コーカサスの歴史



[4] コルキスの初期王国


(4) アブハジア

(4−1) アブハジア 英語

 アブハジア人はその故郷をアプスニと呼び、言語的には死すべきものの国という意味である。
 恐らく最初に7世紀にアルメニアの文献にプシンとして出現し、多分歴史的アプシラエ人を指した。
 ロシア語のアブハジア(アブハジヤ)はジョージア語のアブハゼティから取られた。
 (*一般的に-iaは−人の土地の意、ジョージア語では−エティ)

 BC9−6世紀の間、現代のアブハジアの地域は古代ジョージアのコルキス王国の一部であった。
 BC6世紀頃、ギリシャ人は黒海沿岸に沿った現在のアブハジア、特にピティウントとディオスクリアス(現在のアブハジアの
首都)に交易植民市を建設した。
 ギリシャの著作家はこの地域に種々の人々が住み、多様な言葉を話していることを記述。
 アッリアノス、大プリニウスとストラボンは黒海東岸の現在のアブハジアのアバスゴイモスチョイについて報告している。
 この王国はBC63年、ラズィカ王国に吸収された。

 ローマ帝国はAD1世紀にラズィカを征服し、4世紀まで支配、その後、ラズィカは独立したがビザンティンの影響下にあった。
 アナコピアが侯国の首都であった。国は主にキリスト教徒で主教座がピティウスにあった。
 住民がキリスト教に転向した正確な時期は不明だが、ピティウスの主教ストラトフィルスは325年のニカエアの第1回公会議に
参加した。
 6世紀中期にビザンティンとササン朝ペルシアはアブハジアの支配権をめぐって、20年間戦った。(ラズィク戦争)
 550年、ラズィク戦争中にアバスギ(アバスゴイ)が東ローマ帝国に反乱し、ササン朝の支援を求めた。
 将軍ベッサスがアバスギの反乱を鎮圧。
 古典資料のアブハジアまたはアバスギアは以前はコルキスの一部で、後は690年代晩期までラズィカの一部で、
ビザンティンのもとの侯国であった。
 マルワン2世によるアラブのアブハジア侵攻は、736年にレオン1世によりラズィカとイベリア人との提携で追い返され、
レオン1世はジョージア公子ミリアンの娘と結婚し、その継承者レオン2世はこの王朝連合により770年代にラズィカを獲得。
 これでおそらくラズィカ(ジョージア資料ではエグリシ)の継承とみなされ、この新政治体は同時期のジョージア人の一部と
アルメニア人によってエグリシと言われた。

 アラブに対する防衛に成功し、新しい領土を加えアブハジア公子はビザンティン帝国に対し更なる独立性を主張した。
 778年頃、レオン2世はハザールの支援で完全独立を勝ち取った。彼はアブハジア人の王と称し首都をクタイシに移動した。
 この西ジョージア王国は850−950年に繁栄し、中央ジョージアのかなりの部分を付け加えた。
 不安定な時期が続き、これでアブハジア国は終焉しバグラト3世により10世紀末と11世紀初めに単一ジョージア君主制として
統一された。
 12世紀にダヴィド4世はシャー・シルヴァンのオタゴをアブハジアのエリスタヴィに任命し、シェルヴァシジェ家(チャチュバ家)が
創建された。
 1240年代に、モンゴルはジョージアを8つの軍事支配区(ドゥマン)に分割し、現在のアブハジア地域はツォトネ・ダディアネ
支配するドゥマンの一部となった。

 16世紀にジョージ王国の分解で、シェルヴァシジェ家が支配するアブハジア侯国(名目的にイメレティ王国に従属)が出現した。
 1570年代以降、オスマン海軍がツフミ要塞を占領し、アブハジアはオスマン帝国とイスラムの影響下に入った。
 オスマン支配下でアブハジア・エリートの多数はイスラムに転向した。
 1773年、ジョージアはロシアとの保護協定を結び、事実上併合された。一方、アブハジアは1801年、ロシアから保護を
求めようとしたが、1810年、ロシアは自治侯国を宣言した。
 1864年にロシアはアブハジアを併合し、抵抗はムスリムのオスマン地域への強制移住で鎮圧された。



  アブハジアの地図


(4−2) アブハジアの歴史 英語

 アブハジアの書かれた歴史はおおむねミレトスのギリシャ人の沿岸コルキスへのBC6−5世紀の到来で始まる。
 彼らは海上貿易植民地を黒海東岸に築き、ディオスクリアスが最も有名な交易中心のひとつであった。
 これは現代のスフミにやがて発展したと考えられる。
 他の有名な植民市にはギエノス、トリグィティス、ガグラそしてピトスンダ(ピティウス)があった。

 この地域の人々はその数と種類で有名である。
 ヘロドトス、ストラボンと大プリニウスはディオスクリアスとその他の都市で話される言葉の多さについて語っている。
 大プリニウスの1世紀のアプシラエとアッリアノスの2世紀のアバスゴイをプロト・アブハズアバザ語話者にそれどれ同定する
学者がいるが、一方でそれらをプロト・カルトヴェリ人とする学者もいる。
 この地域に住む他の住民(ヘニオキサニガエ)の同定と起源もまた論争となっている。
 この地域の住民は海賊、奴隷貿易、身代金のための誘拐に従事した。
 ストラボンはアカエイ、ジギとヘニオキの習慣について地理誌で書いている。

 コルキスの他とともに、アブハジアはBC110−63年の間にポントスのミトリダテス6世に征服され、ついでローマのポンペイウス
によって征服され、AD61年にローマ帝国に編入された。
 ギリシャ移住者は地域の種族による戦争、海賊、攻撃に苦しんだ。ディオスクリアスとピティウスはAD50年に略奪された。
 ローマ帝国の崩壊とともに、この地域の種族はある程度の独立を獲得し、支配者を選び、ローマに確認された。
 AD3世紀にラズィ種族がほとんどのコルキスを支配するようになり、アバスギが密林でビザンティンの権威のもとある程度の独立を
勝ち取った。
 この時期、ビザンティンはセバストポリスをこの地域に築いた。
 この土地はビザンティンにアバスギアとして知られ、宦官の主要な供給先であった。
 550年頃、ユスティニアヌア1世の使節により人々はキリスト教に転向した。

