<<ドイツの左翼>


〔左翼(ディー・リンケ)〕
 2007年6月、PDSとWASGが統合して結成、指導者にはロタール・ビスキー(1941−)とオスカー・ラフォンテーヌ(1943−)がなる。
 2008年4月で党員約7万3千人。

 2007年5月ブレーメン州選挙で8.4%と躍進、2008年1月ニーダー・ザクセン(7.1%)、ヘッセン(5.1%)、2月ハンブルグ(6.4%)
でも躍進した。ヘッセンでは選挙結果によりSPD州党首アンドレア・イプシランティがリンケを含む連立政権を結成しようとして党内造反にあい辞任。
 2009年再選挙でSPD大敗(13%減、13議席減)、リンケは5.4%獲得。緑とFDP大幅増。

 2009年連邦議会選挙は党名簿11.9%と3.2%増で76議席の22議席増と上昇。
 2010年指導者がゲジーネ・ロッチェ(元PDS、1961年生、元国家保安省Stasiの職員という批判を受けている)とクラウス・エルンスト(元WASG
1954年生)に交代。
 2010年大統領選では社会民主党、90年連合・緑支持のヨアヒム・ガウックを支持せず、キリスト民主連合、自由民主党支持のクリスチャン・ヴルフ
が3回目に当選。(リンケは棄権)
 2012年大統領選は政権党連合が社会民主党、90年連合・緑を誘ってヨアヒム・ガウック(Stasi狩人)を候補とし、リンケは排除される。
 リンケはベアテ・クラスフェルト(反ナチ・親イスラエル活動家)を支持。
 2012年指導者にカーチャ・キッピング(1978年生)とベルント・リークシンガーがなる。
 2013年9月連邦選挙結果は8.6%(党名簿)、64議席と前回より12議席減。
 2014年EU選は7.39%、7議席。
 2017年連邦選挙は9.2%、69議席。第5党。
 2019年EU選は5.5%、5議席。

 党内流派
  反資本主義左翼 連立政権参加に批判的。議会内外の運動を結合。サラ・ヴァーゲンクネヒト(1969−)、トビアス・プフリューガー(旧WASG)、
   コルネリア・ヒルシュウッラ・イエルプケなど。
  共産主義綱領KPF PDSに由来するグループでマルクス主義派、ネットワーク改革左翼に批判的。DKP、KDP、赤い狐(1998年ベルリンのDKPグループ
 創設の独立共産主義・社会主義雑誌、2001年党と衝突し独立)、特にDKPと協力、MLPDとは協力しない。
    サラ・ヴァーゲンクネヒトマティアス・ベルヴォルフなど。
  社会主義左翼 2006年結成、ケインズ左派、改革共産主義、オランダ社会党などを手本、主に旧WASG、ディーター・デーム(1950−)、
   トーマス・ヘンデルユルゲン・クルート、ヒュゼイン・アイディン(1962−、トルコ系)、クリスティーヌ・ブホルツなど
  ネットワーク改革左翼 2003年PDSのグループとして結成、SPDと緑との連合支持。
   ペトラ・パウ(1963−)、ヴルフ・ガラートヤン・コルテシュテファン・リービッヒハリナ・ヴァヴツィニアクなど。
  解放(自由)左翼 自由と社会主義が両立すると考える。カーチャ・キッピング(1978−)、カレン・レイ(1972−)、ユリア・ボンク(1986−)など。
  民主社会主義フォーラム PDS由来、ネットワーク改革左翼に近く、社会主義左翼とも関係、市民権や女性積極的差別是正などに焦点、
   シュテファン・リービッヒ(1972−)、インガ・ニッツカレン・レイなど。

 左翼移行(マルクス21)、社会主義選択、火花(フンケ)などが参加あるいは加入戦術を行っている。


(左翼党(民主社会党)PDS) Partei des Demokratischen Sozialismus
 1989年12月、東ドイツのドイツ社会主義統一党SEDがドイツ社会主義統一党−民主社会党SED−PDSと改名し、
1990年2月、民主社会党に、2005年7月、左翼党PDS(Linke.PDS)と改名。
 2007年7月、WASGが合流し、左翼(ディー・リンク)が発足。
 2006年12月で党員約6万人。党員が高齢化しているという問題がある。
 ヨーロッパ左翼党の共同設立者であり、EU議会ではヨーロッパ統一左翼・北欧緑左翼グループ最大党。

 1990年1月の最初の自由国会選挙では18.4%獲得。
 1990年3月の最初の全ドイツ統一選挙ではグレゴール・ギジGregor GysiのもとPDSは2.4%しか獲得できなかった。
 1994年にはキリスト教民主党の反共キャンペーンにもかかわらず4.4%獲得。
 1998年には5.1%獲得し5%条項を達し、議会内党の地位を獲得した。
 2002年の選挙は4.0%、2議席となる。
 PDSはギシの同盟者で議長のロタール・ビスキーLothar Biskyのもと再建を計った。
 2004年のEU議会選挙では6.1%獲得。
 東ドイツではキリスト教民主党と社会民主党と並ぶ3大政党となっているが西ドイツではメンバーも支持も少なく、
2005年の選挙では労働と社会正義−選挙選択と選挙連合を組み8.7%、54議席獲得。
 ギシ、ゲジーネ・ロッチェ、ペトラ・パウPetra Pauの3人が東ベルリン選挙区から選出され、比例代表としてビスキー、
カーチャ・キピングKatja Kipping(1978年生まれ)、オスカー・ラフォンテーヌOskar Lafontaine(元SDP議長)、ポール・シェフェー(元DKP
メンバー)、ハック・ケスキン(トルコ系)などが選出された。
 1999年EU選挙ではPDSから22才のヤジード派議員フェレクナス・ウカ(1976年生まれ)が選出されている。

 グレゴリー・ギジは1967年社会主義統一党SEDに加盟、70−80年代は弁護士としてロベルト・ハーヴェマンルドルフ・バーロユルゲン・フックス
ベルベル・ボーレイ(1990年ギジをシュタージ:国家保安省情報者と宣言)、ウルリケ・ポッペらの著名な反体制派を弁護。
 1980年代末にはSED内のゴルバチョフに鼓舞された改革派として頭角を現す。更にSEDの民主社会党転換を主導。

 党内潮流
  反資本主義左翼 サラ・ヴァーゲンクネヒトトビアス・プフリューガーコルネリア・ヒルシュウッラ・イエルプケなど。
  社会主義左翼 ケインズ左派、改革共産主義、オランダ社会党などを手本、旧SPDのディーター・デームなど
  改革左翼 ネットワーク改革左翼、SPDと緑との連合支持。ペトラ・パウヴルフ・ガラートヤン・コルテシュテファン・リービッヒ
 ハリナ・ヴァヴツィニアクなど。
  解放(自由)左翼 自由と社会主義が両立すると考える。カーチャ・キッピングカレン・レイユリア・ボンクなど。
  研究集団 種々の政策集団、思想集団がある。共産主義綱領サラ・ヴァーゲンクネヒト)、マルクス主義フォーラムウヴェ・イエンスホイアー
 ウヴェ・ヒクッシュ)、エコロジー・フォーラムキューバ・シフェミニズム系集団など。

労働と社会正義−選挙選択WASG)
 2004年、赤緑連合のアジェンダ2010に対して”選挙選択・労働と社会正義”として出現、彼らは赤緑連合を
新自由主義と見なした。
 2004年11月は約4千人のメンバーであった。
 2005年1月、社会民主・緑政権に不満な活動家が結成。
 同年6月、元SPD大物政治家オスカー・ラフォンテーヌ参加。
 2005年の選挙ではPDSと選挙連合を組み8.7%獲得。54議席獲得しうち12議席はWASG。
 2007年、左翼党(社会民主党PDS)と統合し左翼を結成。当時約1万1千人のメンバー。
 ヨーロッパ左翼党と、EU議会ではヨーロッパ統一左翼・北欧緑左翼に参加。

 WASGは広範囲な政治基盤をもった左翼政党で、SPD、緑、PDS、DKPからCDUまでからも来ている。
 更に知識人、労働組合活動家、ATTAC(金融取引課税運動)などの社会運動活動家なども参加。
 その他社会主義選択SAV(トロツキスト)、左翼移行(トロツキスト)、西ドイツ共産主義者同盟KBWなど。
 ローザ・ルクセンブルク財団教育団体SALZなどが理論面での支援をしている。

 主な人物
  オスカー・ラフォンテーヌ、ウルリッヒ・マウラークラウス・エルンストアクセル・トロースト、マンフレット・コッピック、
 ピーター・フォン・オルゼンエルマール・アルトファータークルスチーヌ・ブッフホルツ(トロツキスト、左翼移行)、
 ルーシー・レドラー(トロツキスト、SAV)など。  ルーシー・レドラー →YOU・TUBE

 党内潮流
  反資本主義左翼 WASGとPDSのグループ、2006年3月結成。サラ・ヴァーゲンクネヒト(1969−)、ウッラ・イエルプケなど。
  社会主義左翼 WASGとPDSのグループ、2006年8月結成。
  ネットワーク左翼反対派NLO WASG内グループ、2006年10月結成。 主に社会運動を行う。
  レファークゼン・サークル WASG内グループ、2005年選挙でのPDSとの協力反対派、小政党に分離・分裂。

 統合反対派は2007年、選択社会正義SAGを結成。
 トロツキスト傾向(ルーシー・レドラー社会主義選択SAV所属)も連帯と正義のベルリン選択BASG設立。

民主社会主義者DS)
 1980年代初め、シュミット政権(自由民主党FDPとの社会リベラル連合、1982年まで)のNATO政策に反対した
SPD内左派として成立。
 1982年11月公式結成。中心人物はカール・ハインツ・ハンゼンマンフレト・コピック(2005年WASG参加、後リンケへ)。
 主に平和運動に関与。選挙連合の平和名簿にも参加。
 1982年の社会リベラル連合の崩壊とコール政権成立でSPDが政権反対派になり、支持がSPDに回帰、更に
が支持を集め始め、DSは分裂と孤立化の傾向を示す。
 1991年解散。


(独立社会民主党USPD) Unabhangige Sozialdemokratische Partei Deutschlands,
 USPDは1914年のSPDの第1次世界大戦と城内平和路線支持に反対するグループから生じた。
 1914年12月カール・リープクネヒトがこれ以上の戦争予算に反対、1915年12月、19人の議員がこれに続き、SPD指導部の
フルードリッヒ・エーベルトフィリップ・シャイデマンは1916年3月彼らを党から追放した。
 彼らは社会民主主義活動グループSAGを結成、1917年4月ゴータでUSPDが結成された。
 フーゴ・ハーゼヴィリアム・ディットマンが議長となった。
 これにスパルタクス同盟が参加したが比較的自主性を保っていた。
 党には種々のメンバーが参加していた。
 SPD左派ハーゼクルト・アイスナーからマルクス主義理論家カウツキー、改良主義者ベルンシュタインまでいた。
 USPDの主目的はスパルタクスや革命的労働者と共に戦争を早期に終わらせることにあった。
 議会のUSPDグループは比較的自主性を保ち、戦争の3年までMSPDのように乱暴なストライキは避けたがだんだん
党と労働組合の革命的指導者(オプロイテ、調整者:労働組合から独立して選ばれた活動家)は独立の抗議行動を組織し始めた。
 ロシア十月革命の影響で党は50万の党員までになりほとんどMSPDに匹敵するようになった。
 1918年11月革命ではUSPDは重要な役割を果たした。
 USPDはSPDと1918年11月人民委員会協議会を結成した。
 人民委員協議会SPDフリードリッヒ・エーベルトシャイデマンオットー・ランズベルクとUSPDのフーゴ・ハーゼ
ヴィルヘルム・ディットマンエミール・バルト革命的指導者)で結成された。
 エーベルトは革命に反対し、臨時政権から離脱した。
 1918年12月、ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトのスパルタクス同盟が分離しドイツ共産党を結成。
 1919年1月革命ではUSPDとスパルタクスは敗北した。
 選挙では7.6%、22議席しか獲得できなかった。SPDはブルジョアとの連合を選び、中央党DDPとのワイマール連合が成立。
 1920年の選挙では18.8%、81議席でSPDは21.7%、113議席となった。
 
 レーニンの共産主義インター結成で1920年10月USPDは分裂、エルンスト・ドイミッヒらの多数派は共産党と統一し、
統一共産党VKPDを結成。
 2年後後残りの多数派アルトゥール・クリスピーンヴィルヘルム・ディットマンロベルト・ディスマンドイツ金属同盟議長)、
カール・カウツキー、エドワルト・ヒルファーディング及びKPDから分裂したポール・レヴィエルンスト・ドイミッヒアドルフ・ホフマン
ベルンハルト・デュヴェル共産主義活動グループKAGは1922年再びSPDに戻った。
ゲオルク・レーデブール・とポール・ヴェグマンテオドル・リープクネヒトカールの兄)が残った。
 クルト・ロ−ゼンフェルトは反対したが結局SPDに移った。
 1924年ゲオルク・レーデブールが社会主義者同盟結成。テオドル・リープクネヒトとエルザ・ヴィーマンが残る。
 USPDは1931年SAPDに参加。

(戦前のドイツ共産党KPD) Kommunistische Partei Deutschlands 歴史(トロツキスト観)
 1914年SPDの左翼反対派として国際主義者グループがローザ・ルクセンブルクカール・リープクネヒトフランツ・メーリンク
ユリアン・バルタザール・マルクレヴィスキーエルンスト・メイヤーヘルマン・ドゥンケルヴィルヘルム・ピークレオ・ヨギヘス
クララ・ツェトキンによって結成され、回覧スパルタクスを発行(これによりスパルタクス・グループと称され1918年スパルタクス同盟
となる)。

 1914年、カールリープクネヒトが、1915年、オットー・ルーレが議会で戦争予算に反対。
 1917年SPD内の城内平和反対派が成長し1917年4月独立社会民主党USPDが結成された。
 スパルタクス・グループもこれに参加。ローザやリープクネヒトら多くのメンバーが投獄された。
 1917年3月、更に1918年1月のストライキは労働運動大きな衝撃を与えた。
 ベルリンのリヒャルト・ミュラーエミール・バルトゲオルク・レーデブラーらの革命的指導者(オプロイテ)は評議会(レーテ)運動を
強力に支援した。
 ロシア10月革命が大きな衝撃を与えた。
 敗戦を目の前に1918年9月マックス内閣が結成され、SPDのフィリップ・シャイデマンが参加。
 1918年10月多数派SPD(MSPD)の入閣(マックス内閣へシャイデマン参加)にスパルタクス同盟はデモで存在と反対を示した。
 1918年11月キール軍港から反乱が始まり、労兵協議会(レーテ)が結成され、瞬く間に全国に広がった。
 やがてミュンヘンで革命(1918年11月7日USPDのクルト・アイスナーがバイエルン自由国家宣言)が起こった。
 ベルリンのマックスは11月皇帝退位宣言を行い、フリードリッヒ・エーベルトに権力を渡した。 皇帝はオランダに逃亡。
 独立社会民主党エミール・バルトリヒャルト・ミラーの革命的指導者とスパルタクス同盟は共和国評議会結成をめざしたため
、1918年12月9日フィリップ・シャイデマンのSPD多数派はドイツ民主共和国を宣言。

 1918年12月末から1919年1月初めの会議でスパルタクス同盟からヘルマン・ドゥンケルケーテ・ドゥンケル
フーゴ・エーベルラインレオ・ヨギヘスポール・ランゲポール・レヴィカールリープクネヒトローザ・ルクセンブルク
エルネスト・メイヤーヴィルヘルム・ピークアウグスト・タイルハイマーが参加、ドレスデンからオットー・ルーレ
ブレーメン左派のドイツ国際共産主義IKDからヨハン・クニーフポール・フローリッヒが参加し共産党が結成された。
 
 その後人民委員協議会SPDフリードリッヒ・エーベルトシャイデマンオットー・ランズベルクとUSPDのフーゴ・ハーゼ
ヴィルヘルム・ディットマンエミール・バルトで結成されやがてUSPDが追放され1919年2月SPD(多数派SPD)の評議会は
ワイマール国民議会で選出されたシャイデマン政府に権力を渡した。
 12月の労兵協議会全国大会はSPDが多数派を占め国民議会選挙とその後の権力譲渡を決定。

 1918年革命エーベルトは共産主義者に反対する帝国軍指揮官に味方し、新政府の首脳となった。
 フリードリッヒ・エーベルトは帝国軍により革命を押さえ込むつもりだった。間もなく左派はSPD指導部の暴力を体験する。

