党の好意的候補支持を、左派の社会主義者や農民労働党は独自候補
を主張。
 1922年の進歩政治活動協議会CPPAの第2回会議に参加し社会主義者と農民労働党支持の独立政党結成動議が52対64で否決。
 第2回大会に労働者党はルセンバーグを代表とする派遣団を送ったが、出席を拒否されていた。
 1923年シカゴ農民労働党はCPPAと分裂し即時全国農民労働政治組織結成を決定。
 労働者の政治大会参加の呼びかけが労働組合、州農民労働党、無党派連盟(1915年アーサー・トーンリー結成の農民運動組織)、
社会党、労働者党(共産党合法組織)に送られた。FLPはCPPAの臆病さと独立選挙政治組織化拒否に不満で他の方法で全国組織を
結成しようとした。
 社会党は躊躇して結局CPPAを新労働党のための手段とした。
 CPPAは独立政党結成問題で苦労し、結局1925年、個人加盟を基礎とする非階級進歩政党派と綱領と原則を認める労働者、農民
進歩的政治グループ、教育グループの直接加盟による階級的労働党という社会主義者が対立、93対64で社会主義者が敗北、この結果
できた進歩党は限られた州のメンバーにより短期間存在したが全国大会は開催できなかったが1920年代中は存在。
 一方アメリカ労働者党と農民労働党の小委員会は7月大会が十分な代表(5万人)を確保できたら農民労働党を連合農民労働党とする
ことに同意。労働者党は集会での多数派獲得工作をおこなったと思われる。大会では労働者党と農民労働党の交渉の末、議決がなされ
連合労働者農民党が結成され、ウィリアム・フォスターの義理の息子でジョン・ペッパーに忠実なジョセフ・マンレーが全国書記に選ばれた。
 社会党はCPPAによる労働党結成に失敗し、労働者党は大衆組織との連合に失敗しながら労働農民党を確保した。
 1924年、大統領候選でCPPAはロバート・フォレットを支持し連合労働農民党全国執行部は労働者党のフォスターを支持し
連合労働農民党は存在停止。連合労働農民党はなくなっても州、地域で労働農民党は存在し続けた。
 1930年代まで労働農民党を共産党や社会党の参加なしで再建することが続けられた。
 しかし1932年の大統領選ではジャコブ・コクセイを候補としたが数州でしか運動できず8000票以下であった。
 ミネソタでは1944年まで存在し民主党とミネソタ民主農民労働党を結成した。これは民主党に加盟。

緑党
 1984年夏、地方緑グループを組織化し情報センターとなるため緑通信委員会CoCsが創設された。
 CoCsから1991年緑・USA緑党G/GPUSAが527グループ(免税組織)として結成された。
 組織化の方向は1991年のエルキンスでの会議で頂点となる。
 1995年のアルバカーキでのニューメキシコ緑党主催の緑集会ではカリフォルニア緑党マイク・ファインシュタイン
によって40州での大統領候補擁立が提案された。ラルフ・ネーダーが候補、ウィノナ・ラデュクを副とし685297票、0.6%獲得。
 1998年選挙の余波で13州の緑党が州緑党協会ASGPに参加。
 1997−1999年までに他の地方、地域、州で緑党が結成されこれらのあるものはASGPとG/GPUSA両者に加盟。
 2000年にはASGPはラルフ・ネーダーを大統領候補、ウィノナ・ラデュクを副とし2883105票、2.7%獲得。
 2001年ASGPとG/GPUSAの選挙政策と理論活動分担組織改革が提案されたがGPUSAで通らずGPUSAが分裂。
 ASGPはUS緑党と改名し連邦選挙委員会に登録申請し翌年許可。
 ネーダーは民主党指名選挙でのアル・ゴアを脅かした(スポイラー)と批判される。
 1999年にはカリフォルニア州議員にアウディー・ボックが当選するが2000年民主党に移行。
 2002年メイン・上院選でメイン緑独立党ジョン・エダー当選。
 2003年ラルフ・ネーダーが出馬せず大統領選戦略で議論が過熱、ベン・マンスキは民主党が内外政で失敗と主張、テド・グリックは
国家安全戦略から国家揺さぶりを避ける戦略採用を主張、ディーン・マイヤーソンデイヴィド・コッブは中間を提案。
 2004大統領選候補はデイヴィド・コッブパット・ラマルシュ
 ラルフ・ネーダーは2003年クリスマス・イヴに緑党の指名を求めないと宣言、翌年2月に独立立候補を意志表示、のち支持を求める。
 緑の一部ピーター・カメホ(ネーダーの副となる)、ローナ・サルツマンらがこれを支持。(コッブ指名53%、無指名=ネーダー40%)
 ネーダー−カメホは465650票、コッブラマルシュは119859票。この結果緑が後退を示す。
 2008年の指名はシンシア・マッキニーラルフ・ネーダーカット・スイフトケント・メスプレイジェス・ジャクソンエレーン・ブラウン
(元黒豹党)が争いシンシア・マッキニーロサ・クレメントが候補となり161195票、0.12%、ネーダーは独立で立候補ネーダー
マット・ゴンザレス(緑党から離党)で736804票、0.56%。
 2008年リチャード・キャロルがアーカンサス州議員となるが2009年民主党に移行。
 2006年ゲイル・マクローフリンがカリフォルニアのリッチモンド市長となリ、2010年再選。
 2012年大統領選候補はジル・スタイン(副チェリ・ホンカラ)がロザンヌ・バーケント・メスプレイ勝利
 第3党としてはリバータリアン党のガーリー・ジョンソン(約122万票、0.98%)についで約43万票、0.35%獲得。

労働家族党
 1998年ニューヨークで労働組合、ACORN(今の改革のための地域組織協会)、その他地域組織、新党(1992−1998年、ダニエル・カンター、
ジョエル・ロジャースらが左翼的第3党として労働組合と地域組織の選挙連合を目的に結成)などにより組織された。
 仕事、保健、教育、環境問題に注力。主に民主あるいは共和党を交差支持するがときに独自候補。2008年大統領選はバラク・オバマ支持。

労働党 1996年〕
 1996年統一鉱山労働者国際ロングショア・ウエアハウス組合政府雇用者連合カリフォルニア看護婦協会及びその他の労働組合が結成。
 1998年にワイオミングで緑党と提携。指導者のトニー・マゾッキの死後多くの組合は民主党候補支持。

自由(リベラル)党(ニューヨーク)
 1944年アメリカ労働党ALPへの選択として結成。アメリカ労働党が共産主義者の影響を受けているとしてジョージ・カウンツ
デイヴィド・ドゥビンスキーアレックス・ローズラインホルド・ニーバーらが結成。
 1944年にはフランクリン・ルーズベルトを大統領選で労働党と共に支持。1948年には労働党は進歩党のヘンリー・ワラスを支持し、
自由党ハリー・トルーマン支持。
 元共和党の大統領候補ウェンデル・ウイルキーを指導者として全国組織化を試みるがウイルキーの死亡で不成功。
 通常は候補を相乗り支持(交差支持)。民主党あるいは共和党候補(市長にジョン・リンゼイルディ・ジュリアーニ、上院にジャコブ・ジャビッツ
チャールズ・グッデルら)を支持。
 1980年代から斜陽し始め、腐敗やリベラル路線放棄で労働家族党に取って代わられつつある。

自由連合党(ヴァーモント)
 1970年元民主党国会議員ウイリアム・メイヤー、ピーター・ダイアモンドストーンらが結成。
 反戦運動や1960年代末人民党運動に起源し、非暴力社会主義者党と自己規定。
 1971年バーニー・サンダースが参加し、その後上院選やヴァーモント市長選候補となる。1979年党から離れる。
 サンダースは1991−2007年下院議員、2007年から上院議員。
 1980年代からは社会党候補を大統領選で支持。2000年代にはいってからはヴァーモント進歩党(1999年バーニー・サンダース
の支持者結成)とも提携。

市民党
 1979年ワシントンで環境主義者のワシントン大教授バリー・コムナーによって設立された。環境主義と経済民主主義を綱領とする。
 1980年バリー・コムナーラドンナ・ハリス(コマンチの血を引くフェミニスト)と組んだ大統領選で221083票、0.3%獲得。
 1984年はソニア・ジョンソンリチャード・ウォルトンを候補とし社会党平和自由党の支持を得たが72153票、0.08%となる。
 1986年選挙での2知事候補、1下院、1上院候補の支持が少なかったため1987年解散。

黒豹党
 1960年代中期から1970年代に活発だったアフリカ系アメリカ人のブラック・パワー推進組織。
 1966年10月オークランドでヒューイ・ニュートンボビー・シールが結成。
 
鋤刃運動
 1980年代の反核兵器運動。1980年、ダニエル・ベリガンらが始めた。

青年国際党
 1968年アッビー・ホフマンアニタ・ホフマンジェリー・ルビンナンシー・カーシャンポール・クラッスナーが結成。
 そのほかの関係する活動家はスチュー・アルバートエド・ローゼンタールアレン・ギンスバーグエド・サンダースロビン・モーガン
フィル・オックスウィリアム・クンストラージョナー・ラスキンスティーヴ・コンリフジョン・シンクレアダナ・ビールダヴィド・ピール
 アッビー・ホフマンジェリー・ルビンシカゴ7人に参加。
 青年国際党のメンバーはイッピーと呼ばれた。イッピーは公式のメンバー制や階層組織をもたない。表現の自由や反戦運動の分身の対抗文化。
 彼らは演劇的手法を採用。街頭劇場や政治を題材とした悪ふざけで良く知られている。
 1971年5月3日、月曜日、ベトナム戦争期の最大の騒乱的行動の1つがワシントン特別区で起こった。
 ベトナム戦争に抗議して多くの反戦活動家が連邦政府を閉鎖しようとした。これでニクソン政権は本当の首都包囲作戦を行った。
 多くの連邦軍が地域警察とともに導入され混乱を鎮圧。後に1万人以上が逮捕され、これは米国史上最大であった。
 イッピーはこの騒乱の中心にあった。
 プロテスト歌手のフィル・オックスは1970年チリに行き、ヴィクトル・ハラと知遇を得る。1974年にはサルヴァドール・アジェンデと共の夕べという
コンサートを組織、これにはデイヴ・ヴァン・ロンク、ボブ・ディラン、ピート・シーガー、アーロ・ガスリーらが参加。

愛と怒り) 
 愛と怒り革命的アナーキスト連合は1993年愛と怒りネットワーク残党が結成。
 愛と怒りネットワークは1980年代後半の北アメリカ・アナーキスト集会での新聞計画に起源がある。
 しかし主導はミネアポリス根拠の革命的アナーキストボーリング同盟(1987年結成)によって行われ、これは1991年いくつかの地域で愛と怒り
を結成。また以前のトロツキストの革命的社会主義者同盟RSLも関係していた。またムレイ・ブクチンの影響を受けた自由協会集団も関係していた。
 これらによって1990年新聞愛と怒りが発行され1991年ネットワークが結成された。
 当初から正統アナーキズム理論に関心を示さず種々のマルクス主義理論の影響を受けていた。
 メンバーの囚人連帯活動で黒豹党、黒人解放軍、ウェザー・地下組織、ジョージ・ジャクソン旅団などの以前のメンバーとの関係が強化された。
 ノエル・イグナティエフは1994年まで参加。
 1993年緊密な連合構造を望むグループが愛と怒り革命的アナーキスト連合と改名しこれでメンバーの出入りが発生。この時期反KKK、反ナチ活動
に積極的で反人種主義行動ARA結成の中心となりあるいは他のメンバーは中絶医療所防衛や囚人連帯活動に活発に参加。
 1994年のサパティスタ蜂起でサパティスタ連帯グループ結成に参加。
 1996年までに大きな分裂が発生、1998年公式解散。
 サンフランシスコとニュヨークのグループは夜間組織化委員会による炎(2000年に消滅)結成、一部は自由の道社会主義者組織に参加あるいは
騒動を起こせを結成。あるいは旧RSLメンバーはユートピアン発行、あるいはアナーキスト共産主義者北東連合NEFAC(2000年結成)に参加。
 メンバーは公式には150を越えることはなかった。