 アバスギは比較的強くなり、アバスギアはミングレリア語とスヴァン語を話す南コーカサス種族を含む種々の民族グループが住む
より大きな領域を意味するようになり、ビザンティンの指名したアナコピアに住むアルコンに従属するようになった。
 アラブが730年代に侵入したが征服できなかった。そのころアブハゼティという言葉がジョージア年代記に出現し、
アブハジアという名を生み出した。
 王朝間の結婚と他のジョージア公子との提携を通してアバスギ王朝はほとんどのラズィカ/エグリシを獲得、
レオン2世(780−828)は780年代アブハジア王を確立した。
 ハザールの助けでレオンはビザンティンを追い出し、王国を拡大し、首都をクタイシに移した。
 ビザンティンの宗教的影響を除去するために王朝は地域教区をムツヘタのジョージア正統教会に従属させた。
 アブハジア王国の最も繁栄した時期は850−950年の間であった。このとき全西ジョージアを支配し、最東のジョージアの州の
支配さえ主張した。
 989年、バグラティ3世は母のグランドゥフトから受け継いでアブハジア王となり、1008年、父からカルトリを継承し、
アブハジアとジョージアの王国を統一した。この国は女王タマルのもとで頂点に達した。
 ジョージア年代記によるとタマル女王がアブハジアの一部の支配をシェルヴァシゼ家(チャチュバ)に与えたという。
 彼らはシルヴァンシャー家から分かれたという。子孫は1860年代のロシア併合まで続いた。

 14世紀にジノヴァがアブハジア海岸線に交易所を確立したが短期間しか機能しなかった。
 この地域はモンゴルとティムールの侵入に生き永らえ、これでジョージアの黄金時代は終わった。
 15世紀末までにジョージア王国は分解し、いくつかの独立あるいは従属国となった。
 1490年のジョージアの分解で、アブハジア侯国は公式的にはイメレティ王国の従属国であった。
 アブハジア公子は名目的従臣ミングレリア(サメブレロ)の有力者と絶え間なく衝突した。

 1570年代、オスマン海軍はアブハジア海岸線のツフミの要塞を占領、トルコの要塞に変えた。
 1555年、アマシアの条約でジョージアと全南コーカサスはオスマン・トルコとサファヴィー朝の間で分割され、アブハジアは
全西ジョージアとともにオスマンの手に留まった。
 この結果、アブハジアはますますトルコとイスラムの影響を受け、徐々に他のジョージアとの文化的、宗教的結びつきを失った。
 しかしイスラム化にあたっては多くの反乱が起こった。(1725、1728、1733、1771、1806年)
 17世紀末までに、アブハジア侯国はいくつかの領地に分解し、多くの地域は集権的権力を失った。
 この地域は広い奴隷貿易と海賊の舞台となった。
 このころ多くのアディゲ氏族がコーカサスから移住し、地域民族要素と混合し、大きく人口構成が変化した。

 ロシアは1800年、東ジョージアを併合し、1803年、ミングレリアを占領した。
 最後の前ロシア期のアブハジア支配者ケレシュ・アフメド・ベイ・シェルヴァシゼはポティとバトゥミを指揮する貴族と親族を支配し、
その艦隊はアナパとバトゥミを航海した。
 彼の1902年のミングレリア侯国侵入は、ミングレリアのロシア保護化に寄与した。
 ケレシュ・ベイは1808年に死亡し、長男のアスラン・ベイが継承。
 弟のセフェル・アリ・ベイはミングレリアに住み、キリスト教徒となり、ミングレリア支配者の妹と結婚。
 ロシア人またはミングレリア人はアスラン・ベイが父を殺したと主張。1810年、ロシアはセフェル・ベイをアブハジア継承公子と認めた。
 ロシア艦隊がスフミを占領し、アスラン・ベイは逃亡。セフェル・ベイは1821年まで支配したが、国の支配に失敗、多くの反乱がおきた。
 始め、ロシアは親トルコ・ムスリム貴族のために領土拡張ができなかったが、一連のオスマン帝国と北コーカサス部族の衝突で、
1829−1842年に徐々に全アブハジアを領有したがその支配が確固となったのは1864年であった。
 ロシアは地域の公子の権威を廃止した。
 重税のため1866年に、更にトルコ軍の上陸で1842年に反乱が起きた。
 これで、この地域の人口構成が大きく変化、多くのムスリム・アブハズ人が1866−1878年にトルコに移住。
 更に1877年にも強制移住させられた。無住となった地域にはアルメニア、ジョージア、ロシア人などが移住した。
 1870年、奴隷を含む農奴がロシアの農奴解放の一環で解放された。しかしこれには問題があった。



 900年頃、盛期のアブハジア王国
*タクヴェリ(レチュフミ、スクムニア)


<参考> アバスゴイ、ヘニオキ、サニガエ、アカエイ

アバスゴイ(アバスギア人、アバスギ)
  西アブハジアに住んだ古代種族の一つで、最初、アプシラエの北の土地、現在のオカムキラに住み、550年、ラズィク戦争の間に、
 アバスギア人が東ローマに反乱し、ササン朝の支援を求めたが、鎮圧された。
  6世紀と7世紀にアバスゴイは北に移住し、グミスタとブジブ川の間の地域を占領、一方、他の種族サニグはその北に住んだ。
  アバスゴイは現代アブハジア人の祖先と考えられ、ジョージア語のアブハズはこれに由来する。
  大プリニウス、ストラボンとアッリアノスが彼らに言及し、6世紀にビザンティン歴史家は彼らは好戦的で木の神を信仰し、
 ユスティニアヌスの宮廷に宦官を供給すると書いた。


ヘニオキサニガエ(サニグ)、アカエイ  参考⇒黒海東岸コルキス付近の古代種族

  ヘニオキはコルキスの北西海岸と、ある人はファシス地域に住んだと言う古代種族。その国はヘニオケイアと呼ばれた。
  アリストテレス、アルテミドルス・エフェシウスオヴィディウス、大プリニウス、アッリアノス、ストラボンなどが言及。
  彼らはディオスクリアスからトラブゾンまでの広い地域に住んでいた。最初の言及はBC8世紀のウラルトゥの楔形文字に遡る。
  BC5世紀から4世紀、AD1世紀まで資料によると、ヘニオフ人は現代ソチからピティウント−ディオスクリアスに住んだ。
  アリストテレスはヘニオキとアカエイを人を殺して食う人々と書いた。
  (露:アブハズ、アバジン、アディゲ人はヘニオキを彼らの祖先のひとつ考える。)

  サニガエ(サニグ)はストラボンが彼らについて、セバストポリス近くに住みソアン(スヴァン人の古代ギリシャ名)と呼ばれると
 書いた。
  大プリニウスは彼らをアプシラエとヘニオキの間に置いた。
  137年にフラヴィウス・アッリアノスは次の様に書いた:アバスギ(アバスゴイ)の次にサニギがセバストポリスの土地に住む。
  彼らについてはザン人(ミングレリア人とラズ人の祖先))あるいはプロト・スヴァンとする学者がいる。
  ジギ種族にも似ているようである。

  アカエイはストラボンがジゴイ(ジギ)、ヘニオキとケルケタエマクロポゴネスとともに言及する古代スキティアの人々。


モスチョイ(モスホイ) ⇒モスホイ



(4−3) アブハジアの歴史 露語

古代
コルキス期
 BC13世紀から現在のアブハジア地域、古代ジョージア国に種族連合コルフが形成された。
 ある資料によるとコルフ人はエジプト人あるいはギリシャ人の子孫。

ギリシャ期
 BC6世紀に、すでに、この地域をギリシャ人が支配し、交易路となり、イオニアの港が分布した。

 既に、BC1千年後半にギリシャ人が北コルキス地域(現在アブハジア)に入り込み、コルフ人と港都市植民地を建設。
(ディオスクリアス−現在のスフミの場所、グエノス−オチャムチラ、ピティウンド−ピツンダなど)
 この土地はローマからヘニオヒアと呼ばれ原住民はヘニオホイと呼ばれた。
 この地域のギリシャ植民地の盛期はヘレニス期のBC3−1世紀。
 BC1世紀初め、都市はポントス王ミトリダテス6世の拠点となった。
 この王のローマとの戦争の敗北で都市は衰退し、周辺地域は荒れた。

ローマ期
 紀元前後にアブハジアの海岸地域はローマ勢力が強化された。ディオスクリアスに要塞が建築され、
セバストポリスと改名(65年)された。
 BC2世紀にローマの駐屯地がピティウント(現在ピツンダ)にあった。
 紀元後の始めにアプシラエアバスゴイサニグの地域独立種族連合が現在のアブハジア地域に形成され始めた(サニギヤ
アバズギヤアプシリアミスミニヤの侯国)。
 最初のアプシラエへの言及は1世紀の大ピリニウスの著作にある。
 アッリアノスはセバストポリスを訪問し、137年にアプシラエについて詳しく報告している。
 アプシラエは1−2世紀にローマと接触し活発に活動、北からファシスからセバストポリスの北西コルキスのかなりの部分を占めた。
 アプシラエの支配者はローマの名ユリアンの王で、これは皇帝トラヤヌス(98−117)から権威を認められた。

ビザンティン期
 4−6世紀にアブハジアはビザンティンの一部となった。
 多くのコルキス人が他のジョージア人と4世紀にキリスト教を受け入れた。
 カエサレアのプロコピウスによると、6世紀前半には2分割され、その各地域はバシレウスが支配した。
 ビザンティンはコルキスに体系的にキリスト教を持ち込み、皇帝ユスティニアノスのもと、ピティウントに最初のキリスト教教会が
築かれた。

 6世紀にササン朝とビザンティンの利害が北東黒海地域で衝突し、イランは北コーカサスの提携者とともにビザンティンを
コルキスから追い出そうとし、この地域が破壊的な遠征の舞台となった。
 ビザンティンは地域政治体と提携し、この地域に防衛要塞網を形成した。
 ビザンティンはコルキスの反イラン感情を支援した。
 この感情をもとに地域種族連合が形成された(ラズ、アバスギ、アプシル、ミスミア、スヴァン)。
 主導的な役割はラズカ王国が果たした。しかし種族連合にも親ビザンティン派と親イラン派が存在。
 親イラン感情はアバスギとミスミアで顕著であった。6世紀前半、アバスギアは2分され、各々の王バシレウスに支配された。
 542年、ペルシャの圧力でビザンティンの駐留軍がセバストポリスとピティウントから撤退。
 ビザンティンは外交手段に訴えた。548年頃、皇帝の使者がキリスト教を公式宗教として導入。
 ビザンティンはアバスギにローマの制度を導入しようとして地域住民の反発を招き、国は再び2分された。
 550―556年にビザンティンはペルシャに頼って反抗するアバスギ、アプシル、ミスミアを鎮圧。
 7世紀に、アバスギ、アプシル、ミスミアはビザンティンに従属。
 7−8世紀初期、アプシル同様に、アバスギアは王を相続する一族がいた。アバスギアの王朝は教会と政治的にビザンティンの王朝と
密接に結びついていた。
 アブハジア王の座という名簿が残り、最初はアノス、以下ゴザル−ユスティニアン−フィリクティオス−カパルキ−ディミトリ1世
−テオドシウス1世−コンスタンティン1−コンスタンティン2−レオン1世、
 レオン以外の継承は息子で、レオンはコンスタンティンの弟。
 コンスタンティン2世はハザール王の娘と結婚し、姉妹は皇帝コンスタンティン5世と結婚。

アラブ期
 7世紀末にアラブは西部南コーカサスに侵攻、アプシリアに到来し、駐留兵を置いた。アバスギアの支配者も親アラブ派立場を取った。
 711年、ビザンチンは親アラブ派の抵抗を鎮圧し、アバスギアと北アプシリアに勢力を回復。
 しかし南部の土地はアラブが支配し、ビザンチンは南アプシリアとミングレリアを取り戻すことはできなかった。
 737年、アラブは南コーカサスに侵攻、カルトリ王ミル(ミフル)とアルチルはアバスギアに逃げ、アナコピアに避難、
そこで決定的闘いが起き、アラブが敗れる。
 この戦いでカリトリ王アルチルとともに勝利を導いた、レオン1世はアバスギア支配者としての地位を確立。
 ビザンティン皇帝はカルトリ王のミルとアルチルに以前のラズィカ王国を渡し、ミルにラズィカ沿岸を渡した。
(*このミフルアルチルはカヘティの王、統治公子とされる。 参照⇒カヘティ・ヘレティ王国
 レオンはアバスギアの相続権を認められた。
 780年にはメングレリアとアプシリア南部が解放されたがこの地域の完全な解放は9世紀中期。
 アブハジアの首都がメングレリアに移された。クタイシが建築された。

アブハジア王国
 6世紀に首都をリフニにアブハジア王国の形成が始まり、レオン1世(7世紀)のもと繁栄し、ビザンチンから完全に独立、
8世紀にはレオン2世のもと、カリフ国から独立。
 アブハジア王国は西ジョージアも含んでいた。
 多民族国家の主要な住民はアブハズ、沿岸はアディゲ、そしてメグレリ人とカルトリ人。
 カリフ国の後、アラブがエグリシとアプシリア南部に住んだ。首都は始めはアナコピアに位置し、806年にクタイシに移動。
 9世紀初めからアブハジア王国は西部南コーカサスの覇権をめぐってタオ・クラルジェティ王国とカヘティ王国と争った。
 アブハジア王ゲオルゲとレオン3世はカヘティの一部とタオ・クラルジェティ北部を征服したが、デメテルのもとで内部抗争で
タオ・クラルジェティを完全に征服できなかった。
 アブハジアを支配するアノシド朝は断絶し、975年、女系でタオ・クラルジェティのバグラティド朝に渡った。
 王国の中心のアブハジアからイメレティへの移動で、ジョージア文化がビザンティン文化に入れ替わり始め、国はジョージア的となった。
 ビザンティンとの交易が栄えた。

 16世紀後半にアブハジアと西ジョージアはオスマン帝国に従属するようになった。オスマン帝国は黒海−スフミ湾、ポティ、
アナパに多くの要塞を築いた。
 その結果多くのアブハジア住民がイスラム教に転向したが、1725、1733、1771、1806年等に抵抗する反乱がおきた。
 18世紀末からアブハズ公子はオスマン圧迫から逃れようとロシアへの保護を探った。
 ケレシュ・ベイは1808年に親トルコ陰謀で殺され、息子のサファル・ベイ(ゲオルギイ2世)はトルコ支持者を抑圧し、
ロシアの保護を求めた。1810年、アブハジア侯国はロシアに併合された。

 ロシア併合までに、アブハジアは北西コーカサスの高地人の自由社会とジョージア封建制の中間状態を占めた。
 しかし、社会構造の精神はウビフ・チェルケス世界とよりより密接に結びついていた。
 住民の2/3は自由社会からなり、農奴は存在しなかった。しかしロシア編入で社会変化が起きた。

 親トルコのアスラン・ベイは支持者とトルコに住み長年、ロシアと戦い続けた。アブハジアの中心権力は弱体化、内紛が起きた。
 ロシア保護下の最初のアブハジア公子サファル・アリ・ベイ(ゲオルギイ2世)はほぼ7年間統治した。
 1812年、トルコとの戦争は終わり、スフミと全アブハジアはロシアに移った。ゲオルギイが名目的支配者で、封建領主間の抗争で国は
引き裂かれ、ロシアも反乱を鎮静できなかった。山岳地帯には自由社会が独立していた。
 1821年のゲオルギイの死で、アスラン・ベイは小アブハジア(サズ)、ウビフ、プスフヴの縁者の支持で反乱、
全アブハジアを奪ったが、ロシアによって鎮圧された。
 ゲオルギイを継いだドミトリ(オマル・ベイ)は翌年毒殺され、1823年、これを継いだミハイル(ハムド・ベイ)も弱体であった。
 1824年、反乱が再発、アブハジア全土に広がり3年続いた。ミハイルは国を去り、1830年ロシア軍と戻った。
 サズやウビフやその他の部族の抵抗が続き、ガグラからアナパの沿岸矩形地域はロシア軍が入り込めなかった。
 ロシアの存在強化でミハイルの権威も強化された。
 しかし1840年には黒海沿岸に強力な反乱が起きた。ウビフ、シャプスグ、サズから始まりアブハジアの山岳自由社会、ツェベルダと
ダルに広がった。これに何度かロシアは懲罰遠征を行った。
 この時期、1834−1859年にシャミルはコーカサス解放運動を行い、成功した。シャミルは西コーカサスを引き込もうと、
サズとウビフに宣伝を始め、指導者と接触した。アブハジアの反乱は長く続いた。
 1853−1856年のクリミア戦争の間に、トルコは英国、フランスサルディニアと提携し、ロシアに対抗した。
 クリミア戦争後、アブハジアへの注意が強化され、東コーカサス征服はシャミルの捕獲で1859年に終了。
 しかし、チェルケス、ウビフとサズは更に5年戦いを継続。高地人は英国、フランス、トルコの支援をあてにしたが、これらは
最早コーカサスに関心がなかった。
 1861年、ウビフの発起でメジュリス(抵抗評議会)が形成された。
 ウビフ、シャプスグ、アバゼヒ、アフチプス、アイブガ、沿岸サズは山岳部族を統一しようとした。
 ポーランド革命家が西コーカサス解放運動に参加。
 最後のロシア軍への抵抗が、西アブハジアのプスフとアイブガの山岳サズによって行われた。
 この鎮圧にはジョージア人民兵が参加。
 1864年、アブハジア侯国が廃止され、スフミ軍区となる。ロシアはコサックの移住を計画。
 ウビフとアブハズ高地人は故郷を去ることを要求され、ウビフとサズはほとんど完全にトルコに追い払われた。
 コーカサス戦争と1866年と1877年の反乱はアブハズに民族危機を引き起こした。住民の半分は故郷を去り、トルコに避難した。


<参考> アノシド朝

 中世王朝のアバスギアの公子でアブハジア王国の王。
 外国の資料では侯国時代はアルコン、プリンケプス、王国時代はバシレウス、ジョージア資料ではメペなどの称号を持った。
 アノスが王朝を創建したと考えられ、623年に皇帝ヘラクレイオスによって侯国位を戴冠した。
 806年に長子系がアブハジア王国を支配、宮廷をクタイシに移動。弟系がアブハジア地域の封建領主となった。
 978年に長子系が断絶、クタイシはバグラティオニ朝が相続、弟系はそのまま存続。
 アブハズ公子アチュバとチュホツア、アバジン公子ライ(ローヴィ、その分枝にはカバルディアの一族も含まれる)、
ジョージアのチュヘイゼなどがその子孫。


(4−4) アブハジア王国

 古典資料のアブハジアまたはアバスギアはビザンティンのもとでの侯国(公国)。首都アナコピア。
 伝承では510年頃のアノスが初代。
 世襲的アルコンで実際はビザンチンの総督であった。主にキリスト教信仰でピティウスはコンスタンティノプル総主教直属の
大主教座であった。
 アラブはジョージア侯(カヘティのミリアンとアルキル)の退位を求め736年、アブハジアに侵攻した。
 赤痢と洪水のおかげでアブハジア公子レオン1世とイベリアとラズィ人の同盟者の抵抗は侵略者を撤退させることができた。
 レオン1世はミリアンの娘と結婚、レオン2世はこの王朝の結びつきを利用し770年代にラズィカを獲得、この新しい体制は
エグリシと称される。レオン2世はハザール・ハーンの血も受け継いでいた。
 アラブへの防衛成功と新領土獲得でアブハジア公子はビザンティンからの独立を主張するようになり、778年頃、ハザールの助けで
レオン2世は完全独立を獲得。彼はアブハジア人の王を称し、首都をクタイシに移動。
 アブハジア王国の最も繁栄した時期は850−950年。
 9世紀に、西ジョージア教会はコンスタンティノプルと絶縁しムツヘタ正統教会の権威を認めた。
 教会の言語はギリシャ語からジョージア語に移り、ビザンチンの影響が減少し、教義の差が減少した。
 ゲオルゲ1世(864−871頃)から、アブハジア王はカルトリ(東ジョージアの一部で中心)を支配し、ジョージアとアルメニアの
バグラティド朝の問題に介入。
 ゲオルゲ1世は男子継承者なしに死亡したが、その兄弟、デメトリウス2世の2人の息子、ティエン(殺された)とバグラト1世
(コンスタンティノプル亡命)がいた。
 シャヴリアニ家のヨアネが王位を簒奪したが2年以内に死亡し、息子のアダルナセが継承(アチャバ朝の中断)したが、
バグラトに殺された。(シャヴリアニ朝、871−893)
 908年頃、コンスタンティヌ3世(894−923頃)は最終的にカルトリの大部分を併合し、王国はアラブ支配トビリシ
近くにまで到達した。
 彼の息子ゲオルゲ2世(923−957頃)のもとでアブハジア王国は勢力の頂点に達した。
 短期間、東ジョージアのカヘティとヘレティがアブハジアの宗主権を認めた。
 しかしゲオルゲの継承者は王国の強さと一体性を維持することができなかった。
 レオン3世(960−969頃)の治世の間に、カヘティとヘレティはアブハジア支配から解放された。
 デメトリウス3世(969−976)のもとで始まった、厳しい内戦と封建的反乱で、テオドシウス3世のもとで王国は完全に
無政府状態となった。
 967年のレオン3世の死でメスヘティ(サムツヘ)、エグリシ(ラズィカ)とカルトリの反乱グループはテオドシウス3世を
競争相手の彼の兄デメトリウス3世に対抗して押したが、デメトリウスが勝利し、テオドシウスは捕らえられ盲目にされた。
 子供のないデメトリウスの975年の死でテオドシウスが王座に就いた。
 当時、南コーカサスの覇権は最終的にタオ・クラルジェティ侯国のバグラティオニ朝に渡った。
 978年、子供のないテオドシウスの甥(妹の息子)のバグラティオニ朝公子バグラト(アブハジア王:2世、ジョージア王:3世)が
養親タオのダヴィド3世の支援でアブハジア王位に就いた。
 1008年、彼の実親グルゲンの死でイベリアの王の王としての地位を継承。

アルコン(アバスギア)
 テオドル(710年代−730)
 コンスタンティネ2世(730−745):テオドルの息子、レオン2世の父
 レオン1世(745−767):テオドルの息子
 レオン2世(767−780)

王(アブハジア)
 レオン2世(780−828) アチュバ(アンチャバゼ)家
 テオドシウス2世
 デメトリウス2世
 ゲオルゲ1世(864−871)
 ヨアネ(簒奪者) シャヴリアニ家
 アダルナセ
 バグラト1世(882−894) アチュバ家
 コンスタンティネ3世
 ゲオルゲ2世
 レオン3世
 デメトリス3世
 テオドシウス3世
 バグラト2世(ジョージアのバグラト3世) バグラティオニ朝


 最盛期のアブハジア王国  *チャネティ(ラズィスタンラズィア) ⇒ラズ人


(4−5) アナコピア(ニュー・アトス

 3世紀に最初に言及され、最大の交易港。
 5世紀にアブハジア人がイヴェリアン山に要塞を建築。7世紀末に要塞の外壁線が建築される。
 8世紀末にレオン2世がビザンティンの混乱を利用して独立宣言、アナコピアがアブハジア王国の首都となり、宮廷がクタイシンに
移動するまで首都となった。
 1027年、ジョージア王ゲオルゲ1世の第2の妻、オセティア公女アルダ(英語版ではアランの公女)が息子のドミトリと
アナコピアに住む。
 1032年、ドミトリがバグラト4世に反乱し、失敗、コンスタンティノプルに逃げる。
 アナコピアはビザンティンに降伏。(1033年、ドミトリがビザンチンに譲渡。1072年、ジョージア人が再奪取。
 ビザンティンのマンジケルトでのセルジュークへの敗北の結果。)
 1045年、アルダがアナコピアからオセティアに逃げる。1046年、バグラト4世がアナコピアを包囲するが撤退。
 1073年、要塞はゲオルゲ2世によって征服される。

 13−16世紀、ジェノヴァ植民地があった。
 17−18世紀、トルコ駐屯地があった。  


<参考> アプシラエ(アプシル)

 アプシラエはアプシリア地域、現代のアブハジア、に住んだ古代種族。
 種族地域はプシルツハとチョホロツクの間、歴史的にはツェベルダとして知られるコーカサス北西の黒海沿岸に位置した。
 これは2つの歴史的地域グマエとアブジュワからなる。首都はセバストポリス。
 アプシラエは古代ジギイ種族の沿岸部分、特にトラヘア、ツィビルとツァハルの子孫である。
 アプシラエという名はアブハズ人の祖先を暗示するかもしれないが、アプシラエがアブハズまたはジョージア人の祖先かは非常に
政治的議論である。
 最初の記録は1世紀の大プリニウスで同様に2世紀のアッリアノスである。(アフィライ)
 アプシリアのユリアノス王のもとに支配と慣習が法典化された。
 皇帝トラヤヌスのもとでローマ帝国の公式地域となった。
 730年に隣の強力な侯国アバスゴイに吸収され、8世紀後半以降、もはやアプシラエの記録はない。
 後にミシミニアを含む人々と地域の併合で、アブハジア王国となった。

アプシリヤ(ツェベルダ)
 アプシリヤはアブハズ人アプシル種族の古代末期と中世初期の政治体。
 1世紀から知られ、730年代に、隣の強国アバズギアに吸収され、ミスミニヤとともに8世紀にアブハジア王国を形成。
 ツェベルダは、少なくともしばらくかなり独立性を維持した。
 首都はセバストポリス。


(4−6) アブハジアの歴史的住民

(4−6−1) アバジン(アバザ)人とアバジニア

アバジン(アバザ)人

 アバジン、アバジニア人またはアバザは北西コーカサスの民族グループでアブハズとシルカシア人と密接に関係。
 アバジンはもともとアブハジアの西部のサゼン地域に住み、アブハジアからアバジニア(大コーカサス山脈の北山腹)へ
14−15世紀に移動。
 18−19世紀に以前のオスマン帝国の種々の地域に移住。
 18世紀末から彼らの主要な信仰はアスンニー・イスラム。
 カラチャイ・チェルケシアのアバザは2つの方言を話す;アシュハルアとタパンタ。
 アバジンの文化と伝統はシルカシア人に似ている。

アバジニア

 アバジニアは大コーカサス山脈の北山麓で今のカラチャイ・チェルケシア共和国の一部でアバジン人の故郷。
 アバジニアはかつてはアブハジア王国の一部。
 アバジンの祖先はサズで、黒海に住み、12−14世紀にウビフの圧迫で山脈に再移住、そこでアバジン人を形成。
 サズは6世紀に種族侯国を形成したが、後にアバスゴイ、アプシラエ、ミシミアノイとアブハジア王国に混じった。
 16−18世紀にアバジニアはカバルダの一部で、しばしばクリミア人(クリミア・ハン国)によって攻撃された。
 19世紀以降、アバジニアはロシア帝国の一部。
 カバルディア人、クリミア人とロシア人の支配で、一部のアバジン人は故郷から移動することを余儀なくされた。

サズ人

 サズ(ジゲト)はアブハジア人の亜族で、彼らは時々、古典著者のサニゴイ種族に由来すると主張される。
 6世紀に部族侯国を形成し、後にアバスゴイ、アプシラエとミシミアノイとアブハジア王国に混じった。
 1864年までサズはガグラ北のコスタ川までの黒海沿岸に住んだ。
 彼らはサジン地域(小アブハジア)を形成し、ツァンバ氏族の主導権のもとカミシュ、アリドバ、アマルシャンとゲチュバの
領土を形成した。
 ウビフ公子、オブラグア、チズマアとジアシュがサズから生じた。
 一部のひとによると12−14世紀にサズの一部はウビフの圧力で大コーカサスの北山腹に移住を余儀なくされた。
 彼らはそこでアバザ人を形成した。これは今のアバザ人のアブハジアからの移住を説明する多くの説一つに過ぎない。
 1864年に終わったコーカサス戦争の後、ほとんどのサズは移住を余儀なくされ、オスマン帝国へ移った。
 アブハジアのサズ、アイブガとアフチプソウ種族はコーカサス戦争でロシア軍と最後まで戦った民族グループであった。


<参考> アバジニア 露語

 アバジニアは今のカラチャイ・チェルケス共和国の北部のアバジンスキー地区である大コーカサス山脈の北丘陵のアバジン人の
歴史的地域。
 現在のアブハジアとクラスノダル地域の南と東部の古代のアバジンとアブハズの地域はアブハジア王国に統一された。
 後にアバジンの一部は現在のスタヴロポル地域の南部に移住した。
 16−18世紀にアバジンの土地はクリミア・トルコ人によって侵攻されカバルディア侯国の一部であった。
 カバルディア人、クリミア人とロシア人支配でアバジン人は強制的に故郷から再移住させられた。

<参考> アバジン人 露語

 アバジン人はアブハズ・アディゲ人グループに属するコーカサスの原住民。
 ヘロドトス(BC5世紀)はポントス沿岸のはてに住む人々の名簿としてコラクス、コルフとともにアバスゴイを挙げている。
 アバジン人の歴史的古代の故郷は現代のアブハジア地域。
 アバジン人は言語的にアブハズ人に近いが、彼らは文化的によりアディゲ人の影響を受けている。
 アバジン人はスンニー・イスラム。

 1世紀の教会伝統では、聖使徒アンドレイは40年にキリスト教教義を山岳民:アラン人、アバズグとジヒに説いた。
 BC2世紀にアバズギヤの国が認められる。8世紀にアバズグ王国あるいはアブハズ王国が認められる
 ある時に、アブハジアに住むアバザは関連するアブハズより多かった。
 農耕地の不足のために、アバザは3波で異なる時期にコーカサス山脈の北斜面に移住。

 ロシア年代記によると、1552年、最初のチェルケス使節がイヴァン雷帝とクリミアのハンに対する軍事・政治的提携を結ぶ交渉のため
到着し、その中にアバジン公子イヴァン・エズボズルコフがいた。
 1762年、イスタンブルのフランス領事は、アバザはチェルケスとジョージアの間に住む人々のひとつであり、いくつかの部族に分かれ、
ベイが支配し、部族間でいつも戦っている。オスマン帝国はベイを指名するが権力はなく、ベイはスフミに住む。
 この地域の権力は黒海沿岸のパシャに属する。しかしアバジンは彼またはトルコ人パシャに従わない。 
 クバンのセラスキル(軍隊司令官)はしばしば彼らを襲撃し、略奪する。
 この国には2つの主要な港スフミとコドシュがある、と書いている。
 19世紀にアバジンはアディゲとアブハジア人とともにロシア・シルカシア戦争にすべての問題、悲惨さを共有した。
 アバジンの一部はコーカサス戦争でロシア側についた。


(4−6−2) アブハズ人(アブハジア人)

 学者には古代ヘニオキ種族(古代にコルキス北西岸に住んだ)がアブハズの先祖と考える人もいる。
 この好戦的人々はディオスクリアスとピティウンタス植民地を通して古代ギリシャ人と接触。
 ローマ期にはアバスゴイがこの地域の住民として言及された。
 これらアバスゴイはプロコピオスによって好戦的で3神を崇拝し、ラズィカ王国の宗主権のもとにあると規定された。
 アブハジア人の見解ではアプシラエとアバスゴイがアブハズ・アディゲ・グループの人々の先祖。
 一方、ジョージア人の見解ではコルキス人(カルトヴェリあるいはジョージア人)。
 アチュバ家が780年代にアブハジア王国を創建したときにアブハジアはジョージア文化世界の一部となった。


<補足> アブハズ人 露語

 現在のアブハジアと西ジョージアは古代には、聖書によるとコルキス(コルヒダ:露語)の名で知られ、多くのアブハズ人(サニギ、
アバズギ、アプシリアとミシミニア)とカルトヴェリ種族(ラズ、アジャリア、メグレル、イメレティ)もまた住んでいた。

 BC5世紀にコルキスは東ジョージアのイベリアと併合。
 しかしすでにBC1世紀にコルキスはローマ帝国に征服され、これでポスト・コルキス国家が解体。
 4世紀にいくつかの国家が勃興:アプシレティ(アプシリア)、ラゼティ、サニゲロ(サニギア)、スヴァネティ(スヴァネティア)、
ミスミネティ(ミシミニア)、アバズゲティ(アブハジア)とエグリシで後にエグリシが他を従属させ、コルキスの土地を統一した。
 イベリアはエグリシを併合しようとしたが、ビザンティンはなんとかこれを跳ね除け、アプシリア、アバズギアとミシミニヤを含む
以前のコルキスのすべての黒海沿岸を影響下に置いた。
 徐々に絶え間のないビザンティンとペルシャの戦争とついでアラブ征服者によって中央コルキスが荒廃化され、一方、北はアプシリア、
サニギヤとミシミニヤをアバズギアが併合し始め、アブハゼティ(アブハジア)が形成され始めた。
 8世紀後半、バシレウスのレオン2世がビザンチンの弱体化を利用し、ハザールの助けで、彼の勢力をコルキスまで拡大。
 レオン2世とその祖先はアブハジアのエリスタヴィ(伯爵に相当)で、アブハジア王の名を称した。首都はクタイシ。
 やがてアブハジアは統一ジョージア王国の一部となった。
 中世ジョージアの崩壊で、アブハジアは再びチャチュバ(シェルヴァシジェ)王朝のもとで独立侯国となった。
 17−18世紀にトルコがこの地域に出現し、ソフムカレ(スフミ)に要塞を構築。
 ロシア・トルコ戦争が始まると、1808年にトルコやロシアに周辺領主が絡んだ内部抗争が起き、1810年にはロシアがスフミを占領。
 アブハジアは親ロシア派と親トルコ派に分かれ対立した。
 コーカシア戦争の間に、半分以上のアブハジア人がトルコと中東に移住。


(4−6−3) アバズギ人:露語 (英語:アバスゴイ

 アバズギは古典晩期と中世初期に、黒海東岸、アプシルの西、サニギアの東のアバズギアに住んだ古代種族。
 2世紀にアバスギアはローマ皇帝に服従した。
 4世紀(6世紀?)にアバズギアは隣の国サニギアを吸収した。ここには類縁のサニギが住み、その結果、サニギは吸収され、
歴史から消えた。
 8世紀に隣の国アプシリアを吸収した。ここには類縁のアプシルが住み、アプシルは恐らくより多く、将来の新しい民族アブハジア人は
アプシルからなった。
 8世紀から、一連の以前の名前はアブハズとアバザに置き換わった。
 13−14世紀頃、この種族の一部はモンゴルに敗れ、アラニア地域に数波で移住した。
 ここでアバジン人という名が最終的に彼らについた。
 アバジン人はアバジン語を保持した。
 アバジン人は完全にアディゲ(チェルケス人)と運命を共有、彼らのロシア・コーカサス戦争の結果、破壊され、追い出された。
 13−14世紀頃、現代アブハジアではアブハズという名は主要な民族グループを指し、内部では種々の亜名が使用された。
 19世紀中期までほとんどの外国資料ではアブハジアはアバザの国、ロシアではアベザの国と呼ばれた。
 アバズギという名はもはやアブハジア人とアブハズ人には使用されない。

<参考> アバズギア 露

 アバズギヤは黒海沿岸のアブハジア地域でほぼ現代ガグラからノヴィ・アフォンまでの地域。
 2世紀にはアバズギアはローマに従属。
 6世紀初めに隣のサニギヤを吸収。4世紀から拡大するアプシルと衝突し、そのため現代スフミ地域に移動。
 後にエグリシ(ラズィカ)の一部となる。イラン・ビザンティン戦争でアバズギアはエグリシを支援。
 550年にビザンティンへの反乱に引き込まれ、その結果、アバズギアは2分割。
 彼らはササン朝の支援でビザンティンに対抗しようとしたが、結局、ビザンティンが支配確保。
 7世紀にアバズギアはエグリシから西のアプシル、サニギとミシミアの土地に渡される。
 アバズギアの首都はアナコピア。


<参考> ミシミニヤ 露

 古代末期と初期中世のミシミアン人政治体で、1世紀から知られ、7−8世紀にはラズィカ王国に従属、730年代に
隣のアバズギア侯国に吸収、これを基礎にアプシリヤサニギヤとともに後にアブハジア王国を形成。
 現代アブハジア地域のコドリ川中流に位置する。


<参考> ミシミアン人 露

 ミシミアン人は現代アブハジアの山岳地帯に住んだ古代アブハズ種族の古代名。
 ミリネのアガティウス(6世紀)によると、彼らはアプシル人の北と少し東に住んだ。
 ガングルのテオドシウス(7世紀)はアプシル人とミシミアン人の国と書いた。
 彼らは少し隣人と異なり、アプシル人はミシミアン人の小区分の一つ。


<参考> ミシミアン人

 古代ジョージアの山岳原住種族でサニグ人とともにジョージア人亜族の現代のスヴァン人の祖先と考えられる。
 アプシラエ種族に接し、アガティアス・スコラティウスによると、両種族ともラズィク王の従臣であった。
 ミシミアン人はラズィク戦争に参加したことが知られている。
 語源学的にミシミアン人という名はスヴァン人の自称ムシュアンに対応する。
 ミシミアン人はコドリ峡谷の一部を占拠し、疑いもなくスヴァン民族で、それ故、スヴァン人はコドリ峡谷に中世期始めから住んでいた。


<参考> サニギヤ 露

 サニギヤは古代末期と初期中世のアブハズ人サニギ種族の政治体。
 1世紀から知られ、6世紀初めに隣の強国アバズギア侯国に吸収された。
 首都はツァンドリプシュ、ツァンバ王朝が支配。


<参考> 北西コーカシア語

 アブハズ・アバザ
  アバザ
  アブハズ
 シルカシア
  アディゲ
  カバルディア
 ウビフ


<参考> アフロ・アブハジア人(アフリカ起源のアブハジア人)

 アブハジアのアフリカ起源の人々の小グループで黒海東岸の主にコドリ川河口のアズュブジャと周辺の村に住んでいる。
 多くの歴史家は移住が19世紀に起こったとする。他の説では17世紀に遡らせる。
 1説にはシェルヴァシ(チャチュバ)公子がミカン農園で働かせるために数百人の奴隷を買って連れてきた。
 これは1回で、黒海沿岸へのアフリカ人の大量輸入の場合としては明らかに完全には成功していない。
 別の説では黒人アブハジア人はコルヒ(コルホス)の子孫であるという。
 (*一部の古代著者によると、コルヒはセソストリス軍の残りでそれ故エジプト起源)
 ドミトリ・グリアはアブハジアの地名とエチオピアの地域名を比較し、名前の類似性を指摘している。
 マクシム・ゴーリキらはアズュブジャの村を訪問し、黒人老人住民と会い、その結果と文献情報からエチオピア起源説を正しいと考えた。


(4−7) スフミ

 BC6世紀にギリシャ人が移住しディオスクリアスと命名。この時期とついでローマ期に都市の多くが黒海に消滅。
 この都市はアブハジア王国の一部となりツフミと名付けられた。
 1570年代、オスマン帝国の一部となり、1810年、ロシア帝国が征服。

 BC2千年と1千年初期に地域のコルキス種族が頻繁に移住し、BC6世紀にミレトス・ギリシャ人植民地ディオスクリアスに
取って代わられた。
 2世紀のポントスのミトリダテス6世の征服まで繁栄した。ローマ皇帝アウグストゥスのもとでセバストポリスとなり、繁栄は
過去のものとなったが都市は130年代まで存在。海が押し寄せ町は水没し始めた。
 542年、ローマはササン朝に占領されるのを防ぐために要塞を破壊した。しかしユスティニアヌス1世が復興し、736年に
アラブに征服されるまでビザンティンのコルキスの拠点となった。
 以降都市はツフミとして知られるようになる。アブハジア王がアラブの荒廃化から復興し、特に12−13世紀のジョージアの
黄金時代に繁栄した。
 ツフミはジェノヴァの交通要所となった。
 ツフミはジョージア王の夏の居住地となった。
 後にツフミはオディシ、ミングレリア(ミングレリア侯国)支配者の首都となった。
 1451年、オスマン海軍が短期間占拠。後にアブハジアとミングレリアの公子が競い、ツフミは最終的に1570年代、
トルコの手に落ちた。
 新しい主人は都市を重要塞化しソフムカレと呼んだ。親ロシア・アブハジア公子の要請で都市はロシア海軍によって1810年、
荒らされ、焼かれた。
 1864年、シェルヴァシジェ(チャチュバ)王朝はロシアによって追い払われ併合された。
 1877−1878年のロシア・トルコ戦争で都市は一時的にオスマン勢力とアブハズ・アディゲ反乱者によって支配された。


参考 ⇒アジャラ


(4−8) ツフミ侯国(サエリスタヴォ) 786−1354

 中世ジョージアの侯国(サエリスタヴォ)でシェルヴァシジェ家が支配、8−14世紀に存在。
 ジョージアの北西部で現代スフミ、アブハジア周辺地域を含む。

 ツフミ侯国は恐らくアブハジアのレオン2世(778−828)の治世に以前のアプシルの土地に形成された。
 アブハジア王国の8つの侯国(アブハジア、ツフミ、ベディア、グリア、ラチャ、タクヴェリ、スヴァネティ、アルグヴィ、クタイシ)の
ひとつとして形成され、ラズィカの上方からアナコピアとアラニア地域を含んだ。
 バグラト城がツフミのエリスタヴィの居住地。
 1033年、バグラト4世の異母兄弟デメトリウスが彼の兄弟を退位させる陰謀を組織したが失敗。
 未亡人女王アルダはビザンティンに逃げ、アナコピアを皇帝ロマノス3世に渡し、ロマノスは息子のデメトリウスにマギストロスの
称号を与えた。
 ジョージア年代記によるとバグラト王は反対派を破り、アナコピアを攻撃して戻り、オタゴ・チャチャスジェをアブハジアの
エリスタヴィにした。
 エリスタヴィのおかげでバグラト4世はアナコピアの要塞を取り戻した。
 12世紀にダヴィド4世はシルヴァンのシャーの息子オタゴをアブハジアの総督に任命、これが後にシェルヴァシジェ家の
創建者となった。
 ツフミはジョージア王の夏営地となった。
 1240年代にモンゴルはジョージアを8軍管区(トゥメン)に分割、当時のアブハジア地域はオディシ(ミングレリア)の
ツォトネ・ダディアニが統治するトゥメンの一部となった。
 カルトリのヴァフシュティ(1696−1757)によるとツフミ侯国は14世紀からオディシの公子による西ジョージアの勢力強化で
衰退し始めた。
 イメレティ王ダヴィド・ナリンの継承の内戦(コンスタンティネとミカエル)でオディシの公子、
ギオルギ1世ダディアニ(1323年死亡)がツフミ侯国のほとんどを征服し、領土をアナコピアまで拡大した。
 一方シェルヴァシジェ家はアブハジアに定着。それからジョージア君主はツフミをダディアニ家の封建領土と認めた。(1325年頃)
 12−13世紀に、ツフミはヨーロッパ海洋勢力の交易の中心となった。
 ジェノヴァ共和国は14世紀初期に短期間ツフミに商館を確立した。(セバストポリス)
 ツフミはオディシ・ミングレリア支配者の首都となり、ヴァメク1世(統治:1384−1396)が貨幣を鋳造した。
 15世紀の文書は明確にツフミをアブハジア侯国と区別した。
 オスマン海軍が1451年にこの年を占領したが短期間であった。
 後にアブハジとミングレリアの公子で争われ、1578年、ツフミは一時オスマンの手に落ちた。


<補足> アチュバ家チャチュバシェルヴァシジェ)家
 チャチュバ家はシルヴァンシャーに由来、その一人(オタゴ)が1120−1123年頃、ジョージア王によってアチュバ家に代わって
ツフミのエリスタヴィに指名された。それまでアチュバ家がアブハジアを支配。
 アチュバ(アンチャバジェ)家は中世初期のアバスギアの支配王朝アノシド朝に由来。
 アバジンのロオ家、アブハズのチュホツア家、ジョージアのチュヘイゼ家がアチュバに由来するという。
 *ジェ=息子


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