<<トロツキズム−トロツキストの国際運動>>


【概括】
 トロツキストには戦前からのトロツキストと1960年代以降の新左翼トロツキストがいる。
 ヨーロッパの新左翼トロツキストは米国の古参トロツキストと異なり反共だけではなかったため社会主義崩壊後、多くは左翼として共産党等
と共同戦線をとる。
 米国の古参トロツキストの多くは都市で狭い社会を形成する流浪のユダヤ系知識人で、地位向上とともに反共主義に転じていった。
 日本の新左翼トロツキストは暴力的宗派主義と革命児戯が度を越え、一般社会のみならずと左翼からも忌避される。
      
 情報源
 1 Robert J Alexander International Trotskyism,1929-1985
    From International Left Opposition to Movement for the Fourth International
    The Establishment of the Fourth International
 2 wiki.en 統一反対派
 3 wiki.en 左翼反対派
 4 wiki.en 第4インターナショナル
 5 wiki.en 右翼反対派
   International Left Opposition, 1928-33; forging an international leadership 第5インターナショナル同盟サイト
   The Fourth International during the Second World War P1 P2 Rodolphe Prager
   The Rocky Road to the Fourth International, 1933-38
   La Quatrieme Internationale 1940-1953 Pouvoir Ouvrierサイト
   The Fourth International and the Second World War Permanent Revolutionサイト

   戦闘社会主義者 略伝 RH 文献(第4インターナショナル史) 文献(社会主義行動)

<前史>

 1918年、革命の輸出を主張するCPSU内の左翼共産主義者が結成されるが間もなく誤りを認め組織解消。
 ニコライ・ブハーリン、アンドレイ・ブブノフフェリックス・ゼルジンスキーゲオルギー・オポコフヴァレリアン・オボレンスキー
(ニコライ・オブシンスキー)、エヴゲニー・プレオブラジェンスキーゲオルギー・ピャタコフカール・ラデックニコライ・リューキン
アルマンド・イネッサウラジミール・スミルノフエメリヤン・ヤロスラフスキーミハイル・フルンゼニコライ・ムラノフ
イラリオン・ムグラゼアレクサンドラ・コロンタイイヴァン・スクヴォルチョフ・ステパノフゲオルゲ・サファロフグレプ・ボキー
スタニシラフ・コシオールロザリヤ・ゼムリャチカヴァレリアン・クイビシェフユリアン・レンスキーニコライ・ムラロフ
ガヴリル・ミャスニコフミハイル・ポクロフスキーサラ・ラヴィッチティモフェイ・サプロノフアーロン・ソルツモイセイ・ウリツキー
ヨシフ・ウンシュリフトパーヴェル・シュテルンベルクボリス・シュミャツキーヴァルバラ・ヤコヴレヴァなど。

 1919年、ロシア共産党8回会議でウラジミール・スミルノフ、ゲオルゲ・サファロフ、ゲオルギー・ピャタコフ、アンドレイ・ブブノフ、
ミハイル・フルンゼエメリヤン・ヤロスラフスキー、クリメント・ヴォロシロフ、アレクサンドル・ミャスニキャン、ロザリヤ・ゼムリャチカなど
主に旧左翼共産主義者からなるブルジョア軍事専門家の利用に関して異なる意見をもつ軍事反対派が出現。

 1919年ウラジミール・スミルノフティモフェイ・サプロノフヴァレリアン・オボレンスキーミハイル・ボグスラフスキー
V.N.マキシモフスキー、A.Z.カメンスキーらがレーニンの過度の党の政治権力集中(官僚制)を批判する15(民主集中)グループ結成。
 このグループは1920年第9回党会議が頂点で、1921年の第10回党会議後消滅。主要な人物ははのちに左翼反対派に参加。

 1920年には官僚制に反対するアレクサンドル・シュリアプニコフセルゲイ・メドヴェーデフらの労働組合指導者などからなる
労働者反対派が出現、
1922年にはシュリアプニコフらはコロンタイも支持した22人の手紙を共産主義インターナショナル執行部に提出。

 1923年のソ連の経済的苦境とドイツ革命の失敗を受けて、これらの原因を党内民主制の欠如とする、1923年10月8日のトロツキーの
政治局への手紙に引き続き、15日イヴゲニー・プレオブラジェンスキーゲオルギー・ピャタコフイヴァン・スミルノフ
ニコライ・ムラノフレオニド・セレブリャコフウラジミール・アントノフ・オヴセイェンコヴァレリアン・オボレンスキー
ティモフェイ・サプロノフレフ・ソスノフスキーアンドレイ・ブブノフらの46宣言が政治局に出される。

<ソ連共産党内の左翼反対派

 1923年トロツキーとその支持者はソ連共産党内で左翼反対派(−1927年)を結成。民主集中グループ左翼反対派に参加。
 メンバーはアドルフ・ヨッフェ(1927年自殺)、ニコライ・クレチンスキー(1928年屈服、1938年処刑)、ニコライ・ムラロフ
(1937年処刑)、イヴゲニー・プレオブラジェンスキー(1929年屈服、1937年処刑)、ゲオルギー・ピャタコフ(1928年屈服、
1937年処刑)、カール・ラデック(1929年屈服、1939年処刑?)、クリスチャン・ラコフスキー(1934年屈服、1941年処刑)、
ヴィクトル・セルジュ(1936年ロシア出国)、イヴァン・スミルノフ(1929年屈服、1936年処刑)、ヴラジミール・スミルノフ,(1937年処刑)、
イヴァル・スミルガ(1929年屈服、1938年処刑)、ティモフェイ・サプロノフ(1937年処刑)、レオニド・セレブリャコフ
レフ・ソスノフスキー(1934年屈服、1937年処刑)、アレクサンドル・ヴォロンスキー(1929年屈服、1937年処刑)など。
 左翼反対派ポリカルプ・ムディヴァニセルゲイ・カヴタラジェコテ・ツィンツァジェらのグルジア反対派が参加。
 グルジア反対派はグルジアに集中制を敷こうとするスターリン、グレゴリー・オルジョニキーゼと衝突していた。

 レーニンが病気の間、共産主義者インターナショナル議長グリゴリ・ジノヴィエフ、政治局議長レフ・カーメネフ、党総書記スターリンの
トロイカ体制が形成される。
 トロイカは党の指導的理論家でプラウダ編集長のニコライ・ブハーリンと人民委員会議議長アレクセイ・リコフから支持されていた。
 政治局はスターリン、ジノヴィエフ、カーメネフ、アレクセイ・リコフミハイル・トムスキー、トロツキーにより構成されていた。
 1924年の第13回党協議会でトロツキーは非難を受ける。
 1925年にはジノヴィエフーカーメネフースターリンのトロイカ体制に亀裂が入る。彼らはブハーリンとリコフに支持されたスターリンに敗北。
 この年、1国社会主義建設を批判するグリゴリ・ソコルニコフ、クループスカヤ、ゲオルギー・サファロフグリゴリー・エヴドキモフ
ピョートル・ザルツキーらの新反対派(レニングラード派)が形成され、ジノヴィエヴ派と提携するが第14回会議で敗北。
 1926年、トロツキーにジノヴィエフとカーメネフが加わり統一反対派が結成される。統一反対派には労働者反対派も参加。

 1926−1928年に多くのロシア反対派が外交使節等として国外に追いやられる。
 ラコフスキーは1925−1927年にフランス大使、ピャタコフ、プレオブラジェンスキーは1926−1927年にパリへ。

 1917年記念を刻印する赤の広場でのクループスカヤを含む反スターリン・デモの1週間後の1927年11月15日にトロツキーとジノヴィエフが
党から追放される。
 しかし間もなくジノヴィエフとその支持者はスターリンに降伏。

 統一反対派はスターリンとブハーリン率いる党内右派との妥協に反対していた。
 降伏を拒否したものはシベリアと中央アジアに追放された。
 トロツキーは1928年1月17日カザフスタンのアルマ・アタに追放された。
 ナタリア・セドヴァとレオン・セドフはシベリアに追放された。

 1928年春、スターリンとブハーリンの衝突が始まリ、スターリンは左転回。(クラークの抑圧)
 6月、ジノヴィエフとカーメネフが再入党を認められる。
 1928年7月−9月の第6回コミンテルン会議は第3期という左転回に乗り出す。
 ブハーリンはまだコミンテルンの指導者であった。
 スターリンの左展開は反対派の動揺を巻き起こした。
 1928年2月、ゲオルギー・ピャタコフ、(ウラジミール・アントノフ・オヴシェーンコニコライ・クレチンスキー)らの降伏の第1波が起こる。
 1年後、更に深刻なカール・ラディック、エヴゲニー・プレオブラジェンスキーイヴァル・スミルガらの降伏が到来。
 ソ連は危機に直面し、スターリンは反対派の多くの政策を受け入れた。
 1929年11月、イヴァン・スミルノフとミハイル・ボグスラヴスキーの第3波降伏が到来。
 ロシア内部の反対派指導者に留まったのはクリスチャン・ラコフスキーニコライ・ムラロフ、ボリス.M.エルツィン、V.D.カスパロヴァ、
レフ・ソスノフスキー、K.I.グリュンシュタインなど。
 ブハーリンは1929年4月コミンテルンの地位を追われ、11月政治局から追放される。しかしブハーリンはすぐにスターリンに屈服。

