<<オーストラリアの左翼>> トロツキスト


オーストラリア共産党CPA) 歴史 歴史 歴史
 1920年設立し1991年解散。
 1940年代に最も政治的に強力で1951年に禁止に直面した。
 オーストラリアの既存体制に大した挑戦をなすことはなかったが、労働組合、社会運動、国民文化に重要な影響を与えた。

 1906年にメルボルンで英国労働運動活動家トム・マンの影響によりロバート・ロスによりヴィクトリア社会党VSPが結成された。
 VSPの多くのメンバーは労働党にも所属していた。これはマルクス主義政党で1907年約1500のメンバーを数えた。
 ジョン・カーティンフランク・アンステイモーリス・ブラックボーンドナルド・カメロンジョン・ケインなどが後著名になった。
 1907年他の州の同様のグループとオーストリア社会主義者連合を結成したが機能をなさなかった。
 CPA結成にあたってビル・アースマンらはこれに参加したがロバート・ロスら多数派はボルシェヴィズムに反対し参加しなかった。

 1920年10月にロシア革命の報告に影響された26名の社会主義者グループによってシドニーで設立された。
 創設者には著名なシドニーの労働組合活動家のジョン・ガーデンオーストラリア社会党のアーサー・リアードン、アデラ・パンクハースト
(英国共産党設立メンバーのシルヴィア・パンクハースト妹)、ギド・バラッキらのクイーンズランド共産主義者、と当時の非合法の
世界産業労働者IWWオーストラリア支部の大部分がいた。その他ピーター・シモノフジリ−・スミスウイリアム・アースマン
 間もなく労働党に対する見解でオースラトリア社会党が去った。
 ジョン・ガーデンの意見により1922年すべての共産党メンバーは労働党に参加。
 IWWはソ連とボルシェヴィズムの方向に対する不一致によりその当初のメンバーとともに共産党から離れた。
 初期には主にガーデンの努力によりニュー・サウス・ウェールズの労働組合運動にある程度の影響を与えが1920年代
中期には次第に減少し重要でない集団になった。
 1924年ガーデンがニュー・サウス・ウェールズから選挙に立ち317票しか獲得できなかった。
 ガーデンジャック・ラング労働党政権に協力し1926年追放される。
 1920年代後期、党は熟達したカナダ人共産主義活動家のジャック・カヴァナフと才能あるメルボルンのジャーナリストの
エスモンデ・ヒギンズによって再建された。カヴァナフは1925年カナダから来たアイルランド人であった。
 共産党は1930年代初期までにミリタント少数派運動失業労働者運動で成功を収めた。
 しかし1929年党の指導部はスターリンのもとで極端な革命的言辞(いわゆる第3期)に転換したコミンテルンと仲違いし、
密使のアメリカ人共産主義者ハリー・ウィックスが党が認めた誤りを正すために送られてきた。
 カヴァナフは追放され、ヒギンズは辞任した。
 J.B.マイルズ、ランス・シャーキー、リチャード・ディクソンよりなる新しい党指導部がコミンテルンによって党に課せられ、
次の30年間党を支配した。
 党員は1929年末の約250から1935年の3000人以上に増加。
 1930年代に、特に1935年以降コミンテルンが反ファシズム統一戦線支持政策に転換したとき党はある程度の成長を体験した。
 議会候補はほとんど選挙で得票できなかったが党は鉱員連合と港湾労働者連合のような労働組合に地位を勝ち得始めた。
 第二次世界大戦の初期、党はほぼ禁止されたが(メンジース政権)、国民投票の結果、民主制を支持するいかなる政党の禁止も反対となった。
 ソ連が戦争に参加し、短期間党は支持を得た。
 人民戦線路線の時期、党員は労働党内で活動し、特にニュー・サウスウェールズで勢力を確保した。
 党はロバート・ヘフロンらの産業労働党ILPを支持した。1939年の合同でヘフロングループがニュー・サウスウェールズ労働党の主導権を握り、
これにより共産党がニュー・サウスウェールズ労働党に影響を与えた。分裂が起こり、連邦党によりジョン・ヒューズとウォリー・エヴァンズが追放され
州労働党を結成、共産党はこの党を支配。この党は1944年共産党に合同する。
 1943年党員は2万人になり、重要な労働組合(アーニー・ソーントンの連合鉄鋼労働者協会FIA)を支配でき、フレッド・パターソン
クイーンズランド議会に選ばれた。
 しかし党はオーストラリア政治の主流の周辺でしかなかった。

 1945年冷戦開始後、党は着実な斜陽に陥った。しかし1946年にはまだ約1万3千の党員がおり、オーストラリア労働組合協議会ACTU会議では
共産党のトム・ライトが大きな力を持った。
 新帝国主義戦争と不況が切迫し、CPAが労働党と労働者階級の指導権を競うというモスクワ新路線を信じ、CPAは1947年、
産業攻勢に乗り出し、1949年の炭鉱の長いストライキで頂点に達した。チフリー労働党政権はこれを共産主義者の彼らの
労働運動への挑戦と見なし、軍隊でストライキを鎮圧した。共産党は2度とそのような強固な地位を労働運動に保持できなかった。
 1951年、メンジース保守党政権は党を禁止しようと試み、最初は法令を違法とされ、ついで国民投票を試みたが辛うじて
打ち破られた。
 スターリンの死後のフルシチョフ秘密演説で党員が去り始め、1956年のソ連のハンガリー介入でより多くが去った。
 1961年の中ソ衝突で小さな親中国グループが1964年オーストラリア共産党(マルクス・レーニン主義)を結成した。
 1960年代まで党員は約5000人に落ち込んだ。
 しかしいくつかの労働組合やヴェトナム反戦運動などで影響を持った。

