コーカサスの歴史



[6] コーカサス・アルバニアの初期王国

(1) 東コーカサスの古種族、古国家

(1−1) カスピ(カスピオニ)人

 カスピ人(ギリシャ:カスピオニ、アラム:クスピ、ラテン:カスピ)はカスピアネとして知られるカスピ海の南と南西沿岸に沿って住んだ古代の人々。
 ダリウスのアケメネス朝サトラピとしてヘロドトスがカスピオイとして2度言及。
 (*5世紀にヘロドトスがアケメネス朝に従属し、サカの隣に住むと言及。)
 通常、原インド・ヨーロッパ人と見なされる。カッシートと同一視する学者もいる。
 BC5世紀に、ペルシャのエジプト支配期にカスピ人連隊がエレファンティネに駐留したことがパピルスで証明される。
 アラム語でクスピと呼ばれ、ホラズム、バクトリアとその他のイラン人と一緒であった。
 メラのデ・シトゥ・オルビスではカスピアニ、大プリニウスの博物誌ではカスピニ、ウァレリウス・フラックスのアルゴナウティカではカスピアダエと
呼ばれ、最後の作品ではコルキスのペルセス王の提携者でスキタイ人の中に出現。彼らは墓に連れていく戦闘犬を持っていたといわれる。

 カスピアネはBC3−2世紀にメディアの州(アケメネス朝)。
 BC2世紀にアルメニア人が征服し、ついで5世紀にササン朝ペルシャに従属するコーカシア・アルバニアに移った。
 後に独立国となった。2世紀にパイタカラン(アルメニア王国最東州)として知られるようになり、387年以降、バラサカン(ササン朝サトラピ)
の一部となった。
 エズラ記のカシフィアをカスピアネとする学者もいる。


 BC5−4世紀のコーカサス 黒海東岸の橙色部はギリシャ植民市、矢印は移住民の方向


  BC2−1世紀のコーカサス

 サン(サンニ):ストラボンらが言及した古代民族。
 サカセナ:BC7−6世紀にスキタイ王国イシュクザが存在。
 ゴガレナ(グガルク)、オテナ(ウティク)、オルヒステナ(アルツァフ):シグリアナ(パルシャハイク):古代アルメニア王国の地域。
 ゲル(ギラン):イラン領
 アディアベナ(アディアベネ):アッシリアの古代王国、1世紀にユダヤ教を信仰する王国があった。

参考 ⇒サスペル

(1−2) イシュクザ

 BC7−6世紀に、西アジアにスキタイの政治体、イシュクザあるいはスキタイ王国が形成された。
 中心は南コーカサスにあった。
 南東はメディア、南はマンナエ王国、西はウラルトゥ王国に境していたがアッシリアとは境することはなかった。
 中心のメディア名はサカセナ(現在のガンジャ地域)

 スキタイはギリシャ人が北黒海地域と北コーカサスに住むイラン語を話す特徴的文化を持つすべての遊牧民に与えた名前。
 これはいかなるこれら種族の自称でもなく、対照的に小アジアに侵攻した種族に対してはスキト(スクバ)が自称である。
 彼らによってスキタイ(ギリシャ語:スクタイ)が知られるようになった。
 アッシリア文献でのアシュグザイ、イシュグザイがスキタイと関係づけられて議論されている。