 ムレイ・ブクチンは1960年ニューヨークでウォルター・コーイ、ノーム・チョムスキーらとアナーキスト連合を結成。これは1970年代初め暴力的抵抗を
すべきか否かで分裂。ムレイ・ブクチンは1950年代にはリバータリアン同盟結成に参加。

直接行動ネットワークDAN)
 直接行動ネットワークDANはアナーキストと反権威主義の似たようなグループ、集合、組織の連合で1999年のシアトルの反WTO動員の
直接行動を調整するために結成された。シアトル動員の後、いくつかのDNA参加組織は大陸直接行動ネットワークCDANを形成、これは
米国とカナダの12都市支部に急速に拡大。CDANは多くの地域参加組織とともに人民グローバル行動(1996年のサパティスタ全国解放軍
EZLNの呼びかけのよる国際集会から着想されて生じた、1998年全大陸の運動によって結成、組織ではなく通信・調整の手段)の原則に
基づいた統一原則を採用。
 DANは2000年4月のIMF/国際銀行抗議、7月のフィラデルフィアの共和党全国大会抗議、8月の民主党全国大会抗議、2001年1月の
ワシントンのジョージ・ブッシュ就任式、2002年2月のニューヨークの世界経済フォーラムにも動員を組織した。
 9月11日のテロ攻撃の直前にDANは分解を始め、DANの最後の主要な動員は2002年2月のニューヨークの世界経済フォーラムで約1万五千
から2万が参加。ニューヨークのDANは後に別の世界が可能だ連合AWIPに取って代わられた。これはニューヨークの地域ネットワークで
もともとDANメンバーが結成。DANが消失してから多くの以前の活動家は地域あるいは全国動員とニューヨーク人民グローバル行動、ニューヨーク市
社会フォーラム
ニューヨーク大都市アナーキスト連合(2006年約50人で結成)のような組織の中軸の役割を演じ続けた。

ニューヨーク市もうたくさんYa Basta集合
 ニューヨーク市に始め拠点を置いたおよそ2000年10月から2001年10月まで活発であった反グローバリズム活動家。
 プラハの反IMF/世界銀行抗議のすぐあとに続いて2000年10月に始められ、集合はまもなくイタリアの白いツナギ(トゥーテ・ビアンケ)と似たような
戦術を採用(黄色いツナギと詰め物ブロック)。
 集合は移民権を擁護し、人種主義に反対し国境の不当性を強調した活動と出来事を組織した。

*反グローバリズム運動と深い関わりがあるブロック戦術戦術的軽薄アフィニティ(類縁)・グループなどについて  ⇒ 詳しくはこちら

卑劣なやつらを壁につるせ、マザー・ファッカーズ)
 ニューヨーク市を拠点としたアナーキスト・アフィニティ(類縁)・グループ
 低イースト・サイド直接行動で有名で地下ウェザーマンイッピー青年国際党)の影響を受けたとされる。
 マザー・ファッカーズはダダに影響された黒マスクという芸術家グループや行かれる芸術angry artsなどのグループから成長。
 黒マスクは1966年、ベン・モレア、ダン・ジョーガカスらが結成、1968年卑劣なやつらを壁につるせと名前を変え地下化。
 卑劣なやつらを壁につるせUp Against the Wall Motherfuckersはアミリ・バラカの詩に由来。
 マザー・ファッカーズはパンク占有住居、自由食料提供、自由店舗、医師や弁護士と結びついた急進主義などでニューヨーク市の対抗文化に寄与した。
 またマザー・ファッカーズは政治デモ参加者の統制を嫌い、進歩労働党などの毛派との抗争を扇動した。
 アフィニティ・グループということばは彼らが使用し始めた。
 1967年には反戦抗議の際、ペンタゴンの進入し、また民主社会(のための)学生SDSの唯一の非学生支部となった。
 1968年にはコロンビア大占拠に参加。1969年にはフィルモア・イーストでの自由コンサートの夕べを組織演出。
 やがて政治環境の変化で1970年代初めにニューヨーク市を去りマザー・ファッカーズという名前の使用をやめた。
 
労働者連帯連合WSA〕  アメリカのアナーキスト
 アナルコ・サンディカリズムに根ざす政治的活動家グループ。
 1984年にかつて存在したリバータリンアン労働者グループなどを含むネットワークから結成された。
 1981年に発行され始めた雑誌思想と行動がWSAによって1984−1997年に発行された。
 フローラ・トリスタン(1803−1844年、フランス人社会主義、フェミニズム活動家)の標語”労働者の解放は労働者自身の仕事”に従い、
WSAは労働者自身の組織が必要であると信じた。
 WSAは国際労働者協会IWAに加盟した。

 リバータリンアン労働者グループLWGはニューヨーク市を拠点とするアナルコ・サンディカリストのアフィニティ(同類)・グループで
アナーキスト共産主義者連合ACFに参加。1981年ミルヲーキー、トロント、モントリオールのアフィニティ・グループとともにACFを去る。
 LWGは他のアフィニティ・グループと協議会を持っていた。彼らは雑誌思想と行動を発行。
 彼らはラテン・アメリカや旧ソ連のアナーキスト運動も支援。LWGのメンバーは反核運動や平和運動にも参加。
 1984年サンフランシスコ、や西ヴァージニア等のグループと労働者連帯連合を結成。

 社会革命的アナーキスト連合の1977年集会でアナーキスト共産主義者連合が結成され、1978年アナーキスト共産主義者連合ACFとなる。
 ACFにはリバータリンアン労働者グループやサンフランシスコのパンとバラなどの多くのアフィニティ・グループから構成されていた。
 社会革命的アナーキスト連合はポストSDS時代に生じた。アナーキストは1969年にSDSを去り、独立した運動を始めた。
 1950年代にリバータリアン同盟はアナーキスト共産主義者とサンディカリストを結集しようとしたが失敗。
 ムレイ・ブクチン率いるアナーキストはSDSでは周辺化した。
 リバータリアン同盟は1954年ニューヨーク市でムレイ・ブクチンサム・ドルゴフデイヴ・ヴァン・ロンク(フォーク歌手、第4インターのトロツキズム
運動にも関係)らが結成。1960年代末解散。


臨時共産党
 1970年頃ジーノ・ペレントが結成。全国労働連合(ニューヨークのスフォーク郡の東部農場労働者協会から成長し1972年ジーノ・ペレント
らが結成)の指導者の多くを含んでいた。ペレントの秘密組織でこの組織あるいは全国労働連合事務所で彼の支持者にマルクス、レーニン、
スターリンの著作を講義、ジーノ・ペレントの支持者を中心に宗教的(カルト)グループを結成していた。

革命的黒人労働者同盟LRBW)
 革命的黒人労働者同盟LRBWは1969年ミシガンのデトロイトで結成。
 1960末−1970年初期黒人労働者が集中したデトロイトの自動車その他産業から急成長した種々の革命的組合運動RUMを統一。
 黒人解放とマルクス・レーニン主義によって指導された結束力のある政治機関結成を目指した。
 1968年ドッジ・メイン工場(クライスラー、統一自動車労働者支配UWA)での山猫ストライキ(ラインのスピードアップに対しポーランド人
女性と黒人労働者が起こした)のあと工場労働者と新聞”市内の声”編集者ジョン・ワトソンによりドッジ・革命的組合運動DRUMが結成された
 DRUMはクライスラー工場の監督者やUAW幹部との闘いに成功を収めた。これで1968年から1969年初めに多くの革命的組合運動が発展した。
 たとえばフォード革命的組合運動FRUM、エルドン通り革命的組合運動ELRUM、統一小荷物サービス労働者UPRUM、健康労働者HRUM、
デトロイトニュース労働者NEWRUなどが結成された。
 デトロイトでの革命的組合運動の発展により黒人自動車労働者への指導者供給の必要性により先進的、集中された組織が必要となり
1969年6月革命的黒人労働者同盟LRBWが結成され、市内の声が機関紙となった。
 ジェネラル・ベイカーケネス・コクレル、マイク・ハムリン、ルーク・トリップ、ジョン・ワトソン、ジョン・ウイリアムズ、チャック・ウートンらが幹部となった。
 これらには3つの考えがあった。
 ジェネラル・ベイカー、チャック・ウートンは工場内組織化と新革命的組合運動創設を重視、一方マイク・ハムリン、ジョン・ワトソン、ケネス・コクレルは
地域との結びつき構築と工場労働者支持の組織化の重要性を強調、更にルーク・トリップ、ジョン・ウイリアムズは工場外の支持者と工場内のRUM
メンバーの政治的自覚発展を重視した。
 1970年の黒人労働者会議結成で分裂が始まった。革命的黒人労働者同盟LRBWは1971年分裂を起こし、組織にとどまったグループは
共産主義者同盟と合同。
 

アメリカの学生運動   ⇒ 詳しくはこちら


トロツキスト> 諸グループ 旧組織  系統図

 1928年、トロツキストとしてUSA共産党を追放されたジェームズ・キャノンマックス・シャハトマンマルティン・エイバーンらが
アメリカ共産主義者同盟CLA結成。
 社会党との統一行動を模索したが不成功で1933年社会党との統一戦線をもとめるアルバート・ワイスボードらが分裂し共産主義者闘争同盟結成。
 このグループは1934年トロツキーと衝突、1937年頃までに消滅。
 1934年、CLAはアブラハム・マストのアメリカ労働者党American Workers Partyと合流しUS労働者党
Workers Party of the United States結成。

 アメリカ労働者党の多数はトロツキズムに合流したがルイス・ブデンズ、アーノルド・ジョンソンらは共産党に参加。
 アメリカ労働者党は1933年進歩労働会議(1929年アブラハム・マスト結成)の活動家が結成。
 アメリカ労働者党は1934年のトレドのオート・ライト(ハネウェル)・ストライキ主導で有名。これは1934年のアメリカ共産主義者同盟
ミネアポリス運転手ストライキ、1934年の共産党のウェストコースト・ロングショア・ストライキと共に1930年代の産業組合運動を
勃興させる契機となった。
 アメリカ労働者党は数百人を越えることはなかったが、ジェームズ・バーナムシドニー・フックジェームズ・ローティヴィクター.F.クレヴァートン
などの旧共産党知識人をひきつけた。
 1935年フランスの転換による加入戦術をめぐって分裂、ジェームズ・キャノン、マックス・シャハトマン、ジェームズ・バーナムらの多数派が勝利し社会党
参加、反対のヒューゴ・イーラーHugo Oehlerの少数派は分裂し革命的労働者同盟RWLを結成。