 1919年1月ベルリンでリープクネヒレーデラー革命政府樹立を宣言、(1月蜂起、スパルタクス蜂起)これらの動きは
グスタフ・ノスケ義勇軍を使用し鎮圧。
 このなかでエドワルト・シュタットラーによりリープクネヒローザ・ルクセンブルク、間もなくレオ・ヨギヘスポーランド社会民主党
ローザと結成)も殺された。

 1919年、スパルタクス蜂起以降、KPD主導の労兵協議会がベルリン、ミュンヘン、ハンブルク、ブレーメン、ルール等各地で増加した。
 1919年春、ブレーメン、マンハイム、ブルンスヴィック、ヴルツブルク、ミュンヘンレーテ共和国が宣言された。

 4月バイエルン(ミュンヘン)評議会共和国が成立、ミュンヘンでは1918年11月7日USPDのクルト・アイスナーが2月政権を
握ったが4月左派が評議会共和国を宣言やがて共産党が権力奪取したが5月崩壊させられた。
 KPDのオイゲン・レヴィンなど指導者が処刑される。
 SPDは1919年の初期防衛大臣グスタフ・ノスケ義勇軍により共産主義者と左派スパルタクスの反乱を弾圧するのを支援した。
 8月ワイマール憲法採用によりワイマール共和国成立。
 共産党は新政府制度に強く反対し、SPDワイマール連合(SPD、民主党中央党、1919年2月〜1932年)に参加した。
 
 1919年1月の選挙結果はSPD37.9%、165議席、中央党(カトリック)19.7%、91議席、民主党18.6%、75議席、
民族人民党10.3%、44議席、USPD7.6%、22議席、人民党4.4%、19議席となった。

 1920年3月右翼と軍の一部によりカップ一揆が発生、軍首脳部ハンス・フォン・ゼークトは鎮圧を拒否したが総ドイツ労働組合同盟
ADGBのカール・レギーン指導下の労働者ストライキにより粉砕。
 このあと5月ルールでは赤色ルール軍(アナーキストFAUMの影響が強かった)が結成され軍・義勇兵との戦闘が起こった。
 (ルール蜂起

 1920年7月の選挙はSPD21.7%、113議席、USPD18.8%、81議席、DKP2.1%、2議席(国家人民党14.4%、66議席、
人民党13.9%、62議席中央党13.6%、67議席、民主党8.5%、45議席など)でSPDがー50議席でUSPDが+59議席となった。

 1919年10月のハイデルベルク党会議ポール・レヴィは国会選挙参加を決めた。これにより内部分裂が生じオットー・ルーレ
ポール・マティックらの評議会共産主義共産主義労働党KAPDが1920年4月分裂した。
 10月国家ボルシヴィズムハインリッヒ・ラウヘンベルクフィリッツ・ヴォルフハイムが追放される。

 1920年末USPD多数派は共産主義インターに加盟し、ついで共産党に参加したためドイツ統一共産党VKPDを名乗った。

 マティアス・ラコシベラ・クーンらがコミンテルンからドイツに派遣されポール・レヴィらとの意見相違を生じる。
 1921年3月ベラ・クーンの指導のもとマックス・ホルツカール・プレットナーフランツ・ユンクらのマンスフェルト蜂起中独蜂起
3月蜂起)が起きたが粉砕される。
 これら一揆主義をポール・レヴィは批判し、ジノヴィエフ指導のコミンテルン幹部に批判される。
 これによりポール・レヴィエルネスト・ドイミッヒらが追放され共産主義労働連合KAGを結成やがてSPDに参加。

 1923年10月、エルンスト・テールマンフーゴ・ウルバーンズらによりハンブルク蜂起10月敗北)発生。
 このあとハインリッヒ・ブランドラーアウグスト・タールハイマーヤコブ・ヴァルヒャーの右派指導部が解職される。
 1923年11月、党はハンス・フォン・ゼークト将軍により国家社会主義ドイツ労働党ドイツ・チェコ自由党とともに禁止されが
数週間後取り下げられる。
 1924年7月最初のKPDの戦闘組織赤色戦線闘争者同盟が結成され1925年2月エルンスト・テールマンが指導者となる。
 1924年レーニンが死亡、スターリンが跡を継ぎ、KPDに大きな影響を与える。
 1925年8月ヴェルナー・ショレムルート・フィッシャーアルカディ・マズローアルトゥール・ローゼンベルクの極左党指導部が
解任されのちに追放となりエルンスト・テールマンフィリップ・デンゲルと交代。
 エルンスト・テールマンハンブルク蜂起に参加)は1927−1928年、中間派のアルトゥール・エーヴェルトゲルハルト・アイスラー
とついで組織官僚のヴァルター・ウリブリヒトやスターリン主義のヘルマン・レンメレハインツ・ノイマンポール・メルケルらと手を握った。
 1928年ポール・フルーリッヒが共産党反対派KPOハインリッヒ・ブランドラーアウグスト・タールハイマーと結び追放される。
 (ハインリッヒ・ブランドラーアウグスト・タールハイマーポール・フルーリッヒ共産党反対派KPO結成。)
 排除された左派、極左派は1928年レーニン同盟を結成。

 カール・コルシュは1925年極左反対派の結集に向かい、1926年エルンスト・シュヴァルツハインリッヒ・シュラーゲヴェルトらと
断固左翼Entschiedene Linkeを結成し、党から追放され共産主義者国際グループを結成し、議会では左翼共産主義者グループに参加。

 1928−1930年にKPDに仲裁グループから党内グループの調停者グループ(エルンスト・メイヤー)が出現したが、スターリン主義化
で追放される。
 
 大恐慌の間に党は成長、1928年5月に党員13万、320万票、1932年11月に25万2千、600万票、16.9%、100議席となる。
 KPDはよりモスクワに従属するようになり、社会ファシズム論が出てきた。

 ヒットラーの首相就任直後、1933年2月国会議事堂放火事件が起き、共産主義者のせいにされゲオルギー・ディミトロフらが
逮捕された。このあと人身保護令が中止された。
 1933年5月の選挙では公然活動は禁止されたにもかかわらず12.3%、81議席獲得、しかし国会放火令により取り消された。

 1933年5月26日KPDの国内活動は停止した。
 1933年までに多くの支持者とその分裂者は逮捕され収容所に閉じ込められ、エルネスト・テールマンヴェルナー・ショレスなどの
ように殺されたものも多い。ヴィルヘルム・ピークヴァルター・ウリプリヒトらはソ連に亡命した。
 KPDは1933−1945年までファシストとの戦いで大きな損失を蒙った。
 KPDは地下組織を維持したが中心メンバーの損失は大きく、弱体化した。
 国外亡命しなかったレジスタンス・グループベルンハルト・ベストラインアントン・サエフコヴフランツ・ヤコブKPD国内指導部
らである。
 赤い登山者オットー輸送隊などもKPDメンバーが中心となったレジスタンス組織である。
 1934−1935年に社会ファシスト論を誤りとし人民戦線路線を打ち出した。
 スターリンの1937−1938年の大粛清フーゴ・エーベルラインハインツ・ノイマンヘルマン・レンメルフリッツ・シュルテ
ヘルマン・シューベルトらは処刑され、マーガレット・ブーバー・ノイマンはソ連の労働収容所に送られ、ついでナチスに手渡された。
 1939年のドイツ・ソ連不可侵条約は他のコミンテルン・メンバー諸党同様支持した。
 ソ連の亡命KPDがモスクワに自由ドイツ国民委員会(1943年、エーリッヒ・ヴァイネルト)NKFDを設立。
 パリのルテシア・サークル、ニューヨークの民主ドイツ評議会などでも共産党員は活動した。


(戦前のKPDに関係する組織・グループ)

ドイツ左派
 1920年、ポール・レヴィ指導のKPDからオットー・ルーレポール・マティック評議会共産主義のKAPDが分裂し結成される。
 1920年代初期ハインリッヒ・ブランドラーアウグスト・タールハイマーヤコブ・ヴァルヒャーエルンスト・メイヤーの右派指導部に対し
ルート・フィッシャーアルカディ・マスロフらは左派を形成。
 1921年ポール・レヴィエルネスト・ドイミッヒらが追放され共産主義労働連合KAGを結成。
 1923年ハインリッヒ・ブランドラーアウグスト・タールハイマー指導部ハンブルク蜂起失敗で失脚し、1924年ルート・フィッシャー
アルカディ・マスロフが党指導部を握る。
 1925年8月ヴェルナー・ショレムルート・フィッシャーアルカディ・マズローアルトゥール・ローゼンベルクの極左党指導部が
解任されのちに追放となりエルンスト・テールマンフィリップ・デンゲルと交代。
 1924−1925年にマスロフポール・シュレヒトアントン・グリレヴィッツフーゴ・ウルバーンズらが逮捕・投獄される。
 1926年、出獄のフーゴ・ウルバーンスに同じく出獄のアルカディ・マスロフとロシア帰国のルート・フィッシャーに合流。
 ルート・フィッシャーアルカディ・マスロフカール・コルシュ・グループなどの極左に接触。
 ウエディング・グループとコルシュ・グループがロシア反対派に連帯を示す。KPD内にこれの支持が広がり、指導部が圧殺に努める。
 1926年左派のヴェルナー・ショレムルート・フィッシャーアルカディ・マズロフーアルトゥール・ローゼンベルクフーゴ・ウルバーンズ
アントン・グリレヴィッツ、(以上レーニン同盟結成)極左派のカール・コルシュ(国際共産主義者結成)らが追放される。
 ロシア反対派がロシア党から追放される前にドイツ反対派がドイツ党から追放されてしまう。
 1930年調停者(フェアゾーンラー)グループハインリッヒ・スターマーアルベルト・サンネックらが追放される。

 追放されたフィッシャーアントン・グリレヴィッツ、ショレム、ウルバーンスらと党残留のポール・シュレヒトらが参加し
1927年KPD左翼反対派を結成。
 1928年4月レーニン同盟が結成される。これは1927年結成のウェディング反対派と対立。
 ウェディング反対派は1927年からロシア反対派と接触、ジェニヴィエヴ派のレーニン同盟よりトロツキーに近かった。
 1928年選挙結果は悲惨でレーニン同盟の反対派名簿は80230票、0.26%、これに対しKPDは3262986票、10.5%であった。

 1929年レーニン同盟多数派フーゴ・ウルバーンと少数派アントン・グリレヴィッツに分裂、1930年少数派追放される。
 1930年アントン・グリレヴィッツとクルト・ランダウのウェディンガー反対派がKPD統一反対派結成。
 中心人物はアントン・グリレヴィッツオスカル・ザイポルド
 アントン・グリレヴィッツ、ヤーコ(ジョゼフ・コーン)、オスカル・ヒッペフリッツ・ベレヴィレゲオルク・ユンククラス、ルヴィムとアヴラム・ソボレヴィキウス
(ローマン・ヴェル、アドルフ・セニン) 、エルヴィン・アッカークネヒト及びウェデェング・グループ。
 1931年統一反対派でクルト・ランダウがローマン・ヴェルと衝突し分裂。

 クルト・ランダウヨゼフ・フレイ、カール・トマンらと1926年KPOから追放されオーストリア共産党反対派を結成。
 1928年クルト・ランダウらはオーストリア共産党反対派から追放され雑誌”新しい訴えDer neue Mahnruf”グループ結成。
 ランダウはトロツキーの要請でドイツの左翼反対派統一のため1929年ドイツに渡り、ベルリンで赤いウェディングに参加。
 1930年KPD統一左翼反対派が結成されるが、ランダウとローマン・ヴェル (ルビン・ソボレヴィキウス、GPUスパイ)、アブラム・ソボレヴィキウスの
喧嘩でトロツキーはローマン・ヴェルを支持、1931年ランダウは分裂(火花グループ、1931−1937年)、コミンテルン左翼反対派国際労働グループ
(1933年から国際主義マルクス主義者)を結成。
 1933年ランダウはパリに移住。1936年ランダウはスペインに渡りNKVDにより暗殺される。

 カール・コルシュは1925年極左反対派の結集に向かい、1926年エルンスト・シュヴァルツハインリッヒ・シュラーゲヴェルトらと
断固左翼Entschiedene Linkeを結成し、月刊誌共産主義政治を発行。党から追放され共産主義者国際グループを結成し、議会では
左翼共産主義者グループに参加。
 カール・コルシュは国際的には左派スターリン主義批判派のアマディオ・ボルディガティモフェイ・サプロノフらと接触。
 1927年議会で独ソ協定批判。やがてエルンスト・シュヴァルツと別れ1933年頃にはコルシュ・グループは緩いグループとなりレーニン同盟
やKAPD、赤い戦闘者などと接触するようになった。
 また独立労働組合のドイツ産業同盟と協力。1936年にはアメリカ亡命。米国ではポール・マティックらと研究活動に専念。
 
ドイツ国際共産主義IKD(1918年)
 IKDはブレーメン急進左翼とハンブルク、ベルリン、ドレスデンなどのいくつかの地域の独立革命グループの名称。
 1918年スパルタクス同盟とともに共産党結成。
 1917年USPDが結成され、これらのグループはスパルタクス同盟の路線には従わず、全国的組織を結成しようとしたが、
警察の弾圧によりできず、1918年12月これら地域グループの緩い連合が結成された。(半月後には共産党結成。)
 ベルリンでは雑誌”光線”のユリアン・ボルハルトブレーメン市民新聞のちに労働者政治ヨハン・クニーフカール・ラデック
アントン・パンネクークポール・フルーリッヒ、ハンブルク左派(雑誌”闘争”)のフリッツ・ヴォルフマンハインリッヒ・ラウフェンベルク
などが存在。
 ブレーメン左派の中心はヨハン・クニーフでその周辺にはポール・フローリッヒカール・ラデック(1918年モスクワから帰国)、アントン・パンネクーク
(オランダ人共産主義者、評議会共産主義理論家)がいた。
 多くはSPD城内反対派のドイツ国際社会主義者ISDグループであった。
 1919年10月のハイデルベルク党会議でスパルタクス同盟の民主集中制に反対しIKDの大部分は追放され、ポール・レヴィにより
サンディカリストと非難される。
 オットー・ルーレハインリッヒ・ラウヘンベルクらは1920年4月共産主義労働党を結成。
 ポール・フローリッヒの少数派が党にとどまった。

共産主義労働党KAPD  →オランダとドイツ共産主義左翼
 1920年4月、KPDから分裂。このグループにはオランダ人共産主義者アントン・パンネクークヘルマン・ホルテルが影響を
与えていた。
 1920年国家ボルシェヴィズムのハンブルクのハインリッヒ・ラウフェンベルクフィリッツ・ヴォルフハイムと創設メンバーの
オットー・ルーレが追放される。
 1921年、フランツ・プフェムフェルトオスカー・カネールらが分裂しオットー・ルーレ総労働連合統一組織AAUE結成。
 1922年にはアレクサンダー・シュヴァブアルトゥール・ゴールドシュタインベルンハルト・ライヘンバッハカール・シュレーダーらの
エッセン・グループとアダム・シャラーらのベルリン・グループに分裂。
 エッセン・グループは1922年共産主義労働者インターヘルマン・ホルテルオランダ共産主義労働党シルヴィア・パンクフルスト
英国共産主義労働党など参加)を結成。
 1926年KPD追放のエルンスト・シュヴァルツカール・コルシュの断固(エントシーデネ)左翼グループとベルリン・グループが短期間
合同。これは別の分裂を惹き起こす。

 いくつかのグループがブルンスヴィック、ルール、ライプニッツ、クーニッヒスベルクなどでファシズムへのレジスタンス活動に参加。

 主な人物はフランツ・ユンクアダム・シャラーハインリッヒ・フォルゲラーヨーン・グラウデンツマックス・ホルツカール・プレットナー
フリッツ・ラッシュ、ポール・マティックヤン・アペルアウグスト・メルゲスブラウンシュヴァイク社会主義共和国議長)。

共産主義労働連合KAG
 ポール・レヴィは1921年の3月蜂起を批判し、ジノヴィエフのコミンテルンと党指導部から批判され党から追放された。
 議会グループの多数派はレヴィを支持したが、レーニンとトロツキーはレヴィの意見に賛成したが公表を批判した。
 レヴィエルンスト・ドイミッヒアドルフ・ホフマンベルンハルト・デューヴェルオットー・ブラスリヒャルト・ミラーらとKAGに参加、
クララ・ツェトキンレヴィと同意見であったがKPDに留まった。
 1922年春KAGの大部分はUSPDに合流、1922年末にはSPDに参加(レヴィも)。
 ポール・ヴェグマンオスカル・ルッシュら少数がUSPDに残った。
 ゲオルク・ベルテレエミル・アイクホルンハインリッヒ・マルツァーンヘルマン・ライヒらはKPDに戻った。