 スキタイはキンメリアを追ってコーカサスに入った。
 一部、南コーカサス東部に居住し、半遊牧国家、イシュクザを形成した。
 スキタイはメディア人の隣に住んだ。
 エサルハドン治世の資料によるとアッシリアの東境界の状況は緊迫していた。
 BC674年、アッシリアは征服したメディア領域での抵抗に直面していた。
 年末にスキタイがアッシリア軍を攻撃し、更に複雑になった。
 BC672−669年の戦争の間、スキタイはキンメリア、マンナエと提携しアッシリアを攻撃。
 同年、スキタイは中央メディアに出現。
 これらは次第に反アッシリア連合となり、メディアとその提携者はアッシリアに反乱。
 スキタイはマンナエとメディアと提携し、アッシリアに対抗。
 この時期のスキタイの指導者はイシュパカ。
 マンナエはスキタイと多くの国境のアッシリア要塞を占領。
 アッシリアは彼らの提携を破るためにスキタイとメディア指導者カシュタリティと交渉。
 この戦いの間にイシュパカが死亡。
 多分これはBC673年でこれによりメディアの反乱は弱体化。イシュパカをバルタトゥアが継承。
 アッシリアの資料は彼をイシュクザ国の王と呼び、スキタイ人あるいはスキタイ指導者とは呼ばなかった。
 これは彼の地位が種族指導者から王に変わったことを暗示させる。
 パルタトゥアは提案に応じ交渉を始めエサルハドンの娘を要求。結果は不明である。
 これらの結果、スキタイ王国は政治的に強化された。
 スキタイのアッシリア政策の変更の結果、メディアは意気消失し、彼らはいくばくかの領土をメディアに獲得し、他のすべての領域は
アッシリアから離れ、独立メディア王国が形成された。
 BC660年、アッシリアはマンナエを攻撃。
 同時期、スキタイ王マディウスはキンメリアと戦うために小アジアに出現し、ギリシャに知られるようになる。
 これらの出来事のあと、13年間、スキタイ情報は消える。
 スキタイの再出現はBC7世紀の最後の4半期のバビロンに遡る。
 メディア中心の連合がナボポラサルに反乱。BC623年、キュアクサレスのメディアはニネヴェを攻撃、アッシリアは破壊の
瀬戸際にあったが、スキタイが介入。マディウスのスキタイはメディアを攻撃し破った。
 スキタイは更にメソポタミア、シリア、パレスティナに移動しエジプト国境に達した。プサムティク1世は貢納で侵攻を免れた。
 BC614年、メディア軍はアッシリアに進軍、途中スキタイと出会い、メディア王はマディウスを説得し反アッシリア連合を形成し、
バビロニア人、メディアとスキタイはニネヴェを攻撃し、3か月後、BC612年、ニネヴェは落城。
 メディアは帰国したが、スキタイとバビロニア人はアッシリア征服を続行し、BC604年、パレスティナとエジプトまで行き、
ファラオのネコは、BC600年、なんとか侵攻を止めることができた。
 BC607末から607年8月にナボポラサルとネブカドネザルのバビロン軍とその提携者スキタイとメディアはアッシリアの提携者、
ウラルトゥとマンナエを粉砕、これらの国はスキタイの従臣となる。
 BC6世紀初めにスキタイはウラルトゥの政治的中心のテイシェバイニを破壊。
 バビロニア、マンナエ、メディア、アッシリア、小アジアも略奪された。
 BC595年、メディア王キュアクサレスはスキタイ王を宴会に招待し、殺した。
 スキタイの西アジアでの覇権は終わった。
 マッサゲタイが女王トミリスの時代にイシュクザの領域を占領。
 マッサゲタイはアルメニア資料ではマスクト



 アッシリア期のコーカサスのスキタイ


(1−3) サカセナ

 サカセナ(ペルシャ語:サカ・サヤナ<サカ人の居住地域>)は現代アゼルバイジャンの歴史的地域。
 以前のBC7−6世紀のスキタイ人のイシュクザ王国の中心。
 スキタイ部族(東方伝統のサカ)からその名を得ている。この部族は後にコーカシア・アルバニア部族連合の一部となった。
 BC6世紀末から5世紀初めにアケメネス朝のメディアのサトラピの一部。
 BC2世紀初めに大アルメニアに併合され、ウティクの一部となった。
 387年の大アルメニア分割でペルシャ従属のコーカサス・アルバニアに移った。
 現代ガンジャ地域のクラ川中流の南に位置した。