 US労働者党は1936年、アメリカ社会党に参加。

 しかし1937年追放により1938年社会主義労働者党SWPSocialist Workers Partyを結成。この党は第4インターナショナル創設に参加。
 SWPの良く知られた指導者は以前のIWWメンバーで国際労働防衛首脳のジェームズ・キャノンマックス・シャハトマンであった。
 そのほかファレル・ドブスエヴィリン・リードなど。
 1940年、トロツキーのソ連労働者国家説支持のジェームス・キャノンの多数派とマックス・シャハトマンの少数派に分裂した。
 シャハトマン派のジェームズ・バーナムはソ連は堕落しているのでいかなる防衛する価値もないとした。
 1939−1940年にSWPでシリル・ジェームズラーヤ・ドゥナエフスカヤ(ウクライナ生まれのユダヤ移民でメキシコでトロツキーの
秘書となりやがてトロツキーと意見相違しソ連=国家資本主義説にたつ。)が出会う。
 社会主義労働者党SWP内で党内論争があり、1940年ソ連のフィンランド侵入に反対するシャハトマン、シリル・ジェームズらと
青年社会主義者同盟の多数派が分裂して労働者党WWorkers Party第3陣営トロツキズム)結成。

 労働者党WPにはシャハトマンを指導者としてハル・ドラッパーシリル・ジェームズマルティン・エイバーンジョセフ・カーター
ジュリアス・ジャコブソンなどが参加。WPは第3陣営(両帝国主義陣営にたいし革命的敗北主義をとる)論をとる。
 WPは間もなくソ連を官僚制集産主義としてワシトンでもなくモスクワでもなくを標語とする。
 フィリップ・セルズニックは1937年頃労働者党に加わりバーナムやデューイの影響のもとシャーマン派(セルズニック偽名)を結成、
これにはゲルトルード・ヒンメルファルブシーモア・リプセット、マーヴィン・メイヤース、ピーター・ロッシ、マーティン・ダイアモンド、
ハーバート・ガーフィンケル、ジェレミア・カプラン、アーヴィング・クリストルが参加。
 セルズニックはアーヴィング・ホーウェらのマルクス主義が労働者党の公式理論という考えに反対した。
 シャーマン派はシャハトマン派をキャノン派と同じ官僚制組織を採用していると批判。シャーマン派はやがて社会党に移った。
 1960年代のバークレイの言論の自由運動でセルズニックはこれを支持しリプセットとバリケードをはさんで相対した。

 1940年ジャン・ヴァン・ハイエノート(1932年フランス共産主義者同盟参加しトロツキーの秘書となる)は第4インター書記となったが、
SWPと衝突し辞任。彼はフェリックス・モローアルバート・ゴールドマンに支持されていた。これらは党正統派の危機理論に反対、
分派を形成。ジャン・ヴァン・ハイエノートは1947年SWPを追放され翌年マルクス主義を放棄。

 トロツキーのフランスの転換による戦術としての加入に反対したヒューゴ・イーラーHugo Oehlerは分裂し1935年革命的労働者同盟
RWLを結成。これにはトム・スタムやシドニー・レンズらも加わった。
 イーラーはレーニン主義同盟などいくつかの小グループを追放。
 1937年グループはトロツキズムを放棄、イーラーとスタムはトロツキーについて意見の相違により分裂しイーラーが多数派となり、
スタムは同名の組織を結成した。
 スペイン戦争ではRWLはPOUMを支持、イーラーはスペインに渡りPOUMが抑圧されるのを見て、米国で体験を出版。
 トロツキーの第4インターに対し別の国際組織を結成。第2次世界大戦勃発で没落。1950年代初期消滅。
 レンズは後にロバート・ラフォレットの創設した週刊誌進歩に編集員になったり、1980年には市民党のイリノイの上院候補になったり
している。

 SWPは米国の第2世界大戦参加に反対し、苦難を蒙る。
 戦争が終わりSWPと第4インターは第1次世界大戦後と同様の革命の波を期待し、ユーゴスラヴィア、アルバニア、朝鮮、中国を含む
国々が実際に社会主義になったがすべてスターリン主義党に指導されていた。

 終戦で第4インターナショナルの再組織化も起こり、これにSWPが大きな役割を果たす。これでSWPとWPの統合の動きが起こる。
1943年から社会主義労働者党SWPではフェリックス・モローアルバート・ゴールドマンジェームズ・ファレル
ジーン・ヴァン・ハイエノートらがWPとの合流を主張、話し合いは失敗しゴールドマンファレルらは1946年労働者党WPに参加。
 1948年ゴールドマンファレルはマーシャルプランを支持し資本主義だけがスターリン主義を打ち破るとして、社会党に参加。
 (後にジェームズ・ファレルはCIAの資金援助を受けた1950年樹立の反共団体文化自由会議に参加、これにはフランツ・ボルケノ
カール・ヤスパースジョン・デューイ、ジェームズ・バーナム、バートランド・ラッセル、シドニー・フック、ヒュー・トレヴァー・ローパー
イグナシオ・シロンアーサー・シュレジンジャー・ジュニアレイモン・アロンベネディクト・クローチェなどが参加)
 この頃アーヴィング・ホーウェマイケル・ハリントンがWPに参加。

 ジェームズとドゥナエフスカヤは労働者党WP内で国家資本主義の学習グループを結成し間もなくグレイス・リー・ボッグスが参加。
 このグループはSWPの理論に近く、シャハトマン同様官僚制集産社会説をとるWP多数派に対しジョンソン・フォレスト派(偽名から)を
結成、1947年労働者党WPから社会主義労働者党SWPに戻る。しかし彼らはの思想はSWPの正統トロツキズムから離れ、ジェームズ
とドゥナエフスカヤは1951年までには前衛党思想を捨てトロツキストからも離れ通信出版委員会を結成、
 1955年にはジェームズとドゥナエフスカヤも分裂しドゥナエフスカヤは自分自身の組織ニュース・手紙委員会を結成しマルクス主義
ヒューマニスト思想を展開。ニュース・手紙委員会は2008年オルガ・ドマンスキーらからマルクス主義・ヒュ−マニズム委員会
ピーター・ヒューディスら)が分裂。
 1956年にはジェームズ、グレイス・リー・ボッグスコリネリウス・カストリアディスはハンガリ動乱に際し、”現実に面して”を著作、
 1962年、グレイス・リー・ボッグスジェームズ・ボッグスライマン・パインシリル・ジェームズと第三世界問題で分裂。
 ジェームズ支持のマルティン・グレイバーマンらの小グループは現実に面してという名で活動するが1970年解散。

 マックス・シャハトマンとその支持者は1940年トロツキーの第4インターナショナルと衝突、第2次世界大戦でのトロツキーの無条件
ソ連防衛を放棄。労働者党は1948年第4インターナショナルの再統一を放棄し、冷戦の圧力で右派に移行。
 1957年ティム・ウォルフォース、シェイン・メイグ、ジェイムズ・ロバートソンらは青年社会主義者同盟で左派を形成し、シャハトマンの
ISLを解散し社会党合流する方針に反対。

 戦後の短い労働者反乱の波は1950年代には保守化に席を譲る。

 SWP内のパブロ第4インターナショナル国際書記局派)支持のコクラン派が1954年追放されバート・コクランハリー・ブレイヴァーマン
ポール・ジーゲルらがアメリカ社会主義者連合結成。これは1959年解散。
 ブレイヴァーマンは1937年からトロツキズム運動に参加、SWP結成によりこれに参加。

 1959年、SWPからサム・マーシーが分裂労働者世界党WWP結成。
 労働者世界党WWPはSWPの反対した1948年のワラス進歩党、中国の文化革命と1956年ソ連のハンガリー介入を支持し。
 この党は黒豹党ウェザーマン地下組織を支持。
 2001年樹立の反戦・反人種主義の反帝国主義組織ANSWERはこの党の強い影響下にある(後PSL)。
 この党は大統領選でグロリア・ラ・リヴァ(1992年)、モニカ・ムーアヘッド(1996、2000年)、2004年はジョン・パーカー
(ヴァーモントの自由連合党が支持)らをたて、2008年は緑党シンシア・ムキニー支持。
 2004年労働者世界党WWPから社会主義・解放党PSL分裂。PSLはキューバ、チャベス支持で中国には批判的。
 PSLは2008年大統領選でグロリア・ラ・リヴァ支持、彼女は以前WWPから副大統領あるいは大統領候補となっていた。
 グロリア・ラ・リヴァは1994年カリフィルニア州知事選72774票、0.9%獲得、キューバ支持者。

 SWPは1950年代から1960年代までその思想を硬く保持し古臭くなり、1948年をピークに1960年代には後退し始める。
 1959年のキューバ革命で政治路線を変えキューバ革命を支持し青年が加入し始める。
 この時期指導者マリー・ワイスは社会党に加わったシャハトマン派の若者を勝ち取る。しかしかれらは学生運動から離れ党内文化が
変わり始まる。

 1948−1960年までファレル・ドップスがSWPの大統領候補となり、1953年にキャノンから全国書記を引き継ぐ。
 1960年ファレル・ドップスジョセフ・ハンセンはキューバに行き、カストロとゲバラの支持者となる。

 1960年代初期にSWPは第4インターナショナル国際書記局に再加盟し、キューバ革命に無批判的になり、ティム・ウォールフォース
ジェームズ・ロバートソンらはSWP内で少数派の革命的傾向を形成。彼らはパブロ主義への降伏を拒否し、第4インターナショナル統一書記局
USFI参加に反対。彼らはカストロ政権を批判。

 リンドン・ラルシュは1949年にSWPに参加し、1964年には革命的傾向その後スパルタクス同盟と関係。
 ラルシュは1969年に労働委員会全国幹部を結成、これは当初トロツキスト思想の影響を受けた、新左翼組織であったが、ラルシュは
他の新左翼はマクジョージ・ブンディフォード財団政策研究所ヘルベルト・マルクーゼに支配されているとしてこれらに反対、
1970年代中期には右傾化したといわれる。
 この組織は1972年米国労働党を結成、1976年大統領選にラルシュをたてる。米国労働党は1979年夏まで民主党に参加し解散、
全国民主政策委員会がこの後継とされる。

 ジェームズ・ロバートソンは1962年SWPから離れスパルタクス・グループ、1966年にスパルタクス同盟国際共産主義者同盟
を結成。これからは国際ボルシェビキ傾向が派生。1974年国際スパルタクス傾向を結成し1989年国際共産主義者同盟となる。

 1964年、ティム・ウォールフォースらはSWPを追放され第4インターナショナル・アメリカ委員会を結成、ICFIの支部となり、
SWPはISFIに参加。
 ICFIは1960年代に拡大し1966年労働者同盟となる。ティム・ウォールフォースはその後アメリカ民主社会主義者に参加。
 前記余波で1965年SWPのシアトル支部が分裂、クララ・フレイザーリチャード・フレイザーらが自由社会党結成。
 マリー・ワイスとムラ・タナー・ワイスも同様に離脱。1978年マリー・ワイスが自由社会党指導者となる。