 1962年ジョン・アンダーソンの指導を受けたユージン・カメンカマルクスの倫理的基礎が出版された。

 1968年のソ連のチェコスロヴァキア侵攻が引き金となって危機が訪れた。ソ連に忠実なランス・シャーキー(1948−1965年)の後継指導者
ローリー・アーロンズ(1965−1976年、トリアッティ信奉)が侵攻を批判し、親ソ強硬派が離党し1971年、オーストリア社会党を結成した。
 1970年代、1980年代、ユーロコミュニズム採用と内部組織の民主化を行ったが引き続き斜陽し、1990年まで党員は千人
を切った。
 1991年、解散し新左翼党を形成し、拡大を目指したが失敗し1992年解散。
 1996年、オーストラリア社会党がオーストラリア共産党となった。
 2009年ヴィニシオ・モリナが委員長となる。2010年選挙ではエスニック共産主義者組織や個人活動家と共産主義者連合を結成し、
上院にNSWから2名、下院にシドニーから1名立候補。下院第1選好656票獲得。

 1931年の上院(senate)で22943票、0.94%が初見、1934年、2.24%、1949年、2.10%、以降上昇し1955年、
161869票、3.64%がピーク、1961年には1.62%に低下。以降記録なし。

 共産党は小説家のキャサリン・スザンナ・プリチャード(創設メンバー)、ジュダー・ウェイトンフランク・ハーディー
エリック・ランバートアラン・マーシャルや画家のノエル・カウニハン、詩人デイヴィッド・マーティンなどを惹き付けた。

社会主義者
 1887年ウィリアム・マクナマラらによりオーストリア社会主義者同盟ASLが結成され1889年崩壊。
 1890年にオーストリア社会主義者同盟ASL再建。
 ASLは分裂を蒙り、1892年改良主義的国家社会主義に反対するウィリアム・マクナマラ(1857−1906年)、ウィリアム・マロニーらにより
オーストリア社会民主連合が、1983年活動的サーヴィス旅団(失業労働者運動組織、1905年頃解散)が結成され、1898年には
反人種主義グループが国際社会主義者クラブを結成。

 1906年にメルボルンで英国労働運動活動家トム・マンの影響によりロバート・ロスによりヴィクトリア社会党VSPが結成される。
 VSPの多くのメンバーは労働党にも所属していた。VSPはマルクス主義政党で1907年約1500のメンバーを数えた。
 ジョン・カーティンフランク・アンステイモーリス・ブラックボーンドナルド・カメロンジョン・ケインなどが後著名になった。
 1907年他の州の同様のグループとオーストリア社会主義者連合を結成したが機能をなさなかった。
 CPA結成にあたってビル・アースマンらはこれに参加したがロバート・ロスら多数派はボルシェヴィズムに反対し参加しなかった。

 オーストリア社会主義者同盟ASLは労働党内で活動(政治労働同盟)したが労働党の右傾化で抜け1905年からIWWのドレオン主義を採用し、
1907年社会主義労働党(エルネスト・ジュッド)となる。ウィリアム・マクナマラは1906年死亡。1907年旧ASLメンバーが社会民主党結成。

 1907年ヴィクトリア社会党のトム・マンがオーストリアの社会主義組織の協議会を招請。社会民主党は自党を基礎に統一することを
主張し敗北して去る。クイーンズランドの社会民主前衛、シドニーの社会民主連合など労働党に属する諸グループがオーストリア社会主義者連合
後の社会党結成。1910年代後半社会主義労働党(エルネスト・ジュッド)と社会党(アーサー・リアードン)で統一交渉が行われるが成功せず。
 アーサー・リアードン、レイ・エヴェリット、アルフレド・ブロドニーオーストラリア社会党は1920年10月共産党結成に参加するが間もなく
労働党に対する見解で相違し去る。
 (エルネスト・ジュッドの社会主義労働党は1931年まで文書が見える、ジュッドは1959年死亡、社会主義労働党はいまだ存続か。)

 イギリス社会党に所属するオーストラリア社会党(1930−1970年)が存在する。


オーストラリア共産党(マルクス・レーニン主義)
 1964年中ソ分裂により親中派が分裂してエドワード・ヒルらが結成。
 この党は1970年代初期いくつかの大学の急進学生を惹き付けた。
 しかし1972年のニクソンの北京訪問以降学生への影響を失った。
 党と残った学生は毛沢東修辞を捨て、社会主義の第1段階としてオーストラリア独立を推進し始めた。
 これで党が分裂し、1978年民族主義路線反対派が去った。
 1970年代、1980年代、1990年代種々の分派が離党あるいは追放された。
 文化革命支持派は1984年設立のオーストラリア共産党再建委員会を支持し、これはオーストラリア・マルクス主義労働者党
として赤旗を出版し続けている。
 赤いユーレカ運動が1977年形成されて今も続いている。
 1988年、オーストラリア・マルクス・レーニン主義共産党全国準備委員会が分裂。