 アッシリア資料でのイラン語話者スキタイへの最初の言及のひとつはエサルハドン(BC680−669)の治世。
 この時期、スキタイはアッシリアに対して、マンナエの提携者として行動した。
 スキタイはBC7世紀じゅう、積極的に西アジアの政治に関係した。
 BC612年に、バビロニアとメディアとともにアッシリアの第2首都、ニネヴェの包囲、占領に参加。
 BC6世紀末から5世紀初めはスキタイ人居住地域はメディア・サトラピの一部でその住民はメディア人、パリカニヤ人と
オルトコリバンティ人。(ヘロドトスが尖った帽子として言及するスキタイの1部族)
 オルトコリバンティは古代ペルシャ語の尖った帽子の訳。
 スキタイはウラルトゥとマンナエ同様にメディアに従属。
 ダリウス1世の治世にこの地域はペルシャ北西地域を覆うサトラピの一部。
 ガウガメラでのマケドニアとの戦いでサカはアルバン人とともにペルシャ軍に参加。これはアッリアノスが言及。
 ストラボンの報告により、サカセン同様にスキタイ王国は正確に限定され、現在ガンジャ地域のクラ川中流の南。
 BC2世紀にアルメニア王アルタシェス1世が多くの隣接地域を併合、これにはクラ川右岸も含み、そこにはアルバン人、ウティ人と
サカ人が住んでいた。サカセナは大アルメニアのウティクの地域となった。
 387年の大アルメニア分割でペルシャに従属するコーカシア・アルバニアに移った。
 サカセナはクラウディオス・プトレマイオス(AD1世紀)によって言及された。
 明らかにこの地域の住民はこれらイラン語話者遊牧民の子孫であった。
 スキタイ部族の子孫はクラ川岸に沿う肥沃な峡谷、右岸のサカセナ地域、左岸のコーカサス山麓、シェキ地域に住み、そして
アルバニア人連合を形成した種族のひとつであった。
 サカセナは大アルメニアの存在中その一部であった。
 4世紀末に、ササン朝の支援でコーカサス・アルバニア王ウルナイルがアルメニアからウティク地域を(ハルハル、ガルドマン、
シャカシェン、コルトとアルツァフとともに))占領したが、数年後にムシェグ・マミコニアン率いるアルメニアが再占領。
 これも長くなく、シャカシェン、アルツァフ、ウティクとパイタカラン地域は4世紀末にアルバニアに再統合された。
 7世紀中期に、アラブがアルバニア地域と東コーカサスに侵攻し、パイタカラン、バルダ、シルヴァン、デルベント、シャカシェン、
カバラとシャブランを占領、その後、アッラーンはイベリア、アルメニアとともにアラブ総督(オスティカン)が統治するアラブ・カリフ国の
1地域となった。


(1−4) シャキまたはシェキ

シャキ(シェキ)

 シャキは大コーカサス山脈の南部の北アゼルバイジャンにある。

 サカはBC7世紀にデルベント回廊を通って黒海の北側から南コーカサスとそこから小アジアへとさまよったイラン系人であった。
 彼らはサカセナと呼ばれる南コーカサスの非常に肥沃な土地を占領した。
 シャキの都市はサカによって占拠された地域のひとつであった。
 最初の移住は青銅器時代に遡る。
 シャキは1世紀のアルバニア国の最大都市のひとつであった。古代アルバニアの主要な神殿が位置した。
 シャキ王国は11の統治地域に分割された。アラブ侵攻以前はシャキは重要な政治、経済都市のひとつであった。
 しかし、侵攻の結果、シャキは第3エミール国(?アルミニヤTにみえるが)に併合された。
 アラブ・カリフ国が弱体化したときに独立ジョージア侯国、ヘレティが創建された。
 この都市はモンゴル侵攻以前は、アルメニア人のスムバテアン(9世紀)、ジョージア王国、アゼルバイジャンのアタベグ国
(イルデギズ朝)とホラズム帝国によっても支配された。