 1972年ファレル・ドッブスがSWPの全国書記を退任しジャック・バーネスが跡を継ぐ。
 バーネスのSWPは1980年代永続革命論を捨て再統一第4インターナショナルからも撤退、開拓者潮流となる。

 1983年SWPから追放された永続革命論者が社会主義行動結成、これから1985年には社会主義者統一が分裂、1992年
には社会主義者組織者グループ分裂、2001年には社会主義労働者組織が分裂。

 一方労働者党WPは1949年独立社会主義者同盟ISLと名を変る。アーヴィング・ホーウェマイケル・ハリントンの右派が分裂し
週刊ディサントに参加。これは1954年ニューヨーク知識人(ダニエル・ベル、シドニー・フック)により設立された。
 これにはルイス・コーザーヘンリー・パッチャーメイヤー・シャピロなどが含まれていた。
 これは社会民主主義を支持していたが、冷戦で反共主義になり、1960年代、1970年代には第3世界革命論、民族解放論と新左翼
の文化に懐疑的になったが、リベラル外交政策と特に労働と市民権問題で社会的平等主義に関係し、新保守主義運動とは一線を画した。
 著名な投稿者はハンナ・アレント、ギュンター・グラス、ユルゲン・ハーバーマス、ノーマン・メイラー、エーリッヒ・フロムなど。

 1957年独立社会主義者同盟ISLはノーマン・トーマスの社会党に参加し翌年解散。
 ハル・ドラッパーらはこれに反対し1964年、バークレーで独立社会主義者クラブ結成し自由演説運動(言論の自由)で活動、ニューヨークでは
シー・ランディーらが活動、SDSで活動するが毛沢東グループの前に小グループでしかなかった。
 1969年独立社会主義者クラブ国際社会主義者ISとなる。
 1971年ハル・ドラッパーはグループがセクト(宗派)になったとして離脱。
 1973年シー・ランディーとロン・ターバー周辺の革命的傾向が革命的社会主義者同盟RSL結成。
 1976年RSLからランディー、ウォルター・ダールらの革命党同盟が分裂。1975年には革命的マルクス主義委員会が分裂しこれは
後に社会党に合流。
 RSLは反人種主義・反KKK運動で知られ、またゲイの先駆運動にも積極的で1970年代末期のゲイの社会主義集合体赤旗連合
の少数派からメンバーを取り込んだ。赤旗連合多数派はスパルタクス同盟に参加した。
 RSLはその他種々のゲイ組織に関係したが、RSLの主要なゲイ幹部はエイズで死亡し、1980年代には役割を終えた。
 RSL残留組はアナーキズムに移っていった。RSLは1989年解散。
 
 また国際社会主義者ISからは1977年英国SWPに近い国際社会主義者組織が分裂。また別のグループが労働者の力として分裂、
1986年までに労働者の力社会主義者統一(1985年SWPから分裂)と国際社会主義者ISは合流し連帯結成。
 連帯緑党や労働党(1996年)Labor Partyと接近。
 1990年代にSWPから追放された第4インターナショナル傾向(1983年追放、再統一第4インター支持派)と社会主義行動(1983年)の
一部が連帯に合流。2002年トロツキスト同盟(1991年革命的労働者同盟RWLから分裂)が連帯に合流。
 
社会主義労働者党SWP〕 1938年−
 1980年代ジャック・バーネスメアリー・アリス・ウォーターズのSWPは永続革命論を捨て再統一第4インターからも撤退、開拓者潮流となる。
 1948年からファレル・ドブス(1953−1972年全国書記)で大統領選参加、1万票前後で1960年最大約6万票。
 1972年はリンダ・ジェネスが83380票。
 1976年ピーター・カメホ(2004年緑党参加)が90986票、1980年代中から2万前後となり1990年代中に1万を切る。
 2004年大統領選はロジェ・カルロ3677票とジェームズ・ハリスで7411票票。
 1970年代労働者の戦闘性の成長でプロレタリア志向傾向POTがラリー・トレイナーらにより形成される。(SWPとYSAの約5−10%)
 1971年末までに多くが追放される。POTはSWPでレーニン主義者傾向LTと共通の位置にあった。1973年までにほとんどのSWP残存
メンバーは国際主義者傾向ITに参加。1972年のLTとPOTの追放で残存メンバーは国際主義者となる。1974年このグループの約100名
が追放されるが第4インターナショナル指導部の交渉で再加盟を認められる。
 1980年代指導部のトロツキズムからの撤退で反対派が結成される。
 西岸のナット及びシルヴィア・ワインシュタイン周辺のグループとジョージ・ブレイトマンフランク・ラヴェル周辺のグループが1983年
追放される・
 ジョージ・ブレイトマンフランク・ラヴェル第4インターナショナル主義者傾向結成に参加。(1983年結成、1990年追放)
 ワインスタイン夫婦周辺のグループはサン・フランシスコを拠点に1983年社会主義者行動SA結成。
 2008年大統領選はロジェ・カルロ5151票、ジェームズ・ハリス2424票。2012年はジェームズ・ハリス3751票。

労働者党WP) 1940−1949年
 1949年独立社会主義者同盟ISLとなり、1957年ISLはノーマン・トーマスの社会党に参加し翌年解散、ハル・ドラッパーらは
これに反対し1964年、バークレーで独立社会主義者クラブ結成し、1969年国際社会主義者ISとなる。

ニュース・手紙委員会〕 1955年−
 社会主義労働者党SWPに戻ったラーヤ・ドゥナエフスカヤ(1910−1987年)が1955年結成。
 
アメリカ共産主義者同盟
 ジェームズ・キャノンマックス・シャハトマンマーティン・アバーンが1928年トロツキズムとしてCPUSAから追放されて結成。
 1934年アブラハム・マストのアメリカ労働者党と合同して米国労働者党WPUSとなる。
 米国労働者党は1936年解散し、メンバーはアメリカ社会党に参加。
 メンバーは200名以下。

 1932年に学習グループを形成していたB.J.およびエステル・フィールド夫婦が追放される。
 フィールド夫婦はプリンキポのトロツキーに直訴しトロツキーはアメリカ共産主義者同盟にフィールド夫婦の復帰を説得。
 フィールド夫婦は1934年のニューヨーク・ホテルのストライキにからみ再度追放される。
 フィールド夫婦とその周辺(アリストディモス・カリディスら)はストライキではラヴストン派ベンジャミン・ギットロー率いる労働者共産主義者同盟
と協力、共産主義者同盟追放でフィールド・グループはギットロ−・グループと革命的労働者党組織化委員会を形成。
 このグループは米国では小さかったがカナダではモントリオールを中心に成功し、ウィリアム・クレームのもと1937年までカナダの公式トロツキスト
運動を凌ぐ。間もなくギットロー・グループは去り1934年社会党に参加する。フィールド・グループは闘争共産主義者同盟革命的労働者同盟
ボルディガ派などと合同を試みるが不成功で多数派はトロツキストに戻る。少数派はフィールドと組織を維持、1940年社会主義労働者党に接近。
 フィールド・グループにはポール・ヤコブモートン・ホワイトアルバート・ホールステッターらが参加。

 闘争共産主義者同盟アルバート・ワイスボード(旧社会党左派)、ベラ・ブッシュらがアメリカ共産主義者同盟から1929年追放され1931年結成。
 1935年中心メンバーのサム・フィッシャーの死亡で弱体化、1937年消滅。

革命的労働者同盟
 1935年米国労働者党WPUS内でトロツキーのフランスの転換の適用で社会党加入問題がおこり、ジェームズ・キャノンマックス・シャハトマン
は賛成したがアブラハム・マストマーティン・アバーンヒューゴ・イーラーが反対。
 ヒューゴ・イーラーらはむしろ労働者党解散より社会党左派を取り込む事を望み社会党左派の革命的政策委員会と交渉、これで党政治委員会
と不和になりイーラーらWPUSから撤退し革命的労働者同盟RWL結成、政治委員会多数派はフランスの転換を支持するようになる。
 RWLは当初自分たちの組織をトロツキスト運動内での反対派と考え社会主義者の訴え協会内でマルクス政治委員会を結成。
 1936年小さなグループ・マルクス主義者労働者同盟が分裂するがすぐにトロツキストに再参加。
 1938年には多数派はトロツキズムを放棄、彼らはトロツキーは退廃したと考えた。トム・スタムらはRWL(反乱)を結成し1940年解散。
 1938年ジョージ・スピロ率いるレーニン主義同盟が分裂。これは1946年革命党のための労働者同盟となりレーニン主義とマルクス主義に
批判的となる。スピロは反セム主義となりグループは1950年解散。このグループには若いノーム・チョムスキーが影響される。
 その他のグループがボルディガ派革命的共産主義者前衛に合流。

 RWLは戦後劇的に斜陽、1950年代初期解散し、イーラーは消え去る。

 トロツキストの第4インターナショナル宣言でRWLは1939年新共産主義者インターナショナル臨時国際接触委員会を結成、これには英国の
レーニン主義者同盟とオーストリアの革命的共産主義者組織が参加。

 社会主義者の訴えはシカゴで1935−1937年発行。この雑誌はアルバート・ゴールドマンによって始められた。彼は米国労働者党を去り
社会党で左派展開に努めた。この雑誌にはジェームズ・キャノン率いるトロツキストが短期間参加。トロツキストは新ミリタントの発行を停止して
社会主義者の訴えに参加。これはニューヨークでトロツキスト率いる社会党左派雑誌社会主義者の訴えに合流。ニューヨークの社会主義者の訴え
は1941年ミリタントに戻る。
 
アメリカ社会主義者連合
 1953年SWPから分裂し結成、1959年解散。
 これはほとんどのSWPの労働組合基礎と第4インターナショナル国際書記局のパブロ派シンパが含まれていた。
 反対派はバート・コクランに率いられ1948−1949年頃SWPのミシガン、オハイオ地区に結晶化し始めた。
 これはフリント、デトロイト、ミシガン、トレド、クリーヴランド、オハイオの統一自動車労働者UAW、アクロンの統一ゴム労働者内の
SWPグループ、ヤングスタウンの鉄鋼労働者内のハリー・ブレイヴマン労働と独占資本著者)周辺内グループを含んでいた。
 このグループはSWPのセクト主義に疑問をもっていた。1950年代米国では民主集中制と前衛党の概念は場違いと感じていた。
 また資本主義は革命的危機に向かっていると思っていなかった。当時は前衛党より労働者への情宣社会主義者教育グループが
必要と感じていた。またCIO内で共産主義者と提携し共産主義者とその同伴者から補充すべきと考えていた。
 SWPにはこれと異なるジョージ・クラークミルトン・ザスローのグループがいてこちらはよりミッシェル・パブロの考えに影響されていた。
 彼らは冷戦の圧力で大衆によってソ連・東欧はもっと革命的になると考えた。ただ他の国のトロツキストと異なる、加入戦術より、共産主義者と
その同伴者から補充(リクルート)することを選んだ。
 1953年分裂が起こりSWPの25%が失われアメリカ社会主義者連合結成された。
 ミシガン州を拠点とし産業組織会議CIOのメンバーが中心であった。
 1957年ミルトン・ザスロージョージ・クラークアーヴィング・ベイニンらがアメリカ労働党ALP(19362−1956年)残党と
ガーディアン(1948−1992年)周辺グループと活動するために離れる。
 ハリー・ブレイヴマンポール・スィージーマンスリー・レヴューに引き付けられる。
 1959年解散。