 1932年マルテミヤン・リューキンはスターリン批判の秘密回状を発行し逮捕される。これに関連し党員追放が行われる。
 またジノヴィエフとカーメネフが再追放される。
 1933年ジノヴィエフとカーメネフが再入党を認められる。クリスチャン・ラコフスキーレフ・ソスノフスキーは1934年降伏。
 1934年セルゲイ・キーロフが暗殺される。
 1934年会議ではスターリン−ヴァチェスラフ・モロトフキーロフグレゴリー・オルジョニキーゼの間に対立があり、キーロフ
反対派との和解と寛容政策を求めていたとされる。
 キーロフの後を継いだアンドレイ・ジダーノフは大粛清を積極的に推進したとされる。

<反対派の国際的展開>

 反対派はコミンテルン中、特にフランス、ドイツ、米国に拡大。
 約6年間左翼反対派はコミンテルン内部で戦った。
 
 フランスでは1924年、アルフレド・ロスメール、ボリス・スヴァリヌ、ピエール・モナットが左翼反対派として追放される。
 1927年、モーリス・パとマグドゥレーヌ・マルクス(パの妻)がPCFから追放される。
 フランスでは1926年早期、以前の共産党指導者の周辺に種々のグループや個人の反対派が存在。
 ロスメルは組合運動家ピエール・モナットと新聞”プロレタリア革命”で協力していた。
 パはピャタコフから資金を受け、パリで1926年”流れに抗してContre le Courant”を発行。
 他にピエール・ナヴィーユやジェラール・ローゼンタールなどの共産主義者青年組織の指導的メンバーが存在。
 彼らはソ連を訪問し、ヴィクトル・セルジュの助けでトロツキー、ジノヴィエフ、ラディックと会った。
 また”流れに抗して”周辺の以前の党指導者アルベール・トラン、スザンヌ・ジロールらのジノヴィエヴ派がいた。
 しかしこれらのグループは互いに無関心あるいは敵対していた。

 ドイツでは1920年代末ジノヴィエヴ派のルート・フィッシャー、フーゴ・ウルバーンス、アルカディ・マズロフが強力な反対派形成。
 1926年左派のヴェルナー・ショレムルート・フィッシャーアルカディ・マズロフアルトゥール・ローゼンベルクフーゴ・ウルバーンズ
アントン・グリレヴィッツ、(以上レーニン同盟結成)、極左派のカール・コルシュらが追放される。
 1928年、エルンスト・テールマン指導部の共産党から追放された極左、左派の約6000のメンバーがレーニン同盟結成。
 左派のルート・フィッシャーアルカディ・マズロフヴェルナー・ショレムポール・シュレヒトフーゴ・ウルバーンズグイド・ハイム
オットー・ヴェーバーら、極左派のカール・コルシュ(国際共産主義者グループ)、プロイセンのアントン・グリレヴィッツらが参加。
 トロツキージノヴィエブ統一反対派と結ぶ。
 ジノヴィエフとカーメネフの降伏により分裂がありルート・フィッシャーアルカディ・マズロフらは再びKPDへ。
 レーニン同盟は1927年結成のクルト・ランダウ周辺のウェディング反対派と対立。
 ウェディング反対派は1927年からロシア反対派と接触、ジェニヴィエヴ派のレーニン同盟よりトロツキーに近かった
 1928年ハインリッヒ・ブランドラー、アウグスト・タールハイマーらが共産党反対派KPO(ブハーリン派、右翼反対派)結成し、
1929年党から追放される。
 1929年、レーニン同盟多数派フーゴ・ウルバーンと少数派アントン・グリレヴィッツに分裂、1930年少数派追放される。
 1930年3月、アントン・グリレヴィッツレーニン同盟少数派とクルト・ランダウウェディング反対派残存メンバーの統合により
統一左翼反対派が結成される。
 これにはエルヴィン・ハインツ・アッカークネヒトゲオルク・ユンククラスオスカル・ヒッペアントン・グリレヴィッツヴァルター・ヘルト
ヘルムート・シュネーヴァイス、オスカル・ザイポルトローマン・ヴェルらが参加。
 1931年、クルト・ランダウのグループ(グループ火花)の分裂。
 1933年、ドイツ国際共産主義者IKDとなる。
 1934年、レーニン同盟を去ったルート・フィッシャーアルカディ・マズローの国際主義者グループが参加。
 1934年のフランスの転換でエルヴィン・アッカークネヒトの多数派は分裂し、SAPDに参加。

 米国では1928年6回コミンテルン会議でジェームズ・キャノンがカナダのモーリス・スペクターとトロツキーの影響を受ける。 
 キャノンは1920年代ブハーリン支持であったが、米国に帰り、マックス・シャハトマンマルティン・エイバーンと左翼反対派を結成し、
1928年、CPUSAから追放され、アメリカ共産主義者同盟CLA結成。
 1929年にはジェイ・ラヴストンが追放されベンジャミン・ギットロー、、バートラム・ウォルフエレン・ドーソンウイリアム・クルーズ
チャールズ・ジンマーマンらが国際共産主義(右翼)反対派の共産党(反対派)を形成し、これは当初トロツキストより大きかったが、
1941年以降生き延びれなかった。
 マックス・イーストマン(党員ではなかった)は1922−1924年ソ連に渡りトロツキーと親交を結び、これはトロツキーのメキシコ亡命まで続いた。

 ギリシャでは1922−1923年に文庫Archeioマルクス主義がギリシャ社会主義労働党(KKE前身)の反対派として出現し、1923年、
フラギスコス・ツラティを指導者としてマルクス主義文庫が発行される。指導者はやがてデメトリウス・ヨトプロスに変わる。
 1927年文庫マルクス主義のデメトリウス・ヨトプロスパンデリス・プリオプロスとKKEから追放される。
 デメトリウス・ヨトプロス国際左翼反対派ILOと接触し、1929年国際主義共産主義者連合EKDと名を変え、更にギリシャ・マルクス
(ボルシェヴィキ)・レーニン主義共産主義組織文庫マルクス主義KOMLEAと名を変え、1931年にILO組織となる。
 ヨトプロスはILO書記局メンバーとなりウィッテと称しNo.2となる。
 文庫マルクス主義組織はメンバー2000人と称しILOの最大組織であった。

 オーストリアでは1926ー1927年にヨゼフ・フレイ、クルト・ランダウは追放され、オーストリア共産党反対派を結成し”労働者の声”
発行(1933年禁止)。

 オランダでは1927年ヘンドリクス・スネーフリートはCPHを去り革命的社会主義者同盟を結成し、1929年社会党のメンバーと
革命的社会党RSPを結成。

 ベルギーでは1928年、ヴァール・ファン・オフェルストラエテン (1891−1981年)、レオン・ルソワ、アデマール・エノー、
ゲオルゲス・フェレーケン、ルイス・ポルクらが追放される。

 スペインではアンドレウ・ニンは1926年モスクワ滞在中に左翼反対派に属し、1930年ソ連を去り、スペインに戻りボルシェヴィキ・
レーニン主義グループを結成。
 1930年フアン・アンドラードグランディソ・ムニスらとスペイン左翼共産主義者を結成しILOに参加。

 1929年、陳独秀が中国共産党から追放され、トロツキーに接近。

 1930年、イタリアではアルフォンソ・レオネッティ 、パオロ・ラヴァッツォリ、.ピエトロ・トレッソ、テレザ・レッキア)、マリオ・バヴァッサーノ、
ボルディガら左派はトロツキストとして追放された。
 1930年ピエトロ・トレッソはアルフォンソ・レオネッティ、パオロ・ラヴァッツォリとイタリア新反対派NOIを結成し、国際左翼反対派に参加し、
フランスに渡る。

 1930年、永続革命がロシア語とドイツ語で、翌年英語で発行される。

 1932年、英国でハリー・ウィックスらが追放される。

 1928年ベルリンで最初の国際統一反対派協議会が開催されジノヴィエヴ派のゲオルギ・イヴァノヴィッチ・サファロフが議長。
 ドイツといくつかのヨーロッパ反対派が参加、ソ連からは20名参加。

 トロツキーは1929年1月1日ソ連から追放されトルコのププリンキポに移る。

 1929年までにブハーリンの右翼反対派が形成されコミンテルンから追放される。

 トロツキーとレオン・セドフは、プリンキポからシベリア追放と地下に潜行したロシアの反対派との接触を試み、1929年7月、
ロシア語の反対派ブルティン発行。
 ラコフスキー、レフ・ソスノフスキー率いるロシア反対派との接触は1934年まで続くが、1934年ラコフスキー、ソスノフスキーは降伏。
 しかしヴィクトル・セルジュとアンテ・シリガのように各地の収容所で孤立して抵抗し続けた人たちがいた。

