コーカサスの歴史



[14] ウラルトゥとアルメニア

(3) アルメニアの歴史概要

(3−1) アルメニアの歴史概要 露語

青銅器時代のアルメニア高地、アルメニア民族の前史
 青銅時代にアルメニア高地に住んでいたルウィ、フリ、ウラルトゥとムシュキ種族の混合をもとにBC13−6世紀に
アルメニア人は形成された。
 BC6世紀末に、この地域はメディアによって征服され、BC550年、アケメネス帝国に併合され、その文化伝統と
ゾロアスター教が広まった。

ルウィ種族(BC25世紀−9世紀)
 ルウィ種族はヒッタイトと関係している。彼らはインド・ヨーロッパ語を話し、BC25世紀からアルメニア高地の西領域に
住んでいた。
 BC13世紀からルウィ種族はアルメニア高地に住む他の種族と混じり始め、BC8−7世紀に完全に単一アルメニア人に
溶け込んだ。

ウラルトゥ種族(BC8世紀−6世紀)
 ウラルトゥ(ヴァン)種族はアルメニア高地の中央、南と東地域に住んだ。
 彼らはウラルトゥ国の住民でBC13世紀から種族連合として、BC8世紀から国として知られ、BC6世紀まで存在。
 アルメニア民族形成期にウラルトゥ人は古アルメニア語に転換し、アルメニア民族の一部となり、その主要な
形成要素となった。

フリ種族(BC18世紀−5世紀)
 フリ種族はBC3千年後半に北メソポタミアに出現し、不明の言語グループに属した。
 シリアとメソポタミアではセム族と混じって住んだ。
 BC16−13世紀にフリ人は北メソポタミアとアルメニア・タウルスにミタンニ国を作り、ヒッタイト王国に強い
影響を与えた。
 BC13世紀に、アルメニア高地のハヤサの国を征服した。
 BC1千年にアルメニア高地の西、南と東周辺に沿った引き裂かれた地域に住んだ。
 アルメニア民族形成期にアルメニア語に転換し、この民族の一部となった。

ムシュキ種族(BC世紀13−7世紀)
 BC13世紀にムシュキ民族がヨーロッパからアナトリアに侵入し、アルメニア高地の西地域とキリキアに居住した。
 彼らはインド・ヨーロッパ語を話した。多くの現代著者によるとムシュキの言葉はアルメニア語の基礎である。
 BC13世紀−6世紀に、ムシュキはアルメニア民族形成に加わった。
 この時期、アルメニア高地に住んでいたすべての民族が統一アルメニア人に加わり、これらはインド・ヨーロッパ語と
関係したムシュキ語を基礎とした言語を話した。

ハヤサ種族(BC23世紀−13世紀)
 ハヤサ種族は少なくともBC23世紀からアルメニア高地の西と北地域に住んだ。
 BC16世紀−13世紀に、ヒッタイト楔形文字の記録は首都ケマフ(現代トルコのエルジンジャン近く)とするハヤサ国に言及。
 ハヤサは1千の正規兵を有し、当時は目立つ軍事力であった。BC13世紀にハヤサは小さな侯国に分裂し、フリ種族に
征服された。

アルメニア人の形成
 アルメニア人の形成に関し2説がある。
 ・ブリゲス説:アルメニア人はBC13世紀と6世紀の間にアルメニア高地地域で形成された。
  原住プロト・アルメニア語話者、ブリゲス(フリギア人またはムシュキ)は、ウラルトゥ国形成前に、BC13世紀にバルカンから
 アルメニア高地に移住し、メリテナとして知られる地域に住んだ。プロト・アルメニア住民は少数で民族的にアルメニア高地に住む
 ウラルトゥ人、ヒッタイト、ルウィ人に溶け込んだ。一方、彼らの言語の基礎を維持しながら他の言語からの借用層を含んだ。
  少数インド・ヨーロッパ人の民族的溶け込みを基礎に原アルメニア語維持者がウラルトゥ人、フリ人、ルウィ人とともに
 現代アルメニア人を形成した。
 ・ハヤサ説:アルメニア人の形成はBC16−13世紀に間にハヤサ国の地域で起きた。彼らはBC2千年にヒッタイト王国と戦った。

(*ブリゲス(ブルゴイ)は古代バルカン人で、通常、古代古典時代に西アナトリアに住んだフリギア人と関係すると考えられる。
 初期のブリゲスへの言及はヘロドトスで、彼はフリギア人と関係づけ、マケドニア人によると、ブリゲスはアナトリアに移住してから、
名前をフリギア人と変えたという。この動きはBC1200からBC800年の間に起き、恐らく、青銅期崩壊、特にヒッタイト帝国の
崩壊とそれによって起きた権力真空による。)

 アルメニア人の政治体(国家体)の歴史は約2500年で、ウラルトゥとアッシリアの崩壊期より更に遡る。
 その始めはアルメ・シュブリヤ(BC12世紀)であり得、これはBC7−6世紀の転機にはスキタイ・アルメニア連合(イシュクザ
となった。
 BC8−7世紀に存在した最初のアルメニア人王国は現代のマラティア、タバルとメリド(メリテネ)に位置したと考えられる。
 これはBC5世紀末にアルメニアのサトラピの首都で、BC6世紀には伝説的ティグラネス1世の首都であった。
 アルメニア高地地域のフリ人、ウラルトゥ人またはルウィ人国家と同様にBC12−9世紀のアルズィのムシュキ王国は
アルメニア国家体の核であったと考えられる。

*参照 イシュクザ⇒(1) 東コーカサスの古種族、古国家

 アルメの国はムシュキ王国、イスワ、シュプリア、アルズィ(アルシェ)、プルルムツィとその他の多くの国を含む地域連合
によって率いられた。
 連合はなんとか小国とアルメニア高地を1政治単位に結び付けた。
 アルメの国が率いる連合はウラルトゥの弱体期にその政治的遺産を握った。
 アルメとムシュキの2つの民族の合同は非常に重要で、これでウラルトゥ・フリ基盤の言語が始めてウラルトゥの南の地域連合に
形成され、これは将来のアルメニア語であった。

アルマヌム(BC23世紀−16世紀、アルミ
 アルマヌムはアッカドとエブラ楔形文字で言及される国。エブラ楔形文字によればアルマヌムは現在のウルファ(エデッサ)地域に
位置する。
 エブラ資料ではアルミはアルメニア高地かその非常に近くの都市に現れる。

アルマタナ(BC18世紀−16世紀)
 アルマタナは古代ルウィ・フリ国連合(王国)。アルマタナはBC18−16世紀にアルメニア高地の西部に位置し、西はメリドと
テガラマ(トガルマ)、南西はキズワトナに境した。
 アルマタナの後継はアルメニア高地南西に位置するアルメ・シュブリの王国とアルメニア高地の北西に位置するハヤス・アズィ王国。
 このようにして将来のアルメニア人の核が山岳地帯(サスン山脈)に形成された。
 ヒッタイト王トゥドハリア3世はアルマタナ国に戦争をしかけ失敗した。アルマタナはミタンニと提携。

アルメ
 BC15−11世紀にアルメニア高地の南西部にあった古代のルウィ人王国。BC15−12世紀にアルメニア高地の北西に位置した
ハヤサ王国とともにBC18−16世紀にアルメニア高地の西とユーフラテス周辺にあった古代アルマタナの王国の後継。
 ヒッタイト帝国の脅威でハヤサ王国がアッズィの人々と提携したように、アルメはシュプリアと統一したが、アッシリアに征服された。

イスワ(BC17世紀−12世紀)
 イスワ(イシュヴァ)は古代ルウィ・フリ国連合。イスワの西には敵対するヒッタイトの国があった。
 イスワは反ヒッタイト連合を形成しようとした南隣のミタンニ王国を誘ってヒッタイトに敵対。
 ミタンニ王シャウシュタタルはイスワの支援でヒッタイト王アルヌヴァンド1世と戦争をした。
 この争いはスッピッルリウマ1世の治世まで続き、これはおよそBC1350年頃イスワに侵攻。
 スッピッルリウマの文書によると、彼はイスワを併合。イスワはヒッタイト王に従属して存在し続けた。
 BC12世紀初めのヒッタイト帝国の崩壊で、イスワ地域に新しい国、カンマヌがメリドを中心都市として出現。
 カンマヌはBC804−743年にウラルトゥに従属しメリドはBC712年のアッシリア王サルゴン2世による略奪まで繁栄した。