革命的傾向
 革命的傾向RTはSWPのキューバ革命路線に対する見解に反対のグループ周辺に形成された。
 指導部はキューバを労働者国家とみなしたが、RTは革命指導者をプチブルとみなした。
 またRTはSWPが国際委員会から去り国際書記局(パブロ派)に加わることにも反対。
 これらの立場は1962年ティム・ウォルフォースによって文書で表明された。
 メンバーは青年社会主義者左派の集中していた。彼らはシャハトマン派が社会党に合流する際青年社会主義者同盟YSL
(WP青年組織)をも青年社会主義者同盟YPSL(社会党青年組織)に合流させるのを拒絶していた。このグループはSWPに補充され
1960年SWPの青年組織青年社会主義者連合YSA結成に参加した。
 グループは最初極めて少数で1961年10月で約35名でニューヨークと湾岸地区に集まっていた。やがてデトロイト、フィラデルフィア、
ニューヘイヴン、コネティカットに広がっていった。
 1962年ティム・ウォルフォース、アルバート・フィリップス、フレッド・マゼリス、リンドン・ラリシュが革命的傾向から分裂し再組織化少数傾向となる。
 このグループはより強固に第4インターナショナル国際委員会(英国のゲリー・ヒーリー派)を支持し、SWPからの分裂を否定。
 1963年SWPは第4インターナショナル統一書記局参加を決定し
 1964年ジェームズ・ロバートソン、シェイン・メイグ、ラリー・アイルランド、リン・ハーパーらが追放され、第4インターナショナル・アメリカ委員会を組織。
 
国際共産主義者同盟スパルタクス同盟)〕 10年
 マックス・シャハトマンの独立社会主義者同盟と結びついたアメリカ青年社会主義者同盟ISLに勧誘された左翼青年はISLの
社会党合流でSWPに参加したがこれにはスパルタクス同盟中心人物となるジェームズ・ロバートソンティム・ウォールフォース
含まれていた。これにより彼らはムレイ・ワイス、ディック・フレイザー(後自由社会党)、シェイン・メイグゲオフ・ホワイトらの影響を受けた。
 スパルタクス同盟は正統トロツキズムとキャノン派の後継を主張するがシャハトマン派の影響もうけトロツキー、キャノンの
プロレタリア軍事路線を拒絶。SWPの青年グループと結びついたこのグループは1960年までにファレル・ドブスのSWP指導部の
国際書記局との交渉を機会主義と見た。特にキューバ革命と市民権運動の無批判的支持を問題とした。
 ジェームズ・ロバートソンらは1962年革命傾向を結成し第4インターナショナル国際委員会を支持した。革命傾向はSWPへの対応で分裂、
ICFIに近い少数派ティム・ウォールフォースらは再組織化少数傾向RMTを結成、ロバートソングループはRMTの策動によりSWPから追放された。
 1966年ジェームズ・ロバートソンらがSWPからスパルタクス同盟として分裂。この後スパルタクス同盟は孤立し、倫理喪失し
シェイン・メイグ、ゲオフ・ホワイト(西海岸の中心人物)らが去る。ニューヨークではフランスのLOと結びついたケイ・エレンズらがミリタント
労働市民権委員会を通し労働組合で活動を展開。これらがジェームズ・ロバートソンと衝突し火花結成。これでジェームズ・ロバートソンだけが
以前の革命傾向の中心人物として残る。
 1960年代末ロバートソン指導部は学生の組織化に焦点を置こうとしたがハリー・ターナーは労働組合内、特に少数派労働者に一般組合員
幹部グループcaucusを組織化しようとした。ターナーはこのため1967年スパルタクス同盟に汎組合活動家Militant労働市民権委員会を結成
させようとしたがロバートソンは翌年これを解散。スパルタクス同盟は1968年内部抗争で漂流し、ターナー派はのちの火花グループと提携、
結局ターナー派は追放される。
 1960年代末学生運動とベトナム反戦運動で急進学生を獲得し始める。南カリフォルニアのマーヴ・トライガーの共産主義作業集合、
ニューヨークのジャン・ノードンのバッファロー・マルクス主義集合などの毛派からメンバーを獲得。あるいは赤旗連合などのゲイ左翼からも獲得。
 1972年ジェームズ・ロバートソンの権力に挑戦したデイヴ・クニンガム、マーヴ・トライガーらが追放され国際グループを短期間結成。
 1978年サム・イサチャロフらがジェームズ・ロバートソンの批判を受け去る。
 1982年内部分派国際ボルシェヴィキ傾向が形成され、1985年にはスパルタクス同盟を去り、1990年代初めニュージーランドの
永続革命グループ、西ドイツの第4インターナショナル・グループと国際ボルシェヴィキ傾向を結成。
 1996年第4インターナショナル同盟国際主義者グループ、ジャン・ノードン)結成グループが追放される。

前衛ニュース・レター
  スパルタクス同盟を追放されてターナー・グループは労働者同盟リンドン・ラルシュSDS労働委員会に短期間浸透したあと、
 前衛ニュース・レターを創刊し周辺にグループを結集した。
  このグループは一般組合員幹部グループcaucusを組織化し最終的にこれを労働者評議会にしようと考えていた。
  前衛ニュース・レター・グループは他の組織との統合しようと、SLPを去ったド・レオン主義者、社会主義者再建、
 社会主義者フォーラム・グループとの機会を模索したが不成功。1972年レーニン主義者分派がSWPを去り階級闘争同盟を結成したので
 これに合流。しかし新組織では多数派の旧レーニン主義者分派が第5インターナショナルを結成しようとしたのに、少数派前衛ニュース・レター
 グループは第4インターナショナル再建を望んでいた。ソ連・東欧についても多数派は堕落した労働者国家説であった。
 階級闘争同盟は1975年解散し、旧レーニン主義者分派はトロツキスト組織に参加、ターナー派はトロツキスト組織化委員会を結成。
  この時期ターナー派はニューヨーク、シカゴ、サン・フランシスコ、テキサスに約30名のメンバー。
  かれらはSWP、火花、社会主義者同盟(民主集中主義)、革命的労働者同盟RWLと合同しようとしたがすべて不成功。
  1978年トロツキスト組織化委員会は革命的社会党委員会に参加。1980年にはこれから去り革命的統一同盟となる。
  1982年モレノ派の国際労働者同盟結成でこれと合流し国際主義労働者党(第4インターナシナル) を結成。
  1984年党内抗争でターナー派は国際社会主義者同盟(第4インターナショナル)を結成。

トロツキスト組織US
 起源はSWPの共産主義者分派にある。彼らはSWPがフェミニズム、平和、民族主義運動に注心しすぎると批判。
 1971年追放されて一部は前衛ニュース・レターに参加、他方は国際社会主義者に参加。
 1973年の国際社会主義者の分裂で革命的社会主義者同盟に参加。しかし1974年には去りトロツキスト組織結成。
 一方、1972年SWPからレーニン主義者分派が追放され、1973年前衛ニュース・レターグループと階級闘争同盟を結成。
 1975年階級闘争同盟は分解し、旧レーニン主義者分派はトロツキスト組織参加、分裂は第4インターナショナルの再建問題。
 トロツキスト組織はヴァルガ派の第4インターナショナル再建国際同盟参加。

国際主義労働者党
 1980年革命的労働者戦線として出発、メンバーは主にSWPから来た(ヒスパニック系)。1980年までに200のメンバー。
 1982年のモレノ派の国際会議にターナー派の革命的統一同盟と参加。2組織が統合し国際主義労働者党が結成される。
 このグループは平和自由党ないで活動。1984年ターナー派が分裂し国際社会主義者同盟(第4インターナショナル)を結成。

革命的労働者同盟RWL)  ガイド  別説
 1976年旧スパルタクス主義者同盟メンバーが結成。1981年米国労働者同盟WLUSから追放された旧ティム・ウォルフォース
支持者の社会主義同盟(民主集中主義者)を吸収。
 RWLはカリフォルニアの平和自由党内で活動。ここで彼らは1984年国際主義者労働者党(第4インターナショナル)(モレノ派)メンバーと
ブロック形成し、共産党CPUSA支配の多数派に対抗。
 RWLは1970年代末から1982年のフォークランド戦争までトロツキスト国際連絡委員会アラン・ソーネット)に加盟していたが1984年
モレノ派国際労働者同盟(第4インターナショナル)世界会議に参加。
 1991年メンバーはの多くがRWLから去りトロツキスト同盟結成。 

労働者同盟(社会主義平等党SEP)〕 
 1960年代初期トロツキストはSWPに組織化され国際委員会ICFIに参加していた。ティム・ウォールフォースら青年指導者は組織の方針に反対し
ジェームズ・ロバートソンらとSWP内で革命傾向を形成、これは英国のゲリー・ヒーリー社会主義労働同盟SLLと結んでいた。
 彼らはSWPがトロツキズムに背を向けパブロ派のISFI再結集に向かっていると見なした。また指導部がカストロを支持していることも批判。
 ICFI指導部は革命傾向を支持。
 革命傾向の二人の指導者はSWPで異なった展開を示した。
 ロバートソンのグループはSWPを追放されスパルタクス同盟を結成したがICFIには加わらなかった。
 ウォールフォースのグループはSWP内で再組織化少数傾向RMTを結成。
 ウォールフォースらはSWPを1964年追放されたがゲリー・ヒーリーおよびICFIの残存グループと結んでいた。
 SWPから追放されたウォールフォースのグループは第4インターナショナル・アメリカ委員会ACFIを結成し国際委員会ICFI
(英国SLL、フランスOCIが中心)支部となりSWPは国際書記局ISFIに参加。アメリカ委員会は1966年労働者同盟となり全国組織に発展。
 1985年ICFIは英国の労働者革命党が推進した路線で分裂。問題点はフセインやガンジーらの民族ブルジョアジーやスターリン主義者の
ゴードン・マクレナンの英国共産党支持であった。
 労働者同盟は長らくSWP反対キャンペーンに従事。1995年第4インターナショナル国際委員会ICFI加盟諸党は社会主義平等党SEPとなる。
 SEPは2004年大統領選にビル・ヴァン・アウケンをたてる(1857票)。アウケンは2006年上院選でニューヨーク州で11071票獲得。
 2006年社会平等学生結成に乗り出す。
 2012年大統領選候補ジェローム・ホワイト。1143票獲得。

社会主義選択SA〕
 労働者インターナショナル委員会CWIのアメリカ支部。ボストンで隔週新聞ボストン組織者発行。
 SAは当初労働ミリタントを名乗り1986年結成、1990年代末社会主義選択を名乗る。
 労働ミリタントは当初労働党(1996年結成)に介入、ニューヨーク・メトロ支部で影響をもった。
 労働党全国指導者は民主党に対抗するのを避けたが労働ミリタントは対抗を主張し追放される。
 SAは1996−2008年大統領選でラルフ・ネーダーを批判的に支持。社会主義行動などはこれを批判。
 2007年ボストン市議選でマット・ギアリーが3024票獲得。
 アフガニスタン、イラク戦争反対に活動し2004年反戦争・人種主義青年YAWRを結成。
 1996年6人のメンバーが追放され労働ミリタントの声結成。
 1999年カルロス・ペトローニ(アルゼンチン生まれのモレノ派指導者)周辺のグループがSAに合同し階級闘争グループを結成するが
2002年分裂し左翼党結成。ペトローニは2006年アルゼンチンに戻る。