 最初のILOの成功例は1929年米国でジェームズ・キャノン、マックス・シャハトマン、マルティン・エイバーンが結成した共産主義者同盟で
約100のメンバー。
 これにカナダのモーリス・スペクターらが協力。
 これに続くと思われたフランスのグループでは、パは”流れに抗して”出版以上進まなかった。
 トロツキーはスヴァリヌ、パからロスメルに目を転じた。
 ロスメルは党追放後、組合運動に携わっていたピエール・モナットとの活動に転じた。
 モナットは新聞”プロレタリア革命”を出版していた。
 ロスメルと妻のマルゲリトが6月トロツキー訪問し、彼らはフランス・反対派の統一を計画した。
 トロツキーは若い反対派の訪問を期待し、3月末、最初にレイモンとアンリ・モリニエ及びピエール・グルゲが訪問。
 すぐ後にジャンヌ・マルタン(レイモン・モリニエの元妻でセドフの妻、セドフの死後トロツキーと衝突)が訪問。
 8月、ピエールとデニス・ナヴィーユ及びジェラール・ローゼンタールが訪れた。

 1929年8月、ラ・ヴェリテが発行され、トロツキーを喜ばす。
 1930年4月、ロスメル、ナヴィーユ、グルゲ、M.ミル(パヴェル・オクン)、ダニエル・レヴィヌ、ローゼンタール、ピエール・フランクが
共産主義者同盟結成。 
 パヴェル・オクンはリトアニア人でパリのロシア・グループ代表であったがGPUの手先であった。

 トロツキーはドイツのレーニン同盟と、オーストリアのジョセフ・フレイのグループを引き入れようとした。
 そのためロスメルを派遣、フレイの返答は良かったが、レーニン同盟のほうはよくなかった。
 ウルバーンはソ連を労働者国家とする考えから離れていた。
 1931年、トロツキーはフーゴ・ウルバーンス、カール・コルシュの国家資本主義説拒絶。 

 1930年4月、パリで第1回国際協議会開催される。
 ドイツ、ベルギー、スペイン、フランス、米国からの代表が出席、亡命イタリア人ボルディガ派も出席したがオブザーバーで正式参加
しなかった。
 国際書記局が設置され、国際内部ブルティンが決められた。
 代表の間で、特にベルギー代表の間で鮮明な差が生じた。アデマルー・エノー、エドワルド・ヴァン・オヴェルストラエテン周辺の
ブリュッセル・グループはボルディガ派やレーニン同盟を含む幅広い結集を主張し、レオン・レソワ周辺のシャルルロワ・グループは
トロツキーと同じく、ここに議論のためにだけきているグループとではなく、準備のできているグループとの結集を主張。
 協議会ではロスメル、ニン、パヴェル・オクン(ミル)、セドフからなる国際書記局を選出。
 会議は簡単に終わり、トロツキーを怒らせた。

 フランスのグループはパリの亡命住民地域で重要な活動を行い、ILOが広がるのを助けた。
 1929年末には共産党のユダヤ人労働者とハンガリー亡命者を引き付けた。
 ロスメルはイタリア人反対派ピエトロ・トレッソ、アルフォンソ・レオネッティ、アンドレア・ラヴァツォッリとの協力を勝ち取った。
 彼らはすぐにドルディガ派に対する新イタリア反対派を構成した。またタ・トゥ・タウ周辺のヴェトナム人グループと協力に入った。

 しかし、ピエール・ナヴィーユとレイモン・モリニエの間に不和が生じ、モリニエーフランク・グループとロスメルが支持する
ナヴィーユ・ローゼンタール・グループが衝突、やがてロスメルとナヴィーユがトロツキーと異なる立場をとるようになった。
 セドフとヤン・フランケルはナヴィーユに敵対し、モリニエに味方していた。
 1930年4月の同盟結成協議会で、ナヴィーユの支持を得たロスメルはレイモン・モリニエを7人の執行部から排除に成功、
しかしフランクは排除されなかった。トロツキーはナヴィーユ・グループを支持。

 タ・トゥ・タウらヴェトナム・グル−プのデモ後の逮捕と追放で対立は頂点に達する。
 デモはローゼンタールにだけにしか知らされず、モリニエ、フランクのパリ指導部批判が起こった。
 モリニエはパリ組織指導部から排除された。この処置でトロツキーとロスメルが対立。
 ロスメルはこのような組織内情に嫌気がさし、1930年末から同盟と国際反対派から完全撤退。

 ドイツのウルバーンスは1929年までに、左翼反対派から離れ、ティモフェイ・サプロノフの極左の影響を受けるようになった。
 このグループは1926年の統一反対派に加わったが、社会反革命が起き、コミンテルンは革命を指導できないと考えるようになった。
 更にカール・コルシュの影響を受けるようになる。
 ウルバーンスはレーニンの前衛党思想がスターリン主義をもたらしたとして批判するようになった。
 ウルバーンスはソ連を国家資本主義と考えるようになった。
 ドイツではトロツキストは少数であった。アントン・グリレヴィッツがレーニン同盟で闘争を始め、ウェディング左派が存在していた。

 1929年7月、スターリンの右派との衝突でカール・ラディック、エヴゲニー・プレオブラゼンスキー、イヴァン・スミルガの降伏の波が到来。
 左翼反対派のクリスチャン・ラコフスキーは降伏はしなかったが、反右派のため中央派と協力することを宣言。

 1929年8月、オーストリア反対派のクルト・ランダウがドイツ反対派統一のためベルリンに移動。
 ランダウは1928年中頃に、ヨゼフ・フレイのオーストリア共産党反対派から追放され、グラツのグル−プとノイエ・マールフ(新警報)を発行。
 ランダウはベルリンでまずウェディング反対派と活動、しかし彼とグリレヴィッツ率いるレーニン同盟少数派との関係はすぐに悪化、ランダウは
宗派主義、権威主義と批判される。
 トロツキーはシャハトマンとピエール・ナヴィーユをベルリンで開催された1930年4月の合同協議会に送る。
 新組織では、ベルリンの特に赤いウェディングが著名で、そのほかザクセンにも強力な拠点があり、ここの指導者はまもなくランダウの主
要な反対者となるロマン・ヴェルとアブラム・ゼニンのソボレヴィキウス兄弟であった。この二人もGPUの手先であった。
 ランダウはヴェルとグリレヴィッツと対立、またオーストリアのマールフ・グループとフレイが対立、更にランダウとトロツキーが衝突。
 1931年5月、ランダウはドイツの統一左翼反対派から分裂し、1932年4月、ランダウはトロツキーとILOの反対派を結集し
コミンテルン左翼反対派国際労働グループを結成。
 オットー・シュスラーとエアヴィン・アッカークネヒトがドイツに戻り、組織を強化。
 レオン・セドフもベルリンに移り、国際書記局がパリからベルリンに移る。
 1931年9月から10月のSPDからの追放と分裂が起こり、これらとブランドラー派共産党反対派が社会主義労働者党SAPを結成。
 統一反対派は1932年末までに約600のメンバーしかいなかった。

 スペインではニン、フアン・アンドラーデ、ユリアン・ゴルキンらはトロツキーと非協力的であった。
 彼らは右翼反対派に近いホアキン・マウリンと協力した。
 トロツキーはブハーリン派のブランドラー、ラヴストン、マウリンとの協力を否定的であった。
 1935年、ニンはマウリンとPOUM結成。

 フランスとドイツの内部抗争、スペインの抵抗、1932−1933年のCLAでのキャノンとシャハトマン、エイバーンの内部抗争で
左翼反対派の国際協議会開催は遅れた。
 しかし、1932年のコペンハーゲンでの会合に17代表が集まり、これで、1933年初期のILO国際協議会呼びかけが決められた。

 ドイツでは、SPDから追放されたグループと、共産党反対派のブランドラー派が社会主義労働者党SAP結成。
 しかし、SAPは1932年選挙で大敗。

 VLOはランダウの分裂から立ち直りつつあったが所詮小グループ。

<国際左翼反対派ILO結成> 

 トロツキーは、1930年代初期はコミンテルン内で影響をおよぼそうとし、1930年4月コミンテルン内に国際左翼反対派ILO結成。
 しかし、メンバーは直ちにコミンテルンから追放される。

 トロツキーのトルコ追放で、最初に重要な役割を果たしたのは彼の古くからの友人のアルフレドとマルゲリト・ロスメル夫婦であった。  
 1929年7月、ロスメルはオーストリアとドイツのトロツキー支持者と会った。
 彼はオーストリアのランダウとフレイ、ドイツのレーニン同盟、フーゴ・ウルバーンズとその反対派についてトロツキーに手紙を書いた。
 ロスメルが帰国して間もなく、フランスのトロツキストの機関紙だけでなく、国際トロツキスト運動の核となるべきラ・ヴェリテの第1号が発行される。
 1929年には、トロツキーは共産主義者インターナショナルを左翼反対派=トロツキー派、右翼反対派=ブハーリン派、中央派=スターリン派
と分析。