共産党反対派KPO 
 KPOはトロツキストの左翼反対派と区別される1929年結成の右翼反対派。(右翼、左翼はトロツキーがつけたもの) 
 エルンスト・テールマンフィリップ・デンゲルハインツ・ノイマンらKPD指導部に対抗してハインリッヒ・ブランドラーアウグスト・タルハイマー
によって率いられた。
 1928年、ポール・フローリッヒがKPD議員名簿から追放されて参加。1932年ポール・フローリッヒはKPOから追放され仲間とSAPDに参加。
 コミンテルンの指示でKPD指導部のエルンスト・テールマンフィリップ・デンゲルハインツ・ノイマンは1928年、極左転換を行い
SPDを主敵として闘争を集中させた。(社会ファシズム論
 前の指導者のハインリッヒ・ブランドラーアウグスト・タルハイマーはこれを拒否。彼らは従来の労働組合に対し革命労働組合反対派
RGOを形成する路線も批判。彼らは3千から4千でKPD反対派結成。
 拠点はザクセン、チューリンゲン、ノイハウス・アム・レンヴェーク(オットー・エンゲルトが市長)、オルスニッツ(オットー・カール・バッハマン
が市長)、ヘッセン、ヴュルテンべルクなど。
 KPOはスウェーデン、米国、フランス、スイスのグループと共産主義者反対派国際連合IVKO(1930−1939年、国際共産主義反対派ICO)に参加。
 1931年秋、ポール・フローリッヒヤコブ・ヴァルヒャーアウグスト・エンデルレハインリッヒ・ガルムアウグスト・ツィールらの
KPO少数派がSAPDに参加。
 1933年からKPOは非合法活動にはいり、多くの活動家は多くは社会民主主義者や共産主義者とともにナチス体制の終焉までレジスタンス活動
を行った。
 ハインリッヒ・ブランドラーアウグスト・タルハイマーの指導部は亡命し、スペイン戦争でPOUMとともに戦ったものもいる。
 1933年ハインリッヒ・ブランドラーアウグスト・タルハイマーはシュトラスブールついでパリへのがれ亡命指導部形成。1941年2人は
キューバへ逃れる。

 亡命中はデンマークの仲間や、当初は米国のジェイ・ラヴストンらの支援を受けた。1938−1939年ソ連は改革できるかどうかの問題で
ジェイ・ラヴストンと衝突。衝突により少数派のエーリッヒ・ハウゼンハンス・ティテルらの国際主義マルクス主義グループの分裂を招いた。
 1940年以降KPOの独自の存在は困難になった。
 その他著名な関係者はエドワルト・フックスヴォルフガング・アーベントロートリヒャルト・ロヴェンタールハンス・メイヤー(文芸学者)、
アドルフ・エーラースなど。
 *右翼反対派はソ連で1920年代ニコライ・ブハーリンアレクセイ・ルイコフとその支持者より構成されたグループに与えられた名称。
  レーニンの死後、ブハーリン新経済政策NEPを支持し、トロツキーから小農の影響をうけ資本主義復帰の危険がある右派とトロツキー(自称
 左派)から批判された。米国ではジェイ・ラヴストンベルトラム・ウォルフェら、スウェーデンでは社会党カルル・キルボム、スペインでは
 農民・労働者ブロックホアキン・マウリン
  1938年パリの革命的社会主義者会議で国際共産主義者反対派ICOはロンドン・ビュロー(英国独立労働党率いる)と革命的社会主義者
 統一国際ビュローを結成。第2次世界大戦でICO消滅。米国やスウェーデンでは反共主義や親ナチス化した。

調停者(フェアゾーンラー)グループ
 調停者は1920年代中期KPDのエルンスト・メイヤー周辺の仲介者グループとして出現し、エルンスト・テールマンのグループと1926−1928年
にKPDを率いた。このグループの他の主要メンバーはアルトゥール・エーヴェルトフーゴ・エベルラインハインリッヒ・ズュスキント、
ゲルハルト・アイスラーと労働組合幹部のゲオルク・シューマン
 アウグスト・タルハイマーハインリッヒ・ブランドラーの右派同様にSPDとの統一戦線を支持し総ドイツ労働組合同盟ADGBで活動し、1928年、
極左路線(社会ファシズム論革命的労働組合反対派RGO路線)に反対、しかしコミンテルンのソ連共産党支配は批判せず、党からの分裂は拒絶。
 1928年秋のヴィットルフ事件と1930年初期のエルンスト・メイヤーの死で影響力を失いハインリッヒ・スターマーアルベルト・サンネックらは追放され、
 ハンブルクのハンス・ヴェスターマンは独立調停者グループを形成し、ハノーヴァーのグループとエドワルト・ヴァルトが結成したプロレタリア統一委員会
に参加、、ハインリッヒ・スターマーはSAPDに参加、アルベルト・サンネックはSPDに参加。
 1933年カール・フォルク、ゲオルク・クラウス、ハインツ・ブラントのベルリン反対派と独立調停者グループは反ファシスト抵抗運動に入る。
 亡命し雑誌火花を発行したグループもいる。
 フーゴ・エベルラインハインリッヒ・ズュスキントはスターリンの粛清の犠牲となった。

ドイツ社会主義労働党SAPD
 1931年秋SPDの左派(クルト・ロ−ゼンフェルトマックス・サイデヴィッツアウグスト・ジーメンスハインリッヒ・ストローベル
ハンス・ジーグラーアンドレアス・ポルトゥン)が分裂結成。これにSPD左派のアンナ・ジームゼンケート・フランケンタールらと
青年同盟社会主義労働青年SAJが参加。同年USPDの残党が参加。クルト・ロ−ゼンフェルトマックス・サイデヴィッツが議長となる。
 1932年ポール・フローリッヒヤコブ・ヴァルヒャーアウグスト・エンデーレロージ・ヴォルフシュタインハインリッヒ・ガルム
アウグスト・ツィールらの共産党反対派と、調停者グループの共産党分裂者ハインリッヒ・スターマー参加。 
 更にUSPD残党のテオドル・リープクネヒト、社会主義者同盟のゲオルク・レーデブールフリッツ・キュスタードイツ平和グループ
の平和主義者、1925年雑誌別のドイツ発行、1933年抜ける)の左翼社会主義政治活動グループ、ベルンハルト・ライヘンバッハ
(1932年抜ける)の赤い闘争者(KAPDエッセン・グループ)、マルクス主義知識人フリッツ・シュテルンベルクが参加。
 テオドル・リープクネヒトアンナ・ジームゼン赤い闘争者ベルンハルト・ライヘンバッハと非レーニン主義グループに属し、
党内のレーニン主義グループに対抗した。
 1932年選挙では0.2%となり突破口を見出せなかった。
 SAPDはSPD、KPD、労働組合、他の労働運動の大衆組織とともに統一戦線を組み反ファシスト運動に入ったが成功しなかった。
 1933年ロ−ゼンフェルトサイデヴィッツ多数派はSPDとKPDのため党の解散をしようとし分裂が生じた。
 左派はこれに反対し、ポール・フローリッヒヤコブ・ヴァルヒャーフリッツ・シュテルンベルククラウス・ツヴァイリンクの新しい
指導部を選出。

 1933年からメンバーはナチスに対し非合法で活動。リューベックではのちのウィリー・ブラントが参加。
 1934年、SAPDは革命的青年組織国際局創設に参加。ブラントは書記局員としてスウェーデンで活動。
 SAPDは国際革命的マルクス主義センターに加盟したが英国独立労働党統一戦線(革命派)か人民戦線(ブルジョア含む)か
で分裂。

 反ナチス運動参加者の割合は大衆党のSPD、KPDより多く、ドイツにとどまって収容所に送られたりエルンスト・エックシュタイン
フランツ・ボブツァサインのように殺されたものもいる。

 1937年エルヴィン・アッカークネヒトヴァルター・ファビアンペーター・ブラッハシュタインらは党のKPDとモスクワ裁判に対する
無批判を非難し離党し”新しい道”グループを結成。
 1939年亡命グループと地下グループの関係は絶たれ、亡命グループは分散化(ヤコブ・ヴァルヒャーポール・フローリッヒ
グループに分裂)、スウェーデンと英国のグループはSPDに近づいた。
 戦後多くは西ドイツではSPD、東ドイツではSED(クラウス・ツヴァイリンクヤコブ・ヴァルヒャーエディット・バウマン)に参加。
 ハインリッヒ・ガルムアウグスト・ツィールは地域左派政党結成、フリッツ・ラムは1950−1960年代に活躍。

レーニン同盟左翼共産主義者
 レーニン同盟はエルンスト・テールマン指導部に共産党から追放された極左、左派の約6000のメンバーが1928年初め結成。
 国会とプロシア議会では1926−1928年左翼共産主義者と名乗る。
 左派のルート・フィッシャーアルカディ・マズローヴェルナー・ショレム(1940年ブッヘンヴァルド収容所で死亡)、ポール・シュレヒト
フーゴ・ウルバーンズグイド・ハイムオットー・ヴェーバーら、極左派のイヴァン・カッツカール・コルシュエルンスト・シュヴァルツ
ハイリンッヒ・シュラーゲヴェルト(以上国際共産主義者グループ)ときにはカール・ティートらが参加。プロイセンではアントン・グリレヴィッツが率いた。
 左翼共産主義者の一部はレーニン同盟結成に際し評議会共産主義者グループとなった。
 トロツキージノヴィエブ統一反対派と結ぶ。
 1928年の選挙前に(ジノヴィエフとカーメネフの降伏により)主要な分裂がありフーゴ・ウルバーンズ以外の著名な政治家が組織を離れた。
ルート・フィッシャーアルカディ・マズローらは再びKPDへ)
 その結果選挙は0.26%、80230票と失望的。
 フリッツ・シマンスキーはKPDに、グイド・ハイムはSPDに参加、メンバーは約1000になった。
 ラインラントとベルリンではカール・コルシュのグループが参加。
 1930年真性のトロツキスト、アントン・グリレヴィッツがし共産党左翼反対派結成。
 1933年の国会議事堂放火事件以降秘密活動にはいる。1939年の開戦でかれらの消息は不明となる。
 フーゴ・ウルバーンズのグループはストックホルム亡命。ウルバーンズは1946年ストックホルムで死亡。
 マスロフとフィッシャーは1933年パリに逃れ、マスロフは1934−1936年までトロツキーと協力するがやがて衝突し、フィッシャーと
マルクス・レーニン主義国際グループを結成。(−1939年)フランス陥落で1940年キューバに逃れるが1941年死亡。(NKVDによる暗殺?)
 フィッシャーは1941年米国へ。

共産党左翼反対派
 KPDの左翼反対派(ボルシェヴィキ・レーニン主義)としての国際左翼反対派LO支部は1920年代終わりから1933年末まで
組織され、1933年ドイツ国際共産主義者IKDとなった。
 組織は公式には1930年3月、アントン・グリレヴィッツレーニン同盟少数派とクルト・ランダウウェディング反対派残存メンバーの統合
によって結成された。
 ファシストと闘うための社会民主主義者との統一戦線形成のためSPDの改革を目指した。
 この点で新党結成のウルバーンズらのレーニン同盟と異なった。
 左翼反対派はまず新聞”共産主義者”を発行、ついでクルト・ランダウのグループ(グループ火花)の分裂後、週刊
”永続革命”を1931年6月発行。発行は約5000部。左翼反対派の拠点はブルッフザル、オラニーンブルク、ディンスラーケンなど。
 著名な人物はエルヴィン・ハインツ・アッカークネヒト(1930年国際左翼反対派ILO国際書記となる)、ゲオルク・ユンククラス
オスカル・ヒッペアントン・グリレヴィッツヴァルター・ヘルト、ヘルムート・シュネーヴァイス、オスカル・ザイポルトマリア・バッケネカー
オットー・キリアンカール・ヤーンケ、ローマン・ヴェル(後GPU手先)。
 1932−1933年に600−1000人が約50のグループで活動。

 アントン・グリレヴィッツはプラハへ逃れ、1937年亡命指導部を形成できず、政治から退き、最終的に1941年キューバへ。

 エルヴィン・アッカークネヒト(オイゲン・バウアー)は1928年KPD内でローマン・ヴェル、オットー・シュスラー(1932年トロツキー個人秘書
となり1940年暗殺まで一緒)らとボルシェヴィキ統一グループを結成。1929年レーニン同盟参加。
 1930年KPD統一左翼反対派(後KPD左翼反対派)を結成、1932−1933年ベルリンでトロツキーの息子レフ・セドフの助手を務め、
国内指導部と国際左翼反対派の国際書記となる。
 ナチス政権掌握でドイツ国際共産主義者IKD国外委員会を指導、我々の声編集。ヤコブ・ヴァルヒャのSAPDと接触、結局提携失敗。
 トロツキーのルート・フィッシャー、アルカディ・マスロフのIKDとの統合提案にエルヴィン・アッカークネヒトは反対。
 1934年フランスの転換(フランス共産主義者同盟のSFIO加入)でアッカークネヒトはIKDを離れ、1935年SAPDに参加しヴァルター・ファビアン
ペテル・ブラッハシュタインと左翼反対派を結成。
 1937年SAPDから離れ”新しい道”グループを結成しロンドン・ビュローに参加。1941年米国に移住。

 グループ・フンケ(火花)は1931−1937年までドイツと亡命で存在。ランダウのグループはパリ、ついでスペイン戦争とともに
バルセロナに移り、POUMと活動。ランダウは1937年9月失踪、ソ連により拉致されたと思われる。

 国際左翼反対派は1938年第4インターナショナルとなる。

ドイツ国際共産主義者IKD(1933年)   トロツキスト1930) 1930−1945 LO

 ドイツ・トロツキズム運動はヒットラー政権掌握までは小運動でしかなかった。1932年には約700メンバーとされる。
 新聞”永続革命”が5000部程度発行されていた。ランダウ、ローマン・ヴェル、エルヴィン・アッカークネヒト、グリレヴィッツの文が載り
トロツキズムを示唆していた。永続革命は1933年2月ドイツでの発行を終えた。
 1933年3月パリで亡命新聞”我々の言葉”を発行。責任者はハインツ・エッペ(ヴァルター・ヘルド)。

 1933年ドイツでの最後の全国的協議会でエルヴィン・アッカークネヒト(オイゲン・バウアー)、オスカル・フィッシャーオットー・シュッスラー
ユリアン・サウレス、トロツキーのドイツ人秘書を勤め、最後はメキシコ同行)、エルヴィン・ヴォルフヨゼフ・ヴェーバーヤン・フランケル
ルドルフ・クレメントら8人の亡命委員会を選出。 

 1936年まで600−1000のメンバーが左翼反対派ないしIKDに所属したがゲシュタポにより粉砕され、ベルリン−シャルロッテンブルク、
ドレスデン、ライプツィッヒ、ルール、ハンブルクなどでグループが再組織化され、SAPDやレーニン同盟と協力。
 ブッヘンヴァルト収容所のIKDグループにはオーストリア、ポーランドからのメンバーやヴェルナー・ショレムらが含まれていた。
 ほぼすべての国内指導者(ハンス・ベルガーハインツ・ライデンドルフ)を含む多くのIKDメンバーがナチスにより殺された。

 KPDの崩壊でマリア・レーゼエリヒ・ヴォレンベルクカール・グロールらがIKDを支持。

 IKDは亡命し1933年プラハ、1941年ニューヨークで新聞”我々の言葉”を発行。

 1933年のSAPDとの提携は失敗。
 1934年、レーニン同盟を去ったルート・フィッシャーアルカディ・マズローの国際主義者グループが参加。
 1934年のフランスの転換でエルヴィン・アッカークネヒトの多数派は分裂しSAPDに参加。

 1937年ルート・フィッシャー、アルカディ・マスロフ支持者のヴァルター・ネッテルベックが分裂。
 ヨゼフ・ヴェーバーの後退理論(労働者と革命と反ファシズムへの悲観論、民主制の内実運動へ展開)の影響で1937年の亡命会議は分裂。
 ヨゼフ・ヴェーバーとオスカル・フィッシャーは1938年秘密会議で第4インター結成に賛成。