国際社会主義者IS)
 ハル・ドラッパー周辺の以前の独立社会主義者同盟メンバーが1964年独立社会主義者クラブとしてバークレイで結成。
 このグループはバークレイ自由演説運動で徐々に拡大、ニューヨークでシー・ランディ、シカゴではシャハトマン派が独立社会主義者クラブ
を結成。SDSでは毛派に比べ少数派であったがメンバーを獲得1969年国際社会主義者となる。 
 1971年ハル・ドラッパーがこのグループはセクト化したとして去り以降学者となる。
 1973年にはシー・ランディ、ロン・テイバーらが革命的社会主義者同盟RSL結成。
 ISは英国のトニー・クリフの国際社会主義者と非公式に結びついていた。
 1970年代初期クリフ理論(国家資本主義)に影響されたグループがジョエル・ガイアー指導部と衝突し1977年追放され国際社会主義者組織結成。
 同時期他のグループが分裂し労働者の力結成。1986年ISは労働者の力、社会主義者統一連帯結成。

国際社会主義者組織ISO〕
 1977年国際社会主義者の左派分派が結成。労働組合に関する不一致とISがソ連を官僚制集産主義と見るのに対し分派が国家資本主義と
見なしたのが原因。ISOは英国国際社会主義者(のちのSWP)に接近。
 国際社会主義者傾向ISTに参加。拠点シカゴ。
 2000年代初め英国のSWPと論争に入りISTはISOを追放。親ISTグループが2001年左翼転換Left Turn結成するが左翼転換は
2003年ISTを去る。左翼維持Keep Leftという非常に小さいグループが親英国SWPとして存在し連帯で活動。

革命的社会主義者同盟RSL)
 1973年シー・ランディ、ロン・テイバーらが国際社会主義者ISから追放されて結成。
 300のISから100が分裂。
 1976年革命党同盟が分裂(シー・ランディ、ウォルター・ダウムらニューヨーク、シカゴに支部)。
 革命党同盟は国際組織として1992年第4インターナショナル共産主義者組織結成。
 1975年革命的マルクス主義者委員会が分裂し後にSWPに合流。
 RSLは反人種主義、反KKK、ゲイ解放運動に積極的で1977年赤旗連合少数派を獲得。(多数派はスパルタクス同盟に参加)
 ニューヨークではゲイ活動家連合で活動、この組織を分極化させ組織終焉、他にラヴェンダー左翼、クリストファー通り解放日委員会などに
参加。やがてRSLはアナーキズムに接近、1989年解散、一部は愛と怒り結成に寄与。1998年の愛と怒り解散でロン・タボーらは
ユートピアン発行、他はアナーキスト共産主義者北東連合NEFAC(2000年結成)に参加。
 RSLは1974年SWPの共産主義者分派由来グループがロツキスト組織US結成、1975年には革命的マルクス主義者委員会を結成し、
後にSWPに合流。

社会主義行動SA〕 
 1983年永続革命と第4インターナショナル(統一書記局)支持の古参メンバ(39名)が結成。
 SAは積極的に各種選挙に参加、1988年サンフランシスコ教育委員会選挙でシルヴィア・ワインスタインが2万1千票獲得。
 1985年第4インターナショナル(統一書記局)支持の社会主義統一が分裂。
 1991年社会主義組織者グループ分裂(第4インターナショナル再建国際センター派、いわゆるランベール派)。
 2001年社会主義者労働者組織(ナット・ワインスタイン、キャロル・セリグマン等)が分裂。
 ポール・シーゲルは1978年にSWPに再加盟し1983年には離れ、社会主義行動結成に参加。

トロツキスト同盟
 1991年革命的労働者同盟RWLから分裂、デトロイトが拠点。
 2002年連帯に参加。再建と革命潮流となる。
 第4インターナショナル再建調整委員会の支部。

革命的社会党委員会
 1980年代にトロツキストの統一戦線として結成。
 1978年最初の全国協議会開催。
 参加は
  自由社会党クララ・フレイザー
  社会主義者連合:(旧コクラン派のミルトン・ザスローが率いる、1970年代初期SWPから追放されたグループと合同)
  ムレー・ワイス、ミラ・タナー・ワイス夫婦(SWPから去る)周辺グループ。
  ターナー派
 1980年、組織の民主集中化決定でターナー派と社会主義者連合ガ去り、ワイス夫婦は自由社会党参加。
 
連帯
 1986年国際社会主義者IS、労働者の力、社会主義者統一の合同で結成。
 1990年代に第4インターナショナル傾向、独立社会主義者政治(民主・社会主義通信委員会CCDSで活動していた社会主義行動の一部)が合流。
 2002年トロツキスト同盟メンバー参加。
 2000年大統領選でラルフ・ネーダーとデイヴィド・マクレイノルズを支持、2004年はラルフ・ネーダー、2008年はシンシア・マキニーを支持。

 第4インターナショナル傾向は1983年にSWPを追放された第4インターナショナル(統一書記局)支持者が結成。
 1995年解散し、多くは連帯第4インターナショナル・グループCaucusとなる。第4インターナショナル・グループ
第4インターナショナル(統一書記局)支持で独立社会主義者政治やトロツキスト同盟の旧メンバーからも参加。

火花
 火花は最初スパルタクス主義者同盟内分派として生まれる。このグループはフランスの労働者の声(階級闘争LO)に引き付けられていた。
 彼らはターナー派と提携。ターナー派の追放で独立。
 グループは公式には1971年デトロイトとバルティモアで組織化された。

労働者国際同盟
 2001年結成、国際マルクス主義者傾向ラル・カーンアラン・ウッズ)。
 米国では労働者階級の大衆的政党がないので加入戦術を行わない。

社会主義選択
 1986年労働ミリタントが結成され1990年末社会主義選択となる。。これは労働者インターナショナル委員会の所属。
 労働ミリタントは結成と初期に労働党(1996年)に介入、特にニューヨーク・メトル支部で影響力があった。間もなく支部は解散される。
 社会主義選択は1996、2000、2004年の大統領選でラルフ・ネーダーを支持。
 2004年の大統領選ではほとんどの左翼グループはブッシュ以外のだれでもよいという立場で結果的にジョン・ケリーを支持、
他のトロツキスト組織はネーダーが移民に対し右派的立場をとっていることを批判。

労働者世界党WWP〕
 1948年のワラス進歩党、中国の文化革命と1956年ソ連のハンガリー介入を支持し、SWPからサム・マーシーらが分裂し1959年結成。
 黒豹党やウェザーマン地下組織戦争反対ベトナム古参兵プエリトリコ独立運動を支持。
 ANSWER結成に関与。
 デアード・グリスオウォルドラリー・ホルムズフレッド・ゴルドスタインモニカ・ムーアヘッドサラ・フランダーステレサ・グティエレスらが指導者。

社会主義・解放党PSL(社会主義とliberationのための党)〕
 2004年労働者世界党WWPから分裂、キューバ革命支持、現中国政府批判、チャヴェス革命支持。
 2006年のイスラエルのレバノン侵攻で抗議デモを行う。メンバーはANSWER(戦争を止め人種主義を終えさせるため今活動)で活動。
 2008年大統領選でグロリア・ラ・リヴァ支持。12州で7311票獲得。 
 2012年大統領候補にピータ・リンゼイを指名。9227票獲得。

自由社会党
 1966年シアトルでSWPからクララ・フレイザーらが分裂し結成した革命的フェミニズム政党。
 SWPのマルコムXの黒人民族主義支持、ベトナム戦争反対での機会主義と意見不一致。
 2012年大統領選候補にステーヴン・ダーハムを指名。

国際労働者党新連合党
 1970年代初期フレッド・ニューマンはニューヨークで急進的活動をし、リンドン・ラルーシュと関係したりしていた。
 やがてラルーシュと不和になり1974年国際労働者党を結成。
 1975年この組織に労働者世界党WWP分裂グループが参加したが1976年には分裂していった。
 やがてニューマンはこの党を放棄し1979年新連合党を結成し、これにレノラ・フラニ(心理学者)が参加。
 新連合党は1984年大統領選にデニス・セレット(黒人労働運動家)で参加、1985年にはジェス・ジャクソンと関係をもつ。
 1988年にはレノラ・フラニは民主党内のジェス・ジャクソンを支持しながら大統領選を闘う。フラニは全国で217221票、0.2%で
第4位となり、リバータリアンのロン・ポールに遅れをとる。

平和と自由党
 選挙のためのカリフォルニアの小政党。
 1967年農場労働者、市民権、反ベトナム戦争運動の社会活動家が全国組織として結成。
 民主党のベトナム戦争支持に反対して生まれた。
 その前1966年には平和自由党からハーバート・アプシェーカーがニューヨークから下院に立候補3562票獲得していた。
 1968年にはエルドリッジ・クリーヴァー(黒豹党)とリチャード・グレゴリー(コメディアン、社会活動家)が大統領候補を争った。
 結局分裂し、グレゴリーが47097票、クレーヴァーが36623票を獲得、上院では全国で105411票獲得。
 その後カリフォルニアを除いて加盟組織はほとんど解散、カリフォルニアの党は全国候補としては人民党候補を支持。
 1982年カリフォルニア知事選で党からエリザベス・マルティネスが立候補。1990年はマリア・ムニョスで88707票、1.3%獲得。
 最近は2008年の大会で大統領候補として、グロリア・ラ・リヴァ社会主義・解放党シンシア・ムキニー(緑党、1993−2003年、2005−
2007年の2度、民主党から下院議員)、ブライアン・ムーア社会党)、ラルフ・ネーダーが挙がりラルフ・ネーダーに決まる。
 2010年上院選挙カリフォルニアでマーシャ・ファインランド(1996年大統領選候補)が134729票、1.2%、緑が127854票。
 2012年大統領選候補に女優のロザンヌ・バーを指名。ロザンヌ・バーは緑党の指名に失敗していた。
 カリフォルニア、コロラド、コロンビアから57855票獲得。
 

人民党(1971年)
 1971年、色々な個人や平和自由党、共通善人民党、カントリー人民グループcaucus、人権党自由連合党、新アメリカ党、
新党、ノーNo党などの地方グループが結成。目標は反戦綱領platform(このplatformは運動ないし組織の共通基盤といった意味)の提供。
 1972年大統領選でベンジャミン・スポック(小児科学者)を立てる、1976年はマーガレット・ライト(社会主義者と称す)、その後
参加した党の多くが解散し消滅。