 1930年4月、最初のトロツキストの国際会合が開催され、国際左翼反対派が結成される。
 フランス共産主義者同盟アメリカ共産主義者同盟ドイツ共産党統一反対派、ベルギー共産党反対グループ、スペイン反対派
チェコスロヴァキア左翼反対派、ハンガリー共産主義者反対派、パリ・ユダヤ人反対グループがパリの会合に参加。
 出席者は米国からはマックス・シャハトマン、フランスはアルフレッド・ロスメルピエール・ナヴィーユ、スペインのユリアン・ゴルキン
ドイツのオスカル・ザイポルドと、ベルギーのレオン・レソワアデマール・エノー、チェコスロヴァキアのヤン・フレンケル
ハンガリーのツィルヴァツィ、パリ・ユダヤ人オビン・ミルらが参加。
 この会議では参加者の間、特にベルギー・メンバーに意見の相違発生、エノー、オヴェルスタインらブリュッセル・グループはボルディガ派と
レーニン同盟を含む広範な結集を主張、レオン・レソワ周辺のシャルルロワ・グループはトロツキーに同調し一緒に行けるグループとのただちの
出発を主張。
 トロツキーはこの何も宣言されなかった会議に大いに不満。

 会議では国際書記局が選ばれた。
 この会議の後、9つの他のグループが国際左翼反対派支持表明、これで計17となる。
 9グループはロシア反対派、オーストリア共産主義者反対派、オーストラリア共産党(反対派)、アルゼンチン共産主義者反対派委員会、
亡命ブラジルレーニン共産主義者委員会、ギリシャ文庫(アルケイオ)マルクス主義者、イタリア左派、イタリア共産党新反対派、
メキシコ共産主義者反対派。
 フランスのグループは亡命グループに対し重要な役割を果たした。

 ロスメル(ロスメルの代理のナヴィーユ)、シャハトマン、クルト・ランダウ(ドイツ代表として)、アンドレス・ニン、レオン・セドフよりなる
国際局が結成される。
 しかしシャハトマンの帰国、アンドレス・ニンのスペインでの投獄、ロスメルのトロツキズムからの撤退、セドフがイスタンブ−ルから
パリに行けないなどにより、国際局は実際は機能しなかった。
 国際書記にロスメル、ニン、パヴェル・オクン(M.ミル、リトアニア人でロシア・グループのパリ代表、GPU手先)、レフ・セドフが選ばれる。
 国際書記局は国際局よりましだった。ナヴィーユがオビン・ミル(パヴェル・オクン)によって助けられていたが、オビン・ミルがスパイと判明し、
ソボレヴィキウス兄弟に交代、これもスパイとなる。
 
 左翼反対派国際ブルチンがフランス語と英語で発行される。

 1931−1932年にトロツキーと衝突した人々には、別の国際組織を結成しようとした動きがあったが成功しなかった。

 トロツキーは第4インターナショナル結成のためのいかなる会合、協議会にも出席しなかったが、1932年11月、コペンハーゲンを
社会民主青年グループの招待で訪問し、支持者と会う事ができた。
 このときトロツキーと会ったのは10人のドイツ人、O.フィッシャーアントン・グリレヴィッツオスカル・ヒッペ、ヘルムート・シュネーヴァイス、
ヨハン・ショフマン、B.ヴァインベルク、ゲオルク・ユンクラス、エリック・コーン、C.フンター、クラウス・シュトルテンベッカーと8人のフランス人、
ピエールとデニス・ナヴィーユ兄弟、ジェラール・ローゼンタール、ジャンヌ・マルタン、ジャン・マイヒラー、ロベール・ビュラン、
レイモン・モリニエ、ピエール・フランク、3人のイタリア人、ピエトロ・トレッソ、ルチエンネ・テデッシ、アルフォンソ・レオネッティと
オランダのヘンドリク・スネーフリート、チェコスロヴァキアのヤン・フレンケル、英国のハリー・ウィックス、ベルギーのレオン・ルソワ、
米国のB.Jとエスサー・フィールド兄弟。
 1933年2月、パリで事前協議会開催。
 ロシア、ドイツ、フランス、ベルギー、ギリシャ、ブルガリア、英国、イタリア(亡命)、スイス、スペイン、米国から代表派遣。
 ギリシャとスペインのグループが大きかった。ドイツでの統一呼びかけがなされる。

 1933年5月、8月の会議で新インターナショナルと各国の新共産党結成の呼びかけが出される。

 国際左翼反対派ILOは、1933年8月のパリのIAG会議にオブザーバー派遣、会議はオランダのペテル・J・シュミットが主宰した。
 トロツキー、オランダ革命社会党のスネーフリート、SAPのヤコブ・ヴァルヒャーにより新インターナショナル結成が提案されたが拒否された。
 これは国際左翼反対派国際書記のオイゲン・バウアー(エアヴィン・アッカークネヒト)、SAPのヤコブ・ヴァルヒャ(シュヴァルブ)、
オランダ革命社会党のスネーフリート、オランダ独立社会党のペテル・J・シュミットの署名で公表された。(4者宣言)

 ILOは1933年9月、コミンテルンから別れ、オランダ革命的社会党RSPと国際主義共産主義者同盟(ボルシェヴィキ・レーニン)を
結成。(−1936年)
 1933年12月のバウアー、トロツキー、ペロチPeroci、ピエール・フランク、ピエール・ナヴィーユ、レオン・セドフ(以上国際共産主義者同盟)、
スネーフリート、オランダOSPのヤッケス・デ・カデット、ドイツSAPのヤコブ・ヴァルヒャー、ボリス・ゴールデンベルクによる事前協議会では
トロツキーとヤッケス・デ・カデット、ヤコブ・ヴァルヒャーの間で国際共産主義者同盟主導を巡って論争があった。
 4者宣言はすぐに崩壊、SAPはこれ以上のトロツキストとの関係を持たなくなった。
 RSPも1935年、OSPと革命社会労働党RSAPを結成し、RSAPはトロツキーと衝突。

<衝突と分裂>

 トロツキズムの歴史はトロツキーとその支持者の及びトロツキスト相互の衝突とこれに伴う分裂の歴史でもあった。
 これはトロツキズムが労働者の戦いや現実の政治過程に結びつく事が少なく、プチブル知識人の観念的思考での相違や人間関係
に影響される事があったためである。

 フランスではピエール・ナヴィーユジラール・ロ−ゼンタールのグループとレイモン・モリニエピエール・フランクのグループに分かれていた
トロツキストを統合し、1930年フランス共産主義者同盟が結成されるが、ナヴィーユロスメル、ロ−ゼンタールとモリニエフランク
仲が悪く、アルフレッド・ロスメルは内部不和に嫌気が差し、トロツキーとも衝突し1930年同盟を去り、ヴェリテとの協力も絶つ。
 アルベール・トランマルク・シリクらが参加するが1933年分裂し、共産主義者連合を結成し評議会共産主義に向かう。
 1934年、SFIOに参加し、ボルシェヴィキ・レーニン主義者グループ結成するも、1935年SFIOから追放される。
 1935年、トロツキーは加入戦術を放棄し、革命党結成路線をとり、SFIOのピヴェール派から離脱することを宣言。
 同年トロツキストはSFIOから追放される。
 レイモン・モリニエピエール・フランクはこの新路線に否定的で、SFIOに留まろうとしたが、追放され革命的行動グループGARを結成し、
ラ・コミューン発行。
 1936年、GARは国際主義共産党PCIとなる。
 ナヴィーユは革命的労働者党PORを結成。
 イヴァン・クレポナヴィーユモリニエの衝突を好まず、両陣営に加わるのを嫌い革命的社会主義青年JSRを結成。
 ピエール・ナヴィーユの革命的労働者党、雑誌ラ・コミューン(PCI)のレイモン・モリニエピエール・フランクらとイヴァン・クレポ
フレッド・ゼレルジャン・ルーらの革命的社会主義者青年JCRに分散していたトロツキストは統一のため国際主義者労働者党POI結成。
 しかしモリニエ派の参加は短く、間もなく追放され国際主義共産党PCI結成。
 1939年、POIはマルソー・ピヴェールの労働者・農民社会党PSOP参加を巡って、参加反対のピエール・ナヴィーユの多数派と、
参加のイヴァン・クレポの少数派に分裂。
 イヴァン・クレポはPSOPで第4インターナショナル委員会を形成。しかし間もなくPSOPから追放される。
 古参トロツキストの撤退でマルセル・イック(POI)、ロドルフ・プラジェ(PCI)ら若いトロツキストが地下活動に従事するようになる。
 1940年、マルセル・イックはPOIを再建、ロドルフ・プラジェらが国際主義共産主義者委員会結成。
 ジャン・ルーフレッド・ゼレル革命的民族運動を結成(民族トロツキズム)。
 POIと旧PCIとの分裂は1944年の統合まで続く。
 イヴァン・クレポはトロツキーの裏切られた革命に対し、官僚制集産主義説をとるようになる。