 ナチスの拡大で亡命グループはプラハからフランス、イギリスに亡命。
 我々の言葉編集部は1938年ニューヨークへ、コペンハーゲンのゲオルク・ユングクラスはナチスのデンマーク占領で秘密活動へ。
 ゲオルク・ユングクラスはデンマークの第4インター・グループを支援。ヴァルター・ヘルドハインツ・エッペ)はノルウェーでトロツキストを組織化。
 他のグループはスウェーデンへ。オランダ、ベルギー、フランス亡命グループはナチスの直接的脅威に陥る。一部はロンドンへ逃げ
ロンドンIKDに参加。パリIKDの多くが逮捕され収容所送りとなる。
 ヴェンツェル・コツレツキーはナチス下で抵抗運動を行い、後にメキシコに渡りトロツキー秘書となる。
 1941年ヨゼフ・ヴェーバーの影響で亡命IKDは路線転換。
 ヨゼフ・ヴェーバーの亡命IKDはニューヨークでトロツキズムから離れ1947年に雑誌”時勢の事”ディンゲ・デア・ツァイトを発行。
 アントワープには1935年からIKDに批判的なヨゼフ・ヴェーバーに近い亡命ドイツ人トロツキスト・グループの有力なグループ(フランツ・メイヤー
が存在し唯一の道を発行Der Einzige Weg。   

 戦後ドイツのグループはゲオルゲ・ユンククラスや国内生き残りのオスカル・ヒッペらが再建。
 ソ連占領地区では弾圧され、オスカル・ヒッペは1948年逮捕・投獄された。

 1951年、IKDは以前のKPDのメンバーとドイツ独立労働党を結成、これはユーゴスラヴィアの支援を受けたがすぐ消滅。
 IKDは1953年の第4インターの多数派の決定に従い、その国の社会民主主義および共産主義大衆政党で左派、革命グループ
形成のために加入活動を行う。
 主な人物はSPDのペータ・フォン・オルツェン、社会科学者のテオ・ピルカー、SPDのエーリッヒ・ゲルラッハコルシュ支持者)、
学者のヴォルフガング・アーベントロートヤコブ・モネタIGメタルの雑誌メタルの編集長となった。

 グループはアルジェリアやモロッコの植民地解放闘争で重要な役割を果たす。ゲオルゲ・ユンククラスは雑誌自由アルジェリアの
編集者となる。  
 1968年のヴェトナムのテト攻勢、パリ5月、プラハの春、学生運動展開、SDS急進化、青年の総体的急進化でドイツ・トロツキストは
公然組織として再形成され国際マルクス主義・グループ(第4インタードイツ支部)となる。

評議会共産主義者
 1918年の11月革命から評議会(レーテ)民主主義の思想が展開された。
 1919年末ポール・レヴィによりKAPDと総ドイツ労働者連合AAUDが結成され創設時にはKPDよりメンバーが多かった。
 1921年KAPDからAAUDが分離され総労働者連合統一組織AAUEが存続し続けた。
 ワイマール共和国末期のファシズム抵抗組織は赤い戦闘者共産主義評議会連合ドイツ共産主義労働者連合KAUDである。
 KAUDは1931年、総労働者連合AAUの一部と、AAUEとKAPDが結成。創設にはヤン・アペルがかかわり、オランダの国際共産主義者グループ
GICと関係をもった。世界産業労働者IWWドイツ支部とも連携した。1933年以降メンバーは赤い戦闘者共産主義評議会連合で活動。
 共産主義評議会連合はブラウンスヴァイクを拠点とし、1934年まで活動、20人ほどがナチスに逮捕された。
 アウグスト・メルゲス(1945年ナチスの悪待遇が原因で死亡)、ミンナ・ファスハウアーなどが参加。

 評議会共産主義思想はオランダ、英国、ブルガリア、デンマークの社会革命運動に影響した。
 重要な理論家はアントン・パンネクーク(オランダ)、ポール・マティックカール・コルシュオットー・ルーレヘルマン・ホルテル(オランダ)、
ヴィリー・フーンカホ・ブレンデル(オランダ)、シルヴィア・パンクハースト(英国)など。

赤い戦闘者
 赤い戦闘者はSPDに加入した旧KAPDのアルトゥール・ゴールドシュタインベルンハルト・ライヘンバッハアレクサンデル・シュヴァブ
カール・シュレーダーらのサンディカリズム評議会共産主義組織とヒットラー・ファシズム抵抗グループ。
 1931−1932年に約400人のメンバーで結成。フランツ・ユンク(作家)、ハロ・シュルツェ・ボイゼンハインツ・クーンらも含む。
 1936−1937年に組織崩壊、150人が逮捕され多くは強制収用所行き。ゴールドシュタインはナチス親衛隊により亡命地フランスで殺され、
シュヴァブは収容所で死亡。

統一登山部門(赤い登山者)
 ザクセンの自然愛好者の旅行組織として創設。労働運動活動家から発生したドイツのナチス抵抗組織。
 多くはKPDメンバー(エーリッヒ・グラーザー、クルト・シュロサー)だがヴェンツェル・コツレツキー(後にメキシコでトロツキー秘書)は
トロツキストのIKD。
 登山の知識を生かし、チェコからドイツの連絡などに従事。

○プロレタリア統一委員会
 ハノーヴァーを中心とする100人以上の共産主義反ナチス抵抗グループ。KPD内の調停者グループやSPD、KPD−O、SAPDなどから参加。
 組織は1930年頃ハノーヴァーのエドワルト・ヴァルト周辺のKPDグループから発展、ハンブルクのハンス・ヴェスターマン調停者グループ
ハノーヴァーのオットー・ブレンナーのSAPDグループと接触。1935−1936年に消滅。ヴァルトは1936年ゲシュタポにより逮捕され収容所送り。
 ブレンナーは1933年に逮捕、ヴェスターマンは1935年に逮捕、収容所で殺される。

国際社会主義闘争同盟ISK)
 ゲッティンゲンの新カント派哲学者レオナルト・ネルソンと助手ミンナ・シュペヒトがアルベルト・アインシュタインらの支援で国際社会主義青年同盟ISJ
を結成、ISJメンバーのほかに、1922年KPD、1925年SPDからのメンバーを加え1926年ISKを結成し、雑誌”公衆生活”を発行。
 ナチスの拡大に対しヴィリー・アイヒラー(後にゴーデスベルク綱領に関係)が指導し新聞”火花”を発行。
 1932年7月の国会選挙緊急アピールハインリッヒ・マンエルンスト・トラーアルノルト・ツヴァイクエーリッヒ・ケストナークルト・ヒラー
アルトゥール・クロンフェルトヤンケル・アドラーケーテ・コルヴィッツらの支持で発表。
 1933年ナチスにより禁止され、抵抗活動に入る。1938年まで活動を続け多くの逮捕・犠牲者を出す。
 亡命で英国の社会主義者前衛グループ、フランスの国際社会主義者戦闘者と連携。

ドイツ自由労働者連合FAUD) 
 1878−1890年の社会主義者法時代は社会民主主義者とアナーキストは統一行動をとっていたが、(地域レベルの活動しかできなかった)
社会主義者法の終わりとSPDの再結成、特に1981年のエルフルト綱領により地域主義者ロカリストのグループは1897年ドイツ労働組合自由連合
FVdGを結成。同時ににSPDから青年グループが分裂。かれらはロカリスト同様1878−1890年はSPDで活動していた。
 1891年独立社会主義者連合VUSを結成。これには反議会主義社会民主主義者とアナーキストグループがいた。
 1893年VUSが分裂、アナーキスト・グループはサンディカリズムからクロポトキンの共産主義アナーキズムに移行。
 2つのグループは徐々に接近しアナルコサンディカリズムのドイツ変種に発展、1919年FAUDの会議と自由労働組合の一部がルドルフ・ロッカー
サンディカリズムの原理宣言を基本綱領としてドイツ自由労働組合・アナルコサンディカリズムFAUD/ASを名乗った。
 FAUDは1919−1923年に最盛期となった。FAUDはルール地域を拠点とし、カップ一揆のときに赤いルール軍と共に闘った。
 FAUDは何回かの分裂を経て、最盛期の15万から1920年代中期1万、1932年には4千300にまでメンバーが低下。
 1933年のナチス権力掌握でFAUDは消滅、非合法活動を組織。
 1937年までにアナルコ・サンディカリズムのナチス抵抗青年グループの黒い大衆が存在。
 スペイン戦争ではCNTと一緒に闘ったものもいる。


(戦後のMLグループ)

〔ドイツ共産党DKP〕 Deutsche Kommunistische Partei
 1946年ソ連占領地区のSPDとKPDは統一し社会主義統一党となる。
 1949年西ドイツの共産党は社会主義統一党から分離独立。
 西ドイツのドイツ共産党Kommunistische Partei Deutschlands KPDは1949年の連邦議会選挙で5.7%、15議席を獲得した。
 冷戦の開始と東ドイツが共産主義国家となって、1953年の選挙では2.2%となり議席を失った。
 1948−1952年内部抗争で弱体化。東の介入で幹部の追放が行われる。クルト・ミュラーフリッツ・スペアリングが東に逮捕・投獄される。
 1950年代平和運動、特に西ドイツ再武装反対運動に関わる。
 1956年8月、KPDは禁止された。
 1961年ドイツ平和連合DFU創設。

 1968年、ドイツ共産党DKPDeutsche Kommunistische Parteiとして再建された。
 同年設立の党に近いマルクス主義学習研究所の助言グループにはヴォルフガング・アーベントロートやマールブルク学派などが参加。
 結成時は9千人、1978年には4万2千人、1981年には4万9千人のメンバーがいた。
 クルト・バッハマンが1969−1973年の委員長。
 1972年から1983年まで国会選挙の参加したが最高0.3%しか獲得できず。
 ヘルベルト・ミースが1973−1990年の委員長。
 1980年以降反軍拡の平和運動に注力を注いだ。
 1980年代中期には平和名簿に参加した。元大統領グスタフ・ハイネマン(1964−1974年、SPD)の娘、ウタ・ランケ・ハイネマンが候補となった。
 1985年からのソ連のゴルバチョフ政権はDKPに議論を起こし、また平和運動への注力は労働者党としての不鮮明さをもたらし批判を生じた。
 1986年党大会で反対意見が生じSPDやPDSへの移行者が生じた。
 1987年選挙には参加できなかった。
 1989年、内部に分裂発生。
 ドイツ統合で多くのDKPメンバーはPDSに参加した。
 ハインツ・シュテーアが1990−2010年の委員長。
 2005年の選挙でDKPは左翼党PDSを支持した。
 2006年、1978年綱領(中間段階の反独占民主主義から究極目標の社会主義社会へ)放棄。
 2008年クリステル・ヴェーグナーがリンケの支援で下ザクセン州議員となるがベルリン壁正当化発言等で議会リンケ・グループから追放される。
 2008年時メンバーは約4千。
 2010年からベッティナ・ユルゲンセンが委員長。
 ピーター・シュッツ(1968年結成参加、、1988年追放、作家)、フランツ・ゾマーフェルト(著作家)、クリスチアネ・ブルンス(ジャーナリスト)
等が元メンバー。
 1969−1989年まで約200のDKP党員が東ドイツの秘密軍事組織グループ・ラルフ・フォルスターに参加。

 1970年頃結成の共産主義者組織
   ドイツ共産党M/L(KPD/ML)
   ドイツ共産党・建設組織(KPD/AO)
   KPD再建労働者同盟(KPD/AB)
   ドイツ共産主義労働者同盟(KABD)
   西ドイツ共産主義者同盟(KBW)
   共産主義者同盟(KB)
   マルクス主義者グループ(MG)
     1968年ミュンヘンの学生運動から出現し長い間ルードヴィッヒ・マクスミリアン大AStAが支配していた赤い細胞という
    労働協議会フラクション(AK)から出現。フリードリッヒ・アレクサンダー大学AStAの影響にあるエアランゲン、ニュルンベルクの
     マルクス主義グループと協力、バイエルン学生運動に影響。MGの建設は1970年代前半(1971年)。
     メンバーは約1万。1991年解散。解散後も組織体制は維持し、書店組織、出版、事業を維持。
   流れに抗して(GDS) 1974年KPD/MLから分裂、1999年機関紙廃刊。
   社会主義労働者同盟(BSA) 
    第4インターナショナル国際委員会派から出現。1971年社会主義労働者同盟創設、1997年社会平等党となる。エッセンを拠点。
    1998、2005、2009年連邦選挙参加。
   国際マルクス主義者グループ(GIM)

 後、新設
   ドイツ・マルクスレーニン主義党(MLPD)
   西ドイツ共産主義者同盟(BWK)
   統一社会党(VSP)
   革命的社会主義者同盟(RSB)
   ドイツ共産党(KPD)
   社会主義選択(SAV)

〔ドイツ共産党KPD(1990−)〕 Kommunistische Partei Deutschlands
 1990年、ベルリンでドイツ共産党KPD(1990−)が結成された。
 2005年の選挙に対し、この党はドイツ共産党DKPと左翼党との選挙連合を主張した。
 このあと分裂がおこり、ドイツ共産党(ボルシェヴィキ)が結成された。
 2008年から統合の努力がなされ、両者とも独立党のまま個人で共産主義者イニシアチヴとして協力。

(ドイツ共産党マルクス・レーニン主義KPD/ML) Kommunistische Partei Deutschlands/Marxisten-Leninisten
 1968年、禁止された西ドイツKPDの真の後継としてドイツ共産党マルクス・レーニン主義KPD/MLが結成された。
 これは反修正主義の親中国派である。中国・アルバニア対立でアルバニアについた。
 1983年アルバニアとの関係冷却。
 1986年、トロツキストのGIMと統一社会党VSPを結成。

〔ドイツ・マルクス・レーニン主義党MLPD〕 Marxistisch-Leninistische Partei Deutschlands
 1982年、ドイツ共産主義者労働者同盟KABD(1972−1982)のメンバーにより設立された。
 KABDはKPDとDKPが修正主義に変質したとみなし、1972年,共産主義者労働者同盟/MLとKPD/ML革命の道
がヴィリー・ディクフートの主導で合流。
 MLPDは長い間ドイツの極左の最大のグループであった。
 MLPDは1960年代の学生運動の毛派に起源を発する。
 マルクス・レーニン主義諸党諸組織国際会議ICMLPOに属する。
 大企業の間に影響力をもち、非労働組合ストライキに参加。多くの社会運動、平和運動にも参加するが自分たちの名前では現われない。
 委員長のステファン・エンゲルはIG金属を追放された。(統一サービス組合に参加)
 1998年の連邦選挙では0.01%であったが、2005年はにはWSAGとPDSに協力 を提案するが拒否され独自選挙で約4万5千票、
0.1%獲得した。2009年は約2万9千票、0.1%。
 2013年連邦選挙は24219票、0.1%獲得。
 2014年EU選では18479票。

 →K−グループ

平和名簿
 1984年、左翼政党と個人の選挙同盟として設立。
 DKPとこれに近いドイツ平和連合DFUが支配。DSなども参加。
 1984年EU選挙で1.3%獲得。1987年連邦選挙では第1回0.5%、2回はSPDと緑支持。

ドイツ平和連合DFU)
 1956年のKDP禁止後、SPDで共産主義者と社会主義者の統一が試みられた。
 1960年にはドイツ同盟、統一独立社会主義者、ドイツクラブ1954、フランケン・サークル
といくつかのKPDの代わりに活動していたグループが参加した。
 共産主義者に強く支配されていたがキリスト教平和主義者も参加した。
 軍拡に反対し、中立政策と軍縮をもとめ陣営対決の緩和を要求した。
 参加者は1961年の約1万2千から1980年代には約千まで低下。
 1961年連邦選挙で1.9%、1965年は1.3%。
 1969年は民主進歩行動に属したが失敗だった。
 1985年は平和名簿に参加。1989年以降は連合に参加していない。

民主進歩行動
 1968年に結成。共産主義者の影響が強い。
 ドイツ同盟、統一・平和・自由のための党BdD、DFU、SDAJ、フランケン・サークル、VVN(反ファシスト同盟)、
西ドイツ婦人平和運動、統一独立社会主義者が参加。
 1969年の選挙では0.6%獲得。選挙の失敗で活動停止。

(戦後のトロツキスト)