トロツキズム> 初期 

 1932年ジャック・シルヴェスター(失業労働者運動全国書記)、ジョーイ・ボックスホール(グレーブ失業委員会指導者)が共産党
から追放され、シドニー大哲学教授のジョン・アンダーソンも共産党と衝突。
 1933年シルヴェスターボックスホールアンダーソンらが労働者workers Party党結成、ジョーイ・ボックスホールが最初の書記となり、
月刊誌ミリタント発行。1934年ニック・オリグラステド・トリップ(モスクワ・レーニン学校参加)が共産党から追放されて参加。
 更にこの周辺にはエスモンデ・ヒギンズジャック・カヴァナフ(1934年共産党から追放され1940年共産主義者同盟参加)、
ジャックとエドナ・ライアンがいた。
 初期メンバーにはそのほか1932年に青年共産主義者同盟から追放されたローリー・ショートイッシー・ワイナーがいた。
 クイーンズランドの共産党州書記のディニー・ラヴグローヴが1933年共産党から追放され1935年レーニン主義者同盟
結成、後に労働党に移り反共主義者(民主労働党)となった。レーニン主義者同盟とトロツキズムの関係については議論が分かれる。
 1937年ジルバート・ローパーが参加。
 そのほかジェームズ・ノーミングトン・ローリングス(、ファシズム・戦争反対運動活動家、スターリン・ヒットラー協定後参加)、ギド・バラッキ
(1939年共産党から追放)などがトロツキズム運動に参加。ギド・バラッキは1960年代までニック・オリグラスグループ支持。
 1937年ジョン・アンダーソンテド・トリップが分裂し、テド・トリップは革命的民主同盟を結成、これは独立共産主義者同盟と改名。
 ジョン・アンダーソンは米国のバーナム−シャハトマンらと近い考え方を抱き、マルクス主義を放棄しリバータリアンとなり、テド・トリップ
1940年トロツキズム放棄。
 独立共産主義者同盟は1938年労働者党と合同。
 1938年労働者workers Party党が共産主義者同盟となる、1939年第4インター加盟。ニック・オリグラスが委員長、ジルバート・ローパー
(長く共産党指導者で1937年参加)が書記となる。
 ジョン・ウィシャートが1939年第4インター加盟に反対して分裂、革命的労働者党ついで革命的労働者同盟結成。
 ジル・ローパーローリー・ショート(1948年トロツキズムから離れ右傾化)とオリグラスの3人が共産主義者同盟の中心人物であった。

 1940年非合法化、これにより共産主義者同盟が労働党に加入して、ジョン・ウィシャート・グループと決定的に衝突、革命的労働者党が
数年唯一のトロツキスト組織となる。労働党に加入グループは労働社会主義者グループと称し、社会主義者を発行。
 これはほとんど成功を収めず労働党に埋没。革命的労働者党は1947年解散。
 トロツキスト組織は1940年代末までほとんど崩壊、1965年以前オーストラリアのトロツキストは50人を越えることはなかった。
 1940年代バルマイン鉄鋼労働者組合にニック・オリグラスローリー・ショートらが影響を確保したが内部抗争に敗北し共産党に主導権を渡す。
 1951年ローリー・ショートがカトリック活動運動の助けで共産党を追い出し鉄鋼労働者の指導者となる。

 戦争末期アナトル・カーガンが参加。
 1953年の国際トロツキスト運動の分裂でオリグラスはパブロを支持
 1963年には統一書記局に参加し、パブロの分裂でオーストラリアのトロツキストも分裂、多数派はパブロ(国際革命的マルクス主義者傾向
に随行。
 統一書記局支持の少数派ボブ・ゴールドイアン・マクダガルらはシドニーで1960年代初期に核非武装運動に関わりこれが1965年
ベトナム行動運動となった。1965年社会主義展望発行。彼らは第3世界書店を創設し運動の中心とした。
 両グループとも労働党に加入していた。
 ボブ・ゴールドイアン・マクダガルはベトナム行動運動で若い活動家を獲得。ジョンとジムのパーシー兄弟はシドニー大学労働クラブに
参加していた。
 1969年ボブ・ゴールドジム・パーシーらは国際マルクス主義者同盟IML結成。
 1970年にボブ・ゴールドジム・パーシーが分裂ジム・パーシーらは社会主義青年連合結成。
 ボブ・ゴールドらは労働党の社会主義左翼に参加していた。ニック・オリグラスは1960年代初期ライヒハルト議会に労働党から選出された。

 フルシチョフの秘密演説後の新左翼の世界的勃興のなかでオーストラリアでは1957年ヘレン・パーマーがシドニーで展望Outlookを発行し、
共産党離散者の避難所となったが代替組織の結成や青年運動、反戦運動に大した影響を与えることはできず1970年解散。
 1950年代シドニーとメルボルンで社会主義者フォーラムが結成されたが短期間で消滅しどんな共産党に変わる新左翼も生き延びなかった。

 わずかに1963年メルボルンで雑誌アレーナが発行され理論的展開に貢献した。初期は東欧の人間の顔をしたマルクス哲学派や
フランクフルト学派の影響を受けながらマルクス理論を展開させ共産党にも影響を与えたが、1970年代からは脱マルクス化し始めた。
 1993年解散。

 シドニー・プッシュ(攻勢)
 1940年代末から1970年代初期シドニーの主に左翼知識人の副次的文化。
 主な参加者はジョン・フラウスハリー・フートンマーガレット・フィンクレクス・バニングエヴァ・コックスパディー・マクギネス
デイヴィド・マキソンジャーメイン・グレアクライヴ・ジェイムズロバート・ヒューイフランク・ムーアハウスリリアン・ロクソン
 彼らの多くはリバータリアン思想の影響を受けていた。これにはシドニー大学教授のジョン・アンダーソンが寄与していた。
 共産党の1930−1940年代でのメルボルン大での成功に対しシドニー大での失敗はしばしばアンダーソンによるとされる。
 アンダーソン派哲学者はジョン・パスモアデイヴィド・アームストロングデイヴィド・ストーヴジョン・マッキーユージン・カメンカなど。
 シドニー・リバータリアニズムはエリートの不可避性と革命の無用性を叙述するマックス・ノマドヴィルフレド・パレートロベルト・ミヘレス
社会理論の永久抗議の態度を採用。終わりなきアナーキズム、非ユートピア・アナーキズム、永久抗議を標語とした。
 しかし南アフリカのアパルトヘイト反対、1960年シャープヴィル虐殺犠牲者支援、オーストラリアのベトナム戦争参加反対などの街頭デモ
組織には協力した。


民主社会主義展望DSP〕
 1967年、シドニー大学の社会主義クラブとベトナム行動運動からSCREW(労働者階級革命解放シドニー委員会)が結成
され、間もなくレジスタンスジム・パーシー)と改名、1970年全国会議が創設され社会主義青年連合と名称変更。
 (10年後再びレジスタンスに戻る。)
 1972年、社会主義青年連合のメンバーが社会主義労働者同盟SWLを結成、さらに1976年社会主義労働党SWPとなる。
 これは米国SWP影響下再統一第4インターに加盟。
 1984−1985年に核非武装党に関係する。これによりトロツキストを嫌う部分が核非武装党から分裂。
 1986年、SWPはトロツキズムと衝突し、第4インターから離脱、永久革命論から第三世界論に変わる。
 1989年、民主社会党ジム・パーシー)と改名。
 1990年、レジスタンスはDSPと週刊緑・左翼を発行。ドイツでの緑党の興隆によりエコ社会主義を志向する。
 1998年、連邦選挙に民主社会主義選挙連盟の一部として参加、
 2001年、国際社会主義組織他6組織(労働者自由自由社会党)と社会主義連合結成。
 2003年、DSPは最初のそして唯一の社会主義連合加盟組織となり内部分派を形成し民主社会主義展望と改名する。
 2008年、少数派が分裂し他のグループと合流し革命的社会党を結成。
 SWPとDSPは連邦選挙に参加しているがほとんど成果はなく、時々労働党への加入戦術も行っているがこれもほとんど
成功していない。2004年で社会主義連合が14155票。

国際社会主義組織〕 
 国際社会主義傾向トニー・クリフ派)のトロツキスト。
 シドニー、メルボルン、ブリズベイン、パースなどに組織がある。
 メルボルンの警鐘tocsinグループはテド・トリップ主宰のヴィクトリア労働大学周辺や旧毛派などが存在し、一部はヒーリー派を結成し、
他は1971年、マルクス主義労働者グループを結成、1972年、米国の影響(トム・オリンカン)を受けたグループが社会主義労働者行動
グループSwaggies結成。
 1975年、国際社会主義者となる。当初トロツキストで民族主義に反対、1980年代国際社会主義傾向となる。
 1985年、社会主義行動が分裂、
 1990年、社会主義行動と合流し国際社会主義組織となる。
 1995年、学生を中心とする社会主義選択ミック・アームストロングサンドラ・ブラッドワースジル・スパロー)が分裂。
 2001年、社会主義連合に参加するが2007年離脱。
 2003年、連帯(イアン・リントル)が分裂、一部社会主義選択のシドニー・メンバー参加。
 2003年からオーストリアのイラク占領参加に反対する反戦運動を展開。
 2008年、社会主義行動グループ(社会主義選択からブリズベインのグループが分裂)、連帯と統合し連帯結成。
 ブリズベインのジョー・ペターソン政権で権利行進を活発に展開。
 人種主義ワン・ネーション党の勃興に対し反人種主義行動を行う。
 メルボルン大、シドニー大、ブリストルのグリフィス大に焦点を置いている。

連帯
 国際社会主義組織、社会主義行動グループ、連帯のもともと一緒だった3組織が2008年合同して結成。 
 国際社会主義傾向のメンバー。

社会平等党
 第4インター国際委員会派、1972年、社会主義労働同盟として結成。
 シドニー、メルボルン、ニューカースル、パースに組織。
 2010年選挙下院11160票獲得。

社会主義選択
 1995年国際社会主義組織から分裂結成。
 NUSで勢力があり、イラク、アフガニスタン戦争反対運動などで勢力拡大し極左で最大グループとなる。
 米国国際社会主義者組織、ギリシャ国際主義者労働者左翼、ニュージーランド国際社会主義者組織、フランス国際社会主義などの
国際社会主義傾向ISTの一部と結びついている。
 著名な活動家はミック・アームストロングサンドラ・ブラッドワース(歴史家)、ジル・スパロー(歴史家)、トム・オリンカン(旧米国
国際社会主義者メンバー)、リズ・ロス(歴史家)、トム・ブランブル(歴史家)、リック・クーン(経済学者)、アズラン・マクレナン(芸術家)など。
 歌手のエゼキエル・オックス、作家のカリンダ・アシュトンがかつてメンバーであった。

オーストラリア社会党〕 HP
 労働者インター委員会所属のトロツキスト。
 1985年労働党内の小グループとして始まり1990年代初め労働党から離れる。当初ミリタントついでミリタント社会主義者組織。
 2004年ステファン・ジョリーがヤッラ市議会議員となる。

社会主義連合
 2001年民主社会主義展望DSP、国際社会主義組織の主導でその他6組織とともに2000年のメルボルンの国際経済フォーラム抗議の
余波で結成。
 民主社会主義展望国際社会主義組織との関係がまずくなり2002年危機となり、民主社会主義展望社会主義連合への
解消が最終危機となる。
 2003年民主社会党が解散し組織内分派マルクス主義者傾向となる。
 2005年労働党への対応、DSPの週刊緑・左翼扱いなどに関し意見相違が明確となる。
 2001年連邦選挙で約2万5千票獲得。2004年は約1万4千票。
 戦争を止めろ連合などで活動。著名な人物はサム・ワトソンなど。
 積極的な加盟組織は民主社会主義展望レジスタンス(2003年加盟)。非積極的な加盟組織はイラク労働者共産党オーストラリア、
労働者同盟、労働者自由(イギリスの労働者自由連合と繋がる1980年結成のトロツキスト)など。 
 社会主義選択は初期段階で撤退、社会主義者民主(1985年社会主義労働党SWPの再統一第4インター衝突でインター支持派結成)は
2005年解散、労働者の力は2005年離脱、国際社会主義組織は2007年離脱、自由社会党(1982年結成の革命的フェミニズム、
米国の同名党シンパ組織)は2007年離脱。
 2010年選挙下院9348票獲得。
 2013年下院4243票。

核非武装党
 1984年、マイケル・デンボロが結成。
 同年選挙で約64万票、7.23%獲得、上院でジョセフィン・ヴァレンティン当選。
 1985年、社会主義労働者党に乗っ取られたとして多くが離党。ジョセフィン・ヴァレンティンは無所属となる。
 1987年選挙でウイリアム・ウッドが上院当選。しかし市民権がなかったため失格し、イリナ・ダンが当選。
 ウイリアム・ウッドの市民権獲得で議席を譲るよう要求され、イリナ・ダンは無所属となる
 ウイリアム・ウッドは1990年オーストリア民主に参加。
 1998、2001、2004、2207連邦選挙に候補を立てる。2009年公式解散。


労働党ALP〕  

  労働党は社会主義インターのメンバーであるが、全国統一賃金制度や強固な福祉制度を支持したが国有化は行わなかった。
 唯一の例外は1940年代のベン・チフリー(1945−1949年)の銀行国有化の試みであるがこれは違憲とされた。
 党の白豪主義は1967年のアーサー・コールウェルの指導者引退まで変化しなかった。
 その後労働党は多文化主義になった。

 労働党から何人かの保守指導者がでている。
 保守首相のジョセフ・クック(1913−1914年、連邦自由党)、ビリー・ヒューズ(1915−1923年)、ジョセフ・リオンズ(1932−
1939年)、後者2人は長老であった。自由党現党首ブレンダン・ネルソンも党議員であった。

 1872年最初の社会主義者組織ヴィクトリア民主協会が結成されたが1年ともたなかった。
 これは第1インター支部となった。オーストラリアが不況になり1887年ウィリアム・マクナマラらによりオーストリア社会主義者同盟ASL
結成され、同年これと別個に新聞急進ボブ・ウィンスペアにより発行された。急進はASLの新聞となったがウィンスペアとASLは
意見が合わずASLは1889年崩壊しローザ・アルバートらは社会民主同盟結成(1892年労働党吸収)。ASLは1890年再建され1890
1891、1894年のストライキに巻き込まれ、1894年にオーストラリア労働者連合結成される。ASLは分裂を蒙り、
1892年改良主義的国家社会主義に反対するウィリアム・マクナマラウィリアム・マロニーらによりオーストラリア社会民主連合が、
1983年活動的サーヴィス旅団(失業労働者運動組織、1905年頃解散)が結成され、1898年には反人種主義グループが
国際社会主義者クラブを結成。ウィンスペアは1912−1916年に社会党に参加。

 オーストラリア労働党はオーストラリアの植民地の労働組合と社会主義者の種々の選挙組織から出現し、
オーストラリア労働党という名は1908年に採用された。
 党史によると1890年代初期各地の労働者政治組織が結成された。
 これは1890年代初期の大ストライキを受けたものであった。
 1891年のニュー・サウス・ウェールズ選挙に候補を立て、141議席中35議席獲得した。
 1899年、アンダーソン・ドーソン(鉱員上がり)がクイーンズランドで世界最初の少数派労働政権を形成し1週間続いた。
 オーストラリア連邦(1901年憲法施行、植民地が集合しオーストラリア連邦の州となる)支援のため州労働党組織と
オーストラリア労働運動が一緒になった。
 1901年連邦議会労働党が1901年5月最初の会合を開催した。
 ここでは白豪主義が要求された。
 労働党は初期に急速に成長し、全国選挙で成功を収めた。
 労働党は1904年4月クリス・ワトソンを首相(、オーストラリア第3代、8月まで4ヶ月弱)としてが最初の少数派政権
保護貿易党の支援)を形成した。
 1901年の選挙では州労働党集合として下院15.75%、75議席中14議席、第3党、1903年は30.95%、23議席、保護貿易
党と組んで、自由貿易党と対抗。
 1901年の選挙で労働党は白豪主義、市民軍、産業論争の強制仲裁を綱領とした。

 オーストリア社会主義者同盟ASLは労働党内で活動(政治労働同盟)したが労働党の右傾化で抜け1905年からIWWのドレオン主義を採用し、
1907年社会主義労働党(エルネスト・ジュッド)となる。ウィリアム・マクナマラは1906年死亡。1907年旧ASLメンバーが社会民主党結成。
 1907年ヴィクトリア社会党のトム・マンがオーストリアの社会主義組織の協議会を招請。社会民主党は自党を基礎に統一することを
主張し敗北して去る。クイーンズランドの社会民主前衛、シドニーの社会民主連合など労働党に属する諸グループがオーストリア社会主義者連合
後の社会党結成。1910年代後半社会主義労働党(エルネスト・ジュッド)と社会党(アーサー・リアードン)で統一交渉が行われるが成功せず。

 1908年11月−1909年6月にアンドリュー・フィッシャーが5代目の少数派政権を形成した。
 1910年の選挙では労働党は49.97%、43議席でオーストラリア最初のそして世界最初の多数派政権を形成した。
 フィッシャーは1908−1909年、1910−1913年、1914−1915年に政権についた。
 州組織もまたヴィクトリア(自由党に邪魔された)以外で成功を収めた。
 1910年、ニュー・サウス・ウェールズ、と南オーストラリア、1911年西オーストラリア、1915年クイーンズランド州政権を形成した。
 党の初期の創建にかかわるものは産業問題に関する連邦調停制度である。
 1915年、第一次大戦での徴兵問題で賛成派の労働党首相のビリー・ヒューズは労働党多数派や労働組合の反対に会い、分裂し
オーストラリア民族主義党(1916−1931年)を結成し保守と連合し1923年まで首相にとどまった。
 1919年産業社会主義労働党が結成されIWWワン・ビッグ組合運動と提携した。1921年に消滅。多くは労働党に復帰し、
ジョン・ガーデンは共産党に参加。
 1931年、大恐慌への対応で党は、英国の借金支払い拒否を望むニュー・サウス・ウェールズ首相のジャック・ラング
親ケインズ主義者、伝統財政の首相のジェイムズ・スキュリン(1929−1939年)、ジョセフ・リオンズに3分裂し、1931年、リオンズ
は離党し、保守と統一オーストリア党(1931−1945年)を結成し、1932年首相となった。
 外国負債否認を発表したジャック・ラングニュー・サウス・ウェールズ労働党は連邦党と衝突し1931−1936年分裂した。
 1935年ジョン・カーティンが党首となりニュー・サウス・ウェールズ労働党と和解。
 1938年ジャック・ラングに不満なニュー・サウス・ウェールズのグループ(ロバート・ヘフロンら)が産業労働党(1938−1939年)結成。
 この間ニュー・サウス・ウェールズ支部を左派が支配、1940年州執行部はロシアから手を引け政策を採用。
 ラングらは分裂しオーストラリア労働党(非共産主義者)(1940−1941年)を結成。
 連邦党が介入、左派は追放され一部は共産党に加入、多くは州労働党(ジョン・ヒューズ)を結成、1944年共産党合流。
 ジョン・カーティンが1941−1945年の首相となった。
 ベン・チフリーが1945−1949年の首相を務め1949年の石炭産業ストライキで軍隊を使用した。
 チフリーは共産主義者に教訓を与えるべきだと述べ、アーサー・コールウェルは共産主義者と支持者を収容所に送ると脅した。
 1954年共産主義問題で分裂した。
 1950年代、強固な反共産主義ローマ・カトリック・メンバーが労働組合への共産主義者の浸透を疑い、それを支配するために
産業グループを結成し、激しい内部衝突を巻き起こした。1954年選挙での労働党の敗北のあと、連邦指導者ハーヴァート・エヴァット
は敗北をグルーパーズGroupersの破壊的活動のせいと批判した。厳しい公開論争のあと多くのグループ・メンバーが追放され
バーソロミュー・サンタマリアを指導者として民主労働党DLP(1955−1978年)を結成した。
 DLPの多くはアイルランド由来のカトリックであった。
 DLPはオーストラリアのベトナム参戦を強固に支持した。1978年解散し1984年民主労働党が再結成された。
 DLPのおかげで自由党は20年にわたり政権を維持することができた。
 1972年、労働党は過半数を獲得し、グー・ウィットラムによって1974年、DLPは骨抜きにされた。
 ウィットラムジョン・カー総督の非常大権で解職された。(唯一例)。
 1970年代、党に右派統一労働社会主義左翼の2大グループが形成された。右派は市場経済で親米で左派は経済介入を
志向し米国との連合に熱心ではない。
 1983年から1996年のボブ・ホーク(1983−1991年)とポール・キーティング(1991−1996年)政権で第3の道と経済合理
主義に関係した多くの経済政策が追求された。
 1996年労働党は伝統的労働者階級支持を放棄し、右傾化したとするグループが進歩労働党を結成。
 この党は1998年選挙では6122票、0.06%獲得。
 1996年選挙で労働党は大敗し、1934年以来の低得票率38.75%で、31議席減らし41議席となり政権から落ちた。
 以降民主国民連合に敗北を続け2007年、ケヴィン・ラッドにより83議席で政権を奪回した。
 ケヴィン・ラッドは中道左派を自称しサッチャー主義を否定し、第3の道を支持している。
 2010年6月不人気なケヴィン・ラッドに代わってジュリア・ギラード(1961年生)が党首、最初の女性首相となった。
 2010年選挙は労働党72議席、リベラル/国民連合72議席の宙ぶらり議会となり、無所属3、緑1の支持で労働党が少数政権樹立。
 2013年1月、党首選でケヴィン・ラッドが57対45で勝利し、首相も交代。
 9月の選挙では55議席(第1選好33.82%、2党選好46.82%)と前回より17議席減の敗北。
 ケヴィン・ラッドの辞任に伴う党首選でビル・ショートン(2001〜2007年のオーストラリア労働組合AWU全国書記、右派)が
アンソニー・アルバネーズ(左派)を破る。(幹部caucas投票86票で63.9%、一般党員rank-and-file投票約3万で40.8%。両者の重み付きで52%)
 ビル・ショートンは男女平等化を推進。
 2016年ダブル解散は、下院労働党69議席、連合が76議席。


 労働右派(労働統一)
  第3の道を支持、労働組合の多数派支持。カトリックの影響も受けている。
  ロバート・レイらが指導者。

 労働左派(社会主義左翼)
  ニュー・サウス・ウェールズの社会主義左翼は1955年のバーソロミュー・サンタマリアの率いるグルーパーズの反共運動への対抗
 として始まった。ヴィクトリアのグルーパーズは追放され、ニュー・サウス・ウェールズにも多少の余波があった。ヴィクトリアは解散され、
 グー・ウイットラムはヴィクトリア支部を現代化しようとした。これへの応答としてビル・ハートリーとジョージ・クローフォードは一般党員組織
として社会主義左翼を結成した。
 ジョン・フォルクナークリス・エヴァンスアンソニー・アルバネーズジェニー・マックリンなどが著名なメンバー。
 ビル・ハートリーは1986年ボブ・ホープの公然批判により党より追放される。
 連邦では硬い左派(ハード・レフト)と柔らかい左派(ファーガソン・グループ)に分裂。
 ファーガソン・グループはマーティン・ファーガソンが結成。ニュー・サウス・ウェールズとヴィクトリアが拠点。
 ジュリア・ギラードはファーガソン・グループ出身。

 オーストラリア労働組合協議会は1927年結成で46組合、約180万メンバー。
 当初は産業労働者組合で1948年からホワイト・カラー頂点組織、1969年から政府雇用者頂点組織が参加。
 1981年からほぼ全組織労働者を代表。1983−1991年首相のボブ・ホークは1969年左派の支持で小差で委員長となる。
 そのほかサイモン・クリーン(1985−1990年委員長)、マーティン・ファーガソン(1990−1996年委員長)、ジェニー・ジョージ
(1996−1999年委員長)らが労働党議員となる。

オーストリア民主

オーストリア民主
 オーストリア民主は1977年、オーストラリア党新民主運動の合流により結成。上院で11.1%獲得。
 以降1990年の12.6%を最高、1993年の5.3%を最低として2001年まで7−10%台を獲得していたが、2004年、2.1%、
2007年、1.3%と急降下、緑に票を食われた格好となった。

 は1992年結成、1996年、2.4%、2001年には4.9%、2004年には7.7%、2007年には9.0%と民主に取って代わってきた。

 最初の指導者ドン・チップ(1977−1986年指導者)は元保守であったがオーストリア民主は経済介入、環境問題、アボリジンとの
和解、平和主義、人権擁護などを主張していた。民主の進歩リベラル政策はリベラルの社会保守政策に不満な中間階級を引き付けた。
 ボブ・ホークポール・キーティング政権では均衡戦術を採用した。
 1990年の景気後退にはジャナイン・ハイネス(1986−1990年)のもと躍進したが、1990年の湾岸戦争に反対し、
1993年には後退した。ケアリー・カーネット(1993−1997年)のもと彼女のマスコミ人気により人気を回復、1998年の付加価値税
導入で党内意見が分裂し、2001年左派的ナタ−シャ・デスポジャが指導者となるとメグ・リー(1997−2001年)が離党、
デスポジャは指導者からおろされた。そのあとの指導者の問題行動などにより2004年には大敗。
 リン・アリソン(2004−2008年)のもと回復を図ったが党内不和などもあり回復はならなかった。

オーストラリア緑
 オーストラリア緑の起源は世界最初の緑政党の統一タスマニア・グループに起源する。これは1972年タスマニア州選挙に立候補。
 1970−1980年代のタスマニアでのダム建設反対運動から1980年、米国出身のノーム・サンダースオーストリア民主から
タスマニア州議員に当選。
 1984年、核非武装党(1984−)から連邦議員となっていたジョセフィン・ヴァレンティンが1990年、緑議員となる。
 1992年、多くのグループがこれに参加しタスマニア緑が結成され5名が州議員になった。
 1996年、タスマニア緑のボブ・ブラウン西オーストラリア緑ディー・マーゲッツがオールトラリア緑を結成、ボブ・ブラウンが指導者
となった。同年ボブ・ブラウンが上院議員となる。
 2001年には下院、4.96%、0議席、上院4.94%、2議席、2004年は下院7.19%、0議席、上院7.46%4議席となる。
 2007年には下院、7.79%、0議席、上院9.04%、5議席となる。
 2002年マイケル・オーガンが補選で下院議員となる
 2010年アダム・バントが下院議員となる。11.76%獲得。
 2013年、メルボルンからアダム・バント再選。
 2016年、10.23%、1議席。(下院9議席)
 2019年、10.40%、1議席。(下院9議席)

政権
1941−1945年 ジョン・カーティン(労働党) 労働党
1945年      フランク・フォード(労働党) 労働党
1945−1949年 ベン・チフリー(労働党) 労働党
1949−1966年 ロバート・メンジース(リベラル) リベラル、地方党
1966−1967年 ハロルド・ホルト(リベラル) リベラル、地方党
1967−1968年 ジョン・マッケウェン(地方党) リベラル、地方党
1968−1971年 ジョン・ゴートン(リベラル) リベラル、地方党
1971−1972年 ウイリアム・マクマホン(リベラル) リベラル、地方党
1972−1975年 ゴフ・ホイットラム(労働党) 労働党
1975−1983年 マルコム・フレイザー(リベラル) リベラル、国民党
1983−1991年 ボブ・ホーク(労働党) 労働党
1991−1996年 ポール・キーティング(労働党) 労働党
1996−2007年 ジョン・ハワード(リベラル) リベラル、国民党
2007−2010年 ケヴィン・ラッド(労働党) 労働党
2010−2013年 ジュリア・ギラード(労働党) 労働党
2013年      ケヴィン・ラッド(労働党) 労働党
2013−2015年 トニー・アボット(リベラル) リベラル、国民党
2015−2018年 マルコム・ターンブル(リベラル) リベラル、国民党
2018−      スコット・モリソン(リベラル) リベラル、国民党

右翼 国民党 リベラル党 民主 民主労働党 労働党
1943年   6.96(7 16.05(12       49.94(49
1946年   10.70(11 28.58(15       49.71(43
1949年   10.87(19 39.39(55       45.98(47
1951年   9.72(17 40.62(52       47.63(52
1954年   8.52(17 38.31(47       50.03(57
1955年   7.90(18 39.73(57     5.17 44.63(47
1958年   9.32(19 37.23(58     9.41 42.81(45
1961年   8.51(17 33.58(45     8.71 47.90(60
1963年   8.94(20 37.09(52     7.44 45.47(50
1966年   9.84(21 40.14(61     7.31 39.98(41
1969年   8.56(20 34.77(46     6.02 46.95(59
1972年   9.44(20 32.04(38     5.25 49.59(67
1974年   9.96(21 34.95(40     1.42 49.30(66
1975年   11.25(23 41.80(68     1.32 42.84(36
1977年   10.01(19 38.09(67 9.38     39.65(38
1980年   8.97(20 37.43(54 6.57     45.15(51
1983年   9.21(17 34.46(33 5.03     49.48(75
1984年   10.63(21 34.06(45 5.45     47.55(82
1987年   11.50(19 34.41(43 5.00     45.76(86
1990年   8.42(14 35.04(55 11.26     39.44(78
1993年   7.17(16 37.10(49 3.75 1.86   44.49(80
1996年   8.21(18 38.69(75 6.76 2.72   38.75(49
1998年 8.34 5.29(16 34.21(64 5.13 0.47   40.10(67
2001年 4.34 5.61(13 37.40(68 5.41 4.96   37.84(65
2004年 1.19 5.89(12 40.47(74 1.24 7.19   37.64(60
2007年   5.49(10 36.28(55 0.72 7.79   43.38(83
2010年 43.32(72 11.76(1 37.99(72
2013年 45.55(90 8.65(1 33.38(55
2016年 42.05(76 10.23(1 34.73(69
2019年 41.44(77 10.40(1 33.34(68
*第1選好
 下院は小選挙区、上院は大選挙区(6各州12名)

 
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