 ドイツでは、1930年、KPD統一左翼反対派が結成されるが、ランダウとローマン・ヴェル (ルビン・ソボレヴィキウス、GPUスパイ)、
アブラム・ソボレヴィキウスとの喧嘩で、トロツキーはローマン・ヴェルを支持、1931年ランダウは分裂、火花グループ形成。
 エルヴィン・アッカークネヒトレフ・セドフの助手を務め、また国際左翼反対派の国際書記となるが、1934年フランスの転換で
左翼反対派IKDを離れ、1935年SAPD参加。

 米国では、1933年、社会党との統一戦線をもとめるアルバート・ワイスボードらが分裂し、共産主義者闘争同盟結成。
 このグループは1934年、トロツキーと衝突、1937年頃までに消滅。
 1935年、フランスの転換による加入戦術をめぐって分裂、ジェームズ・キャノン、マックス・シャハトマン、ジェームズ・バーナムらの多数派が
勝利し社会党参加、反対のヒューゴ・イーラーHugo Oehlerの少数派は分裂し革命的労働者同盟RWLを結成。
 1937年。社会党からの追放により、1938年、社会主義労働者党SWPSocialist Workers Partyを結成。
 SWPは1940年、トロツキーのソ連労働者国家説支持のジェームス・キャノンの多数派とマックス・シャハトマンの少数派に分裂した。
 シャハトマン、シリル・ジェームズらと青年社会主義者同盟の多数派が分裂して、労働者党WWorkers Party第3陣営トロツキズム)結成。
 シャハトマンは官僚制集産主義説をとる。
 シリル・ジェームズ、ラーヤ・ドナウエフスカヤは国家資本主義説唱える
 1943年には、ジェームズ・キャノンら正統派と、フェリックス・モローアルバート・ゴールドマンジェームズ・ファレルらが対立、
この分裂はアメリカに移動した第4インターナショナル本部に影響を与え、ジャン・ヴァン・ハイエノートが書記を辞任。

 オーストリアでは、クルト・ランダウヨゼフ・フレイ、カール・トマンらと、1926年、KPOから追放され、オーストリア共産党反対派を結成。
 1928年、クルト・ランダウらは、オーストリア共産党反対派から追放され、雑誌”新しい訴えDer neue Mahnruf”グループ結成。
 オーストリアでは、フレイのグループとノイエ・マールフグループが対立。
 ランダウは、トロツキーの要請でドイツの左翼反対派統一のため、1929年、ドイツに渡り、ベルリンで赤いウェディングに参加。
 1930年、KPD統一左翼反対派が結成されるが、ランダウとローマン・ヴェル (ルビン・ソボレヴィキウス、GPUスパイ)、
アブラム・ソボレヴィキウスの喧嘩でトロツキーはローマン・ヴェルを支持、1931年ランダウは分裂(火花グループ、1931−1937年)。

 ベルギーではシャルルロワのレオン・ルソワ・グループとブリュッセルのゲオルゲス・フェレーキンのグループが対立。
 反対派多数派はトロツキーと衝突し、1931年オフェルストラエテンアデマール・エノーらは国際主義者共産主義者同盟LCIを結成し、
シャルルロワのグループ(ルソワら)と別れる。
 アデマール・エノー指導のLCIは、ボルディガ派に接近。1937年、LCIは評議会主義者(カンネ・メイエルら)に接近。
 1931年、シャルルロワのグループ(ルソワら)は共産主義者の声La Voix Communisteを創刊。
 フランスの転換で、共産主義者の声多数派はPOBへの加入賛成、フェレーケンは反対し、1935年、雑誌スパルタクス発行。
 POB加入グループは、1935年、POBのワルテル・ドージュの社会主義者行動L'Action Socialisteと協力。
 1936年、社会主義者行動とフェレーケンのスパルタクス・グループが革命的社会党結成参加。
 1938年、革命的社会党(レオン・レソイル)は第4インターナショナル結成協議会参加。
 1938年頃から革命的社会党は崩壊し、1940年、革命的共産党としてアブラハム・レオンらにより再建され”レーニンの道”発行。
 ゲオルゲス・フェレーケンは1934年、トロツキーの加入戦術に反対。
 1935年、スパルタクス・グループ結成、第4インターナショナルへの公開状に署名。
 1936年、革命的社会党結成、スペイン革命とPOUM問題でトロツキーと意見相違し、これを去る。
 ついで”流れに抗して”グループ結成、第4インターナショナル結成を時期早々と主張。
 スネーフリートに近く、モリニエ・グループに接近。

 オランダでは、1937年、トロツキーとスネーフリートは意見衝突し、RSAPはトロツキーのインターナショナルと接触を絶った。
 トロツキストはボルシェヴィキ・レーニン主義者グループとして分裂。
 1938年の第4インターナショナル協議会には、アブラハム・メニストスタン・ポッペが参加。

 ギリシャでは、文庫マルクス主義者はマケドニア問題(トロツキーはマケドニア独立の可能性を認める)、更にフランスの転換
(社会党加入戦術)でトロツキーと衝突し、1934年、KOMLEAは分裂し、ゲオルゲ・ヴィツォリス、ルカス・カルリアフティスのグループは
引き続きトロツキーと一緒に行動。
 デメトリウス・ヨトプロスに忠実なグループはギリシャ文庫マルクス主義共産党KAKEを、ヴィツォリスらはボルシェヴィキを結成。
 文庫マルクス主義者は1934年トロツキズム運動から撤退し国際右翼反対派ロンドン・ビュローに参加。
 パンデリス・プリオプロスは、1927年KKEから追放され、このグループは1928年、反対派(スパルタクス・グループ)を結成し、
国際左翼反対派に加わった。
 スパルタクス・グループは文庫マルクス主義者を宗派主義としてこれに参加しなかった。
 トロツキーによって文庫マルクス主義が受け入れられ、プリオプロスのグループは文庫マルクス主義から分裂したミカリス・ラプティス
(ミッシェル・パブロ)らとともに批判を受け、トロツキスト運動から追放された。
 1930年、ミカリス・ラプティス、クリストス・スラスのグループ(宗派主義者)は文庫マルクス主義から分裂し、共産主義者統一グループ
KEO結成、これは主に学生よりなっていた。
 1932年、アギス・スティナスが共産党から追放され、KEOと一緒になり、KKEレーニン主義反対派LAKKEと名乗る。
 1934年、ラプティスはスパルタクスとギリシャ国際主義共産主義者組織OKDEを結成した。
 プリオプロスとラプティスはドイツILOのクルト・ランダウ、フランスのレイモン・モリニエと関係していた。

 イタリアでは、1933年、テレザ・レッキア、マリオ・バヴァッサーノは新インターナショナル結成の展望で不和となりNOIと分裂し、
イタリア共産主義左翼(ボルディガ派)に近い共産主義者連合結成。
 レオネッティはバヴァッサアーノ、テレザ・レッキアと第4インターナショナル反対のユダヤ・グループに参加。
 ニコラ・ディ・バルトォメオは1926年、フランスに渡りボルディガ派に参加し、1928年、PCIから追放される。
 しかしボルディガ派からも追放され1930年新イタリア反対派NOIに参加。
 共産党に対する見方でNOIは分裂、1933年、トレッソ、バルトロメオらがNOIから追放される。
 これは国際書記局により取り消されたがNOIは解散。
 バルトロメオはモリニエ・フランク・グループについていた。彼らは1935年、トロツキーと衝突。
 バルトロメオは1936年、フランスから追放され、スペインに渡り、POUMに参加。彼はモリニエ、ランダウ、ニンらと協力。

 1928年、ボルディガ周辺のフランスとベルギーの亡命メンバー、オットリノ・ペッロネらはイタリア共産党左派(ボルディガ派)を結成した。
 ソ連在住のヴィルジリオ・ヴェルダロアルマルド・シルヴァエルシリオ・アンブロジらイタリア左派はロシア共産党左派を結成し、
イタリア共産党左派と接触した。これらは1935年左翼共産主義者(評議会共産主義者など)イタリア分派となった。

 英国では、1932年、ハリー・ウィックスらがCPGBから追放され共産主義者同盟を結成、1933年トロツキーにより独立労働党ILP
加入するよう指示されたが、指導部は拒否し、デンジル・ディーン・ハーバーに率いられた小集団がILPに参加。
 一方共産主義者同盟は労働党内で活動。
 これらからデンジル・ディーン・ハーバーの労働党内のミリタント・グループ(1935年結成)、ハリー・ウィックスシリル.L.R.ジェームズ
労働党内の革命的社会主義者同盟RSL(1938年結成)、1937年、テッド・グラントラルフ・リージョック・ハストンゲリー・ヒーリーらが
ミリタント・グループから分裂した労働者国際同盟WIL、スコットランドの革命的社会党RSPが形成され、1938年、RSLミリタント・グループ
革命的社会党RSPは合流して新革命的社会主義者同盟RSLを結成したが、労働者国際同盟WILは拒否した。
 新RSLは第4インターナショナルのブリテン支部となった

 スペインでは、スペイン左翼共産主義者ICEは1935年以前にトロツキーと決裂した。
 アンドレウ・ニンAndres Ninとフアン・アンドラーデら党の多数派はトロツキーのPSOEに加入指示に対し、POUMを結成、
グランディソ・ムニスの少数派がPSOEに加入。
 グランディソ・ムニスは戦争中からソ連=国家資本主義説に傾く。

 中南米ではアルゼンチン、チリ、メキシコ、キューバなどで分裂が生じた。

 アルゼンチンではリボリオ・フスト(民族解放後の社会主義革命論、1939年結成)の革命的労働者同盟LORとアントニオ・ガロ
(社会主義革命論)の社会主義労働者同盟LOSで論争が起きていた。
 第4インターナショナル(シェリー・マンガン)の斡旋で、1941年社会主義革命労働者党PORSに合同するが、1942年分解、
リボリオ・フストは第4インターナショナルと衝突
 1942年以降はナウエル・モレノマルクス主義労働者グループGOM(1944年結成、1948年までに革命的労働者党PORとなる)、
オメロ・クリスタリ(フアン・ポサダス)の第4インターナショナルグループGCI(1945年PORSから撤退)、ヨルヘ・ラモスの10月
(1945−1946年)、アウレリオ・ナルヴァハの労働者戦線(1945年)、ミゲル・ポセの革命的労働者戦線UORなどが存在。

 チリでは、1937年、左翼共産主義者は社会党加入の多数派と反対の少数派に分裂、サンチャゴのグループはボルシェヴィキ・レーニン主義
グループを結成し、1937年革命的労働者党となるPOR。第4インタナショナル結成会議にはPORが参加。
 一方、これの反対派は、1938年、社会主義青年同盟で衝突し、労働者国際主義グループGIOを結成し、1940年、国際主義労働者党POIとなる。
 1941年、シェリー・マンガンの斡旋で統一し、革命的労働者党PORとなる。

 そもそも1930年4月、最初のトロツキストの国際会合での国際左翼反対派の結成での会議では参加者の間、特にベルギー・メンバーに
意見の相違発生、アデマール・エノー、オヴェルスタインらブリュッセル・グループは、ボルディガ派とレーニン同盟を含む広範な結集を主張、
レオン・ルソワ周辺のシャルルロワ・グループはトロツキーに同調し一緒に行けるグループとのただちの出発を主張。

 1934年6月、トロツキーはフランスのLCIに社会主義者党参加を提案。(フランスの転換)
 このフランスの転換よる社会民主主義党参加をめぐって各国で分裂が生じる。
 また、スペインのPOUMへの対応をめぐっても分裂が生じた。

 あるいはソ連の評価を巡っても大きな思想的分裂が生じた。
 リュシアン・ロラ(1931年)、イヴァン・クレポ(1937年)、マックス・シャハトマン(1941年)、ブルーノ・リッツィ(1939年)などが
官僚制集産主義説をとる。
 シリル・ジェームズラーヤ・ドナウエフスカヤ(1941年)は国家資本主義説をとる。
 ほかに国家資本主義説をとったのはカール・コルシュ(1932年)、フーゴ・ウルバーンズ(1933年)、アンテ・シリガ(1938年)、
ガブリル・ミャスニコフ(1931年、NEPに反対して1923年、労働者グループ結成)など。

 1937年3月にはベルギーのLCI国際主義共産主義者連合のアデマール・エノーはパリでボルディガ派反対グループの国際協議会に参加、
これにはフランスの共産主義者連合、米国のヒューゴ・イーラー革命的労働者同盟RWL、オランダのGIKなどが参加。

 1938年9月の第4インターナショナル結成協議会でも反対意見があった。
 すでにベルギーのゲオルゲス・フェレーケンが反対を表明していたが、この協議会には不参加。
 代わってポーランド代表カール・ヘルツ・メンデル(実質的には参加していないアイザック・ドイッチャーの意見)が組織の内実を伴わない事を
理由に反対。

 スペインのアンドレウ・ニンはPOUMを結成し、スネーフリートとピエト・シュミットのRSAPはこれを支持し、ベルギーのゲオルゲス・フェレーキン
ヴィクトル・セルジュもPOUMを支持し、トロツキーから離れていった。
 更にアルフレド・ロスメル(1930年)、ヨゼフ・フレイ(1930年)、レイモン・モリニエ(1931年)、クルト・ランダウ(1931年)、
エルヴィン・アッカークネヒト(1934年)、デメトリウス・ヨトプロス(1934年)、ニコラ・ディ・バルトォメオ(1935年)、マスロフ(1936年)等が
トロツキーと衝突し別れる。

国際共産主義反対派ICOとロンドン・ビュロー

 レニンの死後、ブハーリンはスターリンと結んで、1926−1928年には権力の頂点にあり党右派の指導者となり、1926年にはコミンテルンの
執行委員会議長となる。
 しかし1928年の穀物不足でNEP政策を巡ってスターリンと不和になる。
 ブハーリンは1929年コミンテルンでの地位を失い、党政治局からも追放される。
 右翼反対派はブハーリン、リコフ、トムスキーらにより1920年代末の形成された。
 ブハーリンは海外の同盟者から孤立し、トロツキーと異なりスターリンに屈服する。

 ブハーリンの周辺には1920年代末国際共産主義反対派ICO(IVKO右翼反対派)が形成された。
 国際共産主義反対派ICOはハインリッヒ・ブランドラーによって創設協議会開催が呼びかけられ、1930年12月にベルリンで結成。
 これにはドイツ共産党反対派KPO(ハインリッヒ・ブランドラーアウグスト・タールハイマー、1928−1938年)、
米国のジェイ・ラヴストンバートラム・ウォルフェアメリカ共産党反対派(1928年追放、独立共産主義者労働者同盟等と名乗る、
1941年解散)、スイスのヴァルター・ブリンゴルフスイス共産党反対派(1930−1935年)、スウェーデンのカルル・キルボム
社会党(1929−1948年)、スペインのホアキン・マウリン労働者農民ブロック(1931年結成、1935年アンドレウ・ニン
共産主義左翼と合流しマルクス主義統一労働者党POUM結成しロンドン・ビュロー参加)などが加わっていた。
 1930年代には全部で15カ国のメンバー党が存在。

 ICOは、1933年から分裂し始め、ナチスの権力獲得でドイツの党は地下に潜行、パリに亡命、パリはICOの国際本部となり、
ドイツ人が支配。
 ノルウェーとスウェーデンのグループは独立革命的社会党委員会に参加。オーストリアのグループは1934年のドルフィス政権獲得で
地下へ、スイスのグループは1936年、社民に移る。M.N.ロイのグループも1937年去る。
 IOCは1938年、独立革命的社会党委員会に参加、1939年、ソ連評価や独立革命的社会党委員会との関係問題で崩壊。

 一方で、英国で労働党から離脱したばかりの独立労働党ILP、コミンテルンから離脱したノルウェー労働党、社民から分裂した
ドイツ社会主義労働党SAP(右翼反対派が参加)、オランダのヘンドリク・スネーフリートのRSP、社民から分裂した
オランダの独立社会党OSPなどが存在していた。

 1932年4月、独立革命的社会党委員会(通称ロンドン・ビュロー、ドイツ名国際労働共同体IAG)がイギリス独立労働党ILPの
主導により結成された。
 OSPのピエト・シュミットが会議を運営。
 ILP、SAP(1930年代中にILPと衝突し分裂)、ポーランド独立社会労働党、オランダ独立社会党OSP、ノルウェー労働党と
ILOドイツ支部とILO国際書記が参加。

 ロンドン・ビュローは一時期、国際左翼反対派ILOに接近していた。
 国際左翼反対派ILOは、1933年8月のパリのIAG会議にオブザーバー派遣、会議はオランダのペテル・J・シュミットが主宰した。
 トロツキー、オランダ革命社会党のスネーフリート、SAPのヤコブ・ヴァルヒャーにより新インターナショナル結成が提案されたが
拒否された。
 これは国際左翼反対派国際書記のオイゲン・バウアー(エアヴィン・アッカークネヒト)、SAPのヤコブ・ヴァルヒャ(シュヴァルブ)、
オランダ革命社会党のスネーフリート、オランダ独立社会党のペテル・J・シュミットの署名で公表された。(4者宣言)
 しかし、間もなくOSPとSAPはこれと距離をとる。

 1935年、RSPもOSPと合同しRSAPとなりロンドン・ビュローに参加。マルクス主義統一労働者党POUMも参加。
 ロンドン・ビュローには他にフランスのプロレタリア統一党ノルウェー労働党(1933年まで)、スウェーデン社会党(1933年から)、
イタリア社会党のアンジェリカ・バラバーノフのグループなどが参加。

 青年組織として革命的青年組織国際事務局が1934年結成され、書記はウィリー・ブラント(SAP)、ハインツ・エッペ(ILO)ら。
 事務局は北欧に置かれた。トロツキスト(ILO)は1935年追放される。

 1938年2月パリの革命的社会主義者会議でロンドン・ビュローとICOは革命的社会主義者統一国際局IBRSUを組織。
 アメリカ独立労働同盟(ラヴストン派)、ギリシャの共産主義文庫マルクス主義党(1939年から)、フランス労働者農民社会党などが新参加。
 20カ国以上の組織が参加。1939年事務局パリに移動。
 1940年には消滅。

 これらとトロツキーの組織の統一の可能性はなかった訳ではないが、トロツキーは全包含インターを拒否した。
 ノルウェー労働党はロンドン・ビュローから離脱し、スウェーデン社会党、SAPは社民化し、ブランドラー−ラブストン・グループは解散し、
イタリア・オーストリアの亡命分裂グループも離れ、ロンドン・ビュローにはILPしか残っていないとトロツキーは批判する。

 しかし、スペインのアンドレウ・ニンはPOUMを結成し、スネーフリートとピエト・シュミットのRSAPはこれを支持し、ベルギーの
ゲオルゲス・フェレーキンヴィクトル・セルジュもPOUMを支持し、トロツキーから離れていった。
 更に、ロスメル(1930年)、ヨゼフ・フレイ(1930年)、レイモン・モリニエ(1931年)、ランダウ(1931年)、アッカークネヒト(1934年)、
デメトリウス・ヨトプロス(1934年)、ニコラ・ディ・バルトォメオ(1935年)、マスロフ(1936年)等がトロツキーと衝突し別れる。

 1937年3月にはベルギーのLCI国際主義共産主義者連合のアデマール・エノーは、パリでボルディガ派反対グループの国際協議会に参加、
これにはフランスの共産主義者連合、米国のヒューゴ・イーラー革命的労働者同盟RWL、オランダのGIKなどが参加。

<第4インターナショナルFI結成> 1933

 国際左翼反対派ILOは、1933年8月のパリのIAG会議にオブザーバー派遣、会議はオランダのペテル・J・シュミットが主宰した。
 トロツキー、オランダ革命社会党のスネーフリート、SAPのヤコブ・ヴァルヒャーにより新インターナショナル結成が提案されたが拒否された。
 これは、国際左翼反対派国際書記のオイゲン・バウアー(エアヴィン・アッカークネヒト)、SAPのヤコブ・ヴァルヒャ(シュヴァルブ)、
オランダ革命社会党のスネーフリート、オランダ独立社会党のペテル・J・シュミットの署名で公表された。(4者宣言)
 しかし、間もなくOSPとSAPはこれと距離をとる。

 1933年9月、コミンテルンから別れ、オランダ革命的社会党RSPと国際主義共産主義者同盟(ボルシェヴィキ・レーニン)を結成。(−1936年)
 1933年12月のバウアー、トロツキー、ペロチPeroci、ピエール・フランク、ピエール・ナヴィーユ、レオン・セドフ(以上国際共産主義者同盟)、
スネーフリート、オランダOSPのジャック・デ・カデット、ドイツSAPのヤコブ・ヴァルヒャー、ボリス・ゴールデンベルクによる事前協議会では
トロツキーとヤッケス・デ・カデット、ヤコブ・ヴァルヒャーの間で国際共産主義者同盟主導を巡って論争があった。
 4者宣言はすぐに崩壊、SAPはこれ以上のトロツキストとの関係を持たなくなった。
 RSPも1935年、OSPと革命社会労働党RSAPを結成し、RSAPはトロツキーと衝突。

 1934年6月、トロツキーはフランスのLCIに社会主義者党参加を提案。(フランスの転換)

 1935年、トロツキーは公開書簡で4者宣言を再評価し、コミンテルン(第3インターナショナル、1919−1943年)と
労働・社会主義インターナショナル(1923−1940年、ベルン・インターナショナルウィーン・インターナショナルが合同結成)を批判し、
第4インターナショナル結成を要求。

 1935年8月、トロツキーの革命的組織への公開状がノルウェーに向かう前にパリでだされ、オランダRSAPのスネーフリートとペテル・シュミット、
米国労働者党のジェームズ・キャノン、A.I.マスト、カナダ労働者党のJ.マクドナルド、モーリス・スペクター、
SFIOのボルシェヴィキ・レーニン主義グループがこれに署名。

 1936年7月、パリで国際協議会が開催され、第4インターナショナルのための運動結成と、これへのICL合同が宣言される。
 これにはフランスから4名(PCIから2名、青年から2名)、オランダRSAPから1名、英国から代表2名、オブザーバー2名、ドイツIDKから2名、
イタリア1名参加とされる。
 そのほかソヴィエト・ボルシェヴィキーレーニン主義者、国際書記局、国際ユース書記からも代表があった。
 フランス支部からのレーモン・モリニエ追放、米国での社会党加入が承認された。
 トロツキーの”第4インターナショナルとソ連”が採択された。

 第4インターナショナル結成協議会は1938年9月、パリで開催された。
 しかし、この協議会の前にはエアヴィン・ヴォルフErwin Wolfとハンス・ダヴィド・フロイントHans David Freundがスペインで、
イグナス・レイスIgnaz Reissがスイスで、 レオン・セドフLeon Sedovと ルドルフ・クレメントRudolf Klementがパリで恐らくGPUによって
暗殺されている。

 協議会はパリ(ロスメルの邸宅)で開催され、12カ国から21代表が参加し、過渡期綱領が承認される。
 結成協議会にはナヴィーユによると
  代表は米国、英国、フランス、ベルギー、オランダ、ポーランド、ギリシャ、イタリア、ドイツ、ロシア、ブラジル。
  委任はスペイン、チェコスロヴァキア、カナダ、メキシコ。
 ニューヨークで発行されたトロツキストの新聞”社会主義者の訴え”によると主席者は30人。
 米国からはジェームズ・キャノン、マックス・シャハトマン、ナサン・グールドNathan Gould、エマヌエル・ゲルトマンEmanuel Geltman、
フランスからはピエール・ナヴィーユ、イヴァン・クレポ、ジャン・ルー、マルセル・イック、ブラジルはマリオ・ペドロサMario Pedrosa、ギリシャは
ミカリス・ラプティス(ミッシェル・パブロ)、ベルギーはレオン・ルソワ、英国はシリル・ジェームズが出席。

 正規加盟組織は
  フランス:国際主義労働者党POI、革命的社会主義者青年JSR
  英国:革命的社会主義者同盟RSL
  ベルギー:革命社会党PSR、革命的社会主義者青年JSR
  ドイツ:ドイツ共産主義国際主義者IRD
  ポーランド:ボルシェヴィキ・レーニン主義者グループ
  米国:社会主義労働者党SWP、青年人民社会主義者同盟YPSL(第4インターナショナル)
  カナダ:ボルシェヴィキ・レーニン主義者グループ
  スペイン:ボルシェヴィキ・レーニン主義者グループ
  オランダ:ボルシェヴィキ・レーニン主義者グループ
  ギリシャ:国際主義共産主義者同盟、国際主義共産主義者連合
  スイス:マルクス主義者行動
  チェコスロヴァキア:火花・旗グループ
  ノルウェー:ボルシェヴィキ・レーニン主義者グループ
  ルーマニア:ボルシェヴィキ・レーニン主義者グループ
  オーストリア:革命的共産主義者
  ソ連:左翼反対派(ボルシェヴィキ・レーニン主義者)
  メキシコ:国際主義共産主義者同盟
  キューバ:革命労働者党
  ドミニカ:ボルシェヴィキ・レーニン主義者
  ブラジル:レーニン主義労働者党
  アルゼンチン:ボルシェヴィキ・レーニン主義者グループ
  チリ:革命労働者党
  ボリヴィア:ボルシェヴィキ・レーニン主義者グループ
  ウルグァイ:ボルシェヴィキ・レーニン主義者グループ
  中国:国際主義共産主義者連合
  インドシナ:ボルシェヴィキ・レーニン主義者連合
  オーストラリア:労働党?
  南アフリカ:ボルシェヴィキ・レーニン主義者グループ

 加盟しないが提携していたのは、チェコスロヴァキアのプロレタリア・グループとデンマークの組織。
 各組織のメンバーはナヴィーユの報告では米国2500、ベルギー800、フランス600、ポーランド350、ドイツ200、チェコスロヴァキア
200−150英国170(RSL)、ギリシャ、チリ、キューバ、南アフリカ各100、カナダ75、オーストラリア、オランダ、ブラジル各50、
スペイン10−30、メキシコ16。
 しかし、アイザック・ドイッチャーは米国は1000と推定、ドワイト・マクドナルドはSWPは800と回想。

 第4インターナショナル結成には反対があった。すでにベルギーのゲオルゲス・フェレーケンが反対を表明していたが、この協議会には不参加。
 代わってポーランド代表カール・ヘルツ・メンデル(実質的には参加していないアイザック・ドイッチャーの意見)が組織の内実を伴わない事を
理由に反対、これにピエール・ナヴィーユ、マックス・シャハトマンが反論、投票ではクレポだけがポーランド代表を支持。(9対3)

 最初の国際執行委員会に
  フランスのジャン・ルー、ピエール・ナヴィーユ、ジョアネ・バルダンJoannes Bardin、米国からはジェームズ・キャノン、マックス・シャハトマン、
 SWP指定のもう1名、ベルギーのレオン・ルソワ、ワルテル・ドージュ、英国のシリル・ジェームズ、デンジル・ハーバー、
 イタリアのジュリアンJulian、ポーランドのカール・ヘルツ・メンデル、ブラジルのマリオ・ペドロサ、インドシナのタ・トゥ・タウが選任された。

 この当時GPUエージェントのパウル・オクンPaul Okun(M.ミル)、ジャック・オビンJacques Obin、アブラハムとルヴィム・ソボレヴィキウス兄弟、
アブラハム・セニンロマン・ウェル)、マルク・ツボロフスキがトロツキストと関係していた。

 1939年、第2次世界大戦勃発で国際書記局はパリからニューヨークに移る。
 9月の最初の会合はマリオ・ペドロサ、ヤン・フランケル、マックス・シャハトマン、C.L.R.ジェームス、ジェームス・キャノン、
サム・ゴードンが参加、アルバート・ゴールドマン、オスカル・フィッシャー、トロツキーは欠席。
 新在住国際執行委員会はマリオ・ペドロサ、ヤン・フランケル、マックス・シャハトマン、C.L.R.ジェームスの4人が構成。
 これらは米国のSWPの1939−1940年の分派闘争の反対派(シャハトマン派)に味方していた。

 米国社会主義労働者党SWPではトロツキー支持派とシャハトマン(1904−1972年)、バーナムマルティン・アバーンらが対立し、
1940年4月労働者党結成。
 国際書記局は米国SWPの影響下にはいる。フランスから来たジーン・ヴァン・ハイエンノートが1940年書記となるがSWP多数派と衝突し辞任。
 トロツキーは1940年、メキシコで暗殺される。
 ジーン・ヴァン・ハイエンノートは1932年フランス共産主義者同盟に参加し、1932−1939年までトロツキーの個人秘書を勤めていた。
 1942年からSWPでヨーロッパの戦後について革命がおこるとする多数派とこれに批判的なアルバート・ゴールドマンフェリックス・モローらと
論争が始まる。
 アルバート・ゴールドマンは後、労働者党から社会党へ、フェリックス・モローは右傾化。

 1940年5月、ニューヨークで緊急国際協議会開催。
 米国、カナダ、メキシコ、スペイン、ベルギー、プエルトリコ、キューバ、ドイツ、オーストラリア、チリから代表が参加したとされる。
 ニューヨーク本部の中心人物はジャン・ファン・ハイエンノールトとなる。彼にサム・ゴードンが協力、間もなくバート・コクランに代わる。
 1940年、SWPはVoorhis法のためFIから脱退せざるを得なかった。更にSWPは主要メンバーが1944年中投獄された。
 国際書記局ISはそのほか短期間、ルドヴィッヒ・ズールLudwig Suhl、A.ゴンザレスGonzales、チャールズ・クルティスが協力していた。
 国際書記局ISはラテン・アメリカ、英国、中国、オーストラリア、フランスと連絡をとっていたがフランスとの連絡は1942年末に途切れる。
 これで大陸欧州のトロツキスト運動の情報は入らなくなった。
 ISの主な役割はラテン・アメリカの組織、その内部抗争(特にアルゼンチンのリボリオ・フスト)に関する問題の処理になった。
 シェリー・マンガンが各国のトロツキスト・グループとの連絡の鍵を握った。
 またジョセフ・ハンセンサム・ゴードンフランク・ラヴェル、ジョージ・クラークなどのSWP所属の船員が各国のトロツキスト・グループとの
連絡の鍵を握った。
 ハイエンノールトはアルバート・ゴールドマンとフェリックス・モローのSWP少数派に好意的で彼らはシャハトマンの労働者党と抗争していた。
 このためハイエンノールトはSWP指導部と折り合う事が難しくなっていき戦争末期に活動をやめた。
 

<欧州書記局の設立>

 1940年のナチスのヨーロッパ席捲で、西欧のトロツキズム運動は大打撃を受け、すべて地下化した。
 更に戦前の分裂主義が状況を複雑化した。
 フランスではモリニエ・グループPCI(国際主義共産党)は1939年2月、戦争に備え、ピエール・フランク、レイモン・モリニエ、ロドルフ・プラジェを
ベルギーに派遣し、フェレーキンやスネーフリートのグループをも含むベルギーとオランダのグループと接触。
 戦争勃発で公式には第4インターナショナルのメンバーでない、流れに抗してグループのフェレーキン、PCIのプラジェ、英国反対派グループ
によって第4インターナショナルの名で戦争反対の宣言が出された。

 ベルギーではアンリ・オプタHenry Opta、アブラハム・レオン、カミーユ・ロースCamille Loos、エルネスト・マンデルの若い活動家によって
再建された。
 フランスでは古参活動家の撤退でマルセル・イック(POI)、ロドルフ・プラジェ(PCI)ら若いトロツキストが地下活動に従事。
 1942年1月、フランスのマルセル・イック、イヴァン・クレポ、スワンSwannがブルッセルでベルギーのグループと会い、その結果、
ベルギーのアンリ・オプタおよびアブラハム・レオンらとによって最初の欧州書記局が結成され、パリに本部が置かれた。

 1943年夏、臨時欧州書記局が結成されれた。
 ギリシャ人ミカリス・ラプテス(ミッシェル・パブロ)の影響下そのほかマルセル・イック(1943年10月逮捕でイヴァン・クレポと交代)、
ニコラス・スプルベール、アブラハム・レオン、スペイン人ラファエル・フォント・ファラン、マルティン・ヴィデリンが加わっていた。
 欧州書記局はマルセル・イックの影響下にあったが、臨時欧州書記局はミカリス・ラプテスの影響下にあった。
 臨時欧州書記局は1943年8月、第4インターナショナルの第1号を発行。

 臨時欧州書記局はトロツキストの結集に努め、特にフランスのモリニエ・グループとベルギーのフェレーキン・グループとの交渉を行い、
モリニエ・グループは交渉を受け入れ、ロドルフ・プラジェが加わったが、フェレーキン・グループとの交渉は成功しなかった。  

 欧州協議会が1944年2月、北フランスのボヴェ近くで開催され14名の代表が参加。
 ベルギーのPCRのアブラハム・レオン、エルネスト・マンデル、フランスのPOIのイヴァン・クレポ、ニコラス・スプルベールNiccolas Spoulber、
マルセル・ギベリンMarcel Gibelin、アラン・ル・デムAlain Le Dem、CCIのジャック・グランブラJacques Grinblat、ロドルフ・プラジェ、
10月グループのアンリ・クロード・プジュHenri Claude-Puobe、ドイツのマルティン・モナッタ、ギリシャのミカリス・ラプティス
ゲオルゲス・ヴィツォリス、スペインのエルネスト・モリス、ラファエル・フォント・フェランが参加。
 中心課題はフランスのグループの統合であった。

 戦争末期には、米国SWPから1944年シェリー・マンガン、兵士としてジョージ・ブライトマン、1945年サム・ゴードンが欧州書記局と接触。

<第4インターナショナルの再建>

 1946年3月パリで最初の戦後の第4インターナショナル協議会が開催される。28−32名参加。
 スペインからはエドワルド・モリシオ、ラファエル・フォント・ファラン、ヴェトナムからピエールとレ・ヴァン、オランダのピエト・ファント・ハルト、
ソル・サンテン、スイスのハインリッヒ・ブッフビンダー、ギリシャのミカリス・ラプティス、フランスのジャック・グランブラJacques Grinblat、
マルセル・ギベラン、ポール・パリゾーPaul Parisot、英国のゲリー・ヒーリー、ジョン・アーチャー、ダン・タッテンバウム、アイルランドの
ボブ・アームストロング、米国のサム・ゴードン、シェリー・マンガン、ジョージ・ブライトマンが出席。
 1947年まで、国際書記局はミカリス・ラプティス、サム・ゴードン、モリス・レウィット、シェリー・マンガン、ピエール・フランク、イヴァン・クレポ、
エルネスト・マンデル、インドのV.サストリ、ジミー・ディーン、ジョック・ハストン、エドワルド・マウリシオ、レ・ヴァン、ソル・サンテン
ハインリッヒ・ブッフビンダー、ジャック・グランブラ、ポール・パリゾーが形成。

 1948年、第2回世界会議がパリで開催される。22組織の代表参加。
 ミッシェル・パブロ(ラプティス)が主に報告を行う。最も議論となったのはエルネスト・マンデルのソ連とスターリン主義という報告。
 これは正統的トロツキズムの解釈であった。マックス・シャハトマンは堕落した労働者国家説を否定、反動的・官僚制集産制国家と規定。
 一方で変形した労働者国家と考えるグループも存在。



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