国際マルクス主義グループGIM〕
 ドイツ国際共産主義者IKD(KDPの左翼反対派:トロツキスト)は1950年代独立労働党UAPDに加入した。
 独立労働党は1950年、ドイツ共産党からチトーの支持者が分裂してできた。これは1952年禁止されトロツキストは
社会民主党に加入した。
 1969年第4インター支部の公然継続として国際マルクス主義グループGIMが結成された。
 第4インター支部はドイツ国際共産主義者IKDの社会民主党への加入戦術によりそれまで独立組織としては存在してなかった。
 GIMは1970年学生運動と青年急進化により社会主義ドイツ学生同盟SDSの分派(革命的共産主義者青年RKJ)として生き延びた。
 RKJは1972年に約400のメンバーとなった。
 著名なメンバーはヴィリー・ヴォッペ、彼はSEDに参加し後これを批判し独立労働党に参加。
 ゲオルク・ユンクラス(1902−1975年)はKPD左翼反対派の生き残り。
 GIMは新聞”何をなすべきか”を発行し、1968年の編集メンバーにはベルンハルト・アハターベルク(1967年ベルンハルト、ブランケ
ルディ・ドゥチュケクリスチアン・ゼムラー(1970年毛派ドイツ共産党KPD(建設組織AO)結成)、ライムート・ライヘ革命闘争RK参加)、
ヘルムート・シャウアーエルマール・アルトヴァターフランク・デッペエーバーハルト・ベッカーらと1967年SDS執行形成)、
ギュンター・アメント(SDSからDKP参加)、ペテル・ブラントウィリー・ブラント息子、後SPD)、ルディ・ドゥチュケ
ガストン・サルヴァトーレ(サルヴァドール・アジェンデ甥)らがいた。

 GIMは1970年代初期議会外反対ルディ・ドゥチュケら)運動に巻き込まれた。
 GIMは1986年、ドイツ共産党マルクス・レーニン主義KPD/MLと統一社会党VSPを結成した。
 これに参加しない少数派は緑に参加。
 ドイツ統合によるPDSの出現でVSPの多くのメンバーはPDSに加入した。
 1993年、VSPは連帯展望連合VsPと名を変えた。
 VsPのトロツキストの一部は1994年分裂し革命的社会主義者同盟RSBを結成した。
 RSBはVsPと反対に左翼党に批判的で国際社会主義左翼とともに統一書記局派である。
 VsPにとどまったトロツキストは国際社会主義左翼ISLを結成した。2005年選挙でVsPは左翼党を支持した。
 主なメンバー経験者はヴィンフリート・ヴォルフ(民主社会党PDS)、アンドレア・フィッシャー(緑)、ハラルド・ヴォルフ(PDS)など。

統一社会党
  1986年GIM(第4インターナショナル所属)とKPD/ML(赤い朝)の統合により結成。
  民主社会主義者との協力は不成功、西ドイツ共産主義者同盟BWKとの統合交渉も失敗。
  社会主義統一党SEDの民主社会党PDSへの転換を歓迎しヤコブ・モネタ(元IKD、1969年GIMへ)、ヴィンフリート・ヴォルフらがPDSに参加。
  1993年統一社会党は連帯展望連合と改名し、国際社会主義左翼(2001年結成、再統一第4インター参加、幹部はWASGで活動し、合同で
 更にリンケに参加、ヤコブ・モネタヴォルフガング・ツィマーマンなど)の非公式機関となる。再統一第4インター参加組織にはもう一つ
 革命的社会主義者同盟RSB(1994年連帯展望連合から分裂、国際社会主義左翼より過激でリンケに批判的)が存在。

左翼移行
 国際社会主義傾向所属のトロツキスト。起源は社会主義労働者グループSAGにあり、これは1970年代、
英国の国際社会主義者IS(社会主義労働者党)の支援によりフォルクハルト・モスラーらが結成。国際社会主義者傾向参加。
 1991年アンティファ運動を始める。このころメンバーは200前後。
 1993年一部がJusosに加入し始め雑誌左翼移行発行。これはトニー・クリフの承認を得ていたが、SAG幹部の容認を得ていなかった
ので内部に反対が起こり1994年亡命トルコ人グループらとノルベルト・ネルテが国際主義社会主義組織ISO結成。
 ISOの内部衝突でノルベルト・ネルテ国際社会主義者結成。ISOの残りは1999年国際社会主義者グループ結成、これからは
2002年左翼共産主義位置イニシアチヴが分裂。
 1990年代、左翼移行は成長したが、2002年反資本主義ネットワークが分裂し、間もなく衰退。
 2007年には解散しディー・リンケ内部のマルクス21グループ結成。
 クリスティーヌ・ブホルツはリンケ全国委員会メンバー。ディー・リンケの国会議員ニコレ・ゴールケもメンバー。

社会主義選択SAV〕
 1996年設立。2005年でメンバー400人。
 労働者インター委員会派トロツキスト。
 SAVは1973年の雑誌前進Voranに起源する。前進グループはJUSOS加入。1980年代初期50から250のメンバーに成長。
 ドイツ再武装やNATO活動や原発反対運動を行う。緑党には中間階級運動として両義的態度を示す。1990年ドイツ再統合でアンティファ運動
に入る。1994年前進グループはSPDから分裂し社会主義選択となる。2005年のWASG分裂でこれに参加。
 ルーシー・レドラーは2006年ベルリン州選挙でWASG名簿に入る(PDSと競合)。2007年リンケ結成で多くのSAVメンバーもリンケ参加。
 ルーシー・レドラーのリンケ参加は2006年選挙問題で紛争となっている。
 2013年リンケ国会議員のヘイドルン・ディトリッヒがSAV参加。

社会主義平等党
 1971年社会主義労働者同盟として結成、1997年社会主義平等党となる。
 第4インター国際委員会派。
 2013年連邦選挙は4840票。

〔90年連合・緑〕 Bundnis 90/Die Grunen
 1960年代学生運動Kグループ、1970年代末新社会運動(労働運動のように経済中心でない、環境、女性、ゲイ、平和運動など)、
市民イニシアチヴ(発議)、保守なども参加する広い政治的色合いから発生。
 種々のエコロジー運動の新党の緑名簿は地方や州選挙では5%を超えることができなかった。
 1979年EU選挙にペトラ・ケリー(SPD離党、1992年没)とヘルベルト・グルール(CDU離党)が参加3.2%獲得。
 1980年連邦党緑結成。
 1982年ヘルベルト・グルールの右派がエコロジー民主党結成。
 1983年選挙で5.6%、27議席獲得。この時期中距離弾道ミサイル・パーシング2のドイツの米国とNATO基地配備が争点となる。
 翌年原理主義(フンディ深い緑エコ社会主義)と現実主義(レアロ)とで論争が起こる。
 レアロはヨシュカ・フィッシャーダニエル・コーン・ベンディトらかつてのスポンティ
 フンディはユッタ・ディットフルトエコ社会主義トーマス・エーベルマン、ライナー・トランペルト
 ユッタ・ディットフルトらは1991年エコロジー左翼結成。
 ユッタ・ディットフルトオスヴァルト・メッツガー(2008年CDUへ)、マティアス・ベルニンガージェム・オズデミールらの世代を緑の始めの
目標となんら関係ない、FDPあるいはCDUでも可能な政治経歴だと批判。
 ルドルフ・バーロは1979年に東ドイツからでてすぐに緑に参加、やがてバーロヨシュカ・フィッシャーに対しフンディを支持するようになり、
レアロが多数派になると1985年離党、1990年民主社会党結成に参加。
 1985年エッセンでは最初の赤・緑連立が形成され、ヨシュカ・フィッシャーが環境大臣。
 アンドレア・フィッシャーが健康大臣、ユルゲン・トリッティンが環境大臣。
 1987年選挙では8.3%、42議席となる。この時期ヨシュカ・フィッシャーが事実上の指導者となる。
 1990年選挙はドイツ再統一での選挙で緑は5%条項を突破できなかった。西では3.8%で東では90連合を結成1.2%獲得、これが
一緒であれば5%となっていた。90連合は東ドイツの新フォーラム(集会)民主主義イェッツト(今)、自由・人権発議が結成。
 1994年には全国で7.3%、49議席獲得。
 1998年には6.7%、47議席でシュレーダーのSPDと連立、ヨシュカ・フィッシャーが副首相・外相で入閣、(シュレーダーはJUSOSの旧極左で
旧極左転向者連合を意味する)。ドイツのNATOのコソヴォ参加で危機が訪れる。
 2001年米国のアフガニスタン侵攻支援派兵で緑議員の一部が政府支持を拒否。
 党の危機にもかかわらず2002年選挙では8.6%、55議席と上昇。ハンス・クリスティアン・ストロベレが初めてベルリンから直接選出。
 2004年EU選挙では11.94%獲得。
 2005年選挙では8.1%%、51議席となるがSPDの敗北で赤緑連立は終焉、SPDとCDU/CSUの大連合が成立。
 2008年4月ハンブルクの緑はCDUとの連立に入った。(黒緑連立
 2009年にはザールラントで赤赤緑連立を拒否しCDU、FDPと連立(ジャマイカ連立)。
 2009年EU議会選挙は12.1%、連邦選挙は10.7%、68議席。
 主な人物としてユルゲン・トリッティンは元共産主義者同盟クラウディア・ロートは元FDPの青年同盟、フリッツ・クーンは元SPD学生党員、
レナト・キュナストハンス・クリスティアン・ストロベレは元SPD、ジェム・オズデミルラインハルト・ブティコファーは元西ドイツ共産主義者同盟(毛派)、
フォルカー・ベックレベッカ・ハルムスアンジェリカ・ベーアは元共産主義者同盟KBカトリン・ゴリング・エッカルトマリアンヌ・ビルトラー
エキン・デルゴズアンチェ・フォルナーは元反帝国主義同盟KPD−AO系)。
 2011年3月の福島原発事故のあとの州議会選挙では大躍進をとげ、バーデン・ヴュルテンベルク州では24.2%と12.5%増となり社民党の23.1%を
追い抜き第2党となり、社民党と連立で指導者のヴィンフリート・クレッチマン(元西ドイツ共産主義者同盟KBW)が州首相となる。
 ヴィンフリート・クレッチマン(カトリック)は緑の価値保守(社会保守)派とみなされている。
 2013年連邦選挙では8.4%、63議席獲得。
 2014年EU選は10.70%、11議席。エコロジー民主党が0.64%、1議席。
 2017年連邦選挙は8.9%、67議席。
 2019年EU選は20.5%、21議席。エコロジー民主党は1.0%、1議席。

海賊党
 電話やインターネットでの公民権解体に反対。個人情報の権利と著作権、教育、コンピューター科学、遺伝子特許の改革を支持。
 情報化社会の党としてのスウェーデンの海賊党(2006年結成)を模範とする。オランダにも海賊党が結成されている。
 2006年結成、2009年EU議会選挙で0.9%獲得。2009年連邦選挙では1.9%獲得。
 2010年海賊党インターナショナルが結成される。
 2013年連邦選挙では2.2%獲得。
 2014年EU選は1.45%、1議席。
 人類環境動物保護党が1.25%、1議席獲得。
 2017年連邦選挙は海賊党0.4%、人類環境動物保護党0.8%。
 2019年EU選は0.7%、1議席。人類環境動物保護党1.4%、1議席。

介入主義左翼
 2005年創設。自称急進左翼、反資本主義のグループ、個人のネットワーク。
 他の左翼からはポスト自主管理の粗野なポピュリズムと批判もされている。
 介入主義左翼には前進−プロジェクト非教条左翼反ファシスト左翼ベルリン(2003年反ファシスト行動ベルリンから分離)、
左翼潮流のために(1991年ベルリン拠点に結成)、分析と批判(1991年解散で1992年KB新聞から出現)編集者、国際社会主義左翼
Libertad(1992年出現、政治犯の自由の運動グループ)、ATTACからの個人等が参加。
 2007年G8に積極的参加。

 ドイツ・ATTACにはカーチャ・エプシュタイン(68年学生運動活動家、1972年選挙でブラント支持)、ベラ・Bヨアヒム・ヴィットコンスタンティン・ヴェッカー
シャルロッテ・ロシェらが参加。

 前進−プロジェクト非教条左翼は北ドイツのハンブルク、フレンスブルク、キール、ノルダーシュテット、ハノーファー、リューベック、ブレーメン、ベルリンを
拠点とする地域的左翼急進政治組織。社会の革命的変化を主張。
 1989年自主管理Autonomenグループ・キールとリューベック労働サークル反帝国主義抵抗の合同で結成。
 2007年ハイリゲンダムG8サミット反対抗議以来急進左翼グループおよび個人の全国的連合グループ介入主義左翼の一部となる。


新フォーラム民主主義今自由・人権発議
 1989年カーチャ・ハーヴェマンが創設、発議にはベルベル・ボ−レイマルティン・ボットガーエリカ・ドレースルドルフ・ハインリッヒ
ラインハルト・マイネルセバシュチャン・プフルークバイルイエンス・ライヒラインハルト・シュルトゲーゲンシュティメン・グループ)、
ルドルフ・チェッペミカエル・アルノルドハンス・ヨヘン・チッケが署名。
 1990年フォーラム党ユルゲン・シュミーダー)分裂、この党は自由民主党に合流。
 新フォーラムは1990年民主主義イェッツト(今)、自由・人権発議90連合結成。
 民主主義今は1989年ハンス・ユルゲン・フィッシュベック、ウリリケ・ポッペヴォルフガング・ウッルマン、コンラット・ヴァイスらが結成。
 自由・人権発議ベルベル・ボ−レイマルティン・ボットガーヴェルナー・フィッシャーゲルト・ポッペウリリケ・ポッペ
ヴォルフガング・テンプリンにより1985年発議され1986年結成、間もなくトマス・クライン(リンケ)、ラインハルト・シュルトらの社会革命派が分裂、
ゲーゲンシュティメン・グループ結成。ゲーゲンシュティメン・グループには他にマリオン・ゼーリッヒ、ティナ・クローネ、1989年解散しメンバーは
統一左翼、緑党(東ドイツ、1989年カルロ・ヨルダンフォルラート・クーンクリスティーヌ・ヴァイスケらが結成)に参加。

統一左翼VL)
 東ドイツ末期の社会主義者党。種々の潮流(キリスト教社会主義、トロツキズム、独立派、ユーゴ自主管理支持派)の左翼
反対派よりなる。1989年10月のベルリンの壁崩壊の数週間前に結成。指導的メンバーにはゲーゲン・シュティメン(反対投票)
グループ
トーマス・クラインマリオン・ゼーリッヒ)から来た人もいる。1989年末にはベルルンとハレを主に1500人のメンバーという。
 1990年の選挙ではネルケン(カーネーション、1990年東ベルリンで設立されたマルクス主義党)と統一左翼行動同盟AVL
を形成し0.18%獲得し、トーマス・クライン当選。
 1990年以降はメンバーはPDSや90年連合・緑などに参加。


ドイツ社会民主党SPD〕 

・黎明

 1863年、フェルナンド・ラッサールによりドイツ労働総同盟ADAVがライプニッツで結成される。
 1871―1975年までヴィルヘルム・ハーゼンクレヴァーが指導。
 1869年、アウグスト・ベーベルヴィルヘルム・リープクネヒトによりアイゼナッハで社会民主労働党SDAPが結成される。
 アイゼナッハ綱領を採用。

・ビスマルク時代

 1875年、ゴータの会議でSDAPとADAVが合流、ドイツ社会労働党となる。ゴータ綱領を採用、マルクスの批判を受ける。
 親革命的、反君主的なためオットー・フォン・ビスマルクの反社会主義者法により1878年非合法化される。
 しかし1890年には再び合法化される。同年ドイツ社会民主党と名を変える。
 党が非合法化されたため社会民主主義者は名簿のない候補として選挙で選ばれ、議会で成長し、1912年最大の党となる。
 1871年、3.2%、2議席、1874年、6.8%、9議席、1877―1887年は6―10%で10議席前後(1984年、9.7%、24議席)、
 1890年には19.8%、35議席で徐々に上昇、1912年には34.8%、110議席となった。

・改良主義と急進主義

 1890年反社会主義者法をめぐって急進反対派青年(ディー・ユンゲン)が展開してきた。1891年には彼らは追放され独立社会主義者連合
が結成された。これにはルドルフ・ロッカーらが参加。
 弾圧の反発として1891年のエルフルト綱領カール・カウツキーエドワルト・ベルンシュタイン作成)はより急進的となり、改良主義
を拒否しマルクス主義に傾斜、ドイツ主要産業の社会化を要求する。
 19世紀は他のヨーロッパの社会主義政党同様、労働組合と密接で、革命的マルクス主義に傾斜。
 ビスマルクとの対決で党は鍛えられ発展、有能な党となる。