ヴェンセレモス旅団
 1969年キューバ革命に連帯するために若者達が結成。
 キューバで砂糖の収穫や農業や建設労働に参加。


毛沢東派

新共産主義運動
 1960年代学生活動家はSDSに集結、SDSは1969年の分裂前には10万以上のメンバーに成長。
 これから分裂した1つである革命的青年運動Uはすぐに多くの小さな毛派グループに分裂。
 これらは新共産主義運動NCMと称された。
 元学生よなるグループは労働者階級との関係構築のため工場や重産業に就職。また第3世界主義に傾斜した。
 NCMは初期には緩く結びついていたが徐々に排他的になっていった。毛沢東後継者や中ソ論争などが論点であった。
 1975年革命連合が革命的共産党RCP結成。1977年10月同盟が共産党(ML)結成。
 この時期いくつかの他のグループも新共産党を結成。
 ドッジ革命組合運動(1968年結成)は1969年黒人労働者革命連合に発展したが工場労働者よりなっていた点で他のNCMグループと異なる。
 AFL−CIO指導部はベトナム戦争を支持しストライキを避けたが組合労働者は山猫ストを行った。
 NCMは1980年代に全体として縮小し、1980年代初めに共産党(ML)などは解散、革命的共産党は存続。
 革命的労働者本部プロレタリア統一同盟は1985年自由の道社会主義者組織FRSOを結成、いくつかのNCMグループがこれに参加。
 1999年FRSOは2分解し両組織とも自由の道社会主義者組織を名乗る。
 先行組織として共産党臨時組織化委員会、湾岸地域革命連合、黒豹党、ドッジ革命連合運動革命的青年運動U、SDS。
 1970−1980年代組織−プロレタリア党委員会、湾岸共産主義者組織、共産党(ML)共産主義労働者党、ジョージア共産主義者組織、
ガーディアン(週刊新聞、1968年全国ガーディアン改名、1992年廃止)、革命闘争同盟ML党革命的統一組織プロレタリア統一同盟
革命的共産党革命的労働者本部、革命的労働者組織、逗留者真実組織ヴェンセレモス旅団
 現存組織−自由の道社会主義者組織新アメリカ革命同盟革命的共産党
 重要人物−ボブ・アヴァキャンブルース・フランクリン(ルトガース大)、ハリー・ヘイウッド(1923年青年共産主義者同盟、1925年CPUSA参加、
モスクワに渡り、やがてコミンテルン代表となり、黒人問題を担当、1930年代はフォスター派、スペイン戦争ではエイブラハム・リンカン旅団参加、
中ソ分裂で反修正主義派となり1950年末CPUSAから追放、1958年共産党臨時組織化委員会POC結成、コールマン・ヤングテオドア・アレン
らが参加、POCは教条化で孤立し、急速に崩壊、ヘイウッドは暗殺までマルコムXと協力、1964年新共産主義運動と関係し始め共産党(ML)参加。)、
ノエル・イグナティエフマサチューセッツ芸術大)、マイケル・クロンスキーネルソン・ピアリー

進歩労働党PL〕 Progressive Labor Party
  1961年ソ連を修正主義と考え米国共産党も修正主義になったとみなす米国共産党メンバーが結成した民族横断共産党。
  市民権運動とともに興隆し、東岸に組織を持つ。キューバ革命に鼓舞される。
  学園に基礎をもつ5月2日運動M2Mを結成し1964年ニューヨークで初めて大規模なベトナム反戦行進組織。
  1965年からSDSの運動が活発になるとM2Mを解散しSDSに参加し数年でSDSで最大の共産主義者分派となる。
  反PL派は革命的青年運動を結成、それに対しPLは労働者学生連合WSAを結成し両者が衝突、SDSは分裂する。
  PLはあらゆる民族主義は究極的に反動的になると主張。黒豹党や共産主義者を弱めたベトナム戦争のような民族解放闘争も
 同様とする。1969年のSDS全国大会でPL/WSAは多数派となるがSDSを大衆運動として維持できなくなった。
  1975年までの他の新左翼の崩壊で1970年代ウェザーマンヤング・ローズ(プエルト・リコ民族主義者)など競争相手との衝突を
 招くようになる。1960年代はSDSの毛派と見なされたが1972年の毛・ニクソン会談で毛沢東を修正主義と非難。
  1980年代初期PLは資本主義、社会主義、共産主義の3段階論から社会主義を拒否した2段階論をとる。
  これは大衆参加によって可能となるとし、メンバーの労働者階級との接触を推進し、幹部党から大衆党への組織化を主張。

  現在は公的にはKKKやナチ運動グループとの実力闘争で知られている。

革命的共産党RCP〕 
  1975年結成の毛派共産主義者党。始めは革命連合として知られSDSの分派の革命的青年運動Uに起源をもつ1960−1970年代
 新左翼の直接後継グループの生き残りに1つでボブ・アヴァキャンが指導者。
  RCPの影響はカーク・キッシンジャー拒否と抵抗(1987年ニューヨークで結成の人権活動家グループ)、世界は待てない(2005年の
ブッシュ政権政策反対運動グループ)などに見られる。
  またアッティカ旅団から生まれた1970年代の革命的学生旅団(1977年多くが革命的労働者本部に参加)、後革命的共産主義者青年旅団
 を持っていた。
 RCPは1992年のロサンジェルス社会反乱を支持。RCPは1984年革命的国際主義者運動RIM(毛派国際組織)結成に参加。
 
 ボブ・アヴァキャンブルース・フランクリンらと1968年湾岸地域革命連合を結成、これはSDSから発展した地域グループを吸収し
全国的組織革命連合RUに発展。
 1971年ブルース・フランクリンらが分裂しヴェンセレモス組織(元はサンフランシスコ半島のメキシコ人組織)に参加、カテリーナ・デル・ヴァレ
と指導者となる。
 黒人労働者会議やヤング・ローズ党などとの統一の失敗のあと、1975年革命的共産党RCPとなる。新党は労働者主義を採用。
 1977年中国評価で分裂、副議長ミッキー・ジャーヴィスらが革命的労働者本部結成、30−40%のメンバーと革命的学生旅団がこれに参加。
 
  選挙路線を拒否。この点でジェス・ジャクソン虹連合を支持した1980年代の他の自称ML党(やがて解散か路線変更)と異なる。

レイ・オー・ライト・グループ
  1961年共産党から分裂した反修正主義ML党。2008年革命的労働者組織と改名。

新アメリカ革命同盟LRNA〕
 1958年米国共産党からカリフォルニアを拠点とするネルソン・ピアリー周辺が分裂して結成したML党再構成臨時組織委員会POCを起源とする。
 彼らは米国共産党はソ連修正主義を支持していると考えた。POCは間もなく何回か分裂を起こし1960年代中期に数百人の初期メンバーの
ほとんどを失う。ネルソン・ピアリーは1967年追放される。
 ネルソン・ピアリー周辺活動家は1968年カリフォルニア共産主義者同盟として出現し、新聞人民トリビューンを発行しチカーノ・モリトリウムに参加
した活動家を惹きつけた。
 デトロイトの革命的黒人労働者同盟LRBWは1971年分裂を起こし、組織にとどまったグループは共産主義者同盟と合同。
 これで共産主義者同盟はマルクス・レーニン・毛沢東の著作を知っている多くの黒人産業労働者を獲得、また多くの黒人、チカーノ、女性を
指導部にもった。
 デトロイトでは共産主義者同盟は自動車市労働同盟MCLLと協力関係を結んだ。MCLLは革命的黒人労働者同盟同様に分裂し1支部は
共産主義者同盟と合同し1974年全国的に共産主義労働党を結成。他は旧LRBWから分裂したグループと合同。
 前者には反戦古参兵フランク・ジョイスを含み、後者にはシェリア・マーフィが含まれていた。シェリア・マーフィはデトロイトで何度か市議選に勝利し
LRBW内グループ指導者で共産主義者同盟に加わらなかったケニス・コックレルと結婚。
 1976年、1978年共産主義労働党はミシガン州議会でジェネラル・ベイカー・ジュニアを支持。
 彼らは米国共産党と協力を続け1993年に解散しLRNAとして再結集。
 
(共産主義労働者党Communist Workers Party
  1969年結成、幹部は1961年共産党から分裂した進歩労働党から来ている。
  1979年北カロライナのグリーンズボロでCWP組織した集会の5人の行進者がKKK、アメリカ・ナチ党によって殺されるグリーンズボロ虐殺発生。
  初期毛派であったが1980年に路線を転換、1985年には共産主義労働者党を解散し新民主運動を結成しまもなくグリーンズボロ正義財団となる。

逗留者真実組織
  1969−1985年中西部で存在し労働の場での組織化に向かっていた。1969年革命的青年運動Uに関係していたグループがシカゴで結成。
  白人労働者の特権性を批判する点で他の新左翼と異なる。
  SDSの元指導者でこのグループの著名人物のノエル・イグナティエフは後に雑誌人種反逆者を編集し批判的人種理論形成に寄与した。
  ノエル・イグナティエフシリル・ジェイムズ労働者党ジョンソン・フォレスト傾向)の影響を受けた。
  1970年代中期からは反帝国主義路線(プエルトリコ独立など)をとってていたが、1980年代から社会運動(反ファシスト、反核、反軍事主義闘争)
 に関わるようになり、直接行動に向かい分裂していった。

共産党USA(ML)
  1965年中ソ分裂で中国側に立つアメリカ共産党のマイケル・ラスキらが結成。ラスキが党資金をラスベガスで賭博して失い銃撃戦を起こし解散。

共産党(ML)
  SDS革命的青年運動Uから1971年10月同盟として結成、マイケル・クロンスキーが指導者。1981年解散。
  黒人共産主義者ハリー・ヘイウッドがメンバーとなる。毛沢東死後も中国派で他の毛派と異なる。

ML党) ホッジャ派、1960年代結成。1993年解散。
 遠くは1967年主にアフリカ・アメリカ人によって結成されたクリーヴランド分遣draft抵抗連合に起源がある。
 1968年労働者行動委員会として再組織化され反戦活動から地域組織に焦点を広げる。
 毛沢東主義を抱きハーディアル・ベインズカナダ共産主義者運動(ML)と密接な関係を展開。
 1968年反帝国主義青年北米協議会に参加しアメリカ人共産主義者労働者運動(ML)となる。
 1973年USマルクス主義・レーニン主義者中央組織と改名し警察、ファシズム、社会主義者、修正主義者とみなした共産主義者と抗争する。
 1980年までに毛沢東主義からホッジャ主義に移り、マルクス主義・レーニン主義者党USAとなり、翌年カナダのグループと分裂し、CPC(ML)
に忠実なグループはUSマルクス・レーニン主義組織(ホッジャ派)となる。
 1981年多くの類似グループは右傾化し、マルクス主義・レーニン主義者党USAはほかの反修正主義者の吸収を試みその政策の再評価を始める。
 1980年末までに反修正主義は人民戦線以来の伝統的共産主義運動の否定とするようになり、結局1993年解散。
 これに不満な活動家は共産主義者声組織として活動。
 共産主義者声組織はトロツキズム、スターリン主義、毛沢東主義を支配階級の利益をとる偽の共産主義という理論をとる。
  