 9世紀の変わり目頃にシャキは(西の)カムビセナと広い地域を形成し、バグラト朝の従臣アルメニア人のスムバテアンが支配。
 822−823年にスムバテアンはアッラーンに勢力を拡大。
 14世紀前半のフラグ・ハーン(イルハン国)の支配の崩壊後、シャキはシディ・アフメド・オルラトの支配のもと独立を獲得した。
 1500年代初期、サファヴィー朝王イスマイル1世(1501−1524)がこの地域を征服、しかし都市はサファヴィー朝の宗主権のもと
世襲の支配者によって統治され続けた。
 イスマイルの息子で継承者のシャー・タフマスプ(1524−1576)はこれを終わらせ、1551年、彼はキジルバシュ(シーア派軍人)
をこの都市の支配者に任命。
 サファヴィー支配は2度、短期間1578年と1603年と1724−1735年、オスマン・トルコによって中断。
 ナーデル・シャーの治世に、1743年、シャキ・ハン国が形成された。これはコーカサス・ハン諸国で最も強固な封建国家の
ひとつであった。
 キシュ川の洪水の結果、シャキの都市は部分的に廃墟となり十問は現在の都市に移住。
 この地域は1813年のグリスタン条約で完全にロシアに併合され、1819年、シャキ・ハン国は廃止され、シャキ州がその場所に
確立された。


シェキ

 シェキはBC8世紀に創建され、始めはサカセナと呼ばれ、これはイランのサカ種族の名と結びついている。
 後に名はシャカシェン、シャカ、シャキ、シェキと変化。
 3−5世紀にシェキはアルバニアの領域であった。
 4世紀にアルバニア人はアルメニアからキリスト教を採用、これでシェキにはアルメニアの宗教的および文化的影響が強くなった。
 654年にアラブによって占領され破壊された。のちにシェキはアラブとハザールの150年戦争の場となった。
 8世紀末、シェキの支配者はアルメニアからの移住者で、その子孫は19世紀にアッラーンに影響を拡大しようとした。
 9世紀の転機にシェキ地域は西のカムビセナ地域とアルメニア王国の従臣のスムバトのアルメニア人侯国の一部となった。
 シェキの最初のアルメニア人公子はサフル・スムバテアン。
 9世紀にシェキ支配者のスムバティアン一族はその影響をアランまで拡大しようとした。
 ミフラン一族の子孫グリゴル・アマムハチャン公子)の死後、侯国は息子たちに分割された。
 シェキ・カムベチャン地域は息子のアトルネルセフ・イブン・ハマムに渡り、彼は10世紀中期まで支配。
 彼はアラブ資料で言及されている。イシュハニクもアラブ資料で言及されている。
 9−10世紀のアラブはこの地域をシェキときにはウティを意味するウドとして言及。
 950−1050年にカヘティ支配者の勢力がシェキに拡大。
 1038−1105年、シェキを含むカヘティ・ヘレティがアルメニア王朝のキウキリド家によって形成された。
 1117年、都市はジョージア王ダヴィド4世によって占領された。
 13世紀中期はイランと近隣諸国はタブリズを中心に形成されたイルハン国の影響を受けた。
 ポスト・モンゴル期には、14世紀末からシェキ国(遅くとも1384−1551)が言及される。
 シェキの支配者はトルコ・モンゴル系のオルラト部族のシディ・アフメド・オルラト。
 シディ・アフメドはティムールの南コーカサス遠征に対し抵抗し、殺された(1399年)。
 その息子セイイド・アフメドはシルヴァンシャーのイブラヒム1世の仲介でティムールから支配を認められた。
 1402年、シェキの軍がティムールのオスマンのバヤジド1世に対する遠征に参加。
 1444年、シェキの権力はアルメニア起源のムスリム朝カラ・ケシシュ・オグリ朝に移行。
 カラ・ケシシュ・オグリ朝(1444−1551)のもとでシェキは絹を産出し繁栄。
 サファヴィー朝でかなり独立を維持しながら従属。
 15世紀にカバラクはシルヴァンシャー領であった。シェキの支配者は西隣のケヘティのジョージア王と提携したが、やがて敵対、
互いに攻撃しあった。
 1551年、タフマスプに攻撃され、敗れ、シェキの支配者デルヴィシュ・モハンメド・ハンは殺され、シェキはサファヴィー朝に含まれた。
 以降シェキはシャーがキジルバシュ族のエミールから指名したハキムが支配。
 1743−1819年にシェキはシェキ・ハン国(ハジ・チェレビ・ハン創建)の首都。
 1743年、ハジ・チェレビがナーデル・シャーのシェキ総督を殺してシェキ・ハンを自称。
 1744年、ナーデルシャーがシェキを攻撃したが要塞攻略に失敗し撤退。
 チャラビ朝がロシア併合まで支配。