 19世紀末から20世紀初めにエドワルト・ベルンシュタインは改良主義になり、革命的傾向の党内多数派と対立。
 1913年のアウグスト・ベーベルの死後、党は改良主義派のフレードリッヒ・エーベルトと革命派のフーゴ・ハーゼが指導を共有
した。
 ベルンシュタインの改良主義と、党既成集団のツァーリ・ロシアへの反発と帝国皇帝への忠誠の向上によりベーベルの後継者
フレードリッヒ・エーベルト下の党はドイツの第1次世界大戦での戦争国債承認を支持する。
 カール・リープクネヒトだけが反対、オットー・ルーレがそれに続いた。
 興味深いことに戦争の間エドワルト・ベルンシュタインカール・カウツキーは党を離れ、どちらも共産党には参加せず、戦後、
1920年代初期に党に戻った。
 1915年以降党内の議論は議会での第1次世界大戦支持を正当化しようとするハインリッヒ・クノーポール・レンシュ
コンラット・ヘニッシュらによって主導され、このグループはパルヴスに接近した。
 クルト・シューマッハーヨハン・プレンゲらの学者たちにより党内にシューマッハーの秘書アンネマリー・レンガーによって右派
ゼーハイマー・サークルが結成された。

 ローザ・ルクセンブルクカール・リープクネヒトら左翼反対派は11914年国際グループを結成、1916年スパルタクス同盟となった。
これらの戦争反対派は1917年追放され独立社会民主党をUSPD結成した。これにはカウツキーベルンシュタイン
ヒルファーディングも参加したが、カウツキーベルンシュタインは1919年USPDを離れ、SPDに戻った。
 ヒルファーディングは1992年のUSPDと共産党の統合に反対、SPDとの統合を主張しSPDに加わった。

・ワイマール共和国

 敗戦を目の前にマックス内閣が結成され、SPDのシャイデマンが参加。
 しかし1918年11月キール軍港から反乱が始まり、労兵協議会(レーテ)が結成され、やがてミュンヘンで革命(1918年11月7日
USPDのクルト・アイスナーがバイエルン自由国家宣言)が起こった。
 ベルリンのマックスは皇帝退位宣言を行い、フリードリッヒ・エーベルトに権力を渡した。
 独立社会民主党エミール・バルトリヒャルト・ミラーの革命的指導者とスパルタクス同盟は共和国評議会結成をめざしたため
シャイデマンは共和国宣言を行った。
 その後人民委員協議会がSPDのエーベルトフィリップ・シャイデマンオットー・ランズベルクとUSPDのフーゴ・ハーゼ
ヴィルヘルム・ディットマンエミール・バルトで結成されやがてUSPDが追放され1919年2月SPD(多数派SPD)の評議会は
ワイマール国民議会で選出されたシャイデマン政府に権力を渡した。
 12月の労兵協議会全国大会はSPDが多数派を占め国民議会選挙とその後の権力譲渡を決定。
 12月共産党を結成。
 
 1918年革命でエーベルトは共産主義者に反対する帝国軍指揮官に味方し、新政府の首脳となった。
 社会民主党と共産党は厳しい対抗相手となった。
 1919年1月ベルリンでリープクネヒレーデラー革命政府樹立を宣言、(1月蜂起、スパルタクス蜂起)これらの動きは
グスタフ・ノスケ義勇軍を使用し鎮圧。

 1919年1月の選挙結果はSPD37.9%、165議席、中央党(カトリック)19.7%、91議席、民主党18.6%、75議席、
民族人民党10.3%、44議席、USPD7.6%、22議席、人民党4.4%、19議席となった。
 共産党は新政府制度に強く反対し、SPDはワイマール連合(SPD、民主党中央党)に参加した。

 4月バイエルン(ミュンヘン)評議会共和国が成立、ミュンヘンでは1918年11月7日USPDのクルト・アイスナーが2月政権を
握ったが4月左派が評議会共和国を宣言やがて共産党が権力奪取したが5月崩壊させられた。
 党は1919年の初期防衛大臣グスタフ・ノスケ義勇軍により共産主義者と左派スパルタクスの反乱を弾圧するのを支援した。

 1920年3月ヴォルフガング・カップヴァルター・フォン・ルートヴィッツら右翼と軍の一部によりカップ一揆が発生、軍首脳部
ゼークトは鎮圧を拒否したがカール・レギーン指導下の労働者はストライキにより粉砕。

 1920年7月の選挙結果はSPD21.7%、113議席、USPD18.8%、81議席、DKP2.1%、2議席(民族人民党14.4%、66議席、
人民党13.9%、62議席中央党13.6%、67議席、民主党8.5%、45議席など)でSPDがー50議席でUSPDが+59議席となった。

 共産党の脅威がSPDを困難な状況にした。急進的立場をとるか穏健なままでいるかの選択を迫られた。

 1921年ゲルリッツァー綱領採用、実質的にベルンシュタインが作成。
 1925年ハイデルベルク綱領採用、カウツキーにルドルフ・ヒルファーディングが協力して作成。ヨーロッパ合衆国を要求。
 同年KPD離党組も含めSPD離党者が国際社会主義闘争同盟ISK結成。
 ワイマール共和国の初期、1919−1925年のSPDはエーベルトの大統領もと1920年まではエーベルトフィリップ・シャイデマン
グスタフ・バウアーヘルマン・ミュラーが政権を維持した。
 1920年以降首相はカトリック中央党が主に握り、1928―1930年ヘルマン・ミュラー民主党中央党等との5党大連立内閣形成。
 1930−1932年までは中央党のハインリッヒ・ブリューニング政権が成立。議会SPDはこれに寛容政策で臨み党内に批判が生じ、
1931年ドイツ社会主義労働党が分裂する。

 1919年2月37.9%、以降20%台で1924年12月26%、1928年5月29.8%、1933年3月までに18.3%にまで低下。

・抵抗と亡命

 1923年の右のヒットラー・ルンデンドルフ一揆と左のハンブルグ蜂起に対抗するためSPD、中央党、民主党、労働組合は1924年、
共和国防衛のため準軍事組織国旗黒赤金を結成した。90%以上はSPDメンバーであった。
 メンバーは基礎部隊(Stafo)と選抜防衛部隊(Schufo)よりなりSchufoは1931年冬には25万であったが1933年2月には47人まで落ちた。
 1931年、国旗黒赤金総ドイツ労働組合同盟ADGB、総自由従業員同盟AfA同盟、労働者体育運動同盟とSPDはナチス対抗組織
鋼鉄戦線を結成。
 共和国末期には総ドイツ労働組合同盟ADGB、総自由従業員同盟AfA同盟、総ドイツ公務員同盟ADBなどの労働組合も準軍事組織
金槌の柄(ハンマー・シャフテン)を結成し一緒に行動した。 
 1933年受任権法通過のあと人身保護令が放棄されこれらは組織は禁止されメンバーの多くは以降強制収用所に送られた。

 1931年、ハンス・フォーゲルアルトゥール・クリスピーンオットー・ヴェルスが指導者となる。
 1932年、SPDが主導するオットー・ブラウンのプロシア政府が大統領令により新首相フランツ・フォン・パーペン(中央党)によって
放逐された。この展開はワイマール共和国の究極的崩壊の重要な要因となった。
 1933年のヒンデンブルクヒットラーの首相指名、SPDは最後の自由選挙で18.25%、120議席を得た。
 これは受任法阻止に必要な議席に十分でなかった。共産党はすでに非合法化され議会代表は逮捕、死亡、追放されていた。
 1933年7月14日党は受任権法通過のあとナチスにより禁止された。
 メンバーの多くは投獄されナチス収容所に送られた。亡命組織Sopadeは最初プラハに設立され、チェコスロヴァキア併合後1938年パリ、
フランス敗北後1940年ロンドンに移った。

 SPDの少数が一部は非合法活動を指導する党あるいは国旗黒赤金により、一部は党執行部に批判的な新開始(ノイ・ベギネン)
ドイツ革命的社会主義者RSD、社会主義者戦線赤い突撃隊などによりナチスへの抵抗運動を行った。
 国旗黒赤金テオドル・ハウバッハユリアス・レーバーらは1944年のヒットラー暗殺に関わって処刑された。この事件では他に
アドルフ・ライヒマンヴィルヘルム・ロイヒナーらが処刑された。
 社会主義者戦線ヴィルヘルム・ブルームは強制収容所で死亡、新開始ではヴェボ・ヴァーグナーヘルマン・フリーベらが処刑された。

 オットー・ヴェルスフリードリッヒ・スタンプファーエーリッヒ・オレンハウアーポール・ヘルツハンス・フォーゲルが亡命指導部を形成。
 亡命指導部のルドルフ・ヒルファーディングはドイツのフランス占領時にゲシュタポにより殺された。
 ロンドンで多くのSDP亡命メンバーはイギリス労働党と関係をもった。
 1936―1939年には党員にはスペインで共和国政府側で戦ったものもいる。
 1936年2月パリでヴィリー・ミュンツェンベルク(KPD)、ルドルフ・ブライトシャイト(SPD、収容所で死亡)、ヤコブ・ヴァルヒャー(SAPD)
ジークフリート・アウフホイザー(RSD)、ヴィリー・アイヒラー(ISK)、ハインリッヒ・マン(作家)と弟クラウスリオン・フォイヒヴァグナー
エルンスト・トラーエミール・ルードヴィッヒルードヴィッヒ・マルクーゼらのKPD、SPD、SAPD、RSD、ISK諸政党と知識人らによりナチス
抵抗指導組織ルテシア・サークル(ドイツ人民戦線準備委員会)が結成された。これは1937年4月に活動を終えた。
 これに対応しヘルマン・ブリルを中心に1936年12月人民戦線が結成された。
 他にオットー・ブラスフランツ・ペトリッヒ(収容所で死亡)、ジョーン・クラインスペーン(収容所で死亡)らが参加。

 フランス占領後一部のメンバーはニューヨークで1944年5月、福音派神学者ポール・ティリッヒを議長とするドイツ民主主義評議会CDGを結成した。
 ヤコブ・ヴァルヒャージークフリート・アウフホイザーベルトルト・ブレヒトらが参加。
 これは1943年7月のモスクワの自由ドイツ国民委員会NKFD結成への反応によるものであった。
 NKFDはドイツ兵士捕虜と亡命ドイツ共産主義者によって結成された。
 1944年ブッヘンヴァルト強制収用所ヘルマン・ブリルヴァルター・ヴォルフらによりブッヘンヴァルト人民戦線委員会が結成された。

・新生

 戦後党再建の中央委員会が1945年7月ベルリンで開催され、中央委員会議長にはオットー・グローテヴォールが選ばれ、
グスタフ・ダーレンドルフアンネドーレ・レーバーエーリッヒ・クニフケマックス・フェフナーらが幹部に選出された。
 ハノーヴァーのクルト・シューマッハーはこれを認めず、西側のSPDだけに働きかけ、ソ連占領地域の社会民主主義者には接触しなかった。
 シューマッハーは中央委員会はソ連占領地区にだけ権限があり西側は自分が代理人であるとした。
 シューマッハーオットー・ブレンナーSAPDヴィリー・アイヒラーISKをSPDに参加させた。
 モスクワから戻ったKPD幹部は当初統一には反対だったが1945年末方針転換した。
 オットー・グローテヴォールは統合しようとしたがシューマッハーは拒絶した。
 シューマッハーは1920年代末から指導層となり、1933年から1945年までほとんどナチス収容所ですごした。

 1946年4月ソ連占領地域でのKPDとSPDの統合によるSED結成(オットー・グローテヴォールヴィルヘルム・ピークが議長)のあと
5月西側のSPDが結成され、244対245で西側占領3地区のSPD議長にシューマッハーが選ばれた。
 エーリッヒ・オレンハウアーヘルベルト・クリーデマンアンネマリー・レンガーエゴン・フランケアルフレッド・ノイヘルタ・ゴットヘルフが幹部
となった。

連邦国会反対派 1949−1966年 

 1949―1966年までは新連邦共和国の最初の選挙からSPDは議会反対派であった。
 1949年選挙クルト・シューマッハーコンラート・アデナウアーCDU/CSUの遅れをとった。
 アデナウアーCDU/CSUFDPDPの連立政権結成。
 CDUのアデナウアーの1949―1963年の首相のあと、ルードヴィッヒ・エアハルトが1966年まで首相となった。
 SPD6934975票、29.2%、131議席、CDU25.2%、115議席、FDP11.9%、52議席、CSU5.8%、24議席、KPD5.7%、15議席。

 1952年シューマッハーの死でエーリッヒ・オレンハウアーが指導者となった。(1952―1963年)
 (SDPの議長はシューマッハーが1946―1952年、オレンハウアーが1952―1963年ブラントが1964―1968年)
 オレンハウアーはSOPADEとともに亡命生活を送り最後はロンドンでイギリス労働党と密接な関係をもった。
 1955年NATO加盟。
 1953年(28.8%)と1957年(31.8%)の選挙結果でSPDは政策を変更した。
 SPDは社会市場経済に反対で全基幹産業の国有化を要求、アデナウアーの西側同盟政策と異なり、SPDは1955年当初は西ドイツの
1955年再軍備とNATO参加に反対し、中立政策と東ドイツとの再統合を支持したが、今はドイツの西側同盟を強く支持。
 1959年のゴーデスベルク綱領でSDPは労働者党の概念とマルクス主義原則を放棄し、国民政党となり、社会福祉計画は強調し
続けた。
 この結果は1961年(36.2%)と1965年(39.3%)選挙結果であった。これはベルリン市長ウィリー・ブラントが首相候補になったことにもよる。

 1949年29.2%―1957年、31.8%まで漸増、1961年、ブラントで36.2%、1965年には39.2%までに。
 1949年CDU/CSU 31.0%、139議席(CDU25.2%、CSU5.8%)、FDP 11.9%、52議席 KPD 5.7%、15議席。
 1961年CDU/CSU 45.3%、242議席(CDU35.8%、CSU9.6%)、FDP 12.8%、67議席。 

大連合(キージンガー政権) 1966−1969年

 1966年、キリスト民主連合自由民主党FDPの連立が崩壊し、CDU/CSUとSPDの大連合がCDUのクルト・キージンガー首相の
もと形成された。ウィリー・ブラントが外相となった。キージンガーはナチス党員であった。キージンガーは1966―1969年の首相を務めた。
 
 このような大人のあり方に学生は反発を覚えた。
 SDSが主導する社会主義革命志向の学生運動議会外反対派が特に1967―1968年に展開した。  

・ブラント・シュミット時代 1969−1974年 (FDPとの連立時代 1969−1982年)

 1969年選挙結果はSDP42,7%、224議席、CDU/CSU、46.1%、242議席、FDP 5.8%、30議席。
 1969年の選挙結果によりもっと民主制に挑戦を標語にFDPと社会リベラル連合を形成しウィリー・ブラントが首相となった。
 ブラントは若い頃SPDからSAPDに移っていた。1933年ノルウェーに逃れ1934年革命的青年組織国際局(ロンドン・ビュローの
青年組織)創設に参加した。1940年にはスウェーデンに逃れ、1945年までいた。そこでブルーノ・クライスキーと知り合った。
 1937年ブラントはジャーナリストとしてスペインにいた。1957―1966年まで西ベルリン市長を勤めた。

 SDPはFDPと連立を形成し、ウィリー・ブラント(1969―1974首相、1964―1987年党議長)とグラントがギョーム事件で退陣した後、
ヘルムート・シュミット首相(1974―1982首相)のもと1969―1982年まで連邦政府を率いた。
 この間、東方外交でワルシャワ条約諸国と緊張緩和政策を行い、司法、教育、家族政策などの広範囲な改革を行った。
 東方政策は政権内で議論となり1972年不信任が提出されたが否決された。
 1972年選挙は、SPD45.8%、230議席、CDU/CSU44.%、225議席、FDP8.4%、41議席。
 ヘルムート・シュミット最初の選挙の1976年はSPD42.6%、214議席、CDU/CSU48.6%、243議席、FDP7.9%、39議席。
 1980年はSPD42.9%、218議席、CDU/CSU44.5%、226議席、FDP10.6%、53議席。

 SPDは1972年には45.8%、以降1980年まで42%台。

・反対派(コール政権) 1982−1998年
 
 1982年、SPDは経済危機などにより政権を失い1982―1998年の間、再び反対派となった。
 CDUのヘルムート・コールの下、CDU/CSU−FDP連合が4期続いた。

 1983年ハンス・ヨヘン・フォーゲルでSPD38.2%、193議席、CDU/CSU48.8%、244議席、FDP7.0%、34議席。
 1987年にはヨハンネス・ラウでSPD37.0%、186議席、CDU/CSU44.3%、223議席、FDP9.1%、46議席、緑8.3%、42議席。

 1989年ベルリンの壁崩壊、共産主義支配の崩壊で東ドイツにも別にSPDが再建され西ドイツの党と再統合。
 ベルリン綱領採用、脱物質主義と環境主義の1980年代の新社会運動が刻印。

 1983年には38.2%から低下、1990年33.5%、これから上昇1998年には40.9%、

 1989年の共産主義支配崩壊で東ドイツではSEDの残党から独立した別のSDPが結成され西ドイツの党と統合した。
 1989年緑党創設者のオットー・シリーが参加。
 1990年オスカー・ラフォンテーヌでSPD33.5%、239議席、CDU/CSU43.8%、319議席、FDP11.0%、79議席。

 1993年最初の党員直接投票でルドルフ・シャルピングゲルハルト・シュレーダーハイデマリー・ヴィーツォレク・ツォイルに勝利。
 1994年シャルピングシュレーダーラフォンテーヌのトロイカ体制。
 1996年アンゲリカ・バルベ(旧東SPD)がSPDとPDSの協力に抗議しCDUに移る。

・シュレーダー政権 1998−2005年(赤緑連合)

 1998年SPDのゲルハルト・シュレーダーが勝利、SPDはと連合し16年ぶりに政権につき、コールは政権を失った。
 1998年選挙はSPD40.9%、298議席、CDU/CSU35.1%、245議席、FDP7.4%、47議席、緑6.7%、47議席、左翼5.1%、36議席。
 シュレーダーの失業対策を強調した穏健な政策でSPDは1998年選挙では40.9%の強い党として出現。
 1996年11月、オスカー・ラフォンテーヌがSPD議長に選ばれシュレーダーとの軋轢が生じ始めた。
 1998年の選挙勝利でラフォンテーヌは財務大臣として入閣した。
 2人の間の確執は増大し1999年ラフォンテーヌは党と政府のすべての地位を辞職した。
 ラフォンテーヌはシュレーダー政権の新自由主義、反社会主義路線を批判した。
 シュレーダーがラフォンテーヌの党議長の地位を継いだ。
 2002年選挙ではSPDは38.5%を獲得し、緑の支援で政権を形成した。
 2002年選挙はSPD38.5%、251議席、CDU/CSU38.5%、248議席、FDP7.4%、47議席、緑8.6%、55議席、左翼4.0%、2議席。
 2004年のEU選挙は悲惨で第2次世界大戦後最悪の21.5%しか獲得できなかった。
 アジェンダ2010はSPD支持者には不評であった。
 2004年、左派の一部、労働組合派は分裂し選挙選択・労働と社会正義を結成、2005年1月新党WASGとなった。
 これはSPDの新中道(1998年選挙標語)に対する左派となった。
 5月ラフォンテーヌがWASGに参加、秋の選挙でWASGがPDSと連合を組む。

・大連合 2005年ー2017年

 同年初めSDPの指導権はシュレーダーからフランツ・ミュンテフェリングに移った。
 SPDと労働者階級の利益防衛問題は1918年以来問題になってきているが、シュレーダー政権ほどその立場を伝統的社会主義
から離れたことはなかった。
 強い自由主義政策と社会福祉予算削減は劇的に支持者喪失につながった。
 ここ長い間SDP党員は減少してきていた。1976年初めには百万を越えていたが、1998年選挙時には77万5千で、2008年2月
には53万8千に減少した。

 2005年党議長フランツ・ミュンテフェリングはドイツ市場経済の過剰な暴利を批判し、連邦政府の経済正義推進への関与を提案。
これは大衆の支持を受けたが批判も招いた。
 2005年選挙はSPD34.2%、222議席、CDU27.8%、180議席、CSU7.4%、46議席、FDP9.8%、61議席、緑8.1%、51議席、
左翼8.7%、54議席。
 1998年の40.9%から2002年、38.5%、2005年、34.2%と低下。

 CDUのアンゲラ・メルケルを首相とし2005年からCDU、CSUとSPDの2度目の大連合。
 ミュンテフェリングが労働社会問題相と副首相になったが党の選挙で総書記に支持候補のカホ・ヴァッサーヘヴェルが左派の
アンドレア・ナーレスに破れ(ナーレスは党の分裂を避けるため辞任)党首辞任、2005年11月マティアス・プラツェックが党首になったが5ヵ月後
健康を理由にクルト・ベックに代わった。
 2007年11月フランク・ヴァルター・シュタインマイアーが副首相・外相となった。
 2008年ヘッセン州ではアンドレア・イプシランティが躍進した左翼党との連立政権を試み党内からの反発で失敗した
 これを容認したクルト・ベックは辞任せざるを得なかった。
 シュタインマイアーの臨時議長のあと10月フランツ・ミュンテフェリングが再び党首となった。

 2007年ハンブルク綱領採用。自由、正義、連帯を目標、市場経済思想によりEUのリスボン戦略を基に減税と社会福祉削減を中心
とするアジェンダ2010を基調とする。

 2009年連邦議会選挙は党名簿23.0%と前回11.2%減の戦後最低で146議席、76議席減。CDU−FDP連立政権成立。
 党首ジグマール・ガブリエルと交代。副委員長にマヌエラ・シュヴェジグらがなる。
 2012年12月、翌年の選挙の首相候補にペーア・シュタインブリュックが選ばれる。シュタインブリュックは大連合を否定し、赤ー緑多数派を志向。
 2013年9月連邦選挙は25.7%、193議席。CDU/CSUと大連立。
 2014年EU選は27.27%、27議席、他はCDU/CSUが35.36%、34議席、ドイツ選択7.04%、7議席、FDP3.35%、3議席、ネオナチス
(国家民主党)が1.03%で1議席獲得。
 2017年党首マルティン・シュルツ(EU議員、社会主義者・民主主義者進歩連合代表)に交代。
 連邦選挙は比例20.5%、153議席。右翼のドイツ選択AfDが初登場で12.6%、94議席で第3党になる。自由民主党も復調し10.7%、80議席(前回0)。
 2018年シュルツが党首を辞任。アンドレア・ナーレスが党首となる。
 2019年、EU選は15.8%、16議席。CDU/CSU28.9%、29議席、緑20.5%、21議席、選択11.0、11議席、リンケ5.5%、5議席、
自民党5.4%、5議席。
 アンドレア・ナーレスが6月、党首を辞任し、マル・ドレイアーら3人の暫定党首を経て、12月、ザスキア・エスケンとノルベルト・ヴァルター・ボルヤンスが
党首となる。

 1949年、29.2%、131議席から1972年、45.8%、230議席、1957年に31.8%、169議席、1961年ブラントのもと36.2%、190議席、
シュミット時代は42%台を確保、1983年ハンス・ヨヘン・フォーゲルで38.2%、193議席となり、1990年(ドイツ再統合)オスカー・ラフォンテーヌ
の33.5%、239議席まで低下、以降再上昇、1998年のシュレーダーで40.9%、298議席、これからまた低下2005年には34.2%、222議席。

 党員は1950年代には60万台で、1960年代後半から上昇し、1970年台急成長し1977年には100万を超え、以降低下し始め、1990年代に
低下が加速され、最近は戦後の最低を記録している。

 党内グループ

 左派
  民主左翼21フォーラム
  2000年結成。フランクフルト・サークル(1966年結成)の後継組織、これは68年代の制度を通しての行進の影響で設立された。
  ビヨルン・ボーニング(代表)、ラインホルト・リュンカー(組織指導者)、ニールス・アンネン(副代表)、、エルンスト・ディーター・ロスマン(議会左翼代弁者)、
 アンドレア・ナーレス(党副議長)など。
  議会左翼
  経済政策ではケインズ主義を取る。
  エルンスト・ディーター・ロスマンが代弁者、ニールス・アンネンクリスティヌ・ランブレヒト、アンドレアス・シュテップーンエルケ・フェルナー
 ガブリーレ・ヒラー・オームマイケル・ミュラーレネ・ロスペルアンドレア・ナーレスハイデマリー・ヴィーツォレク・ツォイルなど。

 右派 
  ゼーハイマー・サークル  
  ニュルンベルク・ミッテ(中道)

 ベルリン・ネットワーク
 1992年、40歳以下の議員により結成、伝統的・保守的左派と右派ゼーハイマーグループを批判。
 シュレーダーのアジェンデ2010を支持。


 ドイツ労働組合連合DGBは1949年結成で8組合連合、700百万加盟。統一サービス組合約246万、金属労働者産業組合242万、
鉱山・化学・エネルギー産業組合77万、建設・農業環境産業組合42万が主要組合。
 代々委員長はすべて社民党員である。
 ドイツ公務員連合は1918年結成で127万組合員で委員長は主にキリスト民主連合員である。
 ドイツ・キリスト労働組合連合は1959年結成の30万組織。


政権
1949−1953年 コンラート・アデナウアー(CDU) CDU、FDP、CSU、ドイツ党DP
1953−1957年 コンラート・アデナウアー(CDU) CDU、FDP、CSU、ドイツ党DP自由人民党追放者・権利剥奪者同盟
1957−1961年 コンラート・アデナウアー(CDU) CDU、CSU、ドイツ党DP
1961−1963年 コンラート・アデナウアー(CDU) CDU、CSU、FDP
1963−1965年 ルードヴィッヒ・エアハルト(CDU) CDU、FDP
1965−1966年 ルードヴィッヒ・エアハルト(CDU) CDU、FDP、CSU
1966−1969年 クルト・キージンガー(CDU) CDU、CSU、SPD
1969−1974年 ウィリー・ブラント(SPD) SPD、FDP
1974−1982年 ヘルムート・シュミット(SPD) SPD、FDP
1982−1998年 ヘルムート・コール(CDU) CDU、CSU、FDP
1998−2005年 ゲルハルト・シュレーダー(SPD) SPD、緑
2005−2009年 アンゲラ・メルケル(CDU) CDU、CSU、SPD
2009−2013年 アンゲラ・メルケル(CDU) CDU、CSU、FDP
2013−      アンゲラ・メルケル(CDU) CDU、CSU、SPD


議会勢力の変遷
右翼 キリスト民主 自由民主 社民 左翼
1933年 43.9 (19.2) (2.0) 18.3 12.3
1949年 4.0(17 31.0(139 11.9(52 29.2(131 5.7
1953年 3.3 45.2(243 9.5(48 28.8(151 2.2
1957年 3.4(17 50.2(270 7.7(41 31.7(169
1961年 45.3(242 12.8(67 36.2(190
1965年 47.6(196 9.5(49 39.3(202
1969年 4.3 46.1(242 5.8(30 42.7(224
1972年 44.8(225 8.4(41 45.8(230
1976年 48.6(243 7.9(39 42.6(214
1980年 44.5(226 10.6(53 1.5 42.9(218
1983年 48.7(244 6.9(34 5.6(27 38.2(193
1987年 44.2(223 9.1(46 8.3(42 37.0(186
1990年 43.8(319 7.1(51 5.0(8 33.5(239 2.4(17
1994年 41.5(294 6.9(47 7.3(49 36.4(252 4.4(30
1998年 35.2(245 6.2(43 6.7(47 40.9(298 5.1(36
2002年 国民民主党 38.1(248 7.4(47 8.6(55 38.5(251 4.0(2
2005年 1.6 35.2(226 9.8(61 8.1(51 34.2(222 8.7(54
2009年 1.5 33.8(239 14.6(93 10.7(68 23.0(146 11.9(76
2013年 1.3 41.5(311 4.8(0 8.4(63 25.7(193 8.6(64
2017年 ドイツ選択AfD
12.6(94
33.0(246 10.7(80 8.9(67 20.5(153 9.2(69
*キリスト民主はキリスト民主教連合CDUとバヴァリア・キリスト教社会連合CSU
**得票率は党比例

JUSOS 
 1968年秋から議会外反対運動、学生運動は停滞に陥り、1970年3月内部抗争の結果、SDSが解散され、これらは
 Kーグループを形成し、一方DKPに近いスパルタクスが興隆する。
  議会外反対運動、学生運動のグループの一部は制度を通る行進ルディ・ドゥチュケ)と称して社会民主党系や
自由民主系の青年組織に関係していく。

 それまでSPDに忠実であったJusosは1969年にミュンヘン大会で左翼転換してから最早SPDの青年組織
であるだけではなく、SPD内の社会主義者、フェミニスト、国際主義者的傾向の連合組織となった。
 一般的にSPDより左翼的であり、指導的政治家に批判的である。
 
 1969年、Jusosの左翼転換が起こった。
 委員長に左派のカルシュタイン・ヴォワトKarsten Voigt(1969−1972)が選ばれた。
 Jusos左派はやがて改革社会主義Reformsozialisten (Refos)派、シュタモカップ(国独資)派Stamokap
反修正主義派Antirevisionistenの3派に分解していく。
 シュタモカップはハノーヴァー・サークルから形成された。特にハンブルク、ベルリン、オストヴェストファーレンーリッペ
で強かった。その理論家はデトレフ・アルバースDetlev Albersなどで西ドイツを国家独占資本主義と考えた。
 反修正主義はゲッチンゲン・サークルによって1975年結成された。
 改革派多数派は1977年、マレンテ・サークルによって結成された。
 1970年、ヴォワトはノルベルト・ガンゼルNorbert Ganselと争い勝利し、この二人がJusos主流派Refosを形成していく。
 Refosはこのあと、ヴォルフガング・ロートWolfgang Roth(1972−1974)、ハイデマリー・ツォイル
Heidemarie Wieczorek Zeul(1974−1977)と委員長を握るが、1977年、オットマール・シュライナーOttmar Schreiner
反修正主義派の支持を受けたシュタモカップのクラウス・ウヴェ・ベネターKlaus Uwe Benneterに敗北する。
 ベネターはDKPをSPDの潜在的連合相手とし、CDUを階級敵とする発言によりSPDの猛反撃をくらい、失脚する。
 そのあとを1978年、ゲルハルト・シュレーダー(1978−1980)がシュライナーを破る、シュレーダーは当初、
反修正主義派であったが、やがてRefosと手を組んだ。
 後年ベネターを救い上げたシュレーダーは当時我々は理論だけに関心があった、彼は腹から政治を悟ったと述べた。

 Refosは2段階戦術によって資本主義を構造改革していく路線をとった。
 彼らは党・議会の過程(そのためには党の改革)と議会外運動の過程の2段階戦術採用した。 
 
 東ドイツの西ドイツへの統合とともに、シュタモカップは消えRefosと統合されていった。
 Jusosの幹部は西ドイツでは数少ないエリートの大学生たちであった。
 ガンゼルは1972年、ヴォワト、ロートは1976年に国会議員に、ツォイルは1979年にEU議会議員となり、
1987年に国会議員に、シュライナーとシュレーダーは1980年に国会議員となって党内に統合されていく。
 シュライナー、ツォイルは党内左派となっている。
 その他のRefos出身者はルドルフ・シャルピング(1974−1976副委員長)、ヨハノ・シュトラッサー
Johano Strasser (1970−1975副委員長)など。
 Refosメンバーは速やかにSPD内に統合されていったが、ベネターは1977年、除党され、1983年にシュレーダー
の支援で復党し2002年に国会議員となっている。

 1985年以降は左翼ネットワークセンターNWLZ(2002年、ハノーヴァー・サークルから生じたJusosの左派から誕生)
と正統派Tradisが左翼を自称し、SPD路線を大衆批判していき、第3勢力イプシロン(ヘッセン・サークル)は実践的と称した。
 アンドレア・イプシランティはシュレーダーの赤・緑連合を批判している。

 国家独占資本主義
  特に第二次大戦後の先進資本主義の様相を指すが、日本では主に東ドイツのツィーシャンクKurt Zieschangの議論が
 紹介されている。
  ツィーシャンクは国独資を資本主義の新しい段階としたため特に宇野学派の段階論規定とかかわるためであった。
  なお当時のJusosのシュタモカップは東ドイツの理論よりフランスのポール・ボッカラPaul Boccaraの理論に主に
 拠っているとしている。ボッカラの理論はレギュラシオンに続くものとなっている。


社会主義ドイツ労働者青年同盟SDAJ)
  マルクス主義傾向のDKP(1968年設立)と関係のある青年組織。
  1968年(マルク誕生150周年)、禁止されたKDPの青年たちが結成。
  SDAJは1980年代には緑と後にはPDSと関係をもった。
  1978年から1988年までは1年おきにスパルタクスとドルトムント祭りを開催。
  東ドイツ崩壊前には東ドイツの自由ドイツ青年同盟FDJと関係があった。
  東ドイツ崩壊で後退していった。


ドイツの学生運動   ⇒ 詳しくはこちら


議会外反対派APO)
 議会の外で発生した議会で代弁する政党をもたない反対派、西ドイツの1960年代中期に学生運動として発生。
 中心となったのはSDS。
 1966年のクルト・キージンガーのCDUとSDPでの大連合への反対派として発展した。
 タラール(大学儀式用マント)の下には千年来の黴のスローガンで大学政策の民主化も求めた。
 経済再建ばかり追い求めるナチ世代の親の社会的抑圧の罪を批判もした。
 ベトナム戦争に反対し民族解放戦線に連帯し、第三世界革命指導者(ゲバラなど)などもホーチミンらと偶像となった。
 フランスと異なる点は労働者の参加がほとんどなかったことである。
 転機は1967年6月のイランのパーレビ訪問反対闘争での警官による学生ベンノ・オーネソルクの射殺であった。
 これにより学生運動は急進化していった。

 1960年代の左翼とりわけ議会外反対派と学生運動にフランクフルト学派とその批判理論、特にヘルベルト・マルクーゼ
大きな影響を与えた。しかしテオドル・アドルノは1960年代左翼の反知性的傾向を厳しく批判した。
 エルンスト・ブロッホも学生運動や解放の神学に影響を与えた。


ドイツの新左翼の色合いと展開> 一覧
 新左翼は教条主義左翼と非教条主義左翼に分けられる。
 教条主義左翼には普通トロツキストを含むK・グループがいる。
 非教条主義左翼にはアナーキスト、自主管理主義などの種々の色合いのスポンティ(自由意志主義者)がいる。

教条主義新左翼) K・グループの分裂と統合
 K・グループ(毛・スターリン主義)は社会主義ドイツ学生同盟SDSの崩壊と1960年代学生運動ないし議会外反対派の衰退の過程に
起源的に関係し、特に1970年代に東ドイツが新左翼にある程度の役割を演じている毛派傾向の数多くの小幹部党である。
 1956年に禁止されたKPDの旧メンバーがこれらに影響を与えた。
 全国的影響をもつ議会外政党としては1968年結成のKDP/MLがある。
 更にドイツ共産党建設組織KPD−AO(1970−1980年)や西ドイツ共産主義者同盟KBW(1973−1985年)、地域的組織として北ドイツの
共産主義者同盟KB(1971−1991年)、南東ドイツのドイツ共産主義者同盟KABD(1972−1982年)、バイエルンの
KPD再建労働者同盟KPD(AB)などがある。

 KDP/MLとトロツキストのGIMは1986年統一社会党VSPを結成した。
 SPDから分裂した民主社会主義者(1980年代)と西ドイツ共産主義者同盟BWKの連合は不成功に終わった。
 これら運動の衰退後、メンバーの一部は(1980−)とともに活動し始めた。
 1990年代以降は全国的規模の教条主義新左翼は少なく、1982年にドイツ共産主義者同盟KABDから結成された
ドイツ・マルクス・レーニン主義党MLPD(1982年)やKDP/ML、KPD再建労働者同盟KPD(AB)(1973−)などの残存メンバーがいる。
 これらの組織出身者としてはSPD議員のウッラ・シュミット(1949年生、1983年SPD入党、元BWK、SPD右派)、PDS議員の
アンドレア・ギシ(1957生、ギシ妻、元KB)、緑議員では元BWKのラルフ・フックスヴィンフリント・ナッハトヴァイ、KBの
ユルゲン・トリッティンアンジェリカ・ベーア、元KPD−AOアンチェ・フォルマー(1943年生)、元KBWのラインハルト・ブティコファーなどがいる。

ドイツ・マルクス・レーニン主義党MLPD(1965年)
  1965−1968年存在、西ドイツでの毛派、後アルバニア派の組織の最初の一つ。
  非合法で約5千のメンバーで活動。KPD/MLDKP結成の影響で解散。

ドイツ共産党マルクス・レーニン主義KPD/ML 歴史
  1968−1986年存在、旧KPDのエルンスト・アウストヴィリー・ディックフートらが結成。
  DKPを修正主義として拒否し、最初毛派、後アルバニア派となる。1977年毛沢東主義と衝突、1984年にアルバニアとの関係冷却。
  1970年KPD/ML中央委員会ZK(赤い朝)と中央局ZB(赤旗)に分裂。1973年ZB(赤旗)崩壊。
  (1970年KPD/新統一NE結成とされる。)
  ヴィリー・ディックフートは1969年”雑誌革命的道”を発行し、1972年共産主義労働者同盟・マルクス・レーニン主義(KAB/ML)とKABD結成。
  1980年KPD−AO解散でKPDを名乗る。
  残党は1980年代トロツキストのGIMと協力しあい1986年統一社会党VSPを結成した。
  VSP参加拒否グループはKPD/赤い朝とKPD/ML(赤い星)を結成。これらは更に分裂を行う。
  KPD/ML(赤い星)から1995年KPD/ML(赤い朝)が分裂。2002年KPD/赤い朝から”赤い10月”分裂等々。

○ドイツ共産党建設組織KPD/AO 
  1970年西ベルリンで設立、1971年AOを取る。1980年解散。
  KPD/AOの結成には議会外運動APOとベルリンSDSでの長いフラクション化過程がある。
  1969年西ベルリンでの作業協議会”赤色出版通信(1969年発行の議会外運動グループの新聞、共産主義学生同盟KPD/AO学生組織の
 母体となる)”で種々のフラクションの衝突が起こった。
  1969年の西ドイツの9月ストライキの展開で階級闘争での革命的知識人の果たす役割が問題となり、共産党結成が結論付けられた。
  1970年ドイツ共産党建設組織KPD/AOが西ベルリンで設立され、1971年単にKPDとなった。
  1971年大衆組織として反帝国主義同盟創設。
  1970年代の反核運動にある程度の影響を与えた。
  州、連邦選挙で0.7%(1975年西ベルリン)を越えることはなかった。
  代弁者はクリスチャン・ゼムラーユルゲン・ホルレマン
  主な旧メンバーはアンチェ・フォルマー(後に緑)、ヘルガ・ヒルシュ(ジャーナリスト)、ヨルグ・イメンドルフ(画家)、アラン・ポゼナー(ジャーナリスト)、
 カール・シュレーゲル(歴史家)、マルティン・トーマス(後に緑)、反帝国主義同盟のアンチェ・フォルマー(後に緑)など。

共産主義者同盟KB 
  1971年ハンブルクで設立、1991年解散。
  ハンブルク社会主義労働者教育センターSALZ、共産主義労働者同盟KABハンブルク(クヌート・メレンティン)、SALZフランクフルト、
 共産主義建設グループ・オルデンブルクなどの合同により結成された。KBは旧非合法KPD由来のクヌート・メレンティン周辺の幹部グループ
 KABハンブルクと結びついていた60年代末の青年・学生運動から出現した。SDSの多くはKBWに参加。
  KBWとKPD/MLを教条主義として自分たちと区別した。ハンブルクの緑選択名簿GALを初期に支援した。これで後に緑に加わった、Zグループ
 (トーマス・エーバーライナー・トランパートユルゲン・レーンツユルゲン・トリッテンアンジェリカ・ベーアら)が出現。
  東ドイツ崩壊・再統合の過程で組織分裂し1991年解散。リンケのアンドレ・レデラー(ギジ)、ウッラ・イェプルカ、ジャーナリストのカイ・エーラース
 などもメンバーであった。1970代末で2500のメンバー。

ドイツ共産主義労働者同盟KABD 
  1972年シュトゥットガルトで設立、1982年MLPDとなる。ロベルト・クルツベルトルド・フーバー(後SPD)らが参加。
  修正主義KPD、DKPを排除したML党建設を目標。KAB/ML、KPD/ML−雑誌革命的道から参加者があった。
  1982年ドイツ・マルクス・レーニン主義党MLPD結成、このとき約900のメンバー。

○ドイツ共産党再建労働者同盟KPD(AB) 
  1973年ミュンヘンで設立。1984年で300のメンバー。
  KPD(AB)は当初、毛派志向でソ連を社会帝国主義、DKPを社会民主、ドイツを帝国主義と見なした。
  幹部はミュンヘンのSDS由来。
  1970年代末に多くの毛派グループ(KB、がKPD、後にKBW)が選択運動とエコロジーに向かったのに対し、大産業を基礎とした社会主義概念に
 依拠しこれらをプチブルと拒否。1980年以降親ソ連、東ドイツ路線となるが東ドイツの崩壊で分裂、1996年新グループ結成やDKP移行が発生。

西ドイツ共産主義者同盟KBW 1973年ブレーメンで設立、1985年解散。
  1970年結成のマンハイム・ハイデルベルク共産主義者グループ(新赤いフーラム、ハイデルベルクSDS由来)やブレーメン共産主義者同盟などの
 K・グループにより、1973年に指導者ヨシュカ・シュミーラーとして結成され、1985年始めまで存在。1976年に約2600のメンバー。大規模な政治活動は
 1982年から停止。
  KBWは比較的遅く、1973年にブレーメンで種々の地域サークルを結集して結成された。KBWは西ドイツの大都市では弱体であった。
  西ベルリンではクリスチャン・ゼムラーユルゲン・ホルレマンのKPD/AOがより強力で、ハンブルクでは共産主義者同盟KB、ミュンヘンでは
 ドイツ共産党再建労働者同盟KPD(AB)、シュトゥットガルトではドイツ共産主義労働者同盟KABDがKBWより成功していたが多くの中規模都市では
 解散までK・グループではKBWが最大グループであった。
  フライブルク、ゲッティンゲン、特にハイデルベルクのK・グループとSDSの代弁者は大きく重なっていた。
  種々の地域サークルから全国組織化の過程で後にKBを結成するグループとの衝突やFDPの青年組織青年民主主義者の一部の支援もあった。
  スポンティと異なり自らを党と考えたので議会外反対運動の他に1974−1981年までウッラ・シュミット(後SPD)、ウルスラ・ロッツァー(後リンケ)、
 クリスタ・ザーガー(後緑)、ヴィンフリート・ナッハトヴァイ(後緑)らが各種選挙に参加、
  1979年ヴィルフリート・マイアーラルフ・フックスディートリッヒ・ヒルデブラントらの右派の民主社会主義委員会が出現。
  KBW、KPD/AO、KABDなどから140名が参加して作業協議会が発足、これは1982年に解散し、多くは緑に参加。
  1980年マルティン・フォフラーらの左派が分裂。
  1985年緑選択運動支援のため公式解散。ヴィルフリート・マイアーラルフ・フックスディートリッヒ・ヒルデブラントら多くの旧メンバーは以前の
 スポンティの ヨシュカ・フィッシャー、ダニエル・コーン・ベンディットらと緑でレアロ(現実主義)を形成。

ドイツ・マルクス・レーニン主義者MLD
    1976−1981年まで主にフランクフルトとアーヘンを拠点に存在した毛派組織。メンバーはKPD/MLなどから来た。最高期で機関紙2000部発行。

反動・ファシズム・戦争反対人民戦線
  1979年ドルトムントでKPD/MLから出現。主に反ファシズム運動に関わった。1979−1992年に人民のこだま発行。メンバーは1980年に2千。

西ドイツ共産主義者同盟BWK 
  1980年、ヨルク・デッツェンマルティン・フォフラーら約600名がKBWから分裂して結成。BWKがKBWの1973年綱領にたちKBWの
 革命的伝統を継続していると主張。1995年解散。
  1981年からKPD/ML影響下の人民戦線反動・ファシズム・戦争反対人民戦線)に関係。
  1980年代後半の統一社会党との統一交渉は中東欧の事変や1989年の東ドイツ転換やフェミニズムにつての見解相違で不成功。
  統一社会党と異なりBWKはこれらに否定的。1995年解散しメンバーはPDSに参加。
  2007年から旧BWKメンバーはリンケの具体的民主主義・社会解放グループ参加。


(非教条的新左翼)
  自由労働婦人・労働者連合FAUは伝統的アナーキスト組織で国際労働者連合IAA参加、
  スポンティSonti(自発意志主義者)ないし自主管理派には種々の色合いがある。
  これらは主に1970年前後に活発だった。
  1960年代の学生運動の議会外反対派APO(1966年のCDUのクルト・キージンガーのCDU−SPD大連合の
 反対派から発展)から生じ、コミューンIK1や愉快ゲリラプッツ・グループが発生した。
  スポンティの先駆者はコミューンIの周囲から生じた。
  これらの出身者には革命闘争RK出身の緑のヨシュカ・フィッシャーなどがいる。
  1970年代晩期から1980年代の革命的細胞赤いゾラなどの左翼テロリストもこれらの色合いに含めうる。

コミューンIK1
  非常に保守的な生活共同体思想をもとにする社会を基礎とする小さな中流家庭への反発を意図して1967年2月に
 西ベルリンでの共同生活が始まった。
  ウルリッヒ・エンツェンベルガーディーター・クンツェルマン(のちKDP参加)、フリッツ・トイフェルデトレフ・ミッチェル
 ライナー・ランクハンスなどが参加した。
  彼らは家庭的共同生活の退屈さから風刺と挑発を揺れ動く異様な挑発という行動にでた。
  これはスポンティの運動や他の左翼グループを刺激した。
  最初はプディング暗殺と呼ばれる、米副大統領ハンフリーへの嫌がらせ計画で逮捕者が出た。
  教会の塔から数百冊の毛沢東選集を放り投げるようなこともした。
  イランのシャーの西ベルリン訪問に際し逮捕者がでた一方で住居者の裸の写真が出た。
  1967年6月、百貨店への放火を主張するチラシ事件で告訴される。
  このような行動はブルジョアだけでなく政治的左翼をも分極化した。
  SDSはとりわけこのような行動を好まなかった。政治的関心はなくただ利己主義にふけっているだけと批判した。
  女性問題で追放されたフリッツ・トイフェルは後に6月2日運動に参加した。
  1968年夏、居を変えた第2期は性、薬、音楽、ウッシ・オベルマイアーの時期であった。
  1968年11月、ロッカーたちが入り込み、残っていた将来へ信念を失った居住者は去っていった。

愉快ゲリラ・スパス・ゲリラ
  フリッツ・トイフェルに代表されこれはルディ・ドゥチュケ(都市ゲリラを語った)などと対照的である。
  伝統尊敬欠如、ブルジョア的・抑圧的形態の権威・儀礼の皮肉や滑稽による反抗などが典型である。
  市民的不服従、象徴的暴力、権力の挑発などの戦術たとえばカスタード・パイによる警察・警官攻撃で特徴つけられる。
  愉快ゲリラやスポンティ場面から自主管理主義者の活動的場面が生じ、自主管理主義者からアンティファ(反ファシズム)、
 住居占有運動、平和運動、反原発運動が発生した。

プッツ・グループ
  1970年初期、フランクフルト・アム・マインで約20人の若者グループがヘルメットと棍棒で警察と街頭闘争を行った。
  主な参加者はヨシュカ・フィッシャーダニエル・コーン・ベンディットハンス・ヨアヒム・クライントム・ケニッヒス

革命闘争RK
  1968年の反権威主義的学生運動から生じたフランクフルト・アム・マインの非公式・非教条主義左翼組織。
  イタリアの労働者派にならって、工場での活動家グループ結成を目指した点がKDP/MLなどの学生運動中心の
 グループと異なるが成果はほんどなかった。(リュッセルハイムのオペル工場で働きかけた)
  主な参加者はヨシュカ・フィッシャーダニエル・コーン・ベンディットトム・ケニッヒスマティアス・ベルツレイムト・ライヘ
 ジョニー・クリンケトーマス・シュミットなど。

○極左テロリスト
  6月2日運動(1972年設立、アナーキスト)、赤軍派RAF(1970年設立、初期はバーダー・マインホフ・グループ)など。
  ドイツの秋 1977年の一連の誘拐・殺人事件。

○新左翼と緑
  1970年代になって多くの新左翼は路線を変更し、制度を通る行進ルディ・ドゥチュケ)と称して議会に参加していった。
  種々の共産主義者グループが政党を結成したが成功しなかった。
  1979/1980年の緑結成に参加したしグループが成功を収めた。
  緑ではフンディ(原理主義派)とレアロ(現実主義派)が対立している。

○1989年以後の新左翼
  1990年のドイツ統合により社会主義統一党から出現したPDSが以前のK−グループや緑連合に失望した人々を
 吸収している。

マルクス主義グループMG〕 1971−1991年、ゲーゲン・シュタントプンクト・グループ 1997年−
 1968年、ミュンヘンの学生運動から赤い細胞が顕れそれらによってMGが構想され1970年代前半後期に結成される。
 絶えず権力の監視化におかれそのため1991年解散、当時約1万のメンバー。
 解散でも組織は維持されたが出版組織や行事制度(討論集会、支持者集会)は解散された。
 1992年雑誌反対派GegenStandpunkt発行、1997年ゲーゲン・シュタントプンクト・グループが討論集会などを組織し公然登場。

アンティファ

オールタナティヴ

自主管理運動

住居占有運動


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