革命的闘争同盟KRS(ML))
  1978年アジア・米国人共産主義者組織イ・ウォー・クウェン(義和拳)とチカーノ・ラテン共産主義組織8月29日運動(ML)の合同で結成。
  これに間もなく革命的共産主義者同盟(MLM)が参加、これは著名な詩人アミリ・バラカを含むほぼ黒人の組織であった。
  これら合同でLRS(ML)は米国左翼の大勢力となった。
  LRS(ML)は1984年、1988年大統領選で虹連合で重要な役割を果たしジェス・ジャクソンを候補とする。
  解散で一部は1990年代初期社会主義者組織化ネットワークとして再結集し1994年自由の道社会主義者組織に合流。
  イ・ウォー・クウェンは義和団に倣ったニューヨークで活動した小グループで同様に1960年代末から1970年代初めに活動した
 カリフォルニアの中国系アメリカ人市民権グループの紅衛兵と後に合同。イ・ウォー・クウェンは紅衛兵党の政治戦線となり急進
 分子は地下潜行。党は黒豹党フレッド・ハンプトン虹連合に参加。
  8月29日運動(ML)はロサンジェルスのラザ統一党労働委員会とその他のグループがら結成され1974−1978年に存在した。
  ニューメキシコで新聞や理論誌を発行し、エリザベス・ベティタ・マルティネスの創設したメディア組織チカーノ・交流センターに入った。
  ラザ統一党は1970年テキサスのクリスタル市でホセ・アンジェル・グティエレス、マリオ・コンペアンが結成。
  エスニック(少数民族)路線の最初の第3党。
  メキシコ系アメリカ人の住居、仕事、教育機会改善を目指す。クリスタル市、コトゥラ市の地域選挙で勝利しカリフォルニアやコロラドに
 拡大。1970年代中テキサス知事選の候補を立てる。1972年コロラド上院選にセクンディオン・サラザールをたて1.4%獲得。

革命運動組織化のため一緒に立っている
 1994年カリフォルニア湾岸地域で結成された組織。湾岸戦争に反対する有色青年の戦争反対の根rootsRAWから生じた。
 RAWは1990年代初めのロサンジェルス反乱への大衆抗議から出現。
 当初はアナーキストもいたが内部抗争で共産主義者主導となる。毛沢東を思想的指導者とする。
 2002年解散。

毛沢東主義国際主義者運動
  1983年ハーヴァード/ラドクリフ大学の急進学園RADACADSグループが革命的国際主義者運動RIMを結成。
  RADACADSは新共産主義運動の一部と活動していた。1984年RIMは毛沢東主義国際主義者運動MIMとなる。
  MIMは一時革命的共産党RCPに近かった。2008年解散。

自由の道社会主義者組織
  1970年代の毛派グル−プ新共産主義運動の崩壊で1985年これらを単一組織化するために結成された。
  1985年プロレタリア統一同盟(1975年ボストンで結成)と革命的労働者本部の合同で結成。
  1986年革命的統一組織合流、1988年アミルカル・カブラルポール・ロブソン集合、1994年社会主義組織化ネットワーク合流。
  自由の道は民族自決を支持しアフリカ・アメリカ人のブラック・ベルト地域や南西部のメキシコ・アメリカ人の独立まで支持。
  1980年代は虹連合結成に動き、ジェス・ジャクソンの大統領選挙支援。また進歩学生ネットワークで重要な役割を果たす。
  多くの理論をハリー・ヘイウッドに負う。1999年、2競合組織(機関紙”自由の道”と”抵抗Fight Back”)に分裂、ともに正統性を主張。
  左翼再建段階と称する新型政党結成をFight BackはML放棄と拒否。
  2006年自由の道はFRSO/OSCLとスペイン語併記するようになった。

<左翼シンク・タンク>

ブレヒト・フォーラム HP

社会主義計画Socialist Project.〕
 左翼再建の呼びかけに応えた700の活動家が2000年秋トロントで会合。
 反資本主義、社会主義、国際主義。エコロジー、民主主義、階級政策、反抑圧、(民族)自立、教育された積極主義、建設能力を基本原理
 レオ・パニッチサム・ギンディンヴィヴェク・チッバーマイケル・レボヴィッツデイヴィド・ハーヴェイグレゴリー・アルボ
ハーマン・ローゼンフェルトらが参加。


初期共産党

○共産主義労働党CLP
 1919年の間、アメリカ社会党左派は全国執行委員会NEC多数派形成のため活動していた。
 書記長アドルフ・ジャーマーら全国執行委員会はこれを党内党と批判し追放が行われ、党員選挙結果を無効とし忠誠派による
緊急大会開催を決定した。
 左派は2分裂し、言語連合に支配されたグループは即時アメリカ共産党CPAを結成し、無効とされた書記長アルフレッド・ワーゲンクネヒト
により率いられたグループ(オハイオや米国西部を拠点)は緊急大会で勝利しようとしたが失敗し共産主義労働党を結成した。
 1919年、8−9月シカゴで結成大会が開催されワーゲンクネヒトが書記長に選出された。本部をオハイオのクリーブランドにおいた。
 他にマックス・ベダッハト(サン・フランシスコ)、アレクサンダー・ビラン、ルドヴィッヒ・カターフェルド(クリ−ヴランド)、
ベンジャミン・ギットロー(ニュー・ヨーク)、エドワード・リンドグレン(ブルックリン)など。
 CLPはCPAと統合しようとしたが拒否された。
 CLPは1919年9月コミンテルン加盟を申請した。
 1919年10月党大会では6788名の党員と約1万5千人の機関購読者と発表された。本部がニューヨークに移された。
 1920年1月警察の手入れで地下組織化を余儀なくされた。

○(古)アメリカ共産党CPA
 結成大会はシカゴで1919年9月社会党集会と同時に開催され、137人の代表が参加した。グループは3つの幹部グループ、
ロシア連合グループ(アレクサンダー・ストクリツキー、ニコラス・アワーウィッチ等)、全国左翼評議会グループ(チャールズ・ルセンバーグ、
ルイス・フライナ等)、ミシガン・グループ(デニス・バット等)に分かれた。
 他にジェイ・ラヴストン、アイザック・ファーガソン、アレクサンダー・ビッテルマン(ユダヤ連合)など。
 1920年7月の第2回大会でルイス・シャピロが書記長に選出された。1921年2月第3回特別大会で連合共産党との統一が議論された。
 
○アメリカ連合united共産党UCP
 1920年4月、(古)CPAのチャールズ・ルセンバーグは共産党中央執行書記局を辞任し、ジェイ・ラヴストン、アイザック・ファーガソン
や英語言語支持者サークル(シカゴ周辺)と共に共産主義労働党との統一のため独立グループとなった。
 1920年5月、ルセンバーグのCPA少数派32代表とCLP25代表と1兄弟組織代表が統一会議を開催アメリカ連合共産党を結成した。
 コミンテルン執行委員会からサミュエル・アグルスキーが参加した。
 言語連合制度は排除された。アルフレッド・ワーゲンクネヒト(旧CLP)が書記長となりルセンバーグが機関紙共産主義者編集長となった。
 他にマックス・ベダッハト、ジェームズ・キャノン、ルドヴィッヒ・カターフェルド、エドワード・リンドグレン(以上旧CLP)など。

○(統一unified)アメリカ共産党・第3インター支部
 モスクワのコミンテルンの承認に失敗し、UCPと(古)CPAは統合せざるを得なくなり、1921年5月共同統合大会を開催した。
 これは地下組織であった。
 指導者はチャールズ・ダーバ、ジョン・バラム(以上古CPA)、カターフェルド、ラヴストン、ベダッハト、キャノンなど。
 1922年7月第2回大会を秘密で開催、これには警察のスパイが入り込みそのため介入により途中で終わり多数の逮捕者をだす。
 その救援のためウィリアム・フォスターを全国書記として労働者防衛評議会が結成される。
 この大会で地下共産党の解散について地下組織志向の頑固路線派(ガチョウ派、ギットロー、カッターフェルド、ワーゲンクネヒト等)と
少数派(親合法独立左派、解散派ラヴストン、キャノン、ベダッハト等)に分裂、地下組織の継続と合法組織に集中することが決定。
 1923年4月の地下共産党3回大会でジョン・ペッパー、ルセンバーグが地下共産党の解散提案。
 解散が承認されたが組織防衛のための秘密活動が確立される。カッターフェルドが異論を唱える。

○アメリカ共産党・中央幹部CC−CPA
 (古)CPA一部メンバーの旧UCPへ移行に関連し1921年11月ー12月に中央幹部グループがCPAから別党に分裂した。
 分裂は合法政党アメリカ労働者党への移行決定による。党の地下組織性の維持と言語連合維持を支持。
 東部の言語連合に強固な支持者。95%はリトアニア、ウクライナ、ロシア、ラトヴィア、ポーランド、ユダヤ連合。
 チャールズ・ダーバ、ジョージ・アシュケヌーズ、ジョン・バラムらが指導。
 このグループは1922年2月合法組織としてアメリカ統一労働者Toilersを結成、党員1000名と自認。

 1922年1月アメリカ共産党緊急大会が開催され、これには言語連合、青年共産主義者同盟、プロレタリア党からも代表が
派遣された。党員4400人で95%がリトアニア(1100)・ウクライナ(1000)・ロシア(900)・ラトヴィア(630)・ポーランド(400)・
ユダヤ(150)連合に集中していた。組織の半分はボストン、ニューヨーク、フラデルフィア地区に集中していた。
 合法政党計画が報告されプロレタリア党を合法政党と認める提案は拒否された。
 1922年2月中央幹部グループの共産党と合法政党樹立のための会合が開催されこの会合でアメリカ統一労働者が樹立された。
 1922年9月の大会で中央幹部グループが共産党に合流する。

○アメリカ労働党WPA
 1921年12月、アメリカ労働者党はアメリカ労働連合、その加盟外国語連合、労働者評議会グループ(社会党から分裂)、
ユダヤ人社会主義者連合、労働者教育協会により結成されたが、実際は地下共産党が推進勢力であった。
 雑誌解放者マックス・イーストマンが出席し熱狂的報告を書いている。
 1922年12月第2回全国大会でルセンバーグが執行書記となる。
 1924年1月の第3回全国大会以降、フォスター・キャノン多数派が形成され、ルセンバーグが執行書記に再選。
 ラフォレット運動と別の農民労働党結成を主張するペッパー・ルセンバーグ少数派が形成される。
 連合農民労働党の運動は終焉しフィスターを大統領候補とする。
 地下党解散によりアメリカ労働党が労働党(共産党)となる。
 
 1925年8月、コミンテルン代表セルゲイ・ギュセフの参加によりフォスター・キャノン・ビッテルマン多数派(他にマルティン・アバーン、
アール・ブラウダー等)とペッパー・ルセンバーグ・ラヴストン少数派(他にマックス・ベダッハト)との調整が行われる。
 ルードウィッヒ・ローアを追放、共産党を公式に再建。

○USA共産党
 1927年全国大会で中央執行委員会はペッパー・ラヴストン多数派(他にギットロー、マックス・ベダッハト)とフォスター・ビッテルマン
・ワーゲンクネヒト派、キャノン派、その他反対派より構成される。
 本部がシカゴからニューヨークに移動。
 1928年10月キャノンとその仲間がトロツキストとして追放される。彼らはアメリカ共産主義者同盟を結成し、1928年機関紙
ミリタント発行。
 1929年3月、ギットロー、フォスター、ベダッハトのトロイカ体制。
 1944年5月アール・ブラウダーが共産主義者政治協会代表に選ばれた。
 1945年4月フランス雑誌カイエ・デュ・コミュニズムのジャックデュクロ署名のUS共産党解散についてという文がでる。
 以前の党組織賛成のフォスター派とブラウダーの新路線支持派との間で抗争が起きる。


   ⇒ ヨーロッパの左翼
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