(1−5) マスクト人 

 現代アゼルバイジャンの北東とダゲスタンの南のマスクト地域に住んだイラン系言語話者。
 名前は、1世紀にこの地域に住んだマッサゲタイの変種。(すでにヘロドトスと大プリニウスが言及)
 古代のアラン人と密接に関係していると考える学者がいる、一方、マルケリヌスカッシウスの証言からアラン種族連合の一部とする
ひともいる。
 マスクトまたはアマゾネス(マッサゲタイ)がこの地域で、マッサゲタイの女王トミリスの時代から知られているとする学者もいる。
 彼らがスキタイ種族に属することを認める学者、古代の著者もいる。(マルケリヌスはアラン人、コーカサス・アルバニア人、マスクト、
マッサゲタイに違いを見ない。)
 初期に、この地域にイシュクザの南コーカサス・スキタイ王国が知られている。
 多くの歴史家がマスクトをモシニク、マクロン、モスヒ(ギリシャ文献言及のモスホイ)と同様にムシュク(聖書のメシェクと同一視される)と
結び付ける。(*メシェクと結びつけられるのはカッパドキア人のモソケニ(ムシュキ)、コーカシアのメスヘティ)

 マスクト地域はカスピ海に沿ってクラ川河口からサムル川まで、ある時期にはデルベント(チョーラ)まで広がった。
 チョーラはマスクト王の首都らしい。
 西はコーカサス・アルバニアの隣、南はクラのかなたパイタカラン(アルメニア)、北西はダゲスタン山岳地帯で、ルプニア地域の隣。
 マスクトのほかにチョーラ地域には、アルバニア人、シルヴ、レギ、ヘチュミタキ(またはハチュマタキ、キリスト教に転向したマスクト)、
フンとハザールが住んだ。

 マスクトの、歴史への最初の出現は、BC4世紀に遡り、アルメニアの資料では、この事実は矛盾している。
 クラの後ろに住んだマスクト王サネサンについて語られ、一方でサナトルク(338年生存)が語られる。
 サナトルクはアルメニア王ティリダテス3世の縁者であった。彼はパイタカランのアルメニア地域の総督に指名された。
 330年代中期、アルメニアの啓蒙者グレゴリの曽孫15才のグリゴリスがサナトルクのもとに説教のため送られ、最初は成功したが、
ティリダテスの死後、グレゴリは処刑された。
 シャープル2世にそそのかされ、彼はコーカサスの種族とアルメニアを攻撃した。
 ホスロフ3世はダリュニク要塞に逃げ、首都バガルシャパトはマスクトに占領され、彼らは1年近く、アルメニアに留まった。
 最終的に、ヴァチェ・マニコミアンがマスクトを破り、彼はサナトルクの首をホスロフ王に届けた。
 371年、マスクトはアルバニア王ウルナイルと、今度もシャープル2世にそそのかされアルメニアを攻撃したがムシェグ・マミコニアンに
敗北した。
 457年、ペルシャに対するアルバニア王ヴァチェ2世の反乱とマスクトは提携しチョーラ(デルベント)を攻撃。
 488年以降アルバニア王ヴァチャガン3世のもと、この地域はアルバニアに復帰。
 510年、この地域は再びペルシャ支配となり、マルズバンの支配する州となった。
 ホスロー1世のときに都市が再建され、デルベントと改名。
 628−630年、マスクトはハザールの侵攻で生き残り、ヴァラズ・グリゴルとその息子のジャヴァンシルの支配するアルバニア国に
入った。
 ジャヴァンシルはアルバニア、ルピニ、チョーラの王と称した。
 692年、アラブが侵攻、730年代に征服し、イスラム化。
 イスラム時代、マスクトはマスカト、後にムスクルとして知られる。
 最後のマスクト言及は、11−13世紀。






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