アルシェ(BC17−9世紀)
 アルシェあるいはアルズィはBC3千年末−2千年初めのアルメニア高地のフリ・ルウィ人国家。アルメニア高地には多くの独立
フリ・ルウィ人国家(アッカドジン時代のシュバレイ)があり、その一つがアルズィ王国であった。
 BC17世紀にはヒッタイトに従属。BC16世紀初めに、アルズィはミタンニと提携。
 しかし、ミタンニとともにヒッタイトと戦い、スッピルリウマ1世(1380−1334年頃)に従属させられた。
 BC14世紀に、ミタンニの衰退で、アルズィはアッシリアとその遺産を分け合った。
 ヒッタイトの衰退でアルズィは独立。BC13世紀にアルズィは他のアルメニア高地のフリ人国家とともに、アッシリアに従属。
 ついで、アルメニアのフリ・ルウィ人国は統一し、アッシリアに反乱し、貢納を止めた。
 BC1165年頃、依然ヒッタイトを破ったムシュキ種族(トラキア・フリギア種族)がユーフラテスを渡り、アラツァニ地域
深く入り、アルズィを占領。
 後にBC9−8世紀にアルズィはナイリ諸国の一部となり、これは徐々にウラルトゥに成長。
 同時期、アッシリアのナイリ高地遠征が知られている。ウラルトゥ王メヌア(BC810−786頃)のもとでアルズィは
ウラルトゥに服従。
 ウラルトゥ弱体の時期(BC6世紀)にアルメの国はアルメニア高地の国々の連合を率い、それにはアルシェが含まれていた。

ハヤサ国家(BC16世紀−13世紀)
 ハヤサはヒッタイト楔形文字でBC16−13世紀に言及された国。学者の多くはハヤサをアルメニア高地のチョロフと
ユーフラテス川上流に置く。
 この時期ハヤサはときどきヒッタイト王国と和平し、貢納し、あるいは時には軍事的に衝突した。
 BC13世紀までに恐らくハヤサは分解し、その地域はフリ人に征服された。
 この時期、ハヤサの領域はフリ人の王国、ディアウエヒに属したと思われる。

アルメ・シュブリヤ(BC13−9世紀)
 アルメ・シュブリヤはBC13世紀から形成され、ヴァン湖南西、サスン山脈のアルメニア高地の南西に位置した
ルウィ・フリ人王国。
 学者にはアルメをアルメニアと結びつける者がいる。アルメとシュブリア諸国は単一王国を形成し、メリド・カンマヌの国は
アルメニア人グループの核を形成し、アルメニア国家出現に大きな役割を果たした。
 シュブリアの名はBC13世紀以来、アッシリア資料で知られ、しかしこの地域に対するスバルトゥという名は
もっと以前(BC3千年中期)から知られ、シュメール、アッカド人の時代はスバルトゥは北メソポタミアで、スバレイ
北メソポタミアのフリ地域を指していた。
 アルメニア人学者によるとアルメは古代アルマタナの後継。
 アルメ・シュブリアの住民はウラルトゥ人に近いフリ人からなり、ルウィ人と混じっていた。
 BC8世紀にはアルメニア高地の諸国の主要な危険はアッシリアになっていた。
 BC8−7世紀頃、ヒッタイト王国の崩壊でムシュキ種族がアルメニア高地に入り込み、更にアルメ・シブリアにも入り、
地域住民と提携し、アッシリアと戦った。アッシリアはアルメ・シュブリアとナイリ諸国に多くの遠征を行い、これらは定期的に
アッシリアに従属したり独立したりした。
 アルメ・シュブリアはムシュキと他のアルメニア高地の人々とナイリ諸国と9世紀にウラルトゥの支配下に入った。
 ウラルトゥの崩壊(BC6世紀)でアルメの国はウラルトゥ領に属する諸国の連合を率いた。
 パフフヴァ、ツフマ、テガラマイスワ・ツパ(ソフェナ)、メリド・カンマヌ、アルズィ、その他がその政治的遺産を継承。

メリド・カンマヌ(BC12−6世紀)
 メリドはタバルの東、ユーフラテス川上流支流のアルメニア高地のカンマヌ(メリドーカンマヌ)王国の首都。
 この王国の領土はユーフラテスの向こう、ティグリスの源流まで達した。
 BC17-12世紀にメリドーカンマヌはイシュワ王国の一部であった。
 BC6世紀からメリテナは歴史的小アルメニアの南部の地域で会った。
 ヒッタイト帝国の崩壊後、BC12世紀から、メリドーカンマヌは新ヒッタイト連合国家の一部であった。
 メリドーカンマヌ王国は公式的には大ヒッタイト国と呼ばれ、ヒッタイト王国の伝統継続を主張した。
 メリドの王達はハッティ王、大ヒッタイト国王と称した。
 メリドは連合国の中心となり、そこでの覇権を維持した。
 メリドはアルメニア高地の最も重要な文化的、政治的中心の一つであった。
 BC9−7世紀のアッシリア人とウラルトゥ人にとって、ハッティ(アッシリア)、ハテ(ウラルトゥ)はマリドーカンマヌあるいは
一般的にユーフラテスの西とフリギア(ムシュキ)の南東の特別な呼び名で、その住民は民族に関係なくヒッタイトと呼ばれた。
 メリドーカンマヌの住民はヒッタイト時代に既に混血し、当時の主要な要素はルウィ人であったが、フリ人要素が非常に強かった。
 12世紀のヒッタイト国の崩壊後、ムシュキとアルメ(ウルメウニ)人が通過しなければならなかったのは
メリド地域であることは議論の余地がない。
 すべての新ヒッタイト国家ではヒッタイト象形文字(ヒエログリフ)が使用された−ルウィ碑文と公式碑文のルウィ語。
 メリドの公式宮廷文化はルウィ風で王族の名もルウィ語であった。
 メリド−カンマヌ王国にはBC2千年にテガラマの都市が存在し、BC1千年始めに、メリドの王朝はテガラマ(トガルマ)から生じ、
BC8世紀までルウィ人であった。
 アッシリア王ティグラト・ピルセル1世(BC1115−1077)の軍隊との衝突でメリド王国はアッシリア従属国となった。
 ウラルトゥ王メヌアはアッシリアに攻撃的で、メヌアはツパの国(スフムまたはアルズィ))を征服し、ヒッタイト国
(メリド−カンマヌ王国)に達し、メリテア(メリド)の都市の王から貢納を受けた。
 その治世の初期にサルドリ2世はメリド王ヒラルンダスを破った。
 BC743年にティグラト・ピルセル3世は多くの国々の王と同盟するウラルトゥ王サルドゥリ2世と対抗した。
 サルドゥリ2世はメリド王スルマル、クンムフ王クシュタシュピ、アルパド王マティエル、グルグム王タルクラルと同盟していた。
 アルパドの戦いでティグラト・ピルセル3世は同盟軍を破った。
 メリド−カンマヌはBC804−743年はウラルトゥに従属し、BC712年、アッシリア王サルゴン2世に略奪されるまで繁栄した。
 BC712年とBC676−675年にウラルトゥ王ルサ2世はキンメリア人と提携し、一緒に、ユーフラテスを越え、ハテ
(メリドーカンマヌ)、ムシュキ(フリギア)とハリトゥ(ハリベス)に大遠征を行なった。
 メリドとフリギアはウラルトゥとキンメリアに対抗し同盟した。
 しかし、フリギアは崩壊し、メリドのヒッタイト王国は崩壊しなかった。
 メリド・カンマヌ地域はその独立を維持し、約30年だけアッシリアに従属した。
 BC7世紀に、アルメ・シュブリアもまた独立を模索した。
 BC669−652年にメリドはアッシリアに独立を認められ、BC650年代にその国境をアッシリアの犠牲で拡大した。
 メガル王は既にタバル(BC713年以降アッシリア領)の王となっていた。
 バビロニアとメディアはアッシリアと戦い(BC626−605年)、アッシリアを、ついでマンナエとウラルトゥを崩壊させる。
 メリド王国は生き残っただけでなく拡大した。メリド王国はアッシリアとウラルトゥから生き残った。

 BC521年、アケメネス朝ペルシャが20の軍事支配区のサトラピーに分割。
 アルメニア高地には第13と第18の2つのサトラピーがあったことが知られている。
 BC6−4世紀のアケメネス朝では第13サトラッピーはアルメニアと呼ばれ、首都はメリド。
 バビロニア人も第13サトラピーをメリドと呼んだ。
 アケメネス朝の第13サトラッピーのアルメニアはアルメニア高地の西部を覆った。

エティウニ
 エティウニはアルメニア高地の北東部のプロト・アルメニア人国家体で、初期鉄器時代のアラス川の北部の部族連合で、ほぼ、
後の大アルメニアのアイララト地域に対応。
 エティウニはしばしば、ウラルトゥ王の記録に言及され、王はエティウニ地域に数度の遠征を行った。アッシリアの文献によると、
エトゥナまたはエティナがウラルトゥの崩壊に寄与したようである。
 学者にはアルメニア語話者住民がいたと考える人もいる。

ウラルトゥ国(BC13世紀−6世紀)
 ウラルトゥ(アララト、ビアイニリ、ヴァン王国))はアルメニア高地の中央地域のほとんどを統一した国。
 ウラルトゥの存在は民族連合としてBC13世紀から、国としてBC9世紀から記録される。
 ウラルトゥはBC6世紀に存在を止めた。

