コーカサスの歴史
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コーカサス・アルバニアの初期王国
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コーカサス・アルバニア
BC6世紀−AD8世紀 赤点線は387−706年のアルバニアの国境
英語ウィキペディアではコーカサス・アルバニアの存在をBC2世紀−AD8世紀とする。
コーカサス・アルバニアは東コーカサス、現在のアゼルバイジャン共和国と南ダゲスタンの領域にあった古代国家。
アルバニアは古代ギリシャ語に由来。
現代はウディ人ではアグワンクとアルアンク。
BC1−AD1世紀、大コーカサス山脈の南と小コーカサス山脈の北の地域は、東はコーカサス・アルバニア、中央は
コーカサス・イベリア、西はコルキス、南西はアルメニア、南東はアトロパテネ(マンナエ、マティエネ、アゼルバイジャン)に
分かれていた。
252年、コーカサス・アルバニアはササン朝の宗主権を認め、シャープル1世のカバ・イェ・ザルトシュト碑文に出現。
ササン朝没落までその一部であった。
パルティア帝国の興隆でコーカサス・アルバニアの王は3世紀末までにアルケサス朝一族に代わり、5世紀に
ミフラン朝が継承。
アグファンクはアルメニア資料で使用され多義的で、これはクルとアラクセス川の間の領域でアルメニアの一部、しばしば
アルメニア・アグファンクと称される。
アルメニア史家モヴェス・カガンカトヴァツィはアッラーンArranまたはアルハンをアルバニア(アグヴァン)の伝説的創建者の、
またはアランAlan族の名とさえし、これは一説にはノアの息子ヤペテの息子。
この地域のパルティア名はアルドハン、アラブはアル・ラーン、ジョージアはラニ。
イスラム期前のアルバニアはイスラム期後のアッラーンの概念より広かった。
古代コーカサス・アルバニアは大コーカサス山脈の南東部にあり、西はコーカサス・イベリア、北はサルマティア、東はカスピ海、
西はクラ川に沿ってアルメニアのアルツァフとウティクによって境されていた。
境界は不動ではなく時にはクラ川の西を含んだ。
首都は古代にはカバラで5世紀にウティクのパルタヴに移動。
イスラム時代のアルバニアまたはアッラーンは、東は低地、西は山脈の三角地帯で、クラ川とアラス(アラクセス)川の合流点、
ミル平原とムガン平原の一部によって形成される。
アッラーン境界は時代によって変動し、あるときには現在のアゼルバイジャン共和国全域を覆い、あるときには南コーカサスの
一部だけ、またある時にはアッラーンはアルメニアの一部であった。
中世イスラム地誌家がアッラーンについて一般的に記述し、その都市にはバルダ、ベイラガンやガンジャなどが含まれた。
民族集団の形成
始めは
レズギ語(北東コーカサス語)が話されていたと思われる。しかし26もの異なる言葉がアルバニアで話されていた。
4世紀のキリスト教化で、住民の一部はアルメニア人(初期にアルメニア王国から離れたアルツァフとウティク地域を支配)と
ジョージア人(北)に吸収された。
一方、東部はイスラム化されイラン人、ついでトルコ人(現在アゼルバイジャン人)に吸収された。
少数が独立して残って
ウディ人として知られる。
イスラム以前のアルバニア住民は多くの現在民族形成に重要な役割を果たしたと思われ、それにはカバラ、ザカタラ、シャキとオグズの
アゼルバイジャン人、ヴァスプラカンとシャキのアルメニア人、カヘティとヘレティ(インギロイ)のジョージア人、ラク人、
レズギン人とダゲスタンのツァフル人が含まれる。
コーカサス・アルバニア・アルファベット
アルメニアの中世歴史家によるとコーカサス・アルバニアのアルファベットはアルメニアの牧師、メスロブ・マシュトツによって作られた。
これはウディ語を書くのに使用された。
メディアとアケメネス朝時代
BC6世紀以前のアルバニアの歴史は知られていない。
一説に、アルバニアはBC7−6世紀にメディア帝国に併合された。
しかしペルシャのこの地域への影響が強まり、遊牧民の侵入へのペルシャの北方国境の防衛が重要となった。
アケメネス朝はコーカサス回廊の強化を行った。
BC6世紀中までにアルバニアはアケメネス朝に編入された。後にアケメネス朝のメディアのサトラップによって支配された。
ダルバンド(デルベンド)周辺の要塞と門の建設はササン朝とされる。
ヘレニズム時代
ギリシャ史家アッリアノスはガウガメラの戦いで初めてコーカサス・アルバニアに言及、アルバニア人、メディア人、カドゥシ人、
サカ人Sacaeがアケメネス朝メディアのサトラピーのアトロパテス指揮下にあったとする。
アルバニアは歴史で初めてアルメニアのティグラネス大王(BC95−56)の従属国として現れる。
アルバニア王国は東コーカサスでBC2−1世紀に出現しジョージア人とアルメニア人とともに南コーカサスの3民族のひとつを形成。
アルバニアはアルメニアの宗教的・文化的影響を強く受けた。
ヘロドトス、ストラボンや他の古代著者は繰り返しカスピ人に言及する。
彼らは
アマルディ、
アナリアカエ、
カドゥシイ、アルバニ、ヴィティイのようなカスピ海南岸の他の住民と一緒にされ、
彼らの土地(カスピアネ)はアルバニアの一部といわれた。
BC2世紀、アルバニアの一部はアルメニア王国によって多分メディアから征服された。
古年代記によると、アルツァフとウティクを含むこれら地域(アルメニア征服まえのクラ川右岸)にはウティ人(
ウディ)、ミキ人、
カスピ人、
ガルガル人、サカセニ人、ゲリ人、ソディ人、ルペニ人、バラサニ人、パリシ人とパラシ人などがいた。
(*英語では-an、例えばUtian)
参考 ⇒
カドゥシイ、アマルディ
ローマ帝国
ローマ貨幣がAD3世紀末までにコーカサス・アルバニアで流通。
BC69−68年、ルクルスはアルメニア支配者ティグラネス2世を破りコーカサス・アルバニア国境に接近し、ポンペイウスに
引き継がれた。
BC66−65年越冬し、ポンペイウスはイベリア遠征に乗り出した。アルバニア国境に到達し、アラザン川を渡ろうとしたとき、
アルバニア王オロエゼスに攻撃されこれを破った。
ストラボンによるとアルバニア人は26種族グループでクラ川北に住み、各々が王と言葉を持っていた。
BC1世紀以前に一つの国家と王に連合した。
ハドリアヌス皇帝の治世にアルバニアはアラン人に侵入された。これで140年アントニウス・ピウス皇帝のローマとアルバニアの
提携が強化された。ササン朝が240年頃占領、しかし間もなくローマが再支配。
(*252−253年、アルバニアはイベリアと大アルメニアとともにササン朝に征服され、併合。)
297年のニシビス条約でローマはイベリアとアルバニアの保護権を再確立したが5年後、ローマはこの地域を失い、以降ササン朝の
一部となった。(*しかしアルバニアはササン朝の一部のまま。)
パルティア時代
パルティア支配でこの地域のイランの政治的、文化的影響が増大。
国は今や汎アルケサス朝一族の一部であった。(イベリア(189−284)とアルメニア(54−428)とともに)
134−136年、アラン人がアルバニア、メディアとアルメニアを攻撃、カッパドキアまで入り込んだ。
パルティアのヴォロガセス3世が説得して撤退させた。
*
コーカサス・アルバニアのアルサキド王朝(アルケサス朝)
パルティア起源の1−5世紀までコーカサス・アルバニアを支配した王朝。ペルシャのアルサキド王朝の分枝でアルメニアとイベリアの
アルサキド支配者と汎アルサキド一族連合を形成。
アルメニア王ヴォロガセス1世がヴァチャガン1世をアルメニア境界の北東地域の統治者にしたのが始まり。
ヴァチャガン1世→ヴァチェ1世→ウルナイル→ヴァチャガン2世→ミルハヴァン→サトイ→アサイ→アスワゲン→ヴァチェ2世
→ヴァチャガン3世(ササン朝王バラシュが王位に就けた、487−510年)
*
アランシャーヒク
コーカサス・アルバニアの時代不明から6世紀末までの支配王朝。
伝説によるとミフラニド家はアランシャーヒク一族をザルミフル・アランシャーヒクを除き皆殺しにし、ザルミフルはミフラニド家
公女と結婚、
ミフラニド家はガルドマンの公子となり、コーカサス・アルバニアのすべての公子を支配。
サフル・スムバテアン(ハチャン家の先祖、
855年頃生存)はザルミフルの子孫。
公子
アランはコーカサス・アルバニアの半伝説的創建者で、ヤペテの9代の子孫でシアサク(シュニクのシウニド家の祖先)の子孫。
一説にはアランはアブラハムと同時代。
ササン朝時代
252−253年、コーカサス・アルバニアはコーカサス・イベリアと大アルメニアとともにササン朝ペルシャによって征服され、
併合された。
アルバニアはササン帝国の従属国となり、王を維持したが、アルバニア王は実際の権力はなく、市民、信仰そして軍事権威は
ササン朝のマルズバーン(軍事統治者)にあった。
ローマ帝国は300年頃、数年アルバニアを従属国としたが、ササン朝が再び数世紀間、アラブの侵入までこの地域を支配した。
4世紀中にアルバニア王ウルナイルが洗礼を受けたがアルバニアでのキリスト教の広がりは徐々であった。
アルバニア王は依然ササン朝に忠実であった。
387年、アルメニアがビザンティンとペルシャに分割され、アルバニアはササン朝の助けでアルメニアからアルツァフとウティクを
含むクラ川右岸すべてからアラクセス川まで獲得した。
5世紀中期に、ササン朝王
ヤズデゲルド2世がローマ帝国と提携するのを恐れて、帝国のすべてのキリスト教徒のゾロアスター教への
転向を要求した。
これでアルメニアとジョージア人とともにアルバニア人が反乱、アヴァライルの戦いでアルバニア、ジョージアとアルメニア勢力は
ササン朝軍に敗北、多くのアルメニア貴族がアルバニアの山脈地域、特にアルツァフに逃亡し、そこがササン朝ペルシャへの
抵抗の中心となった。
5世紀中に、ペロズ1世の命令で
ヴァチェ2世が始めウティクにペロザバド、後にパルタフとバルダを建設、首都とした。
ここにはマルズバンもいた。552年、アルバニア正統教会の司教座となった。
ヴァチェの死後30年、アルバニアは王がいなかった。
ササン朝王バラシュはヴァチェの兄弟の
ヴァチャガンをアルバニア王にした。
5世紀末までにアルバニアのサルケサス朝が絶え、6世紀にパルティアのミフラニド家が継ぎ。アランシャーを称した。
(*東ローマ皇帝ヘラクレイオスがコーカサス侵攻中にザラズ・グリゴルを王と認めた。)
ミフラニド朝はムスリムの宗主権のもと822年まで生き残った。
6世紀末から7世紀初期にアルバニア地域はササン朝とビザンティンとハザール・ハーン国の間の戦争の場となり、あとの2者は
しばしば提携した。
628年、第3次ペルシア・トルコ戦争の間に、ハザールは西突厥と提携し、アルバニアに侵攻し、指導者のジーベル
(統葉護可汗?)はアルバニア領主を宣言した。ほとんどの南コーカサスはアラブの到来までハザール支配にあった。
アルメニア政治、文化と文明の影響
387年のアルメニアの一部のアルバニアへの併合でアルバニアはアルメニアの影響を大きく受けた。
アルメニアのアルツァフとウティクはアルバニアとともに一つの州、アグファンクAghvank(アランArran)となった。
分割後、コーカシア・アルバニアの首都はクラ川の東岸地域から、以前のアルメニアのウティクに位置するパルタヴに移動。
このあと主教座もパルタヴに移動。
アルバニア王国は4世紀初めにキリスト教に転向。
アルメニアがキリスト教を国家宗教に採用して(301)間もなく、アルバニア王ウルナイルはアルメニア使徒教会座に行き、
最初のアルメニア総主教の啓蒙者聖グレゴリから受洗。
イスラム時代
7世紀中に、ササン朝アルバニアはイスラムに征服され、ラシドゥン・カリフ国に編入された。
アルバニアのジャヴァンシル王(637−680)はアラブのカリフ・ウスマンの侵入に対しササン朝側に立って戦った最も有名な
支配者である。
南からアラブの侵入、北からハザールの攻撃の脅威に直面し、カリフの宗主権を認めざるを得なかった。
アラブはこの地域をアルメニアと再統合し、ひとりの総督のもと支配した。
8世紀までに、アルバニアは地理的そして名目的教会的意味になった。
この地域には多くの侯国(公国)が派生した。
そのようなものとして、アルメニア人の侯国とハチェン(1261−1603)王国と、種々のコーカサス系、イラン系そしてアラブ系侯国、
シャダード(951−1199)、シルヴァン、デルベントなどの侯国が出現した。
この地域のほとんどは、890−929年に、サジド朝に支配された。
この地域は時にはアッバース朝のアルメニア州を構成した。
初期のムスリム王朝には、ラワディド(955−1071)、サジド(889−829)、サラリド(912−1062)、ブワイフ、
シャダード(951−1199)、シルヴァンシャー(861−1538)、そしてシェキとティフリス(トビリシ)のエミール国などがあった。
中世初期のアランの主な都市はバルダとガンジャ。バルダは10世紀に数度、ルスとノース人によって略奪され、生き残れず、
バイラカンが取って代わったが、これは1221年、モンゴルに略奪され、その後、ガンジャが主要都市となった。
アラン地域はセルジューク帝国の一部となり、ついでイルデニズ朝に支配された。短期間ホラズム朝が支配しついで13世紀モンゴルの
フラグ帝国(イルハーン朝)に後にチョバン朝(1335−1357)、ジャライル朝(1335−1432)、ティムール朝、
サファヴィー朝が支配。
*エミラテ(エミール国、首長国)
アラブ王朝あるいはイスラム君主のエミール(アミール)が支配する政治的地域。
*チョバン朝、ジャライル朝は地域王朝、ジャライル朝はチョバン王朝の南でイラクと西ペルシャ支配。
イルデニズ朝(1146−1225)も地域王朝。
*シャダード朝
クルド起源のムスリム王朝で、951−1199年にアルメニアとアッラーン(コーカサス・アルバニアのアラブ名)の種々の部分を支配。
しばしばアルメニアのバグラティ家と通婚。ドヴィンからバルダ、ガンジャと支配拡大。
セルジュークへの奉仕により、一族はアニとトビリシを与えられた。1047−1057年にビザンチンと戦う。
初期にはダイラムのサラリド朝の圧迫を受ける。
アルサキド朝王
ヴァチャガン1世勇敢王:初代アルサキド朝コーカサス・アルバニア王、アルメニア王ボロガセス1世がアルメニア国境の北東地域
総督に指名。恐らくパルティア王ヴォロガセス6世の息子。
ヴァチェ1世:よくはわからず。
ウルナイル:シリアに行ってキリスト教を受け入れ、314年頃、
啓蒙者グレゴリから洗礼。キリスト教を国教とする。
(
サネサン):マスクト王、アルサキド朝の一員とされ、337年、フンとアランなどとアルメニアに侵攻し占領、しかしその後、
アルメニア人将軍ヴァチェ・マミコニアンに敗れ殺された。
ヴァチャガン2世:
ミルハヴァン
サトイ
アサイ
アスワゲン:424−444年、ササン朝のヤズゲルド2世の姉妹と結婚。
ヴァチェ2世:ヤズゲルド2世の甥。444−463年。彼の退位後、30年間、王不在。
ヴァチェガン3世:ヴァチェ2世の兄弟。
<補足>
コーカサス・アルバニア(アルバン)人(アグヴァン)
コーカサス・アルバン人(アグヴァン)はナフ・ダゲスタン語族のレズギン語分枝を話す種族で、古代コーカサス・アルバニア王国の
住民。
単一のアルバニア民族は存在しない。
最初にアルバニア人が言及されたのはBC4世紀に遡り、ギリシャ史家アッリアノスはBC331年のガウガメラの戦いで彼らが
ペルシャ側に参加したとする。
ストラボンによると1世紀に約26種族が王国に統一し、カバラを首都とした。
BC65年、アルバニア人はポンペイウスを攻撃しようとして敗れた。アルバンの最初の古代の描写はこの遠征と結びついている。
古代の著者はいくつかのアルバニア語話者種族を記録している。
アルバン、ゲル、レギ、ウティイ、ガルガル、チルブ、シルヴ、ルピンなどである。アルバンが種族連合の主導種族であった。
370年、アルバニア王ウルナイルがアルメニアで受洗。
387年、ペルシャを支援し、以前の大アルメニアのアルツァフとウティクを獲得。
5世紀の第一4半期にアルバニア・アルファベットがアルメニアのメスロプ・マシュトツによって作られる。
449−451年にアルメニアとアルメニア公子ヴァルダン・マミコニアンのもとの反ペルシャ反乱に参加。
461年、アルバニア王国は破壊され、ペルシャの州となるがヴァチャガン3世のもと復活するも、510年、再び解体。
6世紀末にイラン起源のミフラニド朝のヴァラズ・グリゴルによって回復されるが、705年、最終的に破壊される。
*スペイン語では8世紀からアランシャーと
ハチャンの侯国とシルヴァンとデルベントの侯国として存在とする。
古代と中世にコーカサス・アルバニア人はナゴルノ・カラバフのアルメニア人、アゼルバイジャン、ジョージアのカヘティといくつかの
ダゲスタン人、特に
ラク、
レズギン、
ツァフルと
ルトゥルの民族形成に加わった。
(3)
コーカサス・アルバニア 露語
ロシア語ではコーカサス・アルバニア(王国)をBC1世紀から461年とする。
自称は不明で、ギリシャ語:アルバニア、アルメニア語:アルアンク、アグヴァンク、中世ペルシャ語:アッラン
コーカサス・アルバニアはBC2世紀末からBC1世紀中期に南コーカサス東部に出現した古代国家で、現在のアゼルバイジャン、
ジョージアとダゲスタンの一部を占めた。
BC1世紀に、集権化したアルバニア王国が出現。
299年に、おそらくペルシャに従属。
最初、クラ川左岸だけを占めた。387年のササン朝とローマ帝国の最初のアルメニア分割で、アルツァフとウティクを移され
領域が拡大。
以降、アルバニアという名はクラから南に広がった。
461年、アルバニア王国の独立が廃止され、8世紀初めまで、ササン朝のマルズパンが支配する州となった。
カバラが6世紀までと、パルタヴが首都であった。
少なくとも13世紀まで、コーカサス・アルバニアが占めた地域はペルシャ名アッラーンで知られた。
住民
コーカサス・アルバニアの住民、アルバニア人は始めは26種族の連合で、これらはナフ・ダゲスタン語族のレズギン分枝を
話した。
これらはアルバン人、ガルガル人(
ルトゥル人)、ウティイ(
ウディ)、タヴァスパル人(タバサラン人)、ゲレ人(
アグル人)、
チルビ、レギ(レズギン人)、シルヴ、ルピンを含んだ。
種族連合の多くの種族はイベリアからカスピ海、コーカサス山脈からクラ川までの地域に住んだが、アルバニア語話者種族の
居住地は南へ、アラクセス川まで広がった。
アルバニア語種族のガルガル、ゲル、レギ、チルビ、シルヴ、ルピン、ツォドゥは大コーカサス山脈麓と現代ダゲスタンの
南に住んだ。
少し後に、東コーカサスに
カスピ人が入り込んだが、これはコーカサスの他の種族とかなり異なっていた。
ウティはカスピ海沿岸とウティク地域に住んだ。
これらのなかで最も重要なのはガルガル人で、ストラボンはガルガル人とアマゾネスについて詳しく書いている。
クラ川の南にはサカセナ地域にサカセナ(スキタイ)の種族が住んでいた。
後に、この地域の住民はこれらイラン語話者遊牧民の子孫であった。
住民の同化
歴史の間じゅう、単一の一体化したアルバニア民族は存在しなかった。
すでに9−10世紀に、アルバニアまたはアルバニア人はむしろ歴史的となった。
アルメニア語とその文化がアルバニアで広く受け入れられた。
クラ川右岸のアルバニア多言語住民の大部分は中世初期にキリスト教を採用し、アルメニア人となった。
クラ川の左岸はだんだんペルシャ化した。これは主にアッラーンの都市とシルヴァンに言える。
一方、地方の住民は長く古語を維持し、これは現代ダゲスタン、第一にレズギン・グループに近い。
東低地のアルバン人はまずペルシャによってイラン化し、ついでアラブによってイスラムに転向し、それからトルコ化し、
アゼルバイジャン民族のコーカサス部分に加わった。
アッラーンの山麓部は大いにトルコ遊牧民が住み、徐々に古代名アッラーンはカラバフに取って代わられた。
カラバフの山岳地域は強くトルコ化に抵抗しアルメニア人化したキリスト教徒の避難地域となった。
中世初期からアルバニア・ジョージア国境地帯にある地域にはカルトリ化した地域があった。
それで西アルバニア種族はジョージア化し、歴史的地域ヘレティの住民の基礎を形成した。
南のカスピ海沿岸地域、特にカスピアナには種々のイラン語話者種族が住み、その子孫は現代
タリシュの一部を形成した。
多くの学者によればアルバニア国は9世紀に存在しなくなったとされる。
古代地域
コーカサス・アルバニアの古い部分はアラザニ合流点の南、クラ峡谷の北部にあった。
BC1千年に、古代アルバニア首都カバラクを含む初期都市共同体が形成され始めた。
住民は多民族でナフ・ダゲスタン語話者が基礎となった。
BC2世紀末から1世紀中期に、集権化したアルバニア王国が出現し始め、ロリとアラザニ川中流からアフス、大コーカサスから
カスピのクラ川左岸を占領した。
多くの著者によると、大アルメニアとアルバニアの東国境は、アルタシェス1世がメディア・アトロパテネからクラ・アラク合流点を
征服したBC2世紀初めに、クラ川に沿って確立され、BC2世紀からAD387年までの大アルメニア存続全期にそのままであった。
恐らく299年以降、アルバニアはペルシャに従属し、387年の大アルメニアのローマとペルシャ分割後、アルメニア東部
(アルツァフとウティク)はアルバニアに移され、アルバニアは462年からマルズパン制となった。
古代史
アルバニアは、最初アレクサンダー大王の時に、アッリアノスが言及、彼によると、アルバニア人は、BC331年のガウガメラの
戦いで、ペルシャのメディアのサトラプのアトロパテネ軍でペルシャ側で戦った。
アルバニアが真に古代世界と出会ったのは、BC66年のポンペイウスのミトリダテス4世の追跡の遠征で、ポンペイウスは
アルメニアを通過してコーカサスに向かい、年末にアルメニアとアルバニア国境のクラ川に分隊を冬営させた。
この時、アルバニア王オロズはクラ川を渡り、不意に陣営を攻撃し追い返された。翌夏、ポンペイウスはアルバニアを攻撃し
軍を破った。
BC2世紀末から1世紀中期に、アルバニアは部族連合から王を持つ初期階級国家に発展。
アルバニアの6世紀までの主要都市はカバラ。この都市は16世紀まで続き、サファヴィー朝によって破壊された。
オクタヴィアヌス・アウグストゥスの碑文で、イベリア、メディア・アトロパテネとアルバニ王との提携関係(しばしば従属)に言及。
BC1世紀に、ローマ分隊がしばしばアルバニアに存在し(アラン人からのダリアル峡谷防衛)、90年代にも存在する。
116年に、トラヤヌスは短期間、アルメニアをローマ属州にし、この影響をアルバニアは受けた。
3世紀のペルシャのアルメニア侵攻で、多くのアルメニア人がアルバニアに避難し、これがアルバニアの社会・経済発展に
寄与した。
アルバニアの王朝
最初の知られる王朝は、アランシャーヒクの称号を帯び地域的起源であった。
アルサキド王朝(1−6世紀)がこれにとって代わり、これはパルティアのアルサキド朝の分枝で隣のアルメニアとイベリアの
アルサキド朝と汎アルシャク(アルサキド)連合を形成した。
王朝で最初に知られるのは
ヴァチャガン1世勇敢王で、彼は歴史的地域マスクト出身で、マスクト(マサゲタイ)の指導者の
子孫で、1世紀にコーカサス・アルバニアの権力を得た。アルバニアの王の勢力は隣のアルメニアより長く続いた。
ササン朝
ウルナイルの時代に、キリスト教を受け入れ、彼はアルメニアで受洗したとされる。
彼はペルシャの提携者として忠実で、その結果、アルメニアのペルシャとローマの分割で(387年)、アルツァフ、ウティクと
シャカセン(サカセナ)を得た。次の世紀にウティクに王
ヴァチェ2世(443−463)がパルタヴを建設しやがて首都となる。
アルバニアはササン朝の政治的、宗教的圧迫を受け始め、特に
ヴァチェ2世はゾロアスター教に転向させられたが、すぐに
キリスト教に戻った。
その結果、450年、アルバニアはペルシャ・アルメニアのスパラペトの
ヴァルダン・マミコニアンの反ペルシャ反乱に
加わわった。
反乱は最終的に
アヴァライルの戦い(451年)で敗れ、457年に、ヴァチェは再び反乱。
461年に、アルバニア王国の独立は廃止され、アルバニアはササン朝の
マルズパン州(462−703)となった。
3つの南コーカシア地域の人々の反乱が再度起き、これはイベリア王
ヴァフタング1世とアルメニア・スペラパトの
ヴァハン・マミコニアンに率いられ、アルバニアに宮廷権威を回復させた。
ヴァチャガン3世(485−510頃)のもとで、キリスト教化がすすめられ文化的上昇を体験した。
彼の死後、アルバニア王権は除かれマルズパンと代えられた。
しかし、ペルシャのアルシャク朝の地方分枝由来の小公子が存在し続けた。
一方、デルベント回廊からの遊牧民による北からの侵攻が激しくなった。
552年、サヴィルとハザールが南コーカサス東部に侵攻。
ペルシャのホスロー(531−579)はデルベント地域に大要塞建築に乗り出した。
562−567年に、カスピ海とコーカサス山脈の間の狭い回廊を阻止するためにデルベント要塞が築かれたが、侵攻阻止には
十分ではなかった。
626年に、トルコ・ハザール軍隊がデルベントを占領し、アルバニアを再び荒らした。
ミフラン朝、アラブとアルバニアのイスラム化
7世紀後半に、ササン朝からのアルバニアの独立が一時回復され、630年以降、
ミフラン朝が支配した。
これはササン朝由来であったが急速にアルメニア化した。
アルバニアの宗主権獲得をめぐるアルメニア化したアルバニア人とアルメニア封建貴族の戦いでアルツァフを支配した
エランシャーヒク一族のほとんどの消滅の結果、ミフラン家は権力を握った。
ヴァラズ・グリゴルと息子の
ジェヴァンシル(637−680)は半独立支配者となった。
ジェヴァンシル(ジャヴァンシル)はペルシャと戦ったがアラブ侵攻阻止のためササン朝勢力に加わりざるを得なかった。
この時代、メスロプ・マシュトツによってアルバニア文字が考案されたが、教会言語のアルメニア語に徐々に置き換わった。
ジェヴァンシルの下で、新しい文化的発展があった。
7−8世紀に、ハザールとアラブがこの地域の支配をめぐって戦った。
654年に、カリフ国軍隊がアルバニアを通り、デルベントを進み、ハザールの領土ベレンジェルを攻撃したが、戦いは
アラブの敗北で、ハザールはアルバニアに貢納を課し、何度か襲撃した。
数十年に渡り、ジェヴァンシルは征服者に抵抗を試み、ハザールとビザンティンと提携したが、667年、南のアラブと
北のハザールの2重の脅威に直面し、カリフ国の従臣となることを認め、これが国の歴史で、イスラム化の転機となった。
8世紀に、ほとんどのコーカサス・アルバニアの住民はカリフ国によってムスリムにされた。
705年、ミフラン朝の権威はアラブによって完全に廃止された。
ウマイヤ朝の確立で、アラブは南コーカサスの拠点を確保、8世紀の始めから一連のアラブ・ハザール戦争が始まった。
716−718年に、アラブがコンスタンティノプルを攻撃した時に、ハザールは南コーカサス東部に侵攻、アラブ軍の一部を
追い払った。
ハザールはイラン・アゼルバイジャンのアルダビルに到達し、一部の部隊はモスル近くに達した。
737年、アラブ司令官マルワン2世は大軍でベルベントとダリアルから同時にハザリアに侵攻し、首都セマンデルを占領。
これでハザールの定期的侵攻は終わった。
*
アルバニア・マルズパン制
462−703年のササン朝の州、首都はパルタヴ。アルツァフとウティク地域のアルバニア・マルズパンへの加入後、ほとんどの
アルメニア人と一部のアルバニア人、ウティ人はアルツァフとウティクに、ほとんどのアルバニア人と部分的にアルメニア人は
クラ左岸に住んだ。
387年以前のアルバニア(濃緑)と以降のアルバニア(薄緑)
<補足>
ミフラニド(ミフラン)家
コーカサスのいくつかの地域を支配したイラン人一族。
王朝はミフランというササン朝の遠い縁者がウティクのガルドマン地域に移住して創建。
恐らくイランの7大一族のひとつのミフラン家の分枝で他の系列はイベリア(コスロイド朝)とゴガレネ/グガル(大アルメニアの
地域)を支配。
ミフランの曽孫(ヴァルダン)が以前の支配王朝エランサーヒクの一員をほとんど殺して権力を握った。
ザルミフル・エランシャーヒクだけが残った。
(*
モヴェス・カガンカトヴァツィの
アルバニア国の歴史によるが矛盾がある)
7世紀で、一族で最も有名なのは
ヴァラズ・グリゴル、息子の
ジャヴァンシルとヴァラズ・ティリダテス1世。
ミフラン家はペルシャの称号アランシャーを称した。822年にヴァラズ・ティリダテス2世が暗殺されて一族終焉。
やがてアランシャーヒクの子孫の
サフル・スムバテアンがアランシャーを称してかなりのコーカサス・アルバニアを支配。
ペロズ(330−361):ゴガレネとガルドマンを支配。イベリアのミリアン3世の義理の息子。キリスト教に転向。
彼の死後、息子たちが別々にゴガレネとガルドマンを支配。
ヴァラズ・グリゴル(628−636):ビザンチン皇帝ヘラクレイオスがコーカサス侵攻時にアルバニア王と認める。以前は
ガルドマンの公子。
彼は総主教ヴィロによってゾロアスター教からキリスト教に転向。
(*ロシア語では
ホスロー2世によって認められた。)
ジャヴァンシル(637−680):アラブのペルシャ侵攻時、ペルシャ側で戦う。
636年、
カル・カディシヤの戦いでアルメニアのムシェグ3世マミコニアンとシュニクのグリゴルとともにペルシャ側で
アラブと戦い、敗れる。
その後、ビザンティンと提携し、パトリキオスの称号を与えられ、東の王と認められた。
その後、イベリアのアダルナセ1世とアルバニアのササン朝駐留兵を攻撃。後に領土をデルベントからアラス川まで広げる。
南からのアラブの脅威と北からのハザールの攻撃に直面し、カリフの宗主権を認める。
680年、敵対する貴族によって暗殺される。
ヴァラズ・ティリダテス1世(680−705): 彼の死後、王国は廃止されガルドマン(ウティク州の8つの県のひとつ)の
領主となる。
(4)
サトラピ・アルバニア
252−253年、コーカサス・アルバニアはコーカサス・イベリアと大アルメニアとともに、ササン朝により征服され、併合された。
アルバニアは君主制を維持したが、王は実質権力がなく、公共、信仰、軍事権力は地域のササン朝マルズバンにあった。
297年、ニシビシの条約でローマはイベリアの保護権を再確立したが、アルバニアはササン朝に統合されたままであった。
4世紀中期、アルバニア王ウルナイルはアルメニアで洗礼を受けたがアルバニアでのキリスト教普及はゆっくりであり、
アルバニア王は依然ササン朝に忠実であった。
387年のアルメニアのビザンチンとペルシャへの分割で、アルバニアはササン朝の支援で、アルメニアからアルツァフと
ウティクを含む、クラ川右岸からアラクセス川までを獲得した。
ササン朝王ヤズデゲルド2世はキリスト教徒がローマと提携することを恐れて、帝国のすべてのキリスト教徒がマズダク教に
転向することを要求する勅令をだした。これでアルバニア人がアルメニア人とイベリア人とともに反乱。
しかしヤズデゲルド2世の縁者、アルバニア王ヴァチェ(ヴァチェ2世)はササン朝の公式的信仰に転向したが、すぐに
キリスト教に戻った。
5世紀中期にペルシャ王ペロズ1世の命令で、ヴァチェはウティクに都市ペロザバード後のパルタウとバルダを建築し、アルバニアの
首都とした。
マルズバンとアルバニア主教座もまた移動した。
ヴァチェの死後、アルバニアは13年、王がいなかった。ササン朝バラシュはヤズデゲルドの息子で先王ヴァチェの兄弟のヴァチェガン
(ヴァチャガン3世)を王とした。
5世紀末までに、以前の王家はパルティアのミフラン家(パルティアのミフラン家)の王子に代えられ、これはササン朝の子孫を
主張した。
彼らはペルシャ語のアランシャー(Arranのシャー、Arranはアルバニアのペルシャ名)の称号を帯びた。
ミフラン家はムスリム宗主権で821年まで生き延びた。
6世紀晩期から7世紀初期にアルバニアはササン朝とビザンチンとハザールの戦場となった。
第3次ペルシャ・トルコ戦争の間、ハザールがアルバニアに侵攻、その指導者ジーベルはアルバニアの領主を宣言し、税を課した。
アルバニア王は地域権力への貢納で支配を確保した。アルバニアは後にイスラムのペルシャ征服の間に、アラブによって征服された。
ササン朝のコーカサス・アルバニア
ホスロー2世期のササン朝の最盛期
*参考 ⇒
東コーカサスの歴史
*参考 ⇒
ハザール
<補足>
第3次ペルシャ・トルコ戦争(627−629)
第3次ペルシャ・トルコ戦争はササン朝帝国と西トルコ可汗国(西突厥)との3度目で最後の衝突。
以前の2回と異なり、中央アジアでなく、南コーカサスで戦われた。
戦争は627年に西トルコ可汗国の可汗トング・ヤブグ(ジーベル?)と東ローマ帝国の皇帝ヘラクレイオスにより始まった。
彼らに対抗したのはアヴァールと提携したササン朝ペルシャ。
ササン朝ペルシャとアヴァールによるコンスタンティノプル攻撃(626)のあと、ヘラクレイオスは政治的孤立していた。
彼はキリスト教アルメニア人の支配者を当てにできなかった。彼らは正教会によって異端派として焼き印を押されていて、
イベリア王は宗教的に寛容なペルシャ人の味方になることを好んだ。
このような背景で皇帝はトング・ヤブグに自然な提携を見出した。
568年初期に、ペルシャとの関係が商業問題で悪化した時、イスタミ下のトルコはビザンティンへ転じた。
627年初期、ギョクトルコとそのハザール提携者はデルベントに接近。
彼の軍隊はデルベントを荒らし、アグヴァニア(現代アゼルバイジャン)を略奪した。
トルコ・ビザンティンの攻撃の次の目標はイベリア王国で、その支配者ステパノフはホスロー2世に服従していた。
ハザールはトビリシを包囲しこれにヘラクレイオスが強力な軍隊で参加。
ヘラクレイオスとトング・ヤブグはナリカラ(トビリシを見下ろす要塞)の壁の下で会った。
627年12月、ヘラクレイオスはティグリスの岸に現れ、ニネヴェの廃墟近くでペルシャ軍を破った(ニネヴェの戦い)。
翌1月ペルシャ首都クテシフォン近くを破壊した。
ヘラクレイオスの勝利の後、トング・ヤブグはトビリシ包囲を再開し、都市を荒らした。
630年、トルコのボリ・シャドは南コーカサス支配を拡大することを決心し、チョルパン・タルハンを送りアルメニアに
侵攻させた。
チョルパン・タルハンはシャフルバラズの派兵した1万ペルシャ軍を待ち伏せし、絶滅させた。
トルコはササン朝の反撃の前に、都市を略奪し、草原へ撤退した。
*ジーベル
ジーベルはビザンティンの資料でハザールのハーンとして627−628年のササン朝に対し、コーカサスで皇帝ヘラクレオスと
遠征したと言及され、多くの学者が中国資料の西突厥の統葉護可汗(トン・ヤブク・カガン)と同一視するが、一方で、
これを否定する学者も多い。
トン・ヤブク・カガンの叔父のシピ可汗と同一視すべきという考えもある。彼はトン・ヤブク・カガンを暗殺し、一時、王位に就いた。
<補足>
ポンペイウスのコーカサス遠征と
アントニウスのコーカサス遠征
ポンペイウスのイベリアとコルキス遠征は、BC65年に
第3次ミトリダテス戦争(BC75−63)の過程でコルキスに逃げ込んだ
ミトリダテス追跡のため行われた。
アントニウスのコーカサス遠征はシリアにたびたび侵攻するパルティアへの遠征の前段階として行われた。
BC36年頃、ペルシャ遠征のため、ローマ・エジプト連合軍はアルメニアに侵攻、ついでイベリア、アルバニアを征服。
アルメニアとコーカサスを確保してからアントニウスはアトロパテネに入った。
BC36年8月中までパルティア領深く進軍、撤退の途中で悲惨な目にあった。
(5)
コーカサス・アルバニアでのローマの影響
ローマ帝国はコーカサス・アルバニアは従属国としてだけ支配し、同時期の隣のアルメニアにしたように決して完全に編入しなかった。
この影響はまずBC1世紀に始まり、250年頃まで続いた。
しかし299年頃、アルバニアは再び短期間、皇帝ディオクレティアヌスのもと、従属国であった。
後に、影響は東ローマ帝国から、皇帝ヘラクリウスが627年に第3次ペルシャ・トルコ戦争でギョクトルコの支援で
コーカサス・アルバニアを支配できたときに、来た。
従属国
コーカサス・アルバニアと古代ローマには長い関係があった。
ちょうどアルメニアとイベリアを服従させ、コルキスを征服したローマ・将軍ポンペイウスはBC65年、その軍隊の指揮者として
コーカサス・アルバニアに入った。
彼はアルバニア王オロエゼスの軍と衝突しこれを破った。
ポンペイウスはアナトリアに戻る前にアルバニア人の支配を確保し、ほとんどカスピ海に達した。
しかし、アルバニア人は、パルティア帝国に影響去るすぐにローマに反乱、BC36年にマルクス・アントニウスは反乱平定のために
部隊を送らざるを得なかった。
その時のアルバニア王ゾベルは降伏し、少なくとも名目上はローマ保護国となり、隷従状態が始まり、これはほとんど3世紀続いた。
35年にイベリア王パラスマネスとその兄弟ミトリダテスはローマの支援でアルメニアでパルティアと対決した。
アルバニア人は有効な提携者で、パルティア人を破り、一時的に追い出した。
67年に皇帝ネロはコーカサス遠征を準備、アラン人を破り、全黒海北岸を征服しようとしたが、彼の死で、中止となった。
ヴェスパシアヌスはコーカサスをカスピ海までローマの完全権威回復、強化を決心した。
彼は恐らくラソと呼ばれるローマ都市を築いた。これは最近、ガンジャ内に再発見された。
ローマの影響の拡大にもかかわらず、アルバニアは決してペルシャとの商的業、民族的、文化的接触を止めなかったが、114年に
トラヤヌスがコーカシア・アルバニアへのローマ支配を上層階級の完全なローマ化でほとんど完成した。
ハドリアヌスの治世にアルバニアはアラン人によって侵攻された。
この侵攻はローマとアルバニアじんとの提携を促進し、140年にアントニウス・ピウスのもとで強化された。
ササン朝がこの地域を240年頃、占領したが、数年後、ローマがコーカサス・アルバニアの支配を再確保。
297年、ニシビス条約でコーカサス・イベリアとコーカサス・アルバニアのローマ保護国化を再確立。
しかし、50年後、ローマはこの地域を失い、以降、2世紀以上、ササン朝の一部となった。
6世紀末にアルバニア地域は再びササン朝ペルシャとビザンティンの戦争の舞台となった。
第3次ペルシャ・トルコ戦争(627−629)の間に、ハザール(ギョクトルコ)がアルバニアに侵攻、その指導者ジーベルが
ローマのヘラクリウス支配下で、627年にアルバニアの領主を宣言、承認とクラとアラクセス川の漁師に課税し、これは
ペルシャ王国の土地調査と一致した。
アルバニア王は地域勢力に貢納して支配を再確保した。
コーカサス・アルバニアは後に643年にムスリムのペルシャ征服の間に、アラブによって征服された。
ローマ遺産
モヴェス・カガンカトヴァツィによると、キリスト教はコーカサス・アルバニアに早くも1世紀に、丁度、ローマがアルバニアに
最初の支配をした時に入り始めた。
この地域の最初のキリスト教会はエデサのタッデウスの弟子、聖エリセウスによってギスという場所に築かれ、現代の
キシュ教会と信じられている。
アルメニアが301年にキリスト教を国家宗教に採用してから、コーカサス・アルバニア王ウルナイルはアルメニア使徒教会司教座に
行き、最初のアルメニアの総主教聖グレゴリ啓蒙者から洗礼を受けた。
キリスト教はヴァチャガン・ピオウス(統治487−510)のもとで5世紀末に黄金時代に達し、彼はビザンティン祭司の影響で
コーカサス・アルバニアの偶像崇拝に対し遠征に乗り出し、ペルシャのゾロアスター教徒を失望させた。
7世紀のムスリム侵攻後、始めのキリスト教徒は今のアゼルバイジャンからほとんど消え去った。
しかし、使徒エリセウスによってシェキに築かれたキシュ教会はカラバフのガンザサル、タルグマンチャツとアマラス修道院とともに
比較的良い形で今に残っている。
アラブ征服でコーカサス・アルバニア教会は激しく解体した。8世紀から多くの地域住民は大量イスラム化を経験した。
しかし、11世紀までにパルタヴ、カバラとシャキにconciliarモスクがすでにあった。
これらの都市はコーカサス・アルバニア・キリスト教信条であった。
イスラム化したグループは、後にレズギン人とツァフル人として知られるかまたはトルコ人とイラン住民と混合し、現在アゼリ人を
形成し、一方、キリスト教徒のままであったものは徐々にアルメニア人に吸収されるかウディ人として存在し続けた。
実際唯一の残存コーカサス・アルバニア人はウディ人で彼らはキリスト教信仰を維持している。
ロシアが現在のアゼルバイジャンを占領した時に、キシュの村にはウディ人がいた。
参考 ⇒
アゼルバイジャンの歴史