 BC13世紀初めの集権化したハヤサ国の崩壊後、その地域にはナイリの国(川の国)の名で多くの小国が形成された。
 その一つがヴァン湖沿岸に位置するヴァンの国であった。
 時とともに、外部の敵(アッシリア)の常時の脅威のためにこれらの諸国の単一国への統合が促進された。
 BC859年、ヴァン国の支配者アラムが全アララト国の唯一の国王と宣言。
 (旧約聖書ではウラルトゥと言及、これはアッシリアの言葉アララトの変形。)

 BC13世紀始めの集権国家ハヤサの崩壊後、ナイリの国と呼ばれる多くの小国家が形成された。
 アッシリア王トゥクルティ・ニヌルタ1世(BC1260−1230頃)の資料にアルメニア高地への遠征が書かれていて、
そこで初めて、アルメニア高地の43ナイリ王国連合の共通名としてナイリという言葉が出現。
 その一つがヴァン湖沿岸のヴァン国。
 アッシリアの脅威がこれら諸国の統一を促した。
 BC859年ヴァン国支配者アラムが全アララト国の唯一の王と宣言。

 イシュプイニ(BC828−810)はハルディ神の崇拝所ムサシルを占領した。
 メヌア(BC810−786)とアルギシュティ1世は(BC786−764)マンナエまで遠征し、領土を広げた。
 サルドゥリ2世(BC764−735)はBC735年、アッシリアに敗北し、ウラルトゥ衰退の原因をもたらした。
 ルス2世(BC685−639)の時代には多くの新しい、要塞、神殿などが建築された。そのために王はハティ(ヒッタイト)の国の
住民を労働力として捕らえた。アルギシュティ1世はそこから人々をエレブニに強制移住させた。
 ハティの住民はプロト・アルメニア語を話すムシュキからなり、ルス2世の活動はアルメニア高地へのプロト・アルメニア人の
移住に寄与した。

 BC585年、北からスキタイとキンメリアが、南東からメディアがウラルトゥに侵攻、メディアがウラルトゥを征服した。

*参照 ⇒[3]  コーカサス前史 ハヤサ・アズィ、ディアウエヒ、ナイリ、カスカ、イスワ、シュブリア、ムシュキなど。
*参照 ⇒(4) ウラルトゥ




古代アルメニア(BC6世紀−5世紀)
 ウラルトゥの没落後、オロンティド朝がアルメニアを支配、アルメニアは次の2世紀、アケメネス朝内のサトラピとなった。

*以下、露語のウラルトゥの歴史から。

イェルヴァンド1世サカヴァキアツ(オロンテス1世サカヴァキアツ
 アルメニアの5世紀歴史家のモヴェス・ホレナツィによるとイェルヴァンド1世がアルメニア王としてBC6世紀前半に支配、
彼はティグラネス1世イェルヴァンドの父で、ペルシャ王キュロス2世(大王)と提携した。
 アルメニアの伝説によると、イェルヴァンド1世サカヴァキアツは最初、王としてアルメニアを支配、ついでアケメネス朝
サトラプとして。
 治世はだいたいBC570−560年、彼をティグラネスが継いだ。

エルヴァンド1世オロンテス1世
 古代ギリシャ著者によるとバクトリア出身のペルシャ将軍アルタシルの息子とされる。
 BC401年に出現し、BC344年に死亡。
 彼はペルシャ王アルタクセルクセス2世に仕え、BC401年のクナクスの戦い(小キュロス反乱)に参加し、ソフェナとミタンニを得た。
 BC361−360年には小アジアの反乱に参加し、アルメニア・サトラピからミシアのサトラピにされる。
 彼はエルヴァンド2世の祖父(エルヴァンド2世では父)。妻のロドグナはアルタクセルクス2世の娘。
 エルヴァンド2世はガウガメラの戦いでペルシャ側で戦い死亡。
 エルヴァンド2世の息子はミトレネス、ミトレネスはガウガメラの戦いでアレクサンダー側で戦い、アルメニアのサトラプに指名される。

ティグラネス1世イェルヴァンドティグラネス(BC560−535)
 アルメニアの伝統によるとティグラネスはキュロス2世(大王)と提携してメディア王国を破った。
 クセノポンによるとキュロスとティグラネスは友人で、後にティグラネスはキュロスの遠征に参加。

アルメニアのサトラピ(BC530−330)
 アルメニアの最初の言及はBC520年のダリウス1世のベヒスタン碑文でアルミンと呼ばれた。
 メディアに征服された以前のウラルトゥの地域にあった。
 クセノポンによるとアルメニアはコルデゥエネの南、ケントリト川の北にあった。
 同時期、サスペリ(第18地区、ジョージア)とBC321年のモスノイキ(第19地区、ラズィカ)はアルメニアの一部でなかった。

アイララト王国(BC331−200)
 イェルヴァンド・アルメニアまたは大アルメニア。
*下記イェルヴァンド・アルメニア参照。

大アルメニア(BC190−AD428)

*以上、露語ウラルトゥの歴史から。


 BC4−2世紀、イェルヴァンド(オロンテス)朝


アケメネス朝時代(BC6世紀−4世紀)
 アルメニアの最初の言及はBC520年のダリウス1世のベヒスタン碑文に見られ、更にバビロニアの碑文ではウラルトゥと
同義であった。
 BC5世紀の古代ギリシャ著者(ヘロドトスとクセノポン)はアルメニア人とアルメニアの情報を知らせる。
 クセノポンはBC401−400年に黒海からアルメニアを経由しギリシャに戻ることを語ったアナバシスで、アルメニア
について語っていて、オロンテスが支配する広く豊かな国としている。
 ペルシャ王の娘と結婚したアルメニア・サトラプのイェルヴァンド(オロンテス)に加えて、ある人物ティリバズ、西アルメニアの
ヒッパルフ(騎兵隊長)についてもまた語っている。
 BC6世紀に東アルメニア地域(アルメニア高地と以前のウラルトゥ地域)はメディアに吸収され、メディアは国境を
アラスクの後ろに移動した。
 後の伝説によると他の住民と、メディア人がここに長く存在した。
 アルメニアにメディア植民者がマルダギとマルダスタン地域に住み、アシュハラツイツ(中世アルメニア地理誌)に言及される。
 おそらくメディア国(BC670−550)の時期にもアルメニア王国は存在し、後にキュロス(アケメネス朝創建)に従属した。
 キロパエディア(キュロスの教育)でクセノポンはBC6世紀のアルメニア王国を語り、王国はメディアに従属するが独立を
熱望していた。
 BC521年、アルメニアはすでにアケメネス朝のサトラピで、サトラプは自称メディア王子のためにペルシャに反乱、
アルメニア人は彼をメディアの正統な支配者と考えていたのは明らか。
 ダリウス1世の碑文で初めてアルミンの名でアルメニアが言及された。
 ヘロドトスによるとアルメニアの土地は2つのサトラピ(第13と第18)を含んだ。
 ペルシャのアルメニア支配は2世紀以上(BC550−330)続いた。アケメネス朝の最後のペルシャ王とアルメニアは
平和と繁栄を享受した。

信仰
 BC4世紀−2世紀にアルメニアの多神教の複合体系の設計が完成した。
 アルマヴィルの太陽と月の神殿に加え、アルメニア人はムシュ近くのタロン地域の、アシュティシャト近くの聖なる森に多くの聖域と
祭壇を建築し、維持した。古代アルメニアの神々の世界は混交的で地域神がギリシャ神話とペルシャ信仰から導入された神が
ウラルトゥの崩壊で生き残った古代祭儀とともに崇拝された。同じ神が複数の性格をしばしば持った。
 最も一般的崇拝されたのはミフラ、ミトラでこれはヘリオス、アポロとヘルメスと同一視された。
 アルメニアでの公式宗教としてのキリスト教の採用で多神教伝統は悲惨に迫害され、今日、アルメニアの多神教についての情報は
ほとんどない。

ヘレニズム期(BC5世紀−4世紀)

イェルヴァンド・アルメニア(BC331−200)
  イェルヴァンド・アルメニア(大アルメニア)はBC331−200年にアルメニア高地の北東部に存在した古代アルメニア人国家。
  BC522年からアレクサンダー大王の時期まではアルメニアはアケメネス帝国の一部。
  BC331年のマケドニア軍の攻撃によるアケメネス帝国の崩壊でアルメニア人の土地は実質的に独立。
  南アルメニアの支配者はアレクサンダーの権威を認めたが、これは名目的であった。アレクサンダーはアルメニアを通らず、
 軍指導者はこの地域への侵入に失敗。同年のガウガメラの戦いでのペルシャの敗北で、アルメニアのサトラプの
 イェルヴァンド2世(BC336−331、オロンテス2世)が王を宣言。323年のアレクサンダーの死で、彼の広大な帝国は分解。
  資料ではマケドニア将軍ネオプトレムスがアルメニアを支配したとされる。
  アレクサンダーの死後の後継者戦争での、BC321年の分割ではアルメニアの言及がなく、次の20年、アルメニア王国は
 独立を享受。
  BC301年、アルメニア王国はセレウコス朝の影響下に入ったがその権威は一時的で名目的であった。
  セレウコス支配から逃れようとした最初のアルメニア王はクセルクセス(BC228−212)で、彼は貢納を拒否。
  これでセレウコス王アンティオコス3世が侵攻、BC212年頃、ソフェネのアルサモサタを包囲され、セレウコス王の宗主権を
 認めざるを得なかった。アルメニアの最後の王イェルヴァンド4世もセレウコス朝宗主権を認めることを拒否したようである。
  精力的な王であったアンティオコス3世はアルメニア王を倒した。地域貴族アルタシェス(後のアルタシェス1世
 アルタクシアス1世)のイェルヴァンド4世への反乱も利用された。

  アルメニア王国はBC200年にアンティオコス3世によって併合され、少し後にソフェネが加わった。
  アンティオコスのローマへの敗北で、地域支配者(ストラテゴス、軍指揮官)アルタシェス1世が王を宣言(BC190年)。
  彼の王国はユーフラテスの西に位置する小アルメニアと対照して大アルメニアと呼ばれた。

  オロンテス(エルヴァンド)1世(BC4011-344)→ダリウス3世(BC344−336)
 →イェルヴァンドオロンテス)2世(BC336-331)→ミフラン(ミトレネス、BC331−321)
 →イェルヴァンド3世(オロンテス3世、BC321−260)→サメス(ソフェネ王)⇒アルサメス1世(ソフェネ、BC260−228)
 ⇒イェルヴァンド4世(オロンテス4世、BC212−200):アルサメス1世の息子
 ⇒アルタクシアス1世(BC189−160)

 *以上、露語のウラルトゥの歴史から

アルメニアの3分裂
 アルメニアはアレクサンダー大王のペルシャ征服までペルシャの支配下にあったが、アレクサンダーはこの地域を通らず、
軍隊指導者はこの地域への浸透に失敗した。
 ペルシャ国家の崩壊でアルメニアの南部地域だけがアレクサンダーの権威を認めたが、形式的で実際はアルメニアの土地は
独立した。
 小アルメニア(アルメニア王国の西と北西部)はマケドニアの公式的支配のもとにあったが、彼の死(BC323年)の2、3年後、
独立アルメニア王国がここから出現し、BC115年にミトリダテス6世がポントス王国に編入するまで存在した。
 別のアルメニア地域、ソフェネ(BC80年代、大アルメニアに併合)はアルメニア高地の南西部を占め、セレウコス朝の
特別サトラピであったが、地域の世襲的支配者が統治した。
 別のアルメニア地域、固有のアルメニアはティグリス川上流に沿ってヴァン湖付近にあり、古代ウラルトゥ国の主要部を占めた。
 ソフェネ同様に地域支配者が統治したが社会発展はソフェネよりはるかに遅れ、セレウコス朝の支配が比較的強かった。
 この地域の北東、アラクス川の峡谷はアララト王国(大アルメニア)で首都はアルマヴィルで、これはBC4世紀末に勃興し、
始めアレクサンダーの権威を認め、BC316年のディアドコイ戦争の間にアララト王国は独立した。
 王国はBC200年頃、セレウコス朝のアンティオコス3世によって廃止された。しかしアンティオコスのローマへの敗北で、
彼によって地域支配者にされたアルタクシアス1世とザリアドレスが王を自称した。
 この結果、3つのアルメニア王国が出現、大アルメニア(ユーフラテスの東アララト峡谷を含む、アルタクシアス1世が支配)、
小アルメニア(ユーフラテスの西、アンティオコスの縁者で提携者のミトリダテスが支配)とソフェネ(アルミヤンスク・ツォルク、
現代のディヤルバキル、ザリアドレスが支配)。
 BC163年、大アルメニアの南西に別のアルメニア王国、コンマゲネが形成され、以前のアルメニアの王のオロンティド朝の
分枝の一つが支配(プトレマエウス)。コンマゲネ王国はAD72年まで続き、ローマ帝国に併合された。
 すでに、BC3−2世紀にアルメニア人の政治的、文化的生活の中心は徐々にアララト峡谷に移動。

アルタクシアド朝(アルタシェス朝、BC189−AD12)
 アルタクシアド王朝がほとんど2世紀、大アルメニアを支配した。
 アルタクシアス1世統治下の王国の首都はアルタシャト、(BC176年、アルタタクシアスが建設し、アラクス川の旧都
アルマヴィルから遠くない)となり、そこで彼はカルタゴの司令官ハンニバル(彼は短期期間アルメニアに住んだ)の
助言を受けた。
 アルタクシアド王朝で最も有名なのはティグラネス2世で、彼は若い頃、アルメニアを破ったパルティアの人質となった。
 しかし彼の支配化下に、パルティアを粉砕し、彼らからアトロパテネを取り、王の王を称した。
 このあと、ティグラネス2世はポントス王ミトリダテス6世と提携し、彼の娘、クレオパトラと結婚した。
 ティグラネス2世のもとで、アルメニアは最強となり、その国境はクラからヨルダンと地中海からカスピ海となった。
 アルメニア専制君主はセレウコス朝王国を抹殺した。新しく征服した地域に新都ティグラナケルトを再建、そこに多くの
ギリシャ都市住民を強制的に移住させた。ティグラナケルトはアルタシャトと競う第2の首都であった。
 成功の頂点で、ティグラネス2世はローマと直面し、これは最初、ルクルスついでポンペイウスが率い、BC63年までに
すべてのその征服物を失った。
 BC55年のティグラネス2世の死で、大アルメニアは息子のアルタヴァスデス2世(BC55−34)が継承、
彼は中立政策をとった。BC53年のカルラエの戦いでのローマのペルシャへの敗北の後、アルタヴァスデス2世はなんとか
国境を拡大、西はソフェネと小アルメニアを再併合した。
 BC36−34年にローマ司令官アントニウスは最初は敗北したが、後に彼を欺き、殺した。
 BC30年、パルティアの支援で、アルタヴァスデスの息子アルタクシアス2世(BC30−20)がアルメニア王となった。
 王となって間もなく、アルタクシアス2世の軍隊はアントニウスがアルメニアに残したローマ守備隊を殺した。
 しかし、彼の死後、アルタクシアド王朝のアルメニア国は衰退し始めた。BC1世紀の転機に女王エラトの死とともに
アルタクシアド王朝は終焉し、アルメニア人は彼らの眼を文化、内政的にパルティアに向け始めた。
 この頃以降、約60年、ローマとパルティアはアルメニア支配のために対決し始めた。


 ティグラネスでの最大時、BC69年


  50年頃


  4世紀のアルメニア


アルサキド、ローマとパルティアの間

アルサキド(アルシャクニ、52−428)の承認
 アルタクシアド朝の没落から1世紀中期までローマとパルティアの手先が統治した。
 最初のアルサキドのヴォノンはパルティアによって王位に就けられ、長く統治しなかった。
 彼はローマによってイベリア公子ミトリダテスに代えられたが、これは甥のラダミストゥスによって殺され、簒奪された。
 53年、パルティア王ヴォロガセス1世は兄弟のティリダテスをアルメニア王にした。彼はアルサキド朝の創建者となった。
 これでパルティアとローマの間の戦争が起きた。
 58年、コルブロ率いるローマ軍がアルメニアに侵攻し、最初の成功の後、支配者を変えた。
 しかし62年、ランデイアの戦いで敗北し、ネロはティリダテスを独立アルメニアの王に認めざるを得なかった。
 この時から、大アルメニアはアルサキド朝(アルシャク、アルシャクニ)のアルメニア分枝のもと、ローマとパルティアの
緩衝国となった。
 ティリダテスのもとでのイランの習慣と信仰の復興はアルメニアとパルティアで前世紀にはっきり見られたローマ化の傾向を
掘り崩した。
 トラヤヌスはパルティアと戦争を始め117年アルメニアをローマ州と宣言したが、ハドリアヌスはローマ地域をユーフラテスまで
取り戻した。
 アルサキド朝のもとのアルメニアとイラン(パルティア)の関係はパルティア・アルサキド朝のササン朝による打倒で敵対的になった。
 アルメニア王ホスロフ1世は長くササン朝創建者のアルダシル1世と戦った。
 3世紀中期にアルメニアは新しく出現したササン朝から破壊的侵攻を受けた。
 シャプル1世はアルメニア、アルバニアとイベリアを支配した。息子のホルミズドは一時アルメニア人の大王の称号を持った。

キリスト教化とササン朝との戦争、アルメニア分割、ペルシャ・アルメニア
 287年、ローマの支援でホスロフ2世の息子、ティリダテス3世が王位に就いた。
 298年、ニシビスの和平でローマとペルシャはアルメニアの独立を認め、アルメニアとローマおよびペルシャの国境が定められた。
 ティリダテス3世のもとでキリスト教が唯一の国の宗教として確立した。
 キリスト教採用の主要な役割は聖グレゴリ教化者が演じ、彼はアルメニア教会の最初の主教となった。
 このようにしてアルメニアは史上最初のキリスト教国家となった。
 332−338年のアルメニア王はホスロフ3世で、アラクス川流域の変化と多くの湿地形成でアルタシャトは住みにくくなり、
王はドヴィンを建築し、アルタシャトの住民をそこに移した。
 337年、和平条約の存在にも関わらず、ササン朝シャープル2世はアルメニアに侵攻した。ローマ軍がアルメニア人の救援に来、
一緒に駆逐した。ホスロフ3世の息子ティランが王(339−350)となった。彼は独立政策を維持した。
 345年、シャープル2世はティランを欺いて招待し、イランで生け捕り、盲目にした。
 アルメニアへのペルシャの政治的影響力確立の失敗の後に、ティランの息子アルシャク2世が王(350−368)となった。
 アルシャク2世は中央権力の強化とナハラル(アルメニアの貴族の称号)の分離主義を終わらせることを望み、決定的手段に訴えた。
 彼はアララト山の南麓にアルシャカヴァンを建築した。そこに主人から逃げた農奴や奴隷や借金を払えない債務者が避難した。
 ナラハル達は抗議したが認められず、そこでナラハル達は自分たちの部隊でアルシャカヴァンを急襲した。
 アルシャクは反抗に加わり激しい戦いとなった。彼はナラハル達の指導者、ギラクとアルシャルニクのカムサラカン家を排除し、
アルタゲルス要塞を占拠し全カムサラカン一族を尋問した。
 その後、多くのナハラル達はイランの保護のもと降伏した。ペルシャ征服の脅威が年々拡大し、一方、ローマは弱体化。
 ペルシャは徐々にローマをメソポタミアから追い出し、363年、皇帝ヨウィアヌスはシャープル2世とニシビス和平に署名、これで、
ローマはアルメニアを支援しないことを誓った。
 360年代、アルメニアはペルシャに戦争をしかけた。
 367年、ササン朝はアルメニアに再び侵攻。アララト平原での決定的闘いで、ヴァサク・マミコニアン率いるアルメニア軍が勝利。
 ペルシャの内部侵攻の試みは押し返された。しかし、一時、静まっていた王とナハラルの抗争が再燃。
 国の困難な状況のためアルシャクは和平せざるを得なかった。
 シャープル2世はアルメニア王とヴァサク・マミコニアンを欺いてクテシフォンに招き、彼らを捕らえ、ヴァサクは処刑され、
アルシャクは投獄された。アルメニア王国は非常に困難な状況にあった。
 アルシャクの息子パプは若く、女王パランジェムは十分な力を持っていなかった。
 この状況を利用し、ペルシャはアルメニアのすべての主要な都市を徹底的に破壊、成人男性は殺され、子供と女性はイランに
連れてこられた。多くのアルメニア人とユダヤ人がペルシャ奥深く、移住させられた。
 368年まで、アルタゲス要塞はアルメニアが維持した最後の拠点で女王と王子パプが隠れていた。パプはローマに逃れ、女王が
忠実なナハラルと留まり、ペルシャと対抗した。
 369年、包囲軍はなんとかアルタゲスを奪い、すべての宮廷財産を捕獲した。女王パランジェムは他の捕虜とイランに
連れていかれた。
 彼女はシャープルによって冒涜され、悶絶死した。
 征服されたアルメニアでは教会は破壊され、キリスト教徒迫害が始まった。
 アルメニア王国が完全に破壊されたように見えたときに、パプが大規模なローマ軍と到着、散らばった愛国者が彼のもとに統一、
まもなく激しい戦争が再開した。何度か敗北し、ペルシャは撤退。
 369年、ヴァサクの息子のムシェグ・マミコニアンとともに、王はアルタシャトに入城。
 371年、シャープルは再びアルメニアを攻撃したが、皇帝ウァレンスの送ったローマ部隊に支援されたアルメニア軍が勝利。
 パプは治世中なんとかイランと平和を維持、国は短い休息を得た。
 パプの独立政策と頻繁なシャーとの交際はローマを快くさせず、374年、ローマの将軍テレンティウスによってだまし討ちにあった。
 387年、アルメニアはアキリセネの和平で分割された。
 小さな西部はローマへ、主部はペルシャへ。アルメニア国境地域は縮小され、ペルシャに従属するイベリア王国とアルバニア王国へ
渡された。当時、ローマは北方をゲルマン、アラン、フンに、ペルシャは北方をフンついでエフタルに脅かされていた。
 アルメニアのペルシャ側では、アルサキド朝の権力が依然、一時維持されたが、ヤズデギルド1世のもと、アルメニアとの関係は
悪化し始めていた。428年、バフラム5世はアルメニアをササン朝の州とし、アルタクシアス4世は倒され、アルメニアの
アルサキド朝は終焉した。
 ペルシャはアルメニアにかなりの独立を与え、マルズパン、スパラペト(軍事)とアザレペト(経済)は依然アルメニア人の手にあった。
 アルメニア主教は国の大裁判官であった。徴税人はアルメニア人であった。
 メスロプ・マシュトツとその弟子の活動で国は文化的勃興を経験した。
 しかし、ペルシャ人はキリスト教信仰がアルメニアをローマに向かわせると考えた。
 438年、ヤズデゲルド2世がペルシャ王となり、帝国の国際的地位を強化し、国内統一の目標に向かった。
 アルメニアにはいくつかの特権を取り消し、ゾロアスター教の信仰を強制した。
 これらの強制でアルメニアに反乱が起き、反乱勢力とササン朝軍との戦いが勃発。
 アヴァライルの戦いで反乱の指導者ヴァルダン・マミコニアンが死亡。
 ペルシャが勝ち、国は荒廃させられた。
 しかし、遊牧民が再び、攪乱し始めた。状況転換のためヤズデゲルド2世はキリスト教信仰を許した。
 460年代、ペルシャの新王ペロズ1世は再びキリスト教徒迫害政策を始めた。
 新しい反乱が起き、484年アルメニア人とペルシャはヌヴァルサク条約を結び、これで完全な信仰の自由と半独立状態を
再び獲得した。


  ササン朝アルメニア(387−591)


中世
クロパラティと中断、アラブ・カリフ国
 戦略的位置のためアルメニアはビザンティンとペルシャの抗争の場となった。
 535−538年のユスティニアヌスの統治改革がアルメニアに重要な影響を与えた。
 アルメニアはすべての点でローマの法律に従うようになった。
 アルメニアは4州に分割された。(第1から第4)
 591年、皇帝マウリキウスはペルシャを破り、アルメニアのほとんどの残りの地域を取り戻し、国境をヴァン湖まで推し進めた。
 マウリキウスは暴君フォカスによって倒され、彼は今度ヘラクレイオスによって倒された。
 629年、ヘラクレイオスはマウリキウスによって始められた征服を完成した。
 6世紀末から、アルメニアは実際上、ビザンティンの従属国となった。
 630年代、ササン朝はアラブ・カリフによって打ち破られた。
 645年、アラブ軍がアルメニアを攻撃、ほとんどのアルメニアはカリフの権力下に入った。
 アルメニア王子テオドレ・ルシュトゥニがアラブによってアルメニア、ジョージアとコカーシア・アルバニアの最高支配者に
指名された。
 7世紀末、アルメニアは事実上の独立を失った。この地域を征服し、アラブは全南コーカサスを統一し、アル・アルミニア
(大アルメニア、イベリア、アルバニア)という広大な州にした。
 カリフ国とビザンティンの戦争の間、アルメニアは甚大な被害を受け、一部はビザンティンに、また一部はアラブ総督に支配された。
 カリフ国支配のもとで総督はオスティカンと呼ばれ、ビザンティン側ではクロパラテスと呼ばれた。
 最初のクロパラテス、アショト1世はタオ・クラリエティ侯国を創建し、バグラティド王朝を生み出した。
 7−9世紀にキリスト教派パウリキア派とトンドラキア派が生まれ、アルメニアに広がった。彼らはまたビザンティン帝国にも
深刻な影響を与えた。


  8−9世紀(アルミニヤ)

*アル・アルミニアの9世紀末の崩壊後、カイシテ・エミール国(860−964)がマンジケルトを中心に最も強力な
ムスリム・アラブ朝として支配。以降ハムダン朝マルワン朝と続く。


  10世紀中期


ビザンティンのアルメニア
 8−9世紀の間、アルメニアは繰り返しアラブ支配に反抗し、その結果、多くのアルメニア人がビザンティンに移住せざるを
得なかった。
 ビザンティンでアルメニア住民は重要な役割を演じた。
 多くのビザンティンの皇帝、将軍、主教、傭兵、役人と文化的人物がアルメニア人であった。
 レカペノス、クルクアス、ガブラス、ザウトツィなどの多くの貴族がアルメニア起源であった。
 バシレイオス1世からバシレイオス2世まで(869−1025)の皇帝はアルメニアあるいは部分的にアルメニア起源であった。
 皇帝テオフィロスの皇妃テオドラとその息子ミカエル3世はアルメニア貴族マミコニアン家の出身であった。

 バシレイオス1世はマケドニア王朝を創建し、この王朝のもとでギリシャ語とともにアルメニア語が第2公式語となった。
 バシレイオス2世のもとでビザンティンは力を獲得し、繁栄した。彼の治世に最終的にアルメニアの国家体は破壊され、すべての
西アルメニアをアラブから征服した。彼は多くのアルメニア人をトラス(トラキア)に移し、ブルガリア人をアルメニアに移した。

復興
 9世紀初めからアッバース・カリフ国は弱体化し始め、アルメニアへの政策は柔軟となった。
 804年、アルメニア公子アショト・ムサケル(アショト4世)がアルメニアの統治者に指名された。
 862年、彼の孫アショト1世はアルメニアの公子達の公子と認められた。
 9世紀末からバグラティド王朝(バグラトゥニ朝)はアルメニアを文化的、政治的、経済的に上昇させ、アルメニア史上の新しい
黄金時代を築いた。
 885年、アルメニアはこの地域の2つの主要な勢力、アラブ・カリフ国とビザンティン帝国から独立国家として認められた。
 アルメニアの古く、強力なバグラティド一族の子孫のアショト1世(885−890)はカリフのアル・ムタディドの許しで
王位につき、バグラティド王朝の創始者となった。大アルメニアの崩壊後約450年でアルメニア国が復活した。
 彼の後継者スムバト1世は強力な集権化政策を続け、アルメニアの国境を拡大した。
 アルメニア国の強化を心配したカリフは彼の総督、サジド朝(889−929年にアゼルバイジャンとアルメニアの一部を支配)の
エミール・ユスフに頼り、アルメニアを服従させる戦略的闘いを始めた。サジド朝はこの時期のアルメニア王国の主要な敵となった。
 数年の戦いの後、914年、スムバト1世はドヴィンで捕獲され、処刑された。
 そのころまで、ドヴィンには小さなアラブ・エミール国(サラリドあるいはシャダード朝)があり、これは後にアルメニア王に対する
軍事的前哨基地となった。
 スムバトの息子アショト2世(914−928)はなんとかムスリムを追い出し、国内統一を完成し、独立を回復した。
 922年、カリフはシャーインシャー(王達の王)という称号を与え、彼をアルメニア王と認めざるを得なかった。
 アルメニアの勢力の頂点はアショトの後継者のもとで達した;彼の兄弟のアバス1世(928−953)は首都をカルスにした。
 アバスの息子アショト3世(953−977)は首都をアニに移した。息子のスムバト2世(977−989)、そして特に
アショト3世の息子ガギク(989−1020)。
 10世紀初めから、ビザンチンはトランスコーカサスでの政治的覇権を少なくともキリスト教諸国との関係で認めた。
 アショト1世、スムバト1世とアショト2世はアルコン達のアルコンの称号を持った。これに対し、カリフ国はシャーインシャーの
称号を与えた。
 同時に封建的分散化によって王権の強化と集権化が阻止された。

王国分裂
 10世紀末と11世初めにバグラティド朝の種々の分枝の間の衝突と、アルツルニ朝のヴァスプラカンの908年の離反で、
国の内部統一は弱体化した。(908年、ガギク1世が王となり、ヴァスプラカン王国形成、908−1021)
 963年、首都のカルスからアニへの移動と関連して、カルス王国(963−1064、アバス1世の息子ムシェルが形成、
セルジューク侵攻でビザンチンに移譲)が形成された。
 978年、アショト3世の死後、彼の息子キウリケ1世が王国を宣言(ロリ王国、またはタシル・ゾラゲト王国、979−1118)、
987年、ラワディド朝アブル・ハイジュの遠征の時、シュニク領主スムバト1世が分離を宣言(シュニク王国、987−1170、
首都カパン)。その後、彼らすべてはバグラティド朝の最高権力と宗主権を認めた。
 このようにして、11世紀初めから、内部的に弱体化したアルメニアはビザンティンの容易な標的となった。
 1021年、東方遠征の間に、バシレイオス2世はヴァスプラカン王国をビザンティンに併合。
 次の年の初めアルメニア王ホヴァネス・スムバト3世アニの王、1020−1041)は国の破壊をさけるためにアルメニア王国を
ビザンチンに寄贈せざるを得なかった。 
 ホヴァネス・スムバト3世の死後、ビザンティンは攻勢政策に移り、アルメニア人に帝国参加を要求した。
 ほとんど4年、ビザンティンの併合に直面し、バグラティド朝最後の王ガギク2世は、1045年、服従に応ぜざるを得なかった。
 王国の分解に、ビザンティン好きの主教、ペテル1世率いるアルメニア貴族の一部が重要な役割を演じた。
 アニは古代アルメニアの都市で、王国の発展の絶頂期の951年に新首都となり王国はアニの王国と呼ばれた。
 ビザンティンのアルメニア王国併合と同じくしてオグーズ・セルジューク種族の侵攻が激しくなり、数世紀のアルメニア人の
歴史的故郷からの強制移住が引き起こされた。
 アルメニア王国の併合がセルジュークの小アジアへの前進と、更にビザンティン帝国の占領に寄与した。


  1000年頃、カルス王国ロリ王国アルツァフタイク侯国シュニク王国カイシテ・エミール国
 ヴァスプラカン王国タロン侯国サスンモック(モクソエネン) 


セルジューク侵攻
 オグズ・トゥルクメン(セルジューク)のアルメニアへの最初の侵入は1016年に記録され、ヴァスプラカン王国を攻撃。
 11世紀中期からアルメニアは系統的襲撃を受けた。1048年、トグリル・ベクが最初のアルメニア侵攻を行った。
 1064年、アルプ・アルスランがアルメニア地域に遠征、ビザンティンからアニを奪った。
 1071年、マンジケルトの戦いでビザンチンがセルジュークに敗北。
 ついで、セルジュークは残りのアルメニアとアナトリアのほとんどを占領。
 ほんの少数のアルメニア政治体(領)が独立を維持、多くは従臣の犠牲を払った。
 マリク・シャーの死(1092)でセルジュークの勢力は徐々に消失し、地域支配者の手に落ちた。
 このようにして全アルメニアとほとんどの西イラン、ペルシャのイラクとトランスコーカサスはほぼ90年、イルデギズ朝
の勢力に入った。
 セルジューク征服の時期から、数世紀のアルメニア住民のアルメニアからのトルコ種族による追い出しが始まった。

1045年以降のアルメニア民族国家体制
 1045年にアルメニアには、アニの王国に加え、いくつかの小さな侯国とともに更に3つの小さなアルメニア王国が存在した。
 “ダヴィドのクロパラト侯国のほかに、ローマに服属する地域と4つの王国がアルメニアにあった・・・中世史家“
 1064年、アルプ・アルスランのセルジューク軍侵攻以降、征服されないわずかな地域がアルメニアには残っていただけで、
そこでアルメニア民族国家構造が存在し続けた。これらはシュニクタシルハチャン(ナゴルノ・カラバフの)とサスン
 アルプ・アルスランの遠征のすぐ後に、まず、最初に、アニの王国(885−1045、ビザンチンが征服、最後の王はガギク2世)
のあとカルス王国が存在を止めた。
 1065年にその最後の支配者バグラティド朝のガギクは国をビザンティンに渡した。
 カルスの後、アルメニアのバグラティド朝の若い分枝がアルメニアの北、キウリケ一族に代表されるタシル・ドゾラゲト(ロリ王国)
の領域に存在し続けた。ダヴィド1世のもと王国は発展の頂点に達した。
 彼はガンジャのシャダード朝の攻撃を何とか追い返し、多くのアルメニア地域を領土に加えさえした。
 1064年のアルプ・アルスランの遠征でキウリケ2世はアルプ・アルスランの支配を認めざるを得なかった。
 同時にジョージア王バグラト4世の圧力で、キウリケ2世は北のかなりの土地を譲り、首都をサムシュヴィルデからロリ要塞に移した。
 1118年、キウリケ2世の後継者ダヴィドとアバスのもとで、タシル・ドゾラゲトはダヴィド4世によってジョージアに併合された。
 後継者ダヴィドとアバスはタヴシュとマツナベルド要塞周辺の小領域を支配し続けた。

 アルメニア東部のシュニク王国はアニ王国から最も遠く、そしてアルメニア国家のなかで最も永く続いた。
 11世紀初めに最盛期となった。アルプ・アルスランの遠征中でも独立を維持し、セネケリムはセルジューク・スルタンの
マリク・シャーによって支配者として認められた。セネケリムはシュニクに坐するアルメニア王と自称した。
 12世紀はセルジューク侵入者との闘争で特徴づけられた。1170年、シュニクはイルデギズ朝(エルディグジド)によって
占領された。

 シュニクの転機はザカリア家指揮官のもとのアルメニア・ジョージア軍による東アルメニア解放の打開であった。
 1210年代、約40年ぶりにアルメニア支配が回復された。この地域はオルベリア家に与えられた。
 彼らは経済的、文化的発展をさせることができた。
 オルベリア家とハフバキャン家の従臣は1435年まで支配をつづけた。後にナゴルノ・カラバフとしてこの地域に、多くの
アルメニア・メリク国が形成された。
 小さなアルメニア人のハチャン侯国がナゴルノ・カラバフ地域に存在した。
 13世紀初めから、古代アラン・シャーの子孫ハサン・ジャラリアン家が領主であった。
 古代アルメニア地域のアルツァフ地域にあり、16世紀末まで存在し続け、アルメニア人メリク国が徐々にこの地域に形成され、
18世紀中期まで存在した。





キリキア・アルメニア国
 1080年頃、キリキアと小アルメニアの一部、多くのアルメニア人が長くペルシャ人とトルコ人から避難した山岳地域が最後の
バグラティド朝の王の縁者でビザンティンの軛から山岳に逃げていたルベン1世によって解放された。
 彼の縁者で最後のアルメニア王、ガギク2世を殺した者の手から避けるためにルベン1世は他のアルメニア人とともにタウルス山の
丘陵に行き、それからキリキアの都市タルスに行った。そこで、地域ビザンティン総督が彼を避難させた。
 このようにして1080年頃から1375年までアルメニアの国家体は南のキリキアに移動した。
 第1次十字軍が小アジアに出現した後に、アルメニア人はレヴァントにムスリム国によって征服されるまで繁栄したヨーロッパ
十字軍国家との関係で発展し始めた。
 イェルサレムのボールドウィン伯爵は残りの十字軍とともに小アジアからイェルサレムまで船で渡り、残された十字軍はエデサの
アルメニア人支配者のトロスから庇護を受けた。
 アルメニア人はセルジュークの敵で、ビザンティンと敵対関係にあったので、彼らは十字軍の伯爵を好み、トロスが殺されたとき、
ボ−ルドウィンは新しい十字軍エデサ伯国の支配者となった。
 アルメニア人はボールドウィンと十字軍を好み彼らの多くがキリスト教ヨーロッパ側で戦った。
 1097年、アンティオキアが占領されてから、ルベンの息子、コンスタンティネは十字軍から男爵(バロン)の称号を受けた。
 失敗した第3次十字軍と他の出来事でキリキア・アルメニアは中東で唯一の重要なキリスト教国となった。
 ビザンチン、神聖ローマ帝国、法王、アッバース・カリフのような世界的勢力でさえキリキアへの影響を競った。
 誰もがルジニャン家(フランス起源)のキリキア王子レヴォン5世を最初に正統な王として認めようと望んだ。
 1198年、タルススで彼はドイツとビザンチン帝国両方から戴冠され、王と宣言された。彼の戴冠式にはキリスト教国とムスリム諸国
からの代表が出席し、キリキアが重要な位置を獲得したことを強調した。
 アルメニア人の国は十字軍と頻繁に接触し、はっきりと他の聖戦に参加した。
 しばしば十字軍はキリキアとの結びつきを結婚での提携で示した。
 エデサ伯爵のジョスセリン1世はコンスタンティン1世の娘王女ベアトリチェと結婚し、伯爵ボールドウィン1世はコンスタンティンの
姪アルダと結婚。彼の従兄弟で継承者のボールドウィン2世はメルテネの領主、ガブリエルの娘アルメニア王女モルフィアと結婚。
 キリキアは当時の唯一の独立アルメニア国家で非常に繁栄した。キリキアの盛期はヘトゥム1世の治世で、彼はなんとかモンゴルとの
協定に合意し、国を破壊から救い、この提携を敵との戦いに利用した。
 カトリック一族はキリキアへの影響を広げ、法王はアルメニアがカトリシズムを採用することを望んだ。
 これで王国の住民は親カトリックと親正教会に分裂した。
 キリキア・アルメニア国の独立は1375年まで続き、スルタン・シャバン率いるエジプト・マムルークがキリキアの不安定状況を
利用し、これを破壊した。ルジニャン朝の最後の王レヴォン5世は父側はバグラティド系で(ゲオルゲ5世の孫)、彼はエジプト騎兵
から逃げパリに行き、そこで1393年、死亡。
 その時からキリキア・アルメニアは従属国となり、1403年、エジプト・スルタンからカラマニド朝(カラマンのベイリク、
1250−1487)支配に移り、1508年、ペルシャ、そして最終的に、1522年と1574年、オスマンの支配下に入った。

*参考 →キリキアのアルメニア王国、フィラレトス・ヴァラジュヌニ国、ケスン侯国




ドヴィンとアニ・エミール国のシャッダード
 シャッダード朝は始め951年にドヴィンに移住、当時、都市はムサファリド朝(サラリド朝)によって支配されていた。
 しかし数年後、彼らはこの地域から追い出された。シャッダード朝は10世紀末にファドル1世のもと、ドヴィンで再建。
 そのときからセルジュークがここで覇権を確立する11世紀まで、この種族はトランスコーカサスの政治的運命に決定的役割を演じた。
 アルメニア王国のビザンチンによる編入のあと、タイクタオ)とともにアルメニアとイベリアのテマを形成した。
 1064年のセルジュークのトランスコーカサス征服の後、1072年、シャッダード一族が以前のアルメニア・バグラト王国の
地域アニを購入し、アニのエミール国を形成。
 マヌチル・イブン・シャヴルがアニを支配し始め、アニのシャッダード分枝の創建者となり、1199年に存在を止め、
アルメニアの都市アニは北アルメニアの一部とともにジョージアに併合された。


  シャッダード朝時代


シャフ・アルメン
 1100−1207年の間、南アルメニアの、ヴァン湖領域に、シャフ・アルメン国がアフラトの都市を中心に存在した。 
 (1071年のマンジケルトの戦いの後にアナトリア・ベイリクのトゥルコマン支配者が創建。)
 シャッダード朝と同様にシャフ・アルメンはクルド起源であるが、アルメニア化されていた。
 アルメニア人がこの地域の圧倒的多数を構成していた。

ザカリアのアルメニア
 1190−1230年代の短期間の間、アルメニアのムスリム勢力は拡大する女王タマラ治世のジョージア王国から大いに
追い出されれた。
 地域のアルメニア貴族、ナハラルはジョージア人の勢力と結んで、アルメニア住民の支援に頼り、アニ、カルスとドヴィンのような
都市を含む、すべての東アルメニアとほとんどの中央アルメニアをセルジュークから解放できた。
 これらの土地はジョージア王のもと、良く知られたアルメニア人王朝、ザカリアあるいはムハルグルドゼリ王朝によって支配された。
 ジョージア王国の宗主権のもと、独立アルメニア封建侯国が形成された。ついで、アルメニア人一族のヴァチュチャン、
オルベリアン、ハフバキアン、ハサン・ジャラリアンとその他の一族がトランスコーカシア(東)アルメニアの種々の部分を
支配し、これらはザカリア朝に従属した。
 しかしすでに1236−1243年にこの地域はモンゴルによって占領され、アルメニア国家体は消滅した。
 イルデギズ朝(1136−1225)がジョージア軍隊のアルメニア侵攻を2度、追い出し、アニを再征服し、再建した。
 トランスコーカシア・アルメニアがその一部であるイルデギズ朝国はモンゴル侵入まで存在した。
 (1225年、ホラズム・シャー国により崩壊)
 その後、アルメニアはアタベグのホラズム・シャーのジャラールッディーンとモンゴルの戦場となり、これは最終的にモンゴルの
勝利とモンゴルによるアルメニアと全地域支配に終わった。
 ナゴルノ・カラバフのアルメニア人のハチャン侯国(1261−1603)、とザンゲズルのシュニクだけが多かれ少なかれ
独立状態であった。(これら地域はハサン・ジャラリアンが支配確立。)


 13世紀初め ソムヒティ(SOMEKHI)=アルメニア


モンゴル征服
 この時期、アルメニア人は政治的、経済的に重要な民族で、彼らは現代ジョージア、アゼルバイジャンとイランの北と東、
北イラクの一部、シリア南部と、アナトリア半島のほとんどを覆う広大な地域を故郷としていた。
 1385年、トクタミシュ・ハーン(金帳汗国左翼、青帳、オルダ・ウルス)は多くのアルメニア人をアルツァフ、シュニクと
パルスカハイクから捕獲し、1386年以降、ティムール(タメルラン)の破滅的遠征に曝された。
 アルメニアへ押し寄せるトルコ種族の新しい波はティムールの侵攻と結びついている。
 アルメニアの土地は地域住民から奪い取られ、よそ者の遊牧民が移住した。
 15世紀の間、アルメニア地域の一部はよそ者のトルコ遊牧民族のカラ・コユンル(黒羊朝、1374−1468、南コーカサス、
北西イラン、東トルコ、北東イラク)とアク・コユンル(白羊朝、1378−1501、南コーカサス、イランのかなり、イラク)の
作った国の一部であった。
 アルメニア住民は捕獲され、ジョージア、クリミア、ウクライナ等へ大量移住した。
 13−14世紀の間、アルメニア貴族が徐々によそ者の軍事遊牧貴族(モンゴル、トルコ、クルド)によって締め出される過程が
アルメニアで起きた。これが異なる封建体制をもたらした。
 モンゴル・ハーン諸国と特にカラ・コユンルとアク・コユンルのトゥルクメンの支配は非常に重大な結果をアルメニアにもたらした。
 生産者は破滅し、住民の一部は奪われ、根絶やしにされ、文化的記念物は破壊された。
 サファヴィー朝がアク・コユンルを解体し、その後、東アルメニアはサファヴィー国家の一部となり、西アルメニアは後に
オスマン帝国の一部となった。


 アク・コユンルウズン・ハサン時代


アルメニアと帝国主義諸国の戦争(1500−1878)
東アルメニア  
ペルシャのトランスコーカシア・アルメニア人の追放、大追放 
 戦争、侵略、再移住は別として、アルメニア人は17世紀まで依然として東アルメニア住民の多数であった。
 1604年、サファヴィー朝のアッバース1世がオスマンに対しアララト峡谷でオスマンに対し焦土戦術をとった。
 東アルメニア(トランスコーカサス)から25万人のアルメニア人が追い立てられた。
 大オスマン軍の接近でのカルス撤退で、敵に利用されるのを防ぐために、平原の全都市と田舎の土地の完全破壊を命じた。
 これらは試練の始まりであった。
 1606年、以前トルコに失った全領域をアッバース1世は取り戻した。
 アルメニア地域の一部は15世紀からチュフル・サアド(エリヴァン地域)として知られた。
 イスマイル1世のときから、統治的にはそこはサファヴィー国のチュフル・サアド・ベグラルベク国を形成した。
 ナーデル・シャーの死後(1747)、サファヴィー朝は衰退し、地域支配者でチュフル・サアド支配の相続者キジルバシュ族の
ウスタジュル族(オグーズ由来)が独立を宣言し、エリヴァン・ハン国(1747−1828)を形成した。
 (ナーデル・シャーの死後、エリヴァン、ナフチヴァン、カラバフとガンジャの4ハーン国が形成され、ザンド朝、
ガージャール朝に従属)
 アルメニア人住民がアルメニアから追い払われた結果、18世紀までにアルメニア人はチュフル・サアド地域の全住民の
20%になった。
 後に王位はウスタジュル族からトルコ種族のカンガルリ(ペチェネグの子孫?)に代えられた。
 ガージャール朝の権威のもと、エリヴァン・ハン国はガージャール・イランへの従属が認められた。
 カンガルリ種族のハーンはガージャールのハーンによって歴史的アルメニア地域にハーンから代えられた。
 ナフチヴァンとカラバフのハーン国もまた存在した。
 17世紀初めから18世紀中期まで、ハムスという名で知られる5つのアルメニア・メリク国(小侯国)がサファヴィー朝
シャー・アッバース1世のもと、ナゴルノ・カラバフ地域に形成された。ハムスのアルメニア住民はベグラリア、
イスラエリア(後にミルザハニアとアタベキア)、シャーナザリア、ハサン・ジャラリア、アヴァニアの一族によって支配された。
 アタベキアはハサン・ジャラリアの分枝でシャーナザリアは原住で他はアルメニア地域のほかから移って来た。
(5つはグリスタン:ベグラリア家、ジュラベルド:イスラエリ家、ハチャン:ハサン・ジャラリア家、ヴァランダ:シャーナザリア家、
ディザク:アヴァニア家)
 18世紀にダヴィト・ベクとヨセフ・エミンがコーカシア・アルメニア人のトルコとイランへの闘いを率いた。



 カラバフの5侯国(メリク国) 16世紀


18世紀民族解放闘争
 ロシアの親アルメニア傾向がピョートル1世とともに始まった。
 これに重要な役割を演じたアルメニア人民族解放運動の指導者の一人がイスラエル・オリであった。
 オリはピョートル1世と交渉し、1707年、ロシア軍とともに進軍し、オリは地域支配者と支援交渉を行ったが、17111年、
オリが突然死亡。
 1722年、シュニクとナゴルノ・カラバフのアルメニア人がペルシャ支配に反乱。反乱はダヴィト・ベクとエサイ・ハサン・
ジャラリアンが率い、彼らは数年でなんとかイラン支配を倒した。
 反乱はまたナヒチェヴァン地域を覆った。1730年、サファヴィー朝はこの地域のダヴィト・ベクの権威を認めた。
 1730年、彼の後継者ムヒタル・スパラペトの暗殺で、シュニクのアルメニア人の8年の反乱は終わった。
 アルメニア民族解放運動の新しい復興は18世紀後半に見られる。
 この時期の民族解放運動の重要な人物はヨセフ・エミンとモヴセス・バグラミアンで彼らはアルメニア国再興計画を提出した。
 18世紀末に、ナゴルノ・カラバフのアルメニア人メリクたちはカラバフ・ハーン国のイブラヒム・ハリル・ハーンに対し、
ロシア帝国の支援でカラバフにアルメニア人支配を回復する望みで厳しい戦いを仕掛けた。

東アルメニアのロシア帝国合併
 19世紀初めから東アルメニアの歴史的地域は徐々にロシア帝国に加わった。
 ロシア・ペルシャ戦争(1803−1813)の結果、カラバフ・ハーン国はロシアに併合され、その高地部分は主にアルメニア人が
住んでいて、歴史的シュニクのザンゲズルは当時混住であった。
(カラバフ・ハーン国はアルメニアのハムサ・メリク国の占領のあと18世紀中期に形成された。)
 エリヴァンの2度の征服の試みは成功しなかった。
 1827年、ロシア・ペルシャ戦争(1826−1828)の間、エリヴァンはパスケヴィッチによって占領され、その少し前に
ナヒチェヴァン・ハーン国の首都ナヒチェヴァンもまた落ちた。
 トゥルクメンチャイ条約でこれらのハーン国の地域はロシアに与えられ、ムスリムはペルシャへ、キリスト教徒はロシアへ
再移住する権利が確立された。
 1828年、エリヴァンとナヒチェヴァンの場所にアルメニア・オブラスト(州)が形成され、17世紀初期に強制的に南コーカサスから
ペルシャによって立ち退かされたアルメニア人の子孫は大量にイランから再移住した。
 その後、1849年、アルメニア地域はエリヴァン総督府に移行した。
 ロシア・トルコ戦争(1877−1878)の結果、歴史的地域(西アルメニア)の他の部分、カルスとその周辺(ここから
カルス・オブラストが組織)はロシア帝国の支配下に入った。

西アルメニア
 メフメド2世は1453年、コンスタンティノプルを征服し、オスマン帝国の首都とした。
 オスマン・スルタンはアルメニア人主教を招きアルメニア総主教をコンスタンティノプルに確立した。
 コンスタンティノプルのアルメニア人は増加し社会の尊敬される一員となった。
 歴史的アルメニア地域に住む人々と異なりコンスタンティノプルに住むアルメニア人はスルタンの支援を享受した。
 アルメニア地域に住む人々は地域のパシャとベイによって厳しく取り扱われ、クルド種族によって納税を強制された。
 アルメニア人は他のオスマン地域に住むキリスト教徒と同じく、イェニチェリとなる健康な若者を差し出さなければならなかった。
 16世紀から20世紀初期に、オスマン帝国の支配者は積極的に歴史的アルメニアの土地をムスリム・クルドと占領し、
クルド人はアルメニア人よりトルコ支配に忠実で、より政治的野望は少なかった。
 17世紀のオスマン帝国の衰退の開始とともに、キリスト教徒一般へと特にアルメニア人への権力の姿勢は顕著に悪化し始めた。
 1839年のアブドル・メジド1世のこの地域の改革のあと、オスマン帝国でのアルメニア人の地位は一時、改善された。

 ロシア・トルコ戦争(1877−1878)の後、歴史的アルメニアの一部、カルスとその周辺はロシアからトルコに譲られた。
 ベルリン条約で戦争が終焉し、これでスルタンはトルコ・アルメニア地域の改革とアルメニア人への安全保障と自治の
提供を求められた。アルメニア問題が始めて国際外交問題として提出され、これでアルメニア人は非常に勇気づけられた。


 1